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鈴木涼美 青年の傷つきとコンプレックスを過剰に強調する"ジャック語"を味わう(ジャン・コクトー『大胯びらき』を読む)

第12回 基本的には他人事でしかない男の青春(ジャン・コクトー『大胯びらき』)
鈴木涼美
『大胯びらき』(ジャン・コクトー著/澁澤龍彦訳/河出文庫)
キャバクラやアダルトビデオなどの「夜職」、新聞記者という「昼職」、両面から社会を見つめた作家・鈴木涼美さんの書評エッセイ。一日一日を生き延びる糧となった作品を紹介していきます。
今回は、詩、小説、戯曲、評論、映画・・・多彩なジャンルで芸術家として活躍したジャン・コクトーが、1923年に発表した小説『大胯びらき』を取り上げます。大学生の頃の鈴木さんが、「一番好きな海外文学は」と問われたときに挙げていた作品です。

いくつになっても男も女も面倒くさい

 Aちゃんが先に好きになったのにBちゃんが勝手にX君とディズニーに行った、とかいう話題がクラスの女子たちの間で、進路や健康、或いは戦争やデフレ経済よりもずっと真面目に深刻に取り上げられる思春期の頃、女って怖い、女って面倒くせえという、ほとんど無意識に発せられるクリシェを聞くたびに、それは本当にそうだよと心の中で深く同意していました。疫病禍の経済補償はどうするか、とかいう問題よりももっと複雑で切実な問題に対して、嫉妬や焦りを隠したり剥き出しにしたりしながら、なけなしの自尊心が悲鳴を上げない程度に自己主張や妥協を繰り返し、それについて言い訳を重ねる。思春期に限らず今でも言えることですが、そんな存在は側から見ても自分でやっていても面倒くさいものです。

 ただ、そんな言葉を発する男たちの青春が面倒くさくないのか、と問えば、舐められたくないとか、謝りたくないとか、自分の存在を証明したいとか、他人からすればどうでもいい聖域を身体の内側に作って、何とか格好のつく論理で混乱を打開しようとする、やはりとんでもなく面倒くさいものに思えます。要は自我のある人間が一人生きていく、という事態はそもそも大変面倒くさいものであって、自分とは違う箇所に無駄なこだわりを見せる存在に対して、理解をあきらめる時に、女って面倒、男だって面倒と言い合うわけです。そしてその面倒くさい部分こそが文明と文化なのであって、全て単刀直入で効率的かつ合理的な人など、面倒くさくはないかもしれませんが、面白みもゼロです。

 強いて言えば、セックスに過度に意味づけする文化が根強くある女に比べて、射精という一義的な目的がはっきりしている男の方が、ベッドの上の思考が単純明快である場合は多いかもしれません。童貞が面倒くさいとか、童貞の書くものは面白いとか、童貞の思想は深遠だとか、童貞の思考は独特だとか言われるのは、その単純明快さを獲得する前だからなのでしょう。

 と、考えて童貞や童貞根性が色濃く残った若い男の子って苦手、と思っていたのですが、40歳手前まで生きてきて、別に40歳の男も50歳の男も面倒くささが抜けているわけではなく、また別の角度の面倒を背負っているし、それは女の方だって、少女には少女なりの、オバサンにはオバサンなりの混乱と自尊心があるので、別に青春こそが混乱の極みだとも最近は思いません。思い返せば、若い男の子って苦手と思って19歳の時に付き合っていた31歳の彼は、やたらとお金で権力を誇示する人で、その一環として私にもずいぶん贅沢を強要してきたのですが、時々満月の夜などに、「お前はどうせ俺のお金が好きなんだ」と普段自分がこれでもかとアピールしていた武器に対して卑屈になっては絡んできたし、27歳の時に付き合った22歳の大学院生は、姉の年齢を偽ったり自分の通っていた予備校を偽ったりと、今でも不可解な一見意味のない嘘を重ねる虚言癖がありました。どちらも種類は違えど、ありふれた、とるに足らない聖域を守っていたのでしょう。思えば日本で大変豊かに発展した私小説というものなど、その多くが男が自分の面倒くささを認める作法でした。

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