『よその島』井上荒野著 評者・小池昌代【新刊この一冊】

小池昌代
『よその島』(井上荒野著/中央公論新社)

評者:小池昌代(詩人、作家)

 若い頃、私は人生について誤解していた。年齢を重ねれば、少なくとも今よりは、迷いのない、真実の領域に近づけると思っていた。実際は、どうだったか。迷妄は深まるばかりである。一番、不可解なのは自分自身で、その自分の記憶ほど、頼りないものはない。思い込み、記憶違い、単なる物忘れ。否が応でも謙虚にならざるを得ない。 『よその島』は、「老い」が引き寄せたある現象を、物語の「謎」としてうまく活かし、先へ先へと読ませていく。何のことかと思うだろうが、明かすわけにはいかないので、読んでもらうしかない。


 三人の七十代男女が登場する。一組の夫婦と一人の男。それまでの人生に区切りをつけて、共同生活をするため島へやってきた。かつて古物商を営み、テレビのお宝発掘番組に出て、人気を博した碇谷芳朗、その妻、蕗子。そして芳朗の店の客だった野呂晴夫。彼は売れっ子のミステリー小説家だった。


 七十代といっても、皆どこかに子供っぽさを残し、成熟という境地にはだいぶ距離がある。現代の七十代は簡単には終わらない。もっとも、一回性という、生きることの本質に立ち帰れば、終わらないどころか、老年もまた、初めて経験する「未来」なのだ。


 物語はミステリー仕立てで進む。冒頭から、碇谷芳朗は、妻を殺人者と認識している。いったい過去に何があったのか。夫の女性問題と夫婦の危機。それらを巡る夫妻の記憶は、曖昧で生き物のように変転する。どこまでが事実で、どこからが妄想なのか。共有できる記憶は何なのか。読者も騙され、翻弄される。自分でも制御できない暴走する記憶が、罪の意識を伴って、物語をかきまぜていく。


 彼らに比べれば、住み込みの若い家政婦、みゆかのほうがよほど大人だ。シングルマザーである彼女の生活には、妄想の入り込む余地がない。三人を統御しているのは、実はみゆかなのかもしれない。一方、子供を産めなかった蕗子は、天然で可愛らしく、ふわふわとした存在感を漂わせる。作者は蕗子を子供のような存在に近づけながら、子供の世界から排除された女として描いている。小説全体が「子供」に対し、ある種の強迫観念を孕んでいるように見えて、興味深い。


 例えば碇谷夫妻が、かつて新婚旅行先の海岸で見た青い乳母車。なかに赤ん坊はおらず、ただ砂が溜まっていたという。蕗子は後に、「あのとき、呪いをかけられたのだ」と思う。「あの乳母車を見つけなければ......私たちは子供を授かることができたかもしれない」と。また、過去に妻子を捨てた野呂が、舗道の上で制服姿の幼い子供たちに囲まれる場面。「野呂は子供たちに何かを持ち去られた気がした」という一行がある。蕗子を逆上させたのは、「私なら芳朗さんの子供が産める」という、芳朗の浮気相手の言葉だったし、島に引っ越したばかりの頃、海岸の岩場で蕗子が出会ったのは「蟹みたい」な双子の女の子だ。この世に生まれ出た小さな子供らの、何という不気味さ、不埒な存在感。


 しかし最後、思いが至るのは、ついに誕生しなかった碇谷夫妻の子供だ。青い乳母車が象徴する「無の存在」。それこそが、後に芳朗の頭の内で展開する「記憶の劇場」を生み出す種になったのでは。悟らない老人たちが織りなす、エンターテイメント小説だ。

 

(『中央公論』2020年6月号より)

 

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井上荒野(いのうえあれの)

一九六一年東京都生まれ。成蹊大学卒業。「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞。『潤一』(島清恋愛文学賞)、『切羽へ』(直木賞)、 『そこへ行くな』(中央公論文芸賞)、『赤へ』(柴田錬三郎賞)、『その話は今日はやめておきましょう』(織田作之助賞)など著書多数。

小池昌代
〔こいけまさよ〕
一九五九年東京都生まれ。『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『コルカタ』(萩原朔太郎賞)、『たまもの』(泉鏡花文学賞)など著書多数。
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