前原誠司×辻元清美 「強敵」安倍晋三を語る――その思想、政策、そして人柄

前原誠司(国民民主党代表代行)×辻元清美(参議院議員)
辻元清美氏(左)×前原誠司氏(右) 撮影:米田育広
 安倍晋三元首相と、国会で激しい論戦を繰り広げた前原誠司氏と辻元清美氏。いま、振り返って安倍元首相とはどのような存在であったのかを論じ合う。
(『中央公論』2023年6月号より抜粋)

思い出す姿

──安倍晋三元首相が亡くなって7月で1年になります。野党として国会でたびたび激論を交わしてきたお二人は、安倍さんの不在をどう感じていらっしゃるのでしょうか。


辻元 亡くなられて寂しいですね。私は1996年衆議院議員初当選で、安倍さんより当選年次で1期下です。当時は自民党・社民党・新党さきがけによる連立政権の頃だったので、初当選時は与党だったんですね。その中にあって「右派」といわれる安倍さんとは、若手のときから「対極の二人」と言われていました。その後もずっと対峙し続けてきて「こんちくしょう」と思うことも多かったけれど、いま岸田さんと議論していると、「安倍さんが相手やったらもっと白熱した議論になるのにな」と物足りなさを感じるくらいです。前原さんは当選同期よね?


前原 そう。建て替え前の衆議院議員会館では事務所が隣同士でしたよ。私が601号室、安倍さんが602号室。事務所間で通行証の貸し借りをしたり、来客用のスティック砂糖がなくなったら借りに行ったりしていました。夕方に廊下でばったり会って、「食事に行きますか」と二人で出かけたこともあります。

 ただ、私の1期目は非自民、非共産の細川、羽田政権を経て自社さ3党連立による村山政権、橋本政権の頃で、自民党がすごく謙虚だった時代でした。自社さの議員数の割合は、だいたい10対3対1だったんですが、政策調整会議の出席者数は1対1対1で、半年の間に2ヵ月ごとに各調整会議の座長が代わっていたんですね。私はさきがけの防衛・外務担当として座長をやっていて、外務だと自民党の福田康夫先生、社民党の秋葉忠利先生、防衛だと自民党の山崎拓先生、社民党の早川勝先生と交代する形になっていた。ですから、安倍さんよりもそうした中核の方々と話をする機会が多かったですね。


辻元 安倍さんは1~2年生の頃はあんまり目立ってなかったよね。


前原 でも、やはりエスタブリッシュメントですから、周りの見る目は全然違いましたよ。601号室と602号室では陳情客の数が比べ物にならない(笑)。将来を嘱望されている雰囲気があり、本当にいい意味でお坊ちゃんという感じでした。安倍さん自身も、自分が総理になるのは当たり前といった雰囲気で話をされていたのが印象に残っています。


辻元 社民党は人数が少ないので、私も若手の頃から重鎮の方たちとの会議にも出ていたけれど、自民党は人数が多いので、いくら安倍さんがエスタブリッシュメントであっても、そういう場には出てこられなかったんですよね。しかもあの頃の自民党はどちらかというとリベラル保守の人たちが権力を持っていたので、安倍さんのような右派的な人たちはあまり活躍する場がなかったのかもしれません。あとから思うと、自社さ政権に対するフラストレーションは相当溜まっていたんじゃないかな。


──辻元さんが安倍さんと接点を持ったのはいつ頃でしたか?


辻元 最初は「ナイチンゲール」をめぐるやりとりですね。2001年にアメリカ同時多発テロが起きてテロ特措法の議論があったとき、安倍さんは小泉政権で官房副長官、私は社民党の政策審議会長でした。自衛隊派遣の是非が議論されている中で安倍さんが「目的は人道支援、ナイチンゲールと同じだ」とおっしゃって、それはおかしいと思ったんです。ナイチンゲールは中立で敵味方関係なく助ける。例えばタリバンも助ける。しかし、自衛隊が派遣されれば米軍と一体だと思われるわけで、完全中立にはなりえないわけですから。『日曜討論』(NHK)でそう批判したら、翌日に官邸から「官房副長官の安倍晋三です」と電話がかかってきて、「ああいう発言はやめてもらいたい」と相当高圧的に言われました。発言をチェックしているんだと思って、えらい細かい人やなぁ、と。だから「官房副長官からこういう電話があったら怯(ひる)んで黙る人もいるかもしれませんけど、私の場合は火に油を注ぎますからおやめになったほうがいいんじゃない?」って返して(笑)。これまで自民党の大物は批判もどーんと受け止めていた感じでしたが、直接電話でクレームを言ってきた人は安倍さんくらいです。

 そのときのことを相当恨んでいたみたいですね。『安倍晋三 回顧録』を読んだら私の名前が出てきて驚きました。「辻元清美氏らが設立した民間団体のピースボートは2016年に(略)海上自衛隊に護衛を要請してきたのです。普段は自衛隊を批判しているのに、危ない時だけは助けてくれ、というのはムシがいいでしょう」と書かれています。私は自衛隊ではなく政権の方針を批判しているのであって、そもそも前提の認識が間違っているし、この件では安倍さんと丸川珠代さんがデマを流したのを認めて謝罪も受けたのに、また回顧録で語っていることに驚きました。「やっぱりナイチンゲールの件でずっと恨まれていたのかな」と思いました。だからわりと根に持つタイプやね。そんな気せぇへん?


前原 それでいうと安倍さんは周囲に、「前原は北朝鮮でハニートラップにひっかかった」という話をずっとしていたんですよ。そんなわけがないし、私は朝銀信用組合と北朝鮮との関係をかなり激しく追及して公安調査庁から「身辺に気をつけてくれ」と言われたこともある人間です。なので、「もしそうだったら朝銀問題を取り上げないですよ」と本人の前で文句を言ったこともあるんですが、それでも口にしていたようですね。物腰が柔らかくて品の良い人でしたが、そういう面もありました。


辻元 ちょっと信じ込みやすいところがあったかもしれないね。私も似た経験があります。2002年に議員辞職した後、大阪選挙区で参院選に出たんです。そこで自民党の候補と競り合いになったら、党幹事長だった安倍さんが執拗に大阪入りして、私が「北朝鮮の手先」だというようなことを演説で言っていたとか。それは完全にデマなんです。でも、そういうデマやネット上の風説を取り上げて攻撃されたことはその後もあった。相容れない存在には攻撃的になるところがあったと思います。

観念論と心配り

──政策への評価はいかがでしょう。


辻元 前原さんは経済で安倍さんと相当激しくやりあっていたでしょう。「あなたは『デフレは貨幣現象だ』とおっしゃいましたよね」と。あのときのやりとりについて、前原さんに聞いてみたかったんですよ。私は安倍政権に対するジャッジとして、黒田(東彦(はるひこ))日銀総裁(当時)と組んで行ったことはうまくいかなかったというのが結論だと思うんです。賃金が上がってないし、経済成長していないわけだから。


前原 彼はかなり観念論の人なんですよね。私は保守という立場では通ずる部分もあって、出来の悪い法制ではあるけれど、集団的自衛権の解釈変更(2014年)をやった点では安全保障法制について一定の評価をしています。ただ、あのとき集団的自衛権を認める場合の法律的根拠としていた事例はすべて覆ったんです。なのに、「北朝鮮がアメリカ本土にミサイルを撃ったとき、インターセプト(迎撃)するためには集団的自衛権行使が必要だ」という極端な話をしてしまう。これは観念論から入っているからなんですね。私だったら、現実主義に基づいて日米安保の脆弱性がどこにあるかを考える。すると、いわゆる武力行使の一体化に行き着きます。朝鮮半島で有事が起きた際、「武力行使の一体化は憲法違反なので」という理由で後方支援をやめられるかといったら、現実的にはおそらくやめられないわけですからね。

 アベノミクスについても同様です。初めの頃は「デフレは貨幣現象だ」と言い切っていたし、2~3%の物価上昇を目指すとしていました。でもその数字には根拠がなかった。さらに黒田総裁に異次元の金融緩和をさせ、最終的には「いくらでも財政出動してかまわない」「いくら借金してもいい」、挙句の果ては「日銀は政府の子会社だ」とまで言っていました。ですが、本当にいちばん大事だったのは成長戦略と構造改革だったはずです。

 また、しばしばアベノミクスについては「金融政策はA評価、財政出動はB評価、成長戦略・構造改革はE評価。つまり『ABE』だ」と言われますよね。E評価については私も同意です。国家戦略特区を設けて、まずは成功事例を作って日本全体の成長戦略にしようという趣旨だったのが、加計学園の件があって「自分の知り合いに便宜を図るためのものだったのではないか」ということになってしまった。あるいは、ダボス会議で「岩盤規制を砕くドリルの刃になる」とおっしゃっていましたが、では何をやったのかといえば実現できていないわけです。先ほど「いい意味でお坊ちゃん」と言いましたが、安倍さんが国のことを本当に思っておられたのは間違いないと思います。けれども安全保障にしても経済にしても、観念論による決め打ちになっていた。そこは取り巻きの方々の影響もかなり大きかったと思います。


辻元 そう、観念論なんですよ。集団的自衛権を議論していた際、子どもとお母さんが乗った輸送艦のパネルを記者会見で出してきたことがありましたよね。このような状況も集団的自衛権の根拠にはなりえないと批判されましたが、感情に訴えて国民を味方につけようという下心が丸見えで、安全保障をめぐる議論の際にあんなパネルを使うこと自体、論外だと思いました。そういうふうに、論理性や合理性とは少し違う次元で物事を進めようとされるところがあったと思います。

 それと、前原さんが先ほど加計学園のことをおっしゃったけど、あのとき私は国対委員長だったんですね。落ち着いて政策議論をしたいのに、森友や加計、桜を見る会と次々に出てくるものだからどうしてもその疑惑追及をやらざるを得なくて、それが嫌でしたね。そういう事態が繰り返し起こる政治に対してすごく不信感があった。


前原 ただ、我々はやはり権力を握らないと何もできないわけで、第1次政権でああいう辞め方をした安倍さんを「もう一度総理にするんだ」と多くの人が支えたことは見過ごしてはいけないですよ。それはやはり安倍さんの人徳や人柄、人を巻き込む力によるものでしょう。党の仕事で全国各地を回っていると、多様な業界団体の方から「選挙のときに安倍さんから直接電話をもらった」という話を聞くんですよ。自民党総裁だから当然かもしれないけれど、「この人のために、頼む」と連絡して回っているんですね。面倒見は非常に良かった。

 私もいっぺん電話をもらったことがありました。2017年に九州北部豪雨が起きたとき、福岡県朝倉市に視察に行ったんですね。避難所でいろいろお話を聞いたら、お年寄りが非常に苦労されていると。というのも、今ほど段ボールベッドが普及していなくて、避難所の床にみなさん直接寝てらしたんです。どうしたものかと思っていたときに、ある議員を通じて段ボール業界からベッド提供の申し出がありました。

 これは渡りに船だと思って、当時官房長官だった菅(義偉)さんにすぐ電話して提案したんです。すると「やります」と動いてくれた。その後、安倍さんが視察に行って「これはいいね」という話になったとき、菅さんから「前原さんに言われてやったんですよ」と聞いたそうです。それですぐに電話をかけてきた。いかに国会で激しくやりあっていても、そうした心配りがあるとこちらも悪い気はしないじゃないですか。やっぱり人たらしなんですよね。

 繰り返しになりますけれど、私はアベノミクスには今も否定的だし、集団的自衛権も結果オーライではあれど武力行使の「新三要件」はひどいし、立法根拠も非常に観念的だと考えています。でも個人としては人間的魅力があったことは間違いない。だからすごく複雑な思いがあります。


──お二人とも国葬は欠席し、前原さんは葬儀には参列されましたね。


前原 国葬となると政治家としてやったことに対する評価が入ってくると考えているので、参列しませんでした。一方で、長く接した分、思い出も多いですから、増上寺でのお葬式には足を運びました。


辻元 私は政治家と国葬というものがそもそもなじまないと考えているので行きませんでしたが、増上寺には自然と「行きたい」という気持ちになりました。飛行機が遅れて間に合わず、中には入れなかったんですが......。思想信条やイデオロギーが違っても、志半ばで命を絶たれるのは無念以外の何物でもないことは同じです。だからこそあれだけ激しく議論をしてきた者として、哀悼の意を表したいと思いました。

 亡くなったという第一報を聞いたとき、安倍さんの笑顔が浮かんだんですよね。というのも、総理をお辞めになった後に衆議院議員会館の地下の廊下でばったり会ったんですよ。そこで「安倍さん辞められて、質問できへんの寂しいわ」って言ったんです。そうしたら本当に満面の笑みで、「いやぁ、僕はほっとしてます。これからは菅さんと存分にやってください」と答えて立ち去られて。総理大臣という鎧を脱いで憑き物が落ちたような、等身大の柔和な笑顔でした。そのときの笑顔が浮かんだんですよ。亡くなる前にこの会話ができたことで、国会で激しくやりあっているときのいがみあいのような対立の関係ではなく、良い形で終われたのは私にとって救いでした。


前原 それは実は私も同じです。あの参議院選挙の前、通常国会のほぼ終わる頃に、衆議院第一議員会館の事務所から本会議場に向かっている途中で安倍さんと偶然会ったんです。周囲には他にも人がいたんだけど私のところに来て、「前原さんはいろいろ活動されていて、本当に選挙強いね」と話しかけられました。参院選の応援で京都に行ったときに私の話になったらしくて。「いや、地盤も看板も鞄もないし、野党だから必死にやらんと勝てないんですよ」と返して、そこから最近の体調を聞いたりしながら、本会議場まで二人だけで歩いて行ったんです。30年近くずっと一緒に議員活動させてもらって、国会でも特に第2次安倍政権ではかなり議論をしてきたけれど、あのときはお互いが素に戻って話していた。数週間後に亡くなられたので、それが最後のやりとりになりました。あそこで会えて良かったと思っています。


(続きは『中央公論』2023年6月号で)


構成:斎藤 岬 撮影:米田育広

中央公論 2023年6月号
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前原誠司(国民民主党代表代行)×辻元清美(参議院議員)
◆前原誠司〔まえはらせいじ〕
1962年京都府生まれ。京都大学法学部卒業。松下政経塾を経て、91年京都府議に初当選。93年、日本新党から衆議院議員初当選。新党さきがけを経て、96年に旧民主党に参加。2005~06年、民主党代表。09~12年の民主党政権で国土交通相、外相、党政調会長などを歴任。民進党代表も務めた。

◆辻元清美〔つじもときよみ〕
1960年奈良県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。学生時代にNGO「ピースボート」を創設。96年、衆議院議員選挙に立候補し初当選。NPO法、被災者生活再建支援法などの成立に尽力。国交副大臣、首相補佐官、国対委員長などを歴任。著書に『声をつなぐ』などがある。
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