新書大賞2021大賞・斎藤幸平先生 講演動画を公開中!

鈴木涼美 心なんてどうせ整わないからせめて言葉を整えてみる(井上ひさし『私家版 日本語文法』を読む)

第14回 若い女の心はそう整うものじゃない(井上ひさし『私家版 日本語文法』)
鈴木涼美
『私家版 日本語文法』(井上ひさし著/新潮文庫)
キャバクラやアダルトビデオなどの「夜職」、新聞記者という「昼職」、両面から社会を見つめた作家・鈴木涼美さんの書評エッセイ。一日一日を生き延びる糧となった作品を紹介していきます。
今回は、戯曲や小説で多くの名作をうみ、2010年に75歳で死去後も、新装版や復刻版の刊行が相次ぐ井上ひさしさんが、日本語をテーマに1981年刊行した作品『私家版 日本語文法』を取り上げます。

「どろどろ」と「もやもや」を辞書に解説してもらう

 歌舞伎町の魅力って何なんですか? と聞かれることがよくあります。数年間歌舞伎町のすぐそばに住んでいたし、働いていたことも、毎晩夜遊びに出掛けていた事もあるので、おそらく私は新宿・歌舞伎町が好きなのでしょう。昼間の殺伐とした雰囲気も嫌いじゃないし、夜になって切羽詰まった空気が充満してくるのも、深夜1時を過ぎてどこか夜にしがみついている人たちが往生際悪く歩いているのも好きです。

 毎晩パーティーのようなお祭り騒ぎが繰り広げられるという意味では六本木や渋谷や浅草にも似たような性格があるのでしょうが、そこに一抹のどろどろした空気が混ざっているのが魅力ではないでしょうか、と答えていたのですが、この「どろどろした空気」というのはいまいち正確な言語化をサボっているような気がする。かといって、「どろどろ」の一言でいとも簡単に伝わってしまうニュアンスを解体し、文章で表すのはそんなに楽な作業ではありません。

 ちなみに手元にある新明解国語辞典第七版で「どろどろ」を引くと「【1】堅い物がやわらかくなって不透明な液状になること(様子)。【2】各種の要素が混在して、不明朗かつにわかに分析を許さないこと(様子)」と解説されます。歌舞伎町のどろどろした様子はなるほど確かに不透明な液状のようでもあり、にわかに分析を許さない様子であり、嫉妬や愛や享楽や絶望など各種の要素が混在してもいる気がします。堅い物がやわらかくなるというより、ふにゃふにゃしたものが一回堅くそびえたって、一定の作業の後に再び柔らかくなるような気もしますが、当たり前に使っている副詞を解体してみると、言葉にならないと思っていた気持ちは存外、辞書や専門書の類がとっくに言語化してくれていたりするというのはよくあることです。

 同じような擬態語で最近非常によく散見する「もやもや」というものがあります。SNSなどでは得意の略語化、動詞化で「もやる」なんて書かれているものもありますが、「首相の記者会見を見ていたけどなんかもやもや」「昨日パワハラ上司と和解の話し合いはしたけどまだもやる」など、基本的には何かしらネガティブな印象と共に、はっきりとした批判の一歩手前で発せられることが多い。とにかく若い世代を中心にみんなもやもやとしているようですが、こちらを同辞書で調べると「【1】もやが立ちこめているようで実体がはっきり分からない様子。【2】解決したり明らかになったりしないため、不安・不満などが無くならない様子。」とあります。そう解説されてみると、その言葉の奥にあった自分の期待や理解したいという思いを改めて発見することになるし、己の不安や不満の所在がはっきりすることもあります。自分が自然と発した言葉に何が込められているかを辿るのは結構楽しいのです。

1  2  3  4  5