岡田暁生×片山杜秀 クラシック音楽存亡の危機 今こそ音楽家の矜持を

岡田暁生(京都大学教授)×片山杜秀(慶應義塾大学教授)
世界的なコロナ禍で、文化活動が広く打撃を受け、 コンサートホールでの鑑賞を基本とするクラシック音楽も窮地に立たされている。
この秋に中公新書『音楽の危機』を上梓した岡田暁生さんと、『鬼子の歌』など音楽について多数の著作がある片山杜秀さんが、クラシック音楽の過去・現在・未来について語り合う。
クラシック音楽に希望の光はあるか――
目次
  1. 「高尚な文化」と言っていられるか?
  2. 二度の大戦から考える

「高尚な文化」と言っていられるか?

岡田 二〇二〇年は世界中が新型コロナウイルス感染症の猛威に振り回されました。ヨーロッパでは二月下旬、まずイタリアで感染が爆発的に拡大しました。イタリアで最初の死者が出た時、私は現地に出張していたのですが、翌日にはあらゆるイベントが中止となり、聴く予定だったスカラ座の『イル・トロヴァトーレ』も、開演予定時刻の一〇分前に急遽中止がアナウンスされたのです。衝撃的な出来事でした。

片山 私はその間ずっと日本にいました。私は典型的な"ノストラダムスの大予言"世代なものですから、「日本もコンサートがなくなる」とか言っては嗤われていましたが、そんな私でも驚くほど、たちまちライヴの音楽が消えて行きました。「見えない脅威が人を襲う」という意味では、三・一一の原発事故後の不安に似ていますが、今回はとにかくなかなか見通しが持てない。近代文明が体験したことのないスケールで感染症による脅威が長期化しています。

岡田 人間は感染症を克服したと錯覚していたけれど、実際にはそうではなかった。それを痛感します。

片山 クラシック音楽業界の話をすれば、コロナ禍が長期化すると、オーケストラの中でも一流とは呼べないプロ団体は持続困難になるのではないですか。これからのオケは必要な時だけ集まる、セミプロ的な形になっていくのではないでしょうか。

岡田 私もそう思います。そもそも日本におけるヨーロッパ音楽の社会的アイデンティティは、経済的にも心理的にも相当に揺らいでいます。歌舞伎や文楽と違ってクラシックは、日本においては自分たちの音楽ではありません。ドイツ政府がオペラ劇場にお金を出すのとは意味が違うのです。国や企業からの支援を得るには、大義名分が必要ですが、そこがとても脆かった。もはや「クラシックは高尚な文化ですから、補助をお願いします」と胡坐をかいていられるような状況ではありません。

片山 母体の経営体力がしっかりした団体は見放されない限り大丈夫でしょうけれど、多くのオーケストラはもともと際どい経営状況で、そこにこのコロナ危機です。今日をしのげるか、首の皮一枚になっていて、先のことまで心配する余裕すらない。
 一方でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が十一月に特別来日し、一〇日間のツアーを終えました。日本の聴衆にとって嬉しいのは、日本よりも西洋の楽団であって、頂点は相変わらずウィーン・フィルなわけです。つまり日本のオーケストラは、明治時代から今日に及んでも舶来の代替品でしかないことになる。

岡田 存亡の危機にある日本のオーケストラをそっちのけで、超高価なウィーン・フィルに熱狂することについては割り切れなさが残ります。あたかもグルメ文化における飽食の欺瞞のようです。昔から地域で親しまれた居酒屋が次々に店を畳む一方で、パリから三ツ星レストランのシェフが来日して、お金持ちはそこに殺到している。三ツ星シェフに四万円払うなら、豊かな文化を保つために一〇回にわけて地元のお店に行ってあげたらいいと思うのだけれど、そうはならない。不条理を感じます。

片山 もし日本にクラシックが本当に根づいていて、企業や国がお金を出すことにコンセンサスが得られるなら、自国の音楽文化を大切と思っているなら、今だからこそできる企画を実施してもいいはずです。例えば、コンサートのできない演奏家を集め、日本人作曲家の作品を録音して国家的ライブラリーを作るとか。一方で、率直に言えばそんなことに意味があると思う人はほとんどいないでしょう。それよりもウィーン・フィルの日本ツアーとなる。つまり、日本にはどこまでいってもクラシック音楽の根づきがないのです。
 それにもかかわらず、肝腎の当事者である日本のオーケストラが「クラシックは芸術だ」と主張すれば何かが通ると思っているようであれば、それはやはり甘いでしょう。その程度の音楽文化なら、一度地獄を見るしかないのかもしれません。

岡田 私もずっとそう思っていました。私はジャズをはじめライヴハウス関係の友人が多いのですが、彼らの状況はクラシックよりさらにひどい。本当にその日暮らしの状況です。同じ音楽家としてトップクラスの腕を持つ人でも、ジャンルが違うだけで待遇が全然違ってくるのです。
 コロナ下にあってクラシックだけを「芸術だから支援されるべき」と特別視するのは解せません。背後に、クラシックは「清潔な高級文化」だからというロジックが隠れているとすれば、そこには昨今の「清潔ファシズム」との結託が意識せず生まれていないかと思ってしまいます。

片山 岡田さんの著書『音楽の危機』にもありましたが、そもそも音楽家の起源は遊芸の民です。時代を経て宮廷や教会に雇われる音楽家が出て、十九世紀のクラシック全盛の時代につながった。長い人類の歴史の中で、芸術音楽の歴史は近代の短い範囲でしょう。日本の歌舞伎や能も、今では立派な伝統芸能として受け入れられていますけれど、もとは河原の見世物から格式を得るため七転八倒した歴史がある。今、日本国内でコンサートホールが建っている場所も、もとは悪所というところはたくさんあるでしょう。所詮そんなもの、という自覚の徹底から浮かぶ瀬も出てくると思うのですが。

岡田 クラシックの音楽家も、こういう状況にある以上、「芸の道に生きる者」としてのど根性、矜持を見せてほしい。芸術文化だから支援されるべきだなんて、この期に及んで言っている場合か? と思います。

片山 地獄の底に行き着いて、ようやく音楽家としての本質が出てくるのかもしれません。地獄から這い上がってくることができるか。

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