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鈴木涼美 それなりのプライドと、それなりの傷の痛みと、それなりの愛をぶつけ合う男女の愚かさを愛する(ルーキアーノス『遊女の対話』を読む)

第17回 お金を介した男女の滑稽な話(ルーキアーノス『遊女の対話』)
鈴木涼美

愚かさを演じながら、生きていく

 本の解説で、「遊女は、何処の国、何処の地にも必ず附物の社会現象である」と説明されますが、完全なる男社会で女が家の中にいた古代ギリシアでは、売淫が社会悪と考えられてはおらず、むしろ男だけの世界に自由に出入り出来たヘタイラたちは才と智と教養とを身につけた自由で高名な存在だったのに対し、ローマの時代になると、普通の女たちが家に閉じこもるばかりではなくなり、教養を身につけたものも増え、「芸者と人妻との差が、以前ほどは明確でなくなっていたとしか考えられない」と考察されます。その時代になると遊女たちの地位は相対的にあまり高いものでなくなり、高いお金をとる事例としてはミーモスというレヴューの大夫のような女たちが流行したといいます。そんな時代にルーキアーノスが本作で描いたのは、それほど高級ではない、「一夜の恋を売ったり、ばかな男を手玉に取らざるを得ない」、身近な遊女たちです。そういう遊女は少なくとも2000年もの間、この世界の片隅に必ずいたし、今も風俗嬢やパパ活嬢なんて名前を変えて、東京の夜にもたくさんいるわけです。

 広義の売春を、男女差別の構造だと主張し廃絶を目論む人もまたどの時代にもいましたが、遊女と客との関係はそう単純に搾取の構造をしているとは限らない、というのもまた普遍的にある現実だと感じます。少なくとも、それなりのプライドと、それなりの傷の痛みと、それなりの愛をぶつけ合う男女の対話を読み込んでいけば、そこには憐れむべき姿も滑稽な姿もあるけれど、同時に誇り高き文化もあることがわかります。遊女の立ち位置だってギリシアとローマの社会で違うように、社会構造や世相や思想によって如何様にも変化するわけで、あまり単眼的になると、そこに生まれる面白みや、社会的に劣位にいると考えられている者たちの興味深いプライドや客たちの憐れな悲哀を見逃してしまいます。

 本来お金なんかじゃ人の心は買えないと、お客たちもわかっているのです。だからこそ、「全くよ、わたしゃあんたにお金を下さいって言ったこともなけりゃ」と、遊女にとってお金を取らないということが、男に対して最大の愛の証明として最初に口をついて出るわけです。その割には自分がいかにお金を払ったかを主張して、心が自分に向いていないことを糾弾することもあるわけです。「今になって俺を締め出すのか、ミュルタレー、俺がお前のために貧乏になった、お前のいい人になって、あれほど貢いでやった今となって?」

 私は、お金で買えないことを半分わかっていながら、なんとかお金で欲望を満たそうとする人で溢れる夜の街を、決して人の美しい側面を見る場所だとは思っていません。お金で何かを手に入れようとするくせに、お金の切れ目が縁の切れ目となると、お金目当てだったのかとなじる、そんなお客もたくさんいるし、嫉妬心を煽って自分の価値を確認しようとする女も男も転がっているし、そこはなるほど人間の醜い部分が表出するところでもあるでしょう。ただ、そういう愚かさを演じながら、人は生きるという困難な行為をなんとか遂行しようとするものだとも思うのです。痛みを受け入れ、滑稽さを笑い、自己嫌悪から立ち直って明日も生きるためには、その愚かさを愛することこそ鍵となる、と私は信じています。

遊女の対話 他三篇

ルーキアーノス(高津春繁訳)

岩波文庫

鈴木涼美
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。修士論文が『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』のタイトルで書籍化される。卒業後、日本経済新聞社を経て、作家に。著書に『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』、『おじさんメモリアル』『オンナの値段』、『ニッポンのおじさん』、『往復書簡 限界から始まる』(上野千鶴子氏との共著)、『JJとその時代』など。
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