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谷口智彦 外交スピーチライターが読んだ『安倍晋三 回顧録』

谷口智彦(慶應義塾大学大学院教授)
谷口智彦氏
 安倍晋三・元首相が、政権運営や外交の舞台裏を語った『安倍晋三 回顧録』が話題だ。安倍元首相の外交政策演説の起草を担当した谷口智彦・慶應義塾大学教授がこの回顧録を読んで驚いたこととは……。
(『中央公論』2023年4月号より抜粋)

初めて知った事実

──谷口さんは、安倍晋三元首相の外交政策演説の起草を担当し、海外出張にも同行され、政権の節目を身近で見てきました。『安倍晋三回顧録』を、どう読みましたか。


 安倍晋三という人物の息遣い、口調をよくとらえています。安倍さんがそこにいて、じかに話をしてくれているかのようです。語っている中身も、湯気が出そうなことばかりです。その当の人物が、いない。なんたる理不尽、不条理でしょうか。怒りを新たにしました。

 当代一の政治記者の行き届いた質問に、安倍さんは腹蔵なく答えています。本書で初めて知る事実、「やはりそうだったか」と頷く事柄が多々ありました。第一級の記録です。


──首相退任の2020年9月から2年5ヵ月。回顧録の出版にはまだ早いという声もあります。

 安倍さんは内外現役指導者の人物評をしています。そこが実に精彩に富む。反響が大きいでしょう。「早すぎる」という声が出てくるのはわかります。でも、安倍さんは殺されてしまってもう口を開いてくれない。今回活字になった以上のことを聞きたくても、もう無理なんです。決して更新されることのない肉声を封じ込め続けるのは忍びない。さらにいえば、回想録や伝記をジャーナリズムの一ジャンルと考え速報性を重んじる英語圏の流儀は、我が国も取り入れるべきです。

 よく売れているようですが、生前の安倍さんに一部報道が貼ったレッテルとは別に、自分の目と心で安倍晋三という人物を吟味したいと思う人が少なくないのでしょう。


──初耳だったこともありますか。


 いろいろと。2017年9月、「国難突破」と名づけた解散を表明した時、安倍さんは二つの「国難」を挙げ、それらと取り組む決意を示しました。一つは少子高齢化。もう一つが北朝鮮の脅威でした。聞き手の橋本五郎さん(読売新聞特別編集委員)は、後者に疑問を呈している。北朝鮮情勢が真に切迫していたなら、悠長に解散などしていられたのか、ということです。この質問に対する安倍さんの答えで疑問が解けました。北朝鮮情勢を解散理由にしたら批判が来ると思っていたと安倍さんは率直に言い、だからこそ9月11日に国連安保理で対北朝鮮制裁の完全履行を加盟国に求め、しばらくは北朝鮮が行動を抑えざるを得ない環境を作ったと答えています。

──そこが印象深いのはなぜですか。


 まさか国連で伏線を作り、解散のシナリオを組み立てていたとは、当時思いが及ばなかったからです。しかもそればかりではありません。国連での演説も、解散の布石だったんです。現地時間の9月20日、国連で演説に立った安倍さんは、「私の討論をただ一点、北朝鮮に関して集中せざるを得ません」と言ったうえで、ほんとうに北朝鮮だけを論じました。異例だと話題を呼びました。

 私は秘書官たちと演説作成に深く関わりながら、ワンテーマに絞る決断が国内政局と密接不可分だったことに今の今まで気づかなかった。いやはやなんともです。国連すらも解散の布石に使うダイナミズムは、総理最側近たちの結束抜きに発揮できなかった。その凄みに今頃気づいて、感心するやら、我が身を省みて情けないやら、だったわけです。


──回顧録から見えてくる安倍晋三とは、どんな人物でしょう。


 大方の読者が頷いてくれると思いますが、機敏な情勢判断と、歴史に根差した不動の信念、政局を読む冴えに、人心を束ねる力。マクロ経済の把握力に、超長期の国のデザインを描く能力──それらすべてを備えていた、類い稀な指導者でした。

 この本には、咄嗟の判断において過(あやま)たないことがいかに重要でかつ困難かを示唆する箇所が出てきます。

 2002年、小泉純一郎政権の内閣官房副長官時代に、北朝鮮から連れ戻した拉致被害者をそのまま残せと断固主張したことはその一つです。当時は、一部の被害者を日本に一時帰国させたことで一定の達成とする見方があった。一時帰国なのであってまた北朝鮮に返すべきだという議論があったなか、安倍さんはひとり、犯罪者の手に被害者を戻す非道などあり得ないと力説するわけです。安倍さんがいてくれて良かった。

 14年のクリミア併合を受けて欧米と日本が対露制裁を実施していた16年、アメリカのオバマ大統領(当時)に訪露の案を伝えた時もそうでした。安倍さんは、ロシア、北朝鮮、中国が合流し日本と日米同盟の脅威となる事態だけは避けたいとの一念で、ロシアと当たっていた。制裁の足並みが乱れるのを案じたオバマ大統領は「私があなたの立場だったら行かない」と言ったという。安倍さんは、じゃあ、あなたは日本の安全に責任を持つ立場なのかと言いたかったでしょう。オバマ氏が怒るのを承知のうえで、プーチン大統領へ会いに行く決断をしています。結局、日露関係は打開に至りませんでしたが、それは後から振り返っての話です。

(続きは『中央公論』2023年4月号で)


聞き手:清野由美(ジャーナリスト)

安倍晋三 回顧録

安倍晋三 著/橋本五郎/尾山宏 聞き手/北村滋 監修

あまりに機微に触れる――として一度は安倍元首相が刊行を見送った、計18回、36時間にわたる未公開インタビューを全て収録。知られざる宰相の「孤独」「決断」「暗闘」が明かされます。

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中央公論 2023年4月号
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谷口智彦(慶應義塾大学大学院教授)
〔たにぐちともひこ〕
1957年香川県生まれ。東京大学法学部卒業。『日経ビジネス』記者、同誌ロンドン特派員、主任編集委員等を経て、2005~08年外務副報道官。13年から内閣審議官、14~20年は内閣官房参与として安倍晋三首相の外交政策演説の起草を担当。著書に『通貨燃ゆ』『日本人のための現代史講義』『誰も書かなかった安倍晋三』『安倍総理のスピーチ』など。
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