2020年7月アーカイブ

近場での狩猟採集

「ぼちぼちコアユが岸に寄ってきとるやろうなあ」

 五月の半ば頃。例年ならば、琵琶湖にコアユを捕りに通っている時期だ。アユは通常、川で生まれ、海に下り、ある程度大きくなってから川に再遡上するという生活史をたどるが、琵琶湖のアユは、琵琶湖を海に見立てて暮らす陸封アユだ。流入する河川を遡上するタイプもいれば、琵琶湖だけでほぼその生活を完結させるタイプもいて、後者のアユは一定サイズ以上大きく育たず、コアユと呼ばれる。コアユはゴールデンウィークを過ぎた頃から群れになって湖岸に寄ってくるようになるので、それを投網で一網打尽にする。捕れたてのコアユを天ぷらや佃煮で食べるのが絶品だ。

 そんな例年の営みを今年は行うことができない。今春は三重の海での潮干狩りにも行かず、福井の海に釣りに出かけるということもなかった。「山や川で遊んでる分にはコロナの影響なんてないでしょう?」

 こんなふうに言われることが多いが、「県境をまたぐ移動の自粛」とやらで、僕が暮らす京都から他県まで出掛けていって行う季節ごとの営みは何一つできなかった。

 ただ、その分、近場での狩猟採集活動には集中できた。タラの芽やワラビなどの山菜採りに連日出掛け、塩漬けや乾燥品などの保存食づくりも捗った。渓流釣りも近くの川を見直すきっかけになり、一斉休校で暇を持て余している子どもたちにじっくりと釣りを教えることもできた。「今日はようけイワナ釣れたし、帰ったら天ぷらにするか」

 帰りの車内でそんな会話をしながら、街道沿いを走っていると、ガランとした人気のない観光地が目に入ってきた。たまに見かける人々は当然マスクをしている。一気に現実に引き戻される。

「ああそうだった。人がおらん山の中におったら忘れてしまうな......」

 感染症といえば、新型コロナウイルスが流行する数年前から豚コレラ (二〇二〇年より「豚熱」と名称変更) が問題になっていた。豚コレラは岐阜の養豚場で一八年に発生し、徐々に近隣県に広がっていった。新型コロナ対策では、三密を避けるように言われているが、畜産の世界では、経済性を考えると多くの場合、家畜の「密集」と「密接」は避けようがない。それゆえ、ウインドレス(閉鎖型)畜舎を推奨するなど、むしろ三密状態にして外部と隔離する感染症対策が主流となっている。

 しかし、その閉鎖環境が突破された場合、一気に感染が広がる。いわゆるクラスターである。例えば、ジビエ料理などでよく問題になるE型肝炎という感染症があるが、厚労省の発表している資料を見ると、野生のイノシシの抗体陽性率が一〇~五 〇%なのに対し、ウイルスが検出された養豚場のブタでは抗体陽性率は一〇〇%となっており、集団で飼育されているブタの方が野生下で暮らすイノシシよりも圧倒的に高くなっているのがわかる。

野生と家畜と

 豚コレラは、野生のイノシシも感染することから、報道などではイノシシが感染拡大の犯人のように表現されることもあるが、豚コレラの感染拡大は、養豚場に出入りする車両へのウイルスの付着や、無症状の子豚の出荷、ネズミやハエなどの小動物による媒介も指摘されており、その感染経路は未特定だ。また、「清浄国」認定をめぐる関係団体・機関の思惑からのワクチン接種の遅れなども感染拡大を招いたと言われる。なんだか現在のコロナの状況といろいろ重なる部分もあるように思う。養豚場のような大規模食料生産施設があって初めて、現代世界の人口の維持が可能になっている。そういう意味では、そこで発生する感染症の問題が、人間社会で起きた今回のコ ロナ騒動の縮図のようになるのは当たり前かもしれない。アメリカやドイツの食肉処理場で新型コロナウイルスの集団感染が起きているというのもそういった現代の社会構造と無関係ではないだろう。ただ、人間と違ってブタの場合は一頭でも感染が確認されれば、その養豚場のブタは全頭殺処分されてしまうのだが。

 豚コレラは狩猟への影響も甚大だった。最初に発生した岐阜県では野生イノシシの感染も多数確認されたことから、一九年度の狩猟は全面禁猟となった。近隣の県では、対策を実施した上での狩猟は解禁されたが、今後はどうなるかまだわからない。 僕の暮らす京都でも今年の春についに野生イノシシの感染が初めて確認された。今シーズンの狩猟がどうなるのか、考えるだけで憂鬱である。

 感染が広がった地域の野生のイノシシの場合は、今後はおそらく弱い個体は死に、抗体を持った強い個体が生き残ってバランスが取れていくのだろう。岐阜の友人に聞いても、そんなに極端にイノシシの数が減っているわけではないという。また、豚コレラは人間には感染しないので、狩猟のことだけを考えれば、実はこれまで通り普通に猟をして捌いて食れまで通り普通に猟をして捌いて食べても何も問題はない。それが家畜への感染が関わってくると、突如として「問題」となるのである。

山と街の境界で子どもと暮らす

 長い休校期間中、我が家の子どもたちはずっと山で遊んでいた。焚き火をして湯を沸かしラーメンを食べる。ナイフで木を削って木刀を作る。近所の友だちとひたすら追いかけっこやかくれんぼをする。長男は今春で中学生だったが、学校が始まらないので、中学生らしさは全く感じさせず、みんなからも「小学七年生みたいなもんやなー」と笑われていた。

 かつてなら週末ごとに大型ショッピングモールに出掛けていた友人家族とも、近所の公園や河川敷で顔を合わすことが増えた。「なんか自粛期間に子どもたちと外で遊んでたら、なんだかこっちの方が楽しくなっちゃって」

 全国的にもコロナ以降、屋外でのレジャーが人気のようだ。また、リモートワークやオンライン会議などの急速な普及により、田舎への移住希望者も増加しているという。未知の感染症による予期せぬ社会変容は、多くの人々の仕事を奪い、生活を激変させることとなったが、直接的に大きな影響を受けていない人々にとっても、これまでのライフスタイルを見直す契機となっているのだろう。全国的な農林業などへの鳥獣害の増加に対し、狩猟者の減少が問題となって久しいが、そもそもの原因は地方の衰退、農山村の過疎化である。もしも、東京一極集中という国レベルの三密が少しでも解消される方向に進むのであれば、それは今回のコロナ禍がもたらした変化の中では最も良い方向のものだろう。働き方の多様化が進めば、自由な時間が増え、田舎で暮らしながら狩猟や農業を始めたい人も増えてくるはずだ。

 ただ、田舎に暮らしたからといって、感染症から無縁に暮らせるわけではない。僕自身も仕事をしながらの狩猟採集生活なので、仕事でトラックを運転して、人と接するときにはマスクをしている。車内には消毒薬も常備してある。子どもたちの学校も再開となり、様々なルールを守りながらの集団生活が始まっている。一方、山に入るときは消毒薬のニオイを洗い落とし、マスクを外して、嗅覚を含めた五感を駆使して獲物の気配を感じながら歩く。こういった山と街の暮らしのギャップに戸惑いながらも、感染リスクと向き合い、この時代を生きていくしかない。

 以前、知り合いの養豚場にイノシシがよく出没するというので、豚コレラの問題もあるためその対策を手伝ってほしいと頼まれたことがある。そこは古い豚舎だったので、こぼれた餌などを狙ってイノシシが寄ってきているようだった。夕方に豚舎の裏を見に行くと、数頭のかわいいウリ坊を連れたイノシシが豚舎沿いの地面をほじくり返していた。しばらくして僕に気づくと、親イノシシは山の方に走り出し、慌てたウリ坊たちがそこらをチョロチョロする様子が微笑ましかった。

 さて、冒頭の釣りの帰り道。家に着く前にどこかでアイスを買いたいとごねる子どもたち。仕方がないので、途中にあったコンビニに車を停める。マスクを装着して車を降りる。「自分たちでアイス選びたい~」「あかん、あかん。コロナで危ないからお店は一人で来てくださいって言われてんねん」

 適当なアイスを買って店から出ると、車で待つように言った子どもたちが外に出て遊んでいる。戻ってきた僕に気づいて慌てて車に飛び乗る。「なんだかあいつら、前に見たウリ坊みたいやな......」

 僕の暮らしは、時にはイノシシのようであり、ブタのように生きている時間もある。山と街の境界で暮らしているということを、コロナの時代に改めて考えさせられた。

 

〔『中央公論』2020年8月号より〕

多数の演劇賞を獲得し注目を集める気鋭の演出家・藤田俊太郎さんに、コロナ禍での休演を経て再始動に至る喜びを寄せてもらいました。今よみがえる師・蜷川幸雄さんの言葉とは─

六四公演休止、苦渋の決断

 新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、二〇二〇年二月から多くの劇場で舞台公演が中止、もしくは延期になっていった。劇場への人の出入りはメンテナンスのみでほとんど動きを止め、無人の期間が数ヵ月にわたって続いていた。

 しかし、緊急事態宣言が五月末に明け、六月から日本各地の多くの劇場が少しずつ動き始めている。私の演出作『ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」イン コンサート』(東宝製作)も、本誌の発売直後の七月十八日に開幕する予定だ。八月五日まで毎日一回ずつ公演を行い、来場できないお客様に向けては有料での配信を予定している。

 本作は、元々は七月から九月まで東京・日比谷の帝国劇場を皮切りに全国各地で上演するはずだった『ジャージー・ボーイズ』というミュージカル作品をコンサートヴァージョンにしたものだ。コンサートヴァージョンと言っても、そもそも本作は実在のコーラスグループ「ザ・フォー・シーズンズ」の物語で、その楽曲で構成されたカタログミュージカルであるから、ヴァージョンを変えてもその魅力は十分に伝えることができると思う。

 ミュージカル『ジャージー・ボーイズ』のアメリカ・ブロードウェイでの初演は二〇〇五年だ。大変な人気作品のため、日本版の上演権を取るのに一〇年かかり、日本人キャストによる日比谷・シアタークリエでの初演は、二〇一六年。その後、日本のお客様からも大変に大きな声援と熱狂的な支持を得て、二〇一八年に再演。そして今回二〇二〇年に再々演を迎えるはずだった。

 本作は世界中で上演されているが、実はコンサートヴァージョンは私たちのカンパニーが世界初の上演を果たしている。ミュージカル版に続いてこちらも権利元との長い交渉の末に許諾を得て、二〇一八年に渋谷・東急シアターオーブでの上演を実現。それらの実績を経て、帝国劇場、全国の劇場での公演へと漕ぎ着けたのだ。

 そこにこのコロナ禍である。五月に、当初予定されていた六四公演を休止したのは苦渋の決断だった。

 緊急事態宣言が明け、公演再開を模索するにあたり、もちろん帝国劇場でもミュージカルでの本編上演を目指した。しかし、依然残るコロナの影響を考慮する必要があり、演出家として東宝演劇部と話し合った。コンサートヴァージョンであれば、舞台上での俳優の身体の接触を避けることができる。そして、大切なお客様の安全を確保しつつ、作品のクオリティを高水準で保って上演することもできる。また、演劇界全体のために、劇場を開けて公演を再開することが必要だと考えた。当然のことだが、劇場が稼働すれば俳優、スタッフはギャランティを得ることができる。演劇活動、並びに文化活動の再スタートは人々の希望にもなると思った。それはカンパニーのメンバーも共有する思いだった。

変化への戸惑いと、一歩ずつ進む決意

 六月中旬からこのコンサートヴァージョンの稽古を始めたのだが、緊急事態宣言の解除後も感染者の確認が続き、我々も日々、乗り越えるべき課題と直面することになった。

 例えば、今までこの作品で行ってきた稽古は、制作、俳優、スタッフ、ミュージシャン、芸能マネージメント関係者まで五〇人以上の大所帯で動いていた。しかしこの状況下、大人数で稽古することができない。また長時間稽古することの感染リスクもあるので、一日の稽古時間が限られている。しかし、それでも対策は立てられる。少人数での稽古を繰り返し、共有していけば、大人数での稽古の回数を少なくできることを学んだ。衣裳・メイクチームも俳優との距離の取り方に新しいルール、ガイドラインをつくった。販売、宣伝部は、何割のお客様に着席していただくことができるか試行錯誤を続けた。そして今回の公演中は、休憩もグッズの販売も控えることを決定した。

 今までの演劇の稽古の仕方や捉え方を全ての面で変えざるを得ないことに、はじめは戸惑いもあったが、皆で意思を統一し、協力すれば乗り越えられないことはないのだと思った。そしてやはり、仕事ができる喜び、お客様と出会える楽しさは何にも代え難い幸せだと再確認できた。

 上演までの長い道のりを一歩一歩進んでいく決意は、スタッフ全員に一体感をもたらし、無事に初日を迎え公演を続けるために、皆強い危機意識と緊張感を持続している。

お客様とこの瞬間を共有する

 ミュージカル『ジャージー・ボーイズ』がお客様に愛された理由は多々あるが、一番の理由はそのメッセージ性だと思っている。それはこの作品のラストシーンの「Who Loves You」という曲に集約されている。訳詞は、「誰より愛をくれる人は誰?」となる。

 ザ・フォー・シーズンズは人々に愛され、一度は空中分解してしまうも、二〇年の時を経てロックンロールの殿堂入りを果たす。最後にオリジナルメンバーが再会し、コンサートを行い、歌って終幕を迎える。その時、中心メンバーのフランキー・ヴァリは「どんな状況にあっても、僕は家に辿り着こうとして今も変わらず音楽を奏で、歌を歌い続ける。あのグループを結成した瞬間を想い続けて」と観客に語りかける。まさに劇場讃歌、彼のホームは音楽であり、お客様とこの瞬間を共有することなのだという愛のメッセージである。この想いは私たちも一緒だ。ミュージカルや演劇の中で懸命に紡ぐ物語をぜひ御覧いただきたい。

生活者のための芸術として

 今、コロナに想う。二十代で蜷川幸雄さんに師事し、演劇を志してからおよそ一七年が経った。俳優、演出助手、演出と立場が変わる中で、劇場は私のホーム、稽古場は私の日常の仕事場だった。

 しかしこの数ヵ月、ホームにいることが叶わなくなってしまった。二月二十八日以降、『絢爛豪華 祝祭音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」』一一公演、梅田芸術劇場製作ミュージカル『ヴァイオレット』二九公演、そしてミュージカル『ジャージー・ボーイズ』六四公演の、計三演目・一〇四公演が休止となった。これは休止であって中止ではない、一〇四公演分の愛情を作品に注いで、いつの日か必ず上演をしたいと思っている。

 今、師匠である蜷川さんの言葉を思い出している。二〇一二年に上演された『トロイアの女たち』の稽古場でのことだ。この作品には日本人、イスラエルのユダヤ系、アラブ系俳優が出演していた。そして日本での稽古中、イスラエルとパレスチナで紛争が激しくなったという緊急ニュースが入る。蜷川さんはその日の稽古を即座に中止した。そして、俳優に家族と連絡を取るように促し、「俺たちがやっているのは、たかが演劇だから」と言った。つまり、演劇は生活から離れた高尚で特別なものではなく、生活者による、生活者のための芸術である。蜷川さんは、そう考えていたのではないだろうか。あの時の言葉は時を超え、冷静な目で世界を見据えることの大切さを私に教えてくれる。

 たくさんの演劇関係者、仲間たちがこの自粛の間、基金を立ち上げるなどして新しい演劇のかたちをつくり、新たなお客様との出会いを求め、努力してきた。もちろん私も強くその動きに賛同している。お客様がいて演劇は初めて産声を上げる。さまざまな価値観を持つ人々が共通の体験をする演劇の魅力、劇場の在り方に対して、この事態の中だからこそ私は強く惹かれ続けている。自粛期間中、たくさんのお客様から激励の手紙、熱いメッセージをいただいた。この場をお借りして御礼を申し上げ、懸命にその声に応えていきたいと決意を新たにしている。私だけではなく、皆にとってのホームである劇場の扉が閉じることなく、開き続けることを祈るとともに、私は演出家として豊かな作品の火を灯し続ける努力をしようと思う。

 

〔『中央公論』2020年8月号より〕

前のめりの専門家とたじろぐ政治

| コメント(0)

 (『中央公論』2020年8月号掲載記事より後半部分を抜粋)

分裂の中、たじろぐ政治

「前のめり」の感染症専門家と、これを取り囲むように、多様な分野の専門家が参戦し、大立ち回りとなった新型コロナ対策、という状況は、日本だけに限らない。当初集団免疫を唱えてごうごうたる非難の結果、方針を転換したイギリスや、集団免疫の方針を続けた結果、周辺諸国と比べて死亡率が高くなったスウェーデンはもちろんのこと、比較的感染の抑え込みに成功したドイツですら、専門家への不満は高まっている模様である。どの国も自国の政策を守るために異なる政策をとる他国を非難する傾向にあり、そうしたもろもろの非難が、各国の国内での不満に火をつけている面もあるようにすら見える。

 日本の場合は、元来専門家の登用に消極的であった第二次以降の安倍内閣の欠点が赤裸々となった。首相の記者会見でのパフォーマンスの低さは、国会審議で自分の言葉と言えばヤジを言うにとどまり、弁舌に磨きをかけてこなかったこれまでの実績が素直に反映されたに過ぎない。

 さらに、官僚への人事権をテコに各省を統制していた菅義偉官房長官を一連の決定から事実上排除し、西村経済再生担当大臣を新型コロナ担当大臣にしたことで、政府全体として各省へのコントロールは低下した。内閣府特命担当大臣には、各省大臣と比べて圧倒的に少ないスタッフしかおらず、その発言権は過去の例を見ても、そうは高くはならないからである。

 しかも、当初アドバイザリーボードを設けた加藤厚労大臣と政府内の医療専門家である医系技官の役割がかすんでいる。加藤大臣は、本来ならば尾身会長に代わって、自ら国民に対して説明するにふさわしい立場であるが、どうみても影が薄い。また専門家会議の事務局は、実質、厚労省の医系技官たちがかなりの程度コントロールしているし、末端の保健所の強化や特効薬・ワクチンの早期承認などは、その重要な職務である。にもかかわらず、西村大臣と尾身会長が前面に出れば出るほど、後景に退いた厚労省の役割は見えにくくなっている。

 こうして、「安倍一強」のもと、強いチーム組織として安倍首相を支えた政権は、分裂の様相を強めている。誰もが責任を担いきれず、厳しい事態にたじろいでいる。首相の言葉が弱々しく聞こえたり、「まさに」、「歯を食いしばって」、「守り抜く」といった決まり文句が耳障りなほど繰り返されたりするのは、首相を支えるスタッフがやせ細り、政策アイディアの出所が払底しているからである。

 その帰結の一つは、官僚が、森友・加計学園問題のようには「忖度」しなくなることである。黒川検事長辞任の際には、処分は訓告にとどまったが、法務省側はより重い戒告を主張し、官邸が訓告にとどめたとのリークがあった。出所はどうみても法務省である。また安倍首相が感染抑え込みの秘策として記者会見でも認可を前倒しにすると強調したアビガンは厚労省が後ろ向きのままである。承認申請する製薬会社は登場していない。もはや官邸が無理筋な方針を各省に投げかけても、そのまま各省が協力するといった状況ではなくなっている。

現場発の対策が出発点

 今後第二波の到来が予想される中、これまでのスタイルでは、到底対応できないであろう。感染の広がりが収まりつつある現在、政権の最大の課題は、専門家とどのようにこれからの政策形成で協力できるかである。

 一つ目は、感染症専門家についてである。政治は状況に対してたじろぎ、感染症専門家は「前のめり」であった。それを改めて、政治の責任範囲を明らかにし、専門家は分析と評価に徹するよう役割の分担が必要である。六月二十四日、西村大臣は専門家会議を「廃止」すると述べたが、今後どのような体制がとられるのかは注視すべきである。

 二つ目は、感染拡大が落ち着いた現在、一層必要なのは、感染症対策とそのほかの専門分野との調整である。経済との調整が第一義的には重要であり、すでに感染症専門家の要望に応える形で諮問委員会には四名の経済学者が委員となっている。

 とは言っても感染症専門家と比べて経済関係の委員の数はきわめて少ない。また経済の専門家の意見と、感染症専門家の意見とは、本質的に接点が薄く、一本化は難しい。異なる複数の意見を一つにまとめることこそ政治の役割であり、厚労大臣と経済再生担当大臣とがそれぞれを助言する専門家の意見を受けて議論して、決定すべきものである。しかし、西村大臣と加藤厚労大臣とが安倍首相を前にそうした大臣政治を繰り広げるようなスタイルを、現政権はとってこなかった。すべてが首相周辺で集中決済することで、これまでの七年間を乗り切ってきたのである。

 しかも、教育が典型だが、授業方法、学校生活、入試実施方法など、問題が山積である。地域事情も加わるとすれば、感染者が発生しやすい都市部と、都市部から持ち込まれなければ従来通りの生活を送れるであろう地方部では、それぞれ対応が異なってくるはずである。日常生活全般について、「新しい生活様式」という専門家会議が打ち出した三密回避のためのルールを、それぞれの場面でどう活かすかが問われている。

 まず内閣の中での責任分担をもう一度考え直すべきであろう。首相と側近による政策決定はもはや機能しない。まずは官房長官の政府部内全体を調整する役割を再確認する必要がある。チーム組織としての政権の再建はやはり必要であろう。

 そして、厚労大臣・文部科学大臣など大臣の役割をもう一度見直すべきである。内閣の基本原則は、各省の所管に全責任を持つ大臣が主体的に行動することである。現政権は、麻生財務相と、安倍首相側近の数名の大臣以外は、ほとんど機能せず、官邸が処理してきた。それが可能だったのは、政権が、時期を区切って安保法制、トランプ大統領対策、地方創生、一億総活躍など、特定の政策に関心を集中し、政策革新を図ってきたからである。しかし、新型コロナ対策では、数年かけて全大臣が所管を見直し、慎重かつ果断に問題を処理する必要がある。「官邸案件」に特化した政策形成では到底対処できないのである。この点は、新型コロナ対策が終息しないうちに政権が代わったときにこそ、さらに重要になるであろう。

 三つ目として、問題が長引き、多岐にわたるとすれば、もう一度それぞれの専門家がその枠を超えて地道に討議を繰り返すことがどうしても必要である。これまでは感染者激増と医療崩壊を恐れるあまり、識者の関心が国の中枢での決定に集中しすぎていたのではないだろうか。むしろ、個々の現場での地道な対処策について意見交換を進めるならば、建設的な討議が可能になるであろう。いくつもの手立てで日常生活の質を大きく落とさないような「多重防御」のしかけを仕込んでおけば、突然の感染爆発やロックダウンを防ぐこともできるであろう。

 最後は政治が責任をとることが納得され、前向きにこれまでの施策を振り返り、アフターコロナの可能性を探る。そういう体制に向けて、政治も、もろもろの分野の専門家も、そして市民も腰を上げるときである。

 

 新型コロナウイルスへの対応で、都道府県知事のリーダーシップが注目を集めた。ビジネスを通じて地方創生に携わってきた冨山氏に、地方リーダーのあり方について見解を伺った。

一〇〇年に一度 不確実期の到来

 今、世界を襲っている新型コロナウイルス感染症は、一〇〇年に一度の災難、時代の転換点とさえいえるだろう。この災難を乗り越えるには、有事のリーダーが必要である。

 一〇年に一度ぐらい、事前にほとんど予想できず、起きた時の衝撃が大きい"ブラックスワン"と呼ばれる先が見えない状況が生まれる。今は人類史の中でも、極めて不確実で変動幅が大きい時代に振れている。過去を振り返っても、人類の歴史は結構な振幅があった。すなわち、平時であることを前提に改善改良を進められる時代と、昨今のように不連続の変化が起きる有事の時代だ。今はビジネスにおいても政治においても、二十世紀初頭以来、約一〇〇年から一二〇年ぶりに世界が極めて不確実、不安定なモードに入っている。

 平時においてリーダーが問われることは、調整能力やコンセンサス形成力、ボトムアップな意思決定をどう丁寧につくりあげるかだ。だから「Nice person is nice」、いい人がいい。だが、変動モードに入ると、相当困難な意思決定を、不確実な状況の中で連続的に行わなければならない。当然それはうまくいくものもあればうまくいかないものもある。うまくいかなければピンチに陥り、そこから復活するためには、かなり強靭なリーダーが求められる。それは中央政府も地方政府も同じだろう。

 リーダーの時代だということを社会全体が自覚すること。ある意味で強いリーダーが必要だし、強いリーダーが暴走した時にはその首を取るガバナンスも大事なのである。

昭和モデルから自由な若い知事たち

 時代の変わり目には、古き時代の保守本流的な育ち方をしてきたタイプの人材は、残念ながら役に立たない。よく言う「若者、よそ者、馬鹿者」にリーダーの座を譲っていくべきである。振り返れば、明治維新や第二次大戦後もそうなったわけだから、六〇~七〇年ぶりにそういう時代が到来しているということだ。

 私は、中央においては大企業が問題だが、地方においては社会全体が古くなってしまっていることが問題だと思っている。政治も企業も世代交代が遅れ、また、封建社会的な秩序が沢山残っているので、そこに別れを告げる必要がある。

 今回のコロナ対応で頑張ったのは大体若い知事だ。さらに北海道の鈴木直道知事はよそ者である。彼らはきっと意識的に「改革、改革」と連呼しているわけではなく、彼らが育ってきた環境や常識に基づいて、普通に考えたらこうだろう、ということに取り組んでいるようにしか見えない。改革のための改革ではなくて、合理的に考えて実行しているに過ぎないのであろう。

 若い世代の良いところは、古い「昭和」の仕組みを経験していないことである。例えば、工場誘致してうまくいったことを実感として経験していないし、昭和の歌謡曲をもう一度、ともならない。成功体験がないことはむしろアドバンテージなのだ。

 残念ながら今の七十歳以上、そして私たち六十代前後以上は、昭和の成功の記憶がある。例えて言えば、武士道を残して皆が剣術を練習すれば、私たちはイギリスやアメリカには負けないんだという思考に陥ってしまっているようなものだ。しかし、当時の成功モデルはもはや通用しない。いくら武士道の王道に戻ったとしても、彼らが持ち込んでくる大砲には勝てないのだ。だから時代が変わった以上は、古き良きものに対する情緒的なノスタルジーを持つ世代にはお引き取りいただいた方がいい。現に、今の若い世代は〝馬鹿〟ではないから、元々日本の社会に存在している伝統や技法の中で使えるものは使っている。古老たちが言う「伝統が全く失われてしまった」という見方は幻想だ。

(中 略)

地域間格差をどう考える?

 今回、コロナ対応をめぐって首長の力量差が顕在化した。そもそも優秀な人は少ないから、差がつくのは当然で、たまたまいい首長を選んでいた所─私の故郷・和歌山県の仁坂吉伸知事もとても活躍していた─は良かった。残念な地域もあったが、それを首長の責任にするのも酷であろう。むしろ今の日本社会の構造や教育システムの中では、優秀なリーダーが現れる方が稀である。漫然としていると、最も凡庸なサラリーマンが偉くなってしまう構造は、地方社会も全く同じだ。バランスが取れて人付き合いが良くて敵がいなくて、お友達としてはとてもいい人、あるいは、名家・名門の出身者が選ばれてしまう。平時ならリーダーの決断はさほど重みを持たないから、このタイプが一番丸く収まる。

 危機においては、冷徹な厳しい意思決定、あるいは短期的に批判を招くような、「えっ」という言動が取れるような人物、例えば、大阪の吉村洋文知事や北海道の鈴木知事のような人物が求められる。きっと、彼らに対して怒っている人は一杯いるはず。知事のせいで仕事が増えたと思う人もいるはず。しかしコロナ禍の今、そこを慮ったり、既存の法律体系や行政の仕組みに気を遣ったりして、〝乱暴〟なことができなかった人が批判されているのが現実だ。つまり、我々市民はギリギリの有事にあって、結果を求めているのだ。

 ある種の乱暴さは空間と時間の両方で必要である。空間的にいうと、色々な立場にどれだけ気を配るかという問題。自分がイニシアティブを取ろうとすれば、組織内が賛成派と反対派に分かれてしまうし、役所との関係性に色々な不調和が起きる。あるいは法体系と衝突するかもしれない。そんな時、できるだけ〝ぶっちぎる〟方が危機を乗り切ることができる。もし、ぶっちぎらずに事なかれ主義で対応すれば責任は問われず、「私は精一杯やりました」で許されてしまうかもしれない。しかし、歴史の審判はそれを許さないだろう。

 時間軸でいうと、先例や既存の法体系、過去の政省令や通達と違うことを進めるのはかなり大変である。日本では行政も経営も、過去との整合性を取ることに大きなエネルギーを費やす。今回でいえば国と地方の関係性や、権限の問題がボトルネックになっている。アメリカで大統領令を出したり、議会であっという間に法案を成立させたりできる理由は、全く過去を気にせず、「後法は前法に優先する」という大原則で事を運ぶからだ。また、「特別法が一般法に優先する」という思想も背景にある。トランプはそれを過度に行うがゆえに批判されているが、どこまでぶっちぎれるかでリーダーの資質が決まる。リスクを取れば一〇回に二回や三回は手痛い失敗をする。それは通常のサラリーマンとしては致命的だろう。リスクテイカーは危険思想の持ち主だとみなされ嫌われがちだが、今求められているのはこのタイプだ。その意味でも今回、災い転じて転換点になるといい。

地方創生のために取り組んでいること

 最後に改めて、コロナ後の地方を展望しながら、地方リーダーについての私の考えをまとめておこう。

 飲食や理髪、宿泊などのローカルなサービス産業は元々、人間が生きていく上での根幹に関わっている。顧客が求めるものの一つが移動性だとした時、その需要には以前から地方のバス・タクシー会社が応じていた。ローカル産業はグローバル産業と異なり、顧客は少ないが敵も少なく、大きなイノベーションに飲み込まれる可能性も低い。地道な努力とデジタルテクノロジーを組み合わせれば、むしろローカル産業の方が伸びしろは大きいのだ。

 課題は、コロナショックを契機に、ローカル経済圏で賃金水準・質の高い雇用を生み出せるかどうかで、この点は政策的にも注力していくべきである。東京のオフィスに一時間以上かけて通勤するよりも、三〇分以内で職場に通えて、飲み屋が夜九時で閉店する地方の方が生産性は高くなる。つまり、地方移住は、時間的にも豊かになり、高い住居費からも解放されて経済的にも豊かになるのである。

 私たちは和歌山県白浜町での空港の民営化を中心とした地域の再活性化に取り組んでいる。空港の利便性、東京からのアクセスの良さを梃子にした二拠点居住の一つであるワーケーション(働きながら休暇を取ること)オフィス展開はコロナショック前から既に大きく進んでいる。空港での顔認証登録による地域キャッシュレス化も進めてきた。コロナショックを受けて、間違いなくさらに加速する動きだと思う。ただ、この展開も県営空港初の民営化、コンセッション(所有権は公的機関、運営権は民間事業者)を決断した仁坂知事や誠白浜町長のリーダーシップ、そして地域の経済界のリーダーたちがこうした新しい取り組みを本気で応援してくれるから可能になっている。

 時代の変化に対する適応力を持ったリーダーがいる地域は幸いである。むしろリーダーの実力差や地域間格差が広がるのは歓迎すべきだと私は考えている。なぜなら、格差が顕在化することで地域が危機感を覚え目覚めないと、地方創生はありえないからだ。国もボトムアップではなく、本当に正しく頑張って成果を出しているところをもっと応援するプルアップのアプローチをこれから強化すべきである。

 

〔『中央公論』2020年8月号より抜粋〕

アイディアが閃き合う関係

─主人公を務めるふたりの女性たちが魅力的です。「俺」「お前」と呼び合う美人コミックス作家の川村リリカと、編集者の野崎百合子。

 いまはもうない雑誌の『IN THE CITY』に書いた「きみはミステリーだよ」が原型です。それから二年半、中央公論新社の『アンデル』に連載し、最後の「雨のコカコーラ」はこの本のための書き下ろしです。初めは1+1=2だったのですが、おたがいにアイディアが閃き合う関係になると、1×1になり、数式の解答は1ですけど、実際にはふくれあがり充実したものになります。

 

─ふたりの会話から作品が生まれていきますね。

 会話とはアイディアの提供のことです。会話が続けばアイディアは閃き合い、ついさっきまではそこになかったものが、生まれます。その面白さや楽しさについて考えていると、作品はいくらでも書けます。

 

─ふたりともしばしば裸になりますね。その裸が美しくて。

 裸になるだけでそこにストーリーが生まれる、という設定です。リリカが描くコミックスには、魅力的な裸の女性が登場します。多くの場合、その裸は自分自身です。絵に描く世界のなかの裸が、現実の裸と重なり合うのです。絵を描く女性だからこそです。しかもその絵は、気楽に描いたものであり、きわめて巧みでもあります。コミックス作家、という設定をすると、裸は避けてとおれないでしょう。

題名から物語を作る

─団塊の世代や女性蔑視に対する厳しい台詞など、社会批判的な要素も印象的でした。作中の小説では、母親を貶める父親の言葉に、娘が「父は私をも侮辱している」と憤ります。女性を書く際に、意識していらっしゃることはありますか。

 百合子の母親は舞台女優で多忙である、という設定です。リリカは両親が離婚します。リリカをひとりにするための離婚だったのですが、両親の離婚をとおして、学ぶことはたくさんあることを、まず書き手である僕が発見する面白さがあります。一〇年でどれだけ変化するか、この先の彼女たちを書いてみたいです。

 

─「ストーリーに半分はないんだよ。出来るなら全部できる」「題名を作るとは、ストーリーを作る、ということでもあるんだ」という台詞があります。片岡作品の秘密に触れた気がします。

 物語が出来たときにはすでに題名も出来ている、ということかな。題名から物語を作ることはよくあります。黒いニットのタイ、という題名で短編小説を考えているところです。レモネードとあさりの貝殻、という題名ももらいました。友人たちがふとくれるのです。

 

─万年筆やノートブックへの言及もたくさんありますね。

 アイディアは書きとめておく必要があります。どんなものに、なにで書くのか。ノートブックに万年筆は、自分にとっての理想ですね。いろんな紙に書いて、どこかへいってしまう、という現実が自分のものですから、理想的な状況を作品のなかで作ります。

 

─今後の予定はいかがでしょう。

 このまま続けていくだけです。あれをやらなければ、そしてこれとこれも、という日々です。

 

(『中央公論』2020年8月号より)

評者:渡辺佑基(海洋生物学者)

 日本人の祖先はいつ、どのように大陸から日本列島に渡ってきたのだろう。

 

 海面が下がって大陸と日本列島が陸続きだった氷河期に、獣皮を身に纏い、石槍を手にした「原始人」が、鹿や熊などの獲物を追って渡ってきた─こんなイメージを持ってはいないだろうか。恥ずかしながら、私はそうだった。

 

 そうではない、と本書は説明する。日本各地に残る遺跡の調査から、人類が日本列島にやってきたのは、今から約三万八○○○年前だと推定されている。なるほど当時は氷河期であり、地球上の多くの水が氷になっていたため、海面が今より八〇メートルも低かった。けれども日本列島周辺の海は深いので、それだけ海面が下がっても、大陸とは繋がらない。サハリン島を介して大陸と陸続きだった北海道を別にすれば、日本列島の大部分は今と同じように海に囲まれていたのである。

 

 だとすれば、主な移動手段は舟である。野蛮な「原始人」のイメージとは異なり、当時の人類は、舟を作って操る技術、それに広大な海の上で方角や距離を推しはかる知恵を身に付け、大陸から日本列島に渡ってきたのだ。それだけでなく、琉球列島などの小さな島々にも、たちまち移住を果たした。

 

 ここまでで、既に面白い。だが本書の本領発揮はこれからである。原始の日本人がどんなふうに、どれほどの危険を冒し、何を考えながら海を渡ったのかを突き止めるため、著者は驚きの大プロジェクトを立ち上げる。すなわち、三万年前と同じ舟を作り、同じ人力、同じ装備で、同じルートを渡ってみようというものだ。複数の候補ルートの中から、台湾から琉球列島の西端に位置する与那国島に渡るルートを選定する。

 

 私に言わせてもらえれば、このプロジェクトはほとんどクレイジーだ。台湾の東側には、黒潮という世界有数の海流が北上していて、その激しさといったら、現代のエンジン付き船舶でも自由に動けないほどだ。漁船でもタンカーでも遊覧船でも、ちょっと油断するとたちまち何十キロも北に流される、そういう海域なのだ。あまつさえ与那国島は小さく、台湾からは視認できない。地図もコンパスも時計すら使わずに、どうやって大海に浮かぶ豆粒のような島を見つけるというのか。「先生、無理だからやめましょう」と進言したくなる。

 

 でも著者は突き進む。当時の人類が使った可能性のある三つのタイプの舟(それぞれ材料が草、竹、木)を全部作ってみて、実験航海をし、使用可能かどうかを検討する。その際に使う工具なども、できるだけ忠実に再現する。「先生、そのくらいにしましょうよ......」と進言したくなるが(実際に進言した人はいるかもしれないが)、著者は猛烈に突き進む。著者は何事も頭でなく、体で理解しようとする稀有なタイプの科学者なのだ。 

 

 そうして完成した舟を台湾に運び、漕ぎ手を集め、ナビゲーションの訓練をして、いよいよ前人未到の(というか三万年ぶりの)アドベンチャーを敢行する。

 

 本書を読み終えた後、これはどういうカテゴリーの本なのだろうと私は思った。科学書にしては体を張り過ぎているし、冒険書にしては知的好奇心がくすぐられ過ぎる。敢えて言うならば、本書は従来の型にはまらない「海洋ロマン考古学冒険書」だ。

 

〔『中央公論』2020年8月号より〕

=======================================================================

◆海部陽介〔かいふようすけ〕

一九六九年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。クラウドファンディングを成功させ、最初の日本列島人の大航海を再現する「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(二〇一六~一九年)を実行した。著書に『日本人はどこから来たのか?』(古代歴史文化賞)など。

【座談会】岩本 悠×中室牧子×牧島かれん×司会:今村久美

 例年なら夏休み目前のこの時期だが、多くの学校ではコロナ禍の長い休校期間を埋め合わせるため、休みが短縮される。この状況をプラスに転じていくためには、何が必要なのか? 教育界のトップランナーと国会議員による討論をお届けする。

自ら動けた学校は何が違うのか?

今村》新型コロナウイルス感染拡大(以下、コロナ)による学校の長期休校によって、教育のさまざまな課題が露わになってきました。

 前提として共有したいのは、日本の教育界にとって二〇二〇年度は大切なタイミングであるということです。小学校は新学習指導要領になり、教員が何を教えるかではなく、何ができるようになるか、試行錯誤が始まりました。もう一つはGIGAスクール構想。これは全国の小中学生に一人一台のパソコンの導入をめざすもの。懐疑的な学校もある一方で、リーダーシップを発揮する自治体や校長先生もいます。

 このような節目に、コロナ禍で想定外のスタートになりました。休校期間中に日本の教育は何を問われ、何が見えてきたのでしょうか。

岩本》今回のコロナによって、これからのVUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性が高い状態)の時代を幸せに生きていくために本当に必要な資質能力は何か、が問われたのだと思います。

 全国の学校関係者から話を聞かせてもらいましたが、「ICT(情報通信技術)が揃っていないから」とか、「ルールがこうなっているからできない」とか、思考停止や行動停止に陥ってしまった学校があった一方で、いま何ができるのかと自ら考え、判断し、試行錯誤や創意工夫をしていた学校もありました。

 島根県隠岐諸島の海士町にある県立隠岐島前高校でもICTなどが揃っているわけではありませんが、できることにどんどん取り組んでいきました。この高校は全国から生徒を募集しているのですが、例えば、東京や大阪などに実家のある子たちが島に戻ってこられるように、宿を借り切ってオンラインで学べるようにして受け入れました。食事は地域の方が作って届けるなど、一体になって生活や学びを保証した。

 ICT環境があるかどうかだけでなく、普段から教員や生徒がどれだけ「探究」をしてきたかが重要で、それが培われていたところは自ら考えて動き、そうでないところは止まってしまった。つまり、教育の現場に「探究の土壌」があったかどうかが浮き彫りになったと思います。

 

牧島》地方創生の大臣政務官だった二〇一六年四月に、地方創生のモデル地区として海士町にうかがいました。その折、全国から隠岐島前高校に「留学」してきた生徒から、「やってみたいことがたくさん見つかり、将来の夢が広がりすぎて困っている」という贅沢な話を聞きました。

 海士町は地理、産業、教育面などハンディがありますが、地域のみなさんが結束することでそれを乗り越え、挑戦していく力に変えていったのではないか。課題先進地域だからこそできることがある、発想の転換で大きな夢に繋がると教えてくれた地域でした。その姿は、コロナ後の社会にも共通すると思います。

 

今村》私たちカタリバでは、東日本大震災以降、宮城県女川町、岩手県大槌町などで教育活動を続けていますが、当初は「学校教育の場に外部から教員免許を持っていない人たちが入ってきて何をするのだ」と、協力関係が全く作れませんでした。

 しかし、この十年で私たちも含め、地域の人々が学校に参加するのが日常になりました。今回もPC購入やワイファイ設備の費用を寄付で集めるなど、不足しているものは地域との関係の中ですぐに揃えられました。

 地域の環境の差はありますが、一番重要なことは平時から学校と地域に連携があり、人との協力関係が築けていることだと実感しました。それがあれば、何かが起こっても、子供たちの学びを止めないために必要なものを調達できると思います。

休校中に広がった「格差」

牧島》私の地元には、人口一九万人規模の市から、一万を切り過疎認定をされている町まであります。当初は、コロナ禍の中で小さな市や町が子供たちの家庭学習をフォローできるだろうかと不安でしたが、結果的には、小さな町のほうがうまく機能していました。一学年一桁しか生徒がいない小学校は、普段から学校と地域、先生と生徒の距離が近いので、一人ひとりの子供たちの様子をきめ細かに確認し、学習をサポートする環境ができていました。

 

岩本》私も、全国的に見て小さな地域や学校の方が、逆に迅速でいい取り組みをしていたところが多かったように感じます。機動性や柔軟性、個別対応力など小さい学校の強みを改めて見直すべきだと思います。

 

今村》学校が果たしてきた機能には、学習機能の他に二つあったことを実感しました。一つは、学校に毎日通うことで健康管理の役割を果たしていたということ。給食を通じて、福祉が行き届いていたのだと思います。もう一つは、安全・安心に人と繋がることを学校が保証してきたということ。この二つの上に、学習という機能が成り立つのだと感じています。

 例えば、「にんしんSOS東京」というNPOでは、若年妊娠の相談が前年度の一・六倍に増えていると聞いています。LINE相談の「小さないのちのドア」も昨年比で三~四倍の相談件数があるそうです。子供たちが誰かとの繋がりを求めた先に、リスクのある繋がりに出会ってしまう事態が起きている。子供たちの心身への影響が、よく見えていないところが怖いです。

 

中室》英国の独立調査機関である財政研究所が、四月下旬から五月上旬までの間に約四〇〇〇人の保護者を対象に実施した調査によると、この休校期間中に、小中学生は一日あたり平均五時間の家庭学習をしているが、保護者の経済状況によって、学校から得られた支援の質・量に格差があったそうです。高収入の家庭の子供が通っている学校の六四%は、休校期間中にオンラインによる家庭学習支援を行っているのに対し、低収入の家庭の子供が通う学校では四七%しか同様の支援を行えていません。私立か公立かという差もあるでしょうが、高収入の家庭の子供が多い学校では、家庭にPCやワイファイがあることを前提にオンラインでの授業を開始できたということもあるでしょう。海外で行われた速報的な調査・研究の結果は一貫して、保護者の経済状況による教育格差が拡大したことを示しています。英国のシンクタンクの推計によれば、この臨時休校がもたらした教育格差は、二〇一一年からの一〇年間に英国国内で拡大した格差よりも遥かに大きいそうです。日本でも同様のことが生じている可能性が高く、学校再開後に、どのように格差を縮小する政策を行うかが重要だと思います。

「詰め込みが辛い」を超えて

岩本》学校が再開したことで、学習の遅れを取り戻そうと土曜授業や夏休みの短縮などで、ともかく教科の内容を終わらせようという学校が多いのも気がかりです。保護者や教員に懸念があるために、詰め込み授業になっている学校が多い。そうした中で、子供たちには疲れがたまってきている。

 この状態が夏も続くと、心身の健康に支障をきたしたり、学習についていけない子供たちが取り残されていったりして、「格差」がさらに広がる恐れがある。そこに教員の目が行き届かなくなるリスクが、夏から秋にかけて起こりうるのではないか。

 こうした中で大切だと思うことが二つあります。一つは、新しい学びの様式を取り入れていくことです。新しい学習様式に取り組む学校の多くは、臨時休校の中で学校や子供たちは何ができて、何ができなかったのかということを真摯に振り返り、その上でこれからの学校や学びのあり方を考え動き始めています。

 もう一つは、第二波のリスクへの備えです。企業に緊急事態における「事業継続計画」があるように、教育や学びの継続計画をしっかりと考え準備していくこと。休校になれば教員が子供たちを常時見守りながら指示や指導をすることはできません。子供たち自身がICTなども活用しながら、より主体的に学びのPDCAサイクルをまわせるようにしていく必要があります。その状態をめざして日常の教育様式を変えていく。それができれば、たとえ第二波が来なくても、卒業後も学び続ける子供たちや若者を育てるという、教育の大きな目的に適うと思います。

 

中室》夏休み短縮、土曜補講、平日の授業時間延長など、詰め込みへの懸念は、私にも聞こえてきます。その気持ちは理解できますが、一方で、どうして多くの人が詰め込み授業を辛いと捉えるのかについても、この際よく考えねばなりません。学びを「詰め込み」と呼び、多くの人が辛いと感じるような状況こそ、ポストコロナに変えていかねばならないことなのではないでしょうか。私自身は、大学で教鞭を執っている経験から、高校までの教育でもっとプロジェクトベースの探求学習の比重を高めれば、教科学習の意義を見出すことにも繋がり、意欲的にそれに取り組むことができるようになるのではないかと考えています。

 

牧島》おっしゃるとおりです。従来の学習スタイルのまま授業が再開されると、教科書の最後のページまでいくことばかりに頭がいってしまいますが、「それが学校に求められている機能なのか」を確認していかなければなりません。

 みんなで力を合わせ、一つの目的に向かって文化祭や体育祭を成し遂げていく達成感を子供たちが感じられるようにすることや、探究型の学習を進めていくことにむしろ力を入れていかなければならないと、私も考えています。

 自民党の国会議員で教育について勉強会を行っているのですが、「学習指導要領の指導内容をなぞる履修主義から修得主義へと転換していかなければならないこと」や、「一人ひとりの子供たちの個別最適化、つまりどこまで伸びたか、どこに課題があるのかを丁寧に見ていくことが必要である」などの意見が出ました。そのためには、中室先生が関わっている「埼玉県学力・学習状況調査」をはじめとしたデータ分析に力を入れなければなりません。

 もう一つは、第二波、第三波によって、再度オンライン授業に取り組まなければならなくなる可能性がありますが、ただ動画を作って流せばいいということではありません。先生にはこれまでにないチャレンジになりますが、オンライン学習における授業のマネジメントスキルについても研究していただかなければならないと思います。

(中 略)

教員の意欲を搔き立てるために

岩本》コロナの混乱の中で改めて感動したのは、教員の子供に対する思いの強さです。子供のため、教育のためという責任感や使命感は本当に強い。さらに、学びに対しての潜在的な意欲も高い。教員は本来、学ぶことが好きな方が多く、学べる環境や刺激のある環境であればどんどん学び、すごい勢いで吸収する。子供に負けない勢いで成長する教員の姿を何度も目にしました。

 ただ、今の働き方や閉鎖的な仕組みの中では、教員が本来持っている成長意欲や学習能力が充分に発揮できません。教員の潜在能力を発揮できるような環境や働き方に改善するとともに、ICTなども含めて「これが子供たちの幸せにとって大事だ」ということが見えれば、教員はすごいエネルギーを持って動き始めると思います。今回のコロナを日本の学校や教員という、「眠れる獅子」が目覚める契機にしていきたい。

 

牧島》自民党議員の勉強会では、「子供たちの生きる力をどのように育んでいくか」ということをずっと考えてきました。その環境を整える作業が家庭だけではできないことは明白であり、地域や教員との対話が重要な役割を果たします。保護者だけではなく自分のことを守って応援してくれる大人が周りにいることが、子供たちの自信になったり、夢を追い求める挑戦心への励みになったりすると思います。そうした意味でも学校の持っている機能は大切です。

 

中室》ダニエル・ピンクという著名な作家が、行動経済学研究を引用しつつ、人の「意欲」を高めるためには三つの条件が必要だと指摘しています。一つは「裁量の高さ」、二つめは「自分自身の成長」、三つめは「目標」です。子供の教育という仕事の「目標」を見失う人は少ないでしょう。であれば、教員の意欲を高めるためには、学校や教員個人の裁量を高めること、教員自身が成長できるような機会を提供することが重要だということになります。

 

今村》未熟な子供たちを家庭の偏った力だけで育てていくには、環境の差がありすぎます。教員という伴走者が、三五人から四〇人の子供たちに一人ずつ付いている学校という構造は、素晴らしい社会システムです。良き伴走者として教員に機能してほしいのに、それができなかったのがコロナによる休校でした。だからこそ、同じ轍を踏まないように、今回のことから何を学ぶべきかをきちんと議論していくことが重要だと思います。

(構成・戸矢晃一)

 

〔『中央公論』2020年8月号より抜粋〕

=======================================================================

◆岩本 悠〔いわもとゆう〕

1979年東京都生まれ。学生時代にアジア・アフリカ20ヵ国を巡った体験記を出版。印税でアフガニスタンに学校を建設。卒業後はソニーで人材育成等に従事。2007年より海士町で、隠岐島前高校を中心とする人づくり、まちづくりを実践。15年より島根県の教育と地域魅力化を推進。著書に『未来を変えた島の学校─隠岐島前発ふるさと再興への挑戦』など。

 

◆中室牧子〔なかむろまきこ〕

1975年奈良県生まれ。98年慶應義塾大学卒業。米ニューヨーク市のコロンビア大学で学ぶ(MPA、Ph.D.)。専門は、経済学の理論や手法を用いて教育を分析する「教育経済学」。日本銀行や世界銀行での実務経験がある。産業構造審議会等、政府の諮問会議で有識者委員を務める。著書『「学力」の経済学』は累計30万部のベストセラーに。

 

◆牧島かれん〔まきしまかれん〕

1976年神奈川県生まれ。国際基督教大学教養学部社会科学科卒業、米国ジョージワシントン大学ポリティカルマネージメント大学院修了(M.A.)、国際基督教大学大学院行政学研究科博士後期課程修了(Ph.D.)。元内閣府大臣政務官(地方創生・金融・防災担当)。衆議院議員立候補前は米国政治等をテーマに大学で教鞭を執る。著書に『政治は「歌」になる』。当選3回。

 

【司会】

◆今村久美〔いまむらくみ〕

1979年岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒業。2001年にNPOカタリバ設立。高校生のためのキャリア学習プログラム「カタリ場」を運営。東日本大震災以降は子どもたちに学びの場と居場所を提供。大学生など若者の参画機会の創出に力を入れる。ハタチ基金代表理事。地域・教育魅力化プラットフォーム理事。中央教育審議会委員。

バラを育てる時間を得て

 三月以降、ずっと東京・八王子のアトリエで過ごしています。

 今日は朝五時に起きました。鳥がピーピー鳴くのが聞こえて。ゴミ捨てに行って、掃除をして、庭に水をまいて、花の面倒を見る。バラを育てているんです。この僕が花を愛でるようになるとはね(笑)。以前は、歳をとって体がキツくなったら花でも育てようと思っていたんです。コロナで越境できないということは山にも行けない。それだったら、自分で緑を育てよう、と、バラの苗を買ってきました。目の前に緑があるっていうのはすごく救われますね。

 毎朝、掃除の後は丁寧にお茶を淹れます。それから軽いトレーニングで体を整えて、時間に余裕があれば裏山に登っています。こんなに家で過ごすことになるとは思いませんでした。これまで旅から旅で、花に目を向ける時間なんてなかったですよ。コロナのせいで時間を手に入れた、というところはありますね。「酒とバラの日々」です。(笑)

 緊急事態宣言中は、酒場に行けなかったので、家飲みばかり。お酒やつまみも取り寄せてね。今回の自粛で、初めて「お取り寄せ」をするようになりました。今までは、極端に言えば、全部外食でしたから。

 お取り寄せをしてみたら新発見だらけ。日本ってこんなに食文化が豊かなんだと改めて感じました。それでちょっと太っちゃったんですけど。(笑)

 たとえば、高知のウルメイワシのオイルサーディン。一本釣りのイワシが一匹丸々そのまま入っている。普通のオイルサーディンは小さいでしょう。あれとはサイズが全然違ってデカい。これがめちゃくちゃ美味しいんです。僕は高知出身ですが、僕の知らないものがまだあったんですね。

新鮮なオンラインでの再会

 テレビの「酒場放浪記」もコロナになってからは家飲み編に。僕が自宅でお取り寄せの品を肴に酒を飲みながら、前に番組で訪れた各地の酒場や蔵元の方とオンラインでやりとりをしました。

 プライベートでオンライン飲み会もやりましたよ。最初はビデオ通話が繋がらなかったり、途中で切れちゃったり。みんなも不慣れでね(笑)。もうだいぶ慣れてきました。

 オンライン飲み会は、妙に新鮮です。遠くの人間と会えるわけですから。「酒場放浪記」のスタッフたちとも何度もやりました。

 そうそう、近々、オンライン句会をやる予定です。今年の一月から『新潟日報』に俳句コーナーを持っていて、そこに投句してくれる人たちと句会をやるという企画です。このコーナーには八十五歳とか九十いくつの方がすごく斬新な句を作ってくるんですよ。そういう人たちにもぜひ参加してもらいたかったんですけど、高齢の方はオンライン参加は苦手だそうで、比較的若い人が多くなるみたいです。初めて会う人も多いので、楽しみですね。

 緊急事態宣言が解除されてから、少しずつ外に出る仕事を再開しています。「酒場放浪記」のロケにも行きました。ただ、今回は、以前のようにほかのお客さんたちと「カンパ~イ」というのはナシ。お客のいない開店前にお邪魔して撮影しました。店のなかでは距離をとって、僕以外はみんなマスクをかけて。もうしばらくは、番組も、元通りというのは難しいかもしれません。これは仕方ないですね。

 僕は年齢の割には体力はあるほうなんで、これは、根拠はないんですけど、コロナにかかっても無症状の可能性が高いんじゃないかな、と思っているんです。だから、お年寄りのやっている酒場に行って─いや、僕も年寄りなんだけど(笑)─うつしてしまってはいけないと肝に銘じています。こういう仕事をしているからこそ、気をつけなければ、と、今も一日二回は体温を測っています。自分はなんともないけれど、無症状の感染者かもしれない、ということは常に考えて行動していますね。

 風の便りに、以前「酒場放浪記」で訪れた店がコロナのせいで閉店したという話も聞きますが、そういう話を聞くのはとても寂しいですね。

八王子の自然の中で

 現在の八王子のアトリエに移ったのは去年です。普段、僕が登山のトレーニングをするのが高尾山なので、高尾山が近いところ、ということで、八王子にしました。ここは裏山を散歩して戻ってくるあいだ、ほとんど人に会わないまま過ごせる。もちろんすれ違うこともあるけど、一日ほんの数人だからソーシャルディスタンシングも完璧です。

 環境はとても重要です。昔住んでいた東陽町(東京都江東区)も近くに木場公園があって自然が豊富でした。朝まで飲んで、帰りに木場公園でお年寄りに交じってラジオ体操をしたことも(笑)。その後仕事場に戻って寝る。夕方になったらまた起きて飲みに行くという毎日でした。

 僕は俳句をやるので、季節感を大切にしたい。自然がそばにあるということで、精神的にも肉体的にも健康でいられるのかな、と思います。

 だったらいっそ軽井沢にでも移住しようか、なんて考えたことはありますが、やはり東京に軸足を置いておくことも大事かな、と。ここ八王子なら、東京の下町の延長線上に自分はいる、と感じることができます。軽井沢は......九十歳になったらね。九十歳まで生きていたらの話ですけど。(笑)

 僕にとって門前仲町のあたりが大衆酒場の原点でしょうね。その中心が魚三酒場。今も酒飲みの憧れの店なんじゃないかな。コロナの後もそういう飾り気のない、昭和の大衆酒場は残っていくはず。もちろん形は多少変わると思うけれど、昭和酒場のエッセンスは継承されていくでしょう。コロナが終息したら、全国のそんな酒場に応援に行きたいです。

「東京アラート」も解除されました。これで、都内のロケはやりやすくなるでしょうね。地方に行くのはまだちょっと難しいかもしれませんが。

 そのあたりは臨機応変というか、焦らず、状況に合わせてやっていこうと思います。基本、なるようにしかならんだろ、というところもあるのと、自分が焦って人を思いやるゆとりすらなくしてしまったら、それこそ元も子もありません。

 ニュースを見ていると、コロナのせいで、人間の本質がどんどん暴かれていくような気がします。日常では見えなかった、はらわたの如きものが、全部ひっくり返ってさらけ出されてしまった感じです。善も悪もそのまま剥き出しになっていく今の状況は、七〇年前にカミュが『ペスト』で描いた世界とそっくりです。

 だからこそ、逆に居直って、人間として俺はここで一つ成長できるぜ、みたいな生き方を選んだっていいと思うんですよ。今だからこそ、一回り大きな人間になってみろよ、と。

 コロナで、今までと違った異常な日常をみんな送っていると思いますが、それが人間の存在に強いインパクトを与えているのであれば、おおらかな気持ちを持って弱い存在─弱いというのは自分も含めてね─を愛し、精神的に大きな人間になっていけばいい、と思いますね。

やっぱり日本酒は懐が深い

 実は、今、約三〇種類のお酒を試飲して、コメントを書くという仕事をやっているところなんです。テイスティングですから飲むのは少しだけですよ。でも、何種類も味わいながら飲んでいると、「酒ってやっぱりいいよなぁ」......って、しみじみ思います。コロナのおかげで酒のうまさを再認識したというか。いつもはあちこち飛び回って、美味しいお酒はその都度飲んでいますけど、こうしてゆっくり飲むことはなかなかなかった。

 合わせるつまみを考えたりしながら飲むのは楽しいですよ。銘柄ごとに酒器を替えたりね。酒飲みの愉悦です。

 じっくり飲んでみると、これはちょっと冷やそうとか、こっちは食中酒向きだな、などその酒の個性が見えてきます。燗酒にすべき味だろうな、と思って瓶を見ると東北の蔵だったり......。囲炉裏端に腰を落ち着けて飲む味を醸し出しているんです。

 仕事とはいえ、贅沢な時間ですよね。日本酒は種類が多くて懐が深い。

 まだまだ以前のようには動けないけれど、酒がうまい、ということを改めて体感することができてよかった。もうコロナに負けてないぞ、と思います。

〔『中央公論』2020年8月号より〕

評者:かとうちあき(『野宿野郎』編集長)

 なんだかいらいらしている時、ごはんを食べたら落ち着いてきて「あれっ」ってなること、ありませんか。なんだ空腹だったからかーとか、ごはん食べたらどうでもよくなっちゃったよーって、笑っちゃう感じ。

 そんな時、食べることって大事だなって再認識するわけですが、マンガを読むのもきっといいよ。読んでいるだけでお腹が満たされたような気になるから、食をテーマにした食(料理・グルメ)マンガを読むのも、とってもいいよ。

 ってことで、最近わたしはあれこれ食マンガを読んでいたのですが、中でもぐっと心を掴まれたのが、『鬱ごはん』なのでした。

 日々を鬱々と暮らす主人公・鬱野たけしさんが、ネガティブかつ厭世的な独白を吐きながら、一人で食事をするマンガなのですが、入る店はおおむねチェーン店だし、ほとんど食事を美味しそうに食べないし、自炊をしてもだいたい失敗する......。

 食マンガは「美味しそう」「食べたい」「作りたい」って思わせてなんぼなはずなのに、ぜんぜんそう思わせてくれないところに味わいがあって、不思議と癖になるのです。

 あと食マンガには、うんちくとかレシピとか、ためになる情報が描かれることも多いけど、それもない。ないんだ! でもかわりに、自意識過剰な人間あるあるや、鬱野さんの思考の流れから繰り出されるあんまり役に立たなそうな雑学などを、知ることができたりはします(称賛)。

 あと、いいなーと思ったのが、単行本で読む場合、一冊で三年ほどの時間が経っちゃうところ。月刊誌『ヤングチャンピオン烈』(秋田書店)の連載で、現実とだいたい同じ時間軸で描かれている一話が四ページほどのマンガなので、読んでいるとすぐに季節が移ろい、新年がやってきます。

 登場時二十二歳で就職浪人だった鬱野さんも、最新の三巻では三十歳過ぎに。その間、もちろん就職はせず一人でごはんを食べつづけ、状況としては変わらない毎日を送っているんだけど、そんな生活もわりと板についてきたような......。

 鬱野さんの日常を読んでいるうちに、言葉にすると当たり前で恥ずかしいんだけど、「毎日が同じような日々の繰り返しに思えても、一日だって同じ日はないんだよなあ」とか「変わらないつもりでいても、否応なく変わってしまうこともあるんだよなあ」なんてしみじみしちゃうのでした。

 一巻には水道水から高いベクレル値の放射性ヨウ素が検出されたことを気にして白米を炊くのをやめ、食パンを網で焼こうとして黒焦げにしちゃうという東日本大震災後の東京を思い出させる話がさりげなくあるのですが、少し前の連載では、アルバイト先のネットカフェが自粛要請を受けて休業、不安を感じながら、豆苗を再生させるなんて話も。

 この話など含む、三巻後の連載は秋田書店のウェブコミック配信サイト「マンガクロス」で随時読むことができるので、三巻分(お忙しい方も一気読みできちゃう分量!)で一〇年の歳月を感じたのち、現在の鬱野さんと共に過ごす(あるいは見守る)、なんて楽しみ方もできちゃいます。

 しかし冒頭でわたしは、「読んでいるだけでお腹が満たされるような気になるから」って食マンガをおすすめしていたはずなのに、満たされとは無縁のマンガをご紹介しているとは、いったいどういうことか。

 ですが、「僕には 人生がない」なんて呟くこともありつつも、日々一人の食事に余念のない鬱野さんを見ていると、「食べていれば、とりあえずは大丈夫」なんて思わされもして、これは最強の食マンガだ~、という気もしてくるのです(こじつけ!)。

 最後に、「料理・グルメ漫画」の元祖のひとつと言われている、萩尾望都さんの『ケーキケーキケーキ』(原作・一ノ木アヤ、白泉社)の中の台詞を。

「食べるもの 食べなくて なんで生きて いられよう!」

 食べるもの食べて、しぶとく生きていきたいものですね~。

(現在、三巻まで刊行)

 

〔『中央公論』2020年8月号より〕

文・宮田裕章(慶應義塾大学教授)

 6月19日に厚生労働省から新型コロナウイルス接触確認アプリCOCOAがリリースされた。 それ以前から、新型コロナ感染対策では、さまざまな形でビッグデータが利用されてきた。 宮田氏は厚生労働省と協力してLINEで行った「新型コロナ対策のための全国調査」に携り、保健医療データベースを積極的に推進している。我々はデータと医療のあり方をどう考えればいいのだろうか。宮田氏の寄稿から一部を抜粋してお届けする。
※なお、宮田氏の寄稿の原題は「LINE調査、オンライン診療で見えてきた ビッグデータが拓く未来の医療」であり、COCOAリリース前に発表されたものです。。 COCOAについては宮田氏のnoteもご参照ください。 https://note.com/vcca/n/n6eb009b28d34

感染の全体像を掴むために

 新型コロナウイルスの感染は、緊急事態宣言の効果もあり新規発生の件数が減る傾向を示す一方、症状がない感染者も多く、今後の第二波、第三波に継続的に備えなくてはならない。実態を把握することが困難な疾患に対しては、多角的な視点から状況を把握することが、効果的な対策を打つために不可欠である。PCR検査や抗体検査を迅速に拡大することが容易ではなく、生化学的な疫学情報が十分得られない中、今見えている感染者の外側の状況を把握するために、厚生労働省と協力して、SNSサービスのLINEで行ったのが「新型コロナ対策のための全国調査」(以下「LINE調査」)である。


 私はデータサイエンスが専門の研究者として、日ごろからさまざまなプロジェクトに関わってきた。政府の専門家会議には所属していないが、この未曽有の危機に対して一人の研究者として、一人の国民として何か貢献したいという思いでこのLINE調査を企画した。


 LINEのユーザーは子供から高齢者まで八四〇〇万人にのぼる。そのすべてを対象にアンケートの協力者を募り、全国で約二五〇〇万人(第一回)、国民の五人に一人から回答を得た。通常、これだけの規模の調査を行うとなると億単位の費用を想定しなければならないが、LINEが無償で協力し、サーバーはアマゾンが無償で提供してくれたため、調査費用はゼロ円である。


 これまで四回の調査を行ったが、例えば、第一回でエリアごと、職種別の発熱者の割合を調べたところ、対人サービス業や外回りの営業の人の発熱者の割合は高く、反対にテレワークや専業主婦など家にいる人のグループは、高くないことが分かった。発熱者の割合の高いエリアであっても、後者のグループの人の発熱は少ないことから、ステイホームは特に感染拡大期において重要であることが分かった。また、第四回では緊急事態宣言の中での経済的なダメージや人々の心の痛みについて、業種ごと、従業員規模別に把握することもできた(結果は厚生労働省ホームページで発表)。


 新型コロナは人々の生活を変え、経済や社会システム全体にも大きな変革をもたらそうとしている。医師や看護師などの人材をはじめ、病床や検査態勢なども含む医療資源の不足を中心とするさまざまな課題に対し、いわゆるIoTやAIなどの技術が解決策を提供できる可能性をこのLINE調査は明らかにした。そして、まだ先の見えないコロナとの対峙の中で、こうした技術革新は間違いなく加速していくだろう。

必要な情報をフィードバック

 LINEとの協力は私が顧問を務める神奈川県から始まった。一番大切なのは、把握されている陽性患者の外側で何が起こっているかを知ること。しかし、ただデータを取るのは民主的ではない。そこで、情報を提供してもらうだけでなく、協力してくれた人に役立つ情報を提供するしくみを作った。


 この「新型コロナ対策パーソナルサポート」では、年齢や職業など簡単な質問に答えると、妊婦や高齢者、持病がある人など一人ひとりの状況に応じて、感染予防の情報や、発熱時の対応、陽性者が感染を広げないための注意点などの情報が得られる。日本感染症学会が、提供される情報が適切かどうかを監修している。心配なユーザーは無料相談を受けることもでき、さらに、その後の体調の変化を確認するメッセージが届くなど、一人ひとりの状況に応じたサポートを受けることができる。現在二五都道府県に広がり、ユーザーは三七〇万人以上に達している。


 今後の展開としては、海外との連携も考えている。現在は国ごとに封鎖することで感染拡大を抑えているが、小康状態に持ち込んだとしても、グローバル経済の必然として、人の流れはどこかで再開しなければならない。世界のどこかで感染爆発が起これば、たちまち第二波、第三波が押し寄せてくる。自国の対策だけを考えていたのでは、この難局は乗り切れない。いまや途上国でもスマートフォンの普及が進んでおり、SNSを使った感染症対策も不可能ではない。先進国が作った解決策を経済基盤の脆弱な国でも活用できるよう貢献したい。

ITで感染を抑え込む

 感染症対策を進めていく上では、現状把握のための情報をいかに集め、活用するかが極めて重要な意味をもつ。世界で感染をいち早く小康状態に持ち込んだ中国、台湾、韓国は、携帯電話のGPSを用いた位置情報の活用など、テクノロジーを使った経路追跡と封じ込め対策を行っている。日本のクラスター対策も効果的であったが、人海戦術、紙ベースで行っていたため、規模が広がった時に対応が追いつかないことが懸念された。


 しかし、GPSの利用はプライバシーに踏み込む要素がかなり大きく、個人の自由を重んじる民主主義社会では導入・運用のハードルが高い。


 韓国は有事においてはプライバシーの侵害もやむなしというスタンスで、陽性患者の位置情報まで公開している。SARSやMERSの経験から、今回のような状況を想定した法律を作っていたことが大きい。


 台湾は、陽性患者に発信器をつけて行動を厳格に管理しているが、蔡英文総統がリーダーとして、何が必要で何をやらないと抑えられないのかを常に前に出て説明した。国民に対しさまざまな情報をオープンにして説明する中で、対策への支持を取り付けている。


 国家が情報を中央管理するという形ではなく、個人を軸にしたシステムも開発されている。アップルとグーグルが共同で開発を進めているコンタクトトレーシングアプリは、スマートフォンにアプリを入れてBluetoothをオンにすれば一五分以上(濃厚接触の定義は各国により異なる)近くにいた人の履歴がお互いに残っていく。自分が新型コロナウイルス陽性だと分かった時に自分の意思でオンにすると、個人を特定せずに接触歴のある人に陽性者と接触したことが通知されるというものだ。


 しかし、コンタクトトレーシングアプリは国民の六割以上が使わないと意味がなく、三月に同様のアプリを導入したシンガポールでも二割しか普及していないところで感染拡大が起きてしまった。日本でもアップルとグーグルのコンタクトトレーシングアプリ導入の取り組みが始まっているが、決定打というような技術はまだない。GPSを利用するかどうかも含めて別の方法も常に用意しておく必要があるだろう。


 テクノロジーを使わずに感染拡大を抑え込んでいる国は今のところない。経済と生活のバランスの中でこの情報を使うけれども、これは限られた一定条件下で使う、ということを国民にしっかり説明できれば、さまざまな対策が選択肢になるはずだ。感染症対策の中で日本の民主主義のあり方も問われている。

(以下、中略)

情報は「ギブアンドシェア」

 情報を社会の共有財産と考えた場合、民主主義社会において、情報収集にあたって信頼を得るためのコミュニケーションは欠かせない。我々は、医療データを社会で共有しながら活用していく世界を目指している。その際大切なのはギブアンドテイクではなくて、ギブアンドシェア。情報を提供してもらい、それを還元しながら社会全体としての価値を実現する必要がある。ユーザーにどんなバリューを返せるかという視点は、設計の段階から大切にしなければならない。


 今後は、売れればよいとばかりに、アルコール依存症の人にアルコールを勧めるというような対応はもう許されない。貢献できる活動だということを示しながら信頼関係を作って、データを使っていくという方向にシフトしつつある。プラットフォーマーに支配される社会や超監視国家にならないためには、我々がデータそのものの価値に注意を払って一緒に使っていくということが必要なのだと思う。


 これまで、石油のような消費財は、使ったらなくなるので取り合うことが基本だった。しかし、データは違う。一人ひとりのデータを一万人、一〇万人、一〇〇万人と集めていくと、データから分かることが増えてくる。 国家や企業がデータを牛耳るのではなく、社会貢献の中でデータを使わせてもらうということが、これからのグローバルスタンダードになっていく。資本主義そのものも、株主至上主義の短期利益を追求するのではなく、社会にいかに貢献するかという価値観で、自社の役割や利益を考えていく方向にシフトしつつある。それがポストコロナだ。


 コロナが終息したら昔の日常に戻ろう、と考えていたのでは、競争に勝つことはできない。今、世界各国ではロックダウンの解除が始まり、段階的に経済活動を緩和すると同時に、厳しい感染防止策を継続する「ニューノーマル」(新しい日常)を迎えようとしている。新しい日常を掴んだ上でその先の未来を描くことが、この立ち止まっている時期においては本当に必要になってきている。コロナの先を考え、すでに歩き始めている人たちはたくさんいる。今は試練の時期だが、これを一つの機会と捉えて新しい社会に向き合っていくことが必要になる。
(構成・中山あゆみ)



(『中央公論』2020年7月号より抜粋)

文・松岡亮二(早稲田大学准教授)

 コロナ禍を契機にオンライン学習の導入が叫ばれたり、九月入学導入論が巻き起こったりした。コロナ禍の前から教育格差の存在が指摘されてきたが、はたしてこれらの新しい取り組みは格差を是正するのだろうか。新書大賞2020で第三位となった『教育格差』を執筆した松岡亮二氏が分析する(以下は、月刊『中央公論』2020年7月号より。九月入学論についての分析は割愛し、ICT教育についての部分を抜粋した)。

「緩やかな身分社会」

 新学期を迎えるはずだった四月以降、休校の有無や、休校時の情報通信技術(ICT)活用が教師・学校・自治体・公私立によって異なることが「教育格差」として報道されるようになった。  まず言葉を定義しよう。本人が変更できない初期条件である出身家庭や出身地域などの「生まれ」によって、学力や学歴など教育成果に差があることを「教育格差」という。もし「生まれ」と教育成果に何の関連もなければ、それは(教育格差がない)公平な状態といえる。

 前近代の士農工商のような世襲の身分制度は撤廃されて久しいし、義務教育があるので、建前としてはすべての人に平等な機会が与えられていることになっている。しかし、拙著『教育格差』(ちくま新書)にデータを示したように、恵まれた「生まれ」であると大卒になる傾向がある。この「生まれ」と教育成果である最終学歴の関連は、格差が指摘されるようになった二〇〇〇年代以降だけではなく、戦後に育ったすべての世代・性別において実証的に確認されている。また、大卒者は正規雇用を得て収入も高い傾向がある。このように最終学歴によって処遇が異なることを「学歴格差」という。  日本は、「生まれ」によって学歴達成が異なる「教育格差社会」であり、学歴によって享受できる社会的便益に差がある「学歴(格差)社会」である。「生まれ」が本人の教育達成を介して成人後の人生を制約している以上、戦後日本は「緩やかな身分社会」といえる。


 コロナ禍で増幅した教育機会格差  日本の義務教育制度は他国と比べて標準化されていて、同じ機会を提供する努力が行われてきた。教室で教員免許を持つ教師が学習指導要領に沿った教科書を用いて授業することについては、国内どこであっても変わらない。教育の場所や内容といった主要な構成要素が標準化されていることで、同じような機会が付与されているという見做しが成立してきたといえる。

 しかし、コロナ禍による休校という緊急事態にあっては、教師・学校・自治体などが自分たちで判断しなければならないことが増え、オンライン授業、配付する宿題の量と質、電話での声掛けなど、教育実践がばらつくことになった。公立であっても校長・教育長・首長などのリーダーシップによって様々な対応を打ち出す事例も出てきた。

 休校で教育実践の差が増幅したことで見えやすくなったわけだが、以前から家庭と学校(地域)によって教育機会と結果の差が存在してきたことを強調したい。拙著『教育格差』で多角的にデータを示したように、「生まれ」によって(平均的に)子供の学校外時間の過ごし方は大きく違うし、公立小学校間であっても様々な格差がある。議論すべきはコロナ禍で格差が拡大したか否かである。

休校で教育格差は拡大するのか

 では、休校によって「生まれ」と教育成果の関連は強まるのだろうか。この問いに対してヒントになるのは、「ゆとり教育」によって土曜日を休みにした影響を検討した研究だ。経済的・文化的・社会的な資源量の多寡を一つの数値にした社会経済的地位(Socioeconomic status、以下SES)によって、学習時間と学力の格差が拡大したことがわかっている。また、別の研究は「ゆとり教育」によって高収入世帯がより通塾と習い事に投資したことを明らかにしている。

 家庭のSESによって子育てパターンが異なる傾向があるので、休校に伴い学校の授業日という全員に対する標準化された介入がなくなり時間が「自由」になった分、学習努力・学力・教育サービス利用の差が広がっても不思議ではない。拙著『教育格差』で日本のデータによって描いたように「意図的養育」をする高SES層の親は子の生活時間を上手く組み立てるだろうし、積極的にオンライン授業を行う私立校生なら休校の負の影響をさほど受けていない可能性がある。専業主婦や在宅勤務が可能なホワイトカラーであれば家庭で直接子供の学習を手助けし、話し相手になることもできる。さらに、この層は塾・予備校や習い事を利用する傾向にある。オンライン授業や電話を通して親と学校教師以外の大人から気にかけられているのは、このような教育サービスの利用者だ。大卒の親から日々有形無形の支援を受ける高SES層の子供たちは、すでに学習動機を持ち大学進学を前提としている傾向にあるので、むしろ休校によって学校という枠から解き放たれ、集団教育よりも高度な学習に没頭し、「優秀さ」を追求しているかもしれない。

 一方、親が在宅勤務できず、公立校から紙の宿題が配付されるだけで教育サービスも受けていない低SES層であれば、子供が一日中スマートフォンやゲーム漬けになっていても驚きはない。家庭のSESによって子供の食事にも違いがあるだろう。  学校や地域単位の差についてはやや複雑な様相だ。高SES層は職業選択などによって三大都市圏や大都市部に居住する傾向がある。これらの地域の教育熱は高く、教育産業も発達し、役割モデルとなる大学生やホワイトカラー職も身近だ。こうした地域に居住していることは教育達成に有利な条件であるが、コロナ禍が(一時)終息し全国の学校が再開する日が来るとして、そのときまでの日数をすべて足し上げると休校期間が最も長い地域になると考えられるので、従来不利である地方のほうがコロナ禍の影響は小さいかもしれない。ただ、同じ地域であっても休校の効果は家庭のSESによって一様とは考えられない。最も教育的刺激が少なく学習習慣や学力を得ることができないのは、休校期間が長引く大都市部に住む低SES層だろう。

他国とのICT環境格差は縮小へ

 科学技術立国を自称する日本の教育ICT環境は、先進国の中で最低水準だ。事実、OECDによる十五歳(日本では高校一年生)を対象とした調査(PISA)によれば、家に「勉強に使えるコンピュータ」と「インターネット接続回線」が両方ともある日本の十五歳の割合は六〇%に過ぎない。OECD加盟国の平均値は八九%だ(二〇一八年調査の結果)。その上、ICT環境が充実している他の先進国と同様、国内における格差もある。PISAの結果によれば、高SES家庭のほうが充実したICT環境を持つ傾向にある。出身家庭のSES別に見ると上位層(上位四分の一)では七九%、下位層(下位四分の一)だと三八%と過半数を下回る。

 学力・大学進学期待・学歴達成の観点で日本は「凡庸な教育格差社会」であることを拙著『教育格差』で示したが、ICT環境についても同様だ。学力については国際的に全体の水準(平均値)が高く、平均的な度合いのSES格差があるのだが、ICT普及度については全体的に低く、他国と同程度のSES格差があるので二重苦である。

 学校のICT環境・活用も低調だ。コロナ禍への対策をまとめたOECDの報告書によれば、日本は先進国のみならず調査対象の七九の国・地域の中で、四項目(教師のICT利用技能・教師のICT利用授業への十分な準備時間・教師向けICT学習資源・学校における十分なICTスタッフの有無)では最下位、他の全八項目もOECD加盟国平均より低い(すべてPISA二〇一八年調査に基づく)。

 文部科学省は以前からICT活用の旗を振っていたが、多くの自治体で導入が進まなかったため、中央集権的な決定と予算措置によって「GIGAスクール構想」を実施することになった。この学校のネット回線と一人一台端末の全国画一的な導入という文部科学省お得意の標準化政策が前倒しされることになったので、他の先進国との間にあるICT環境格差は縮小するだろう。ただし、配付された端末を子供が自宅で利用できても、課題は山積している。

 まず、オンライン授業に参加できる高速ネット回線が家庭にない生徒が低SES層に多いことは変わらない。たとえICT環境が通信機器配付と通信費無料などによって整ったところで、家で机と静かに勉強できる場所があるかどうかにはSESによる格差がある(SES上位層で九一%・下位層七三%)。さらに、一人一台端末配付は義務教育が対象だ。高校のICT活用は全体的に低調なので、コロナ禍によってオンライン教育を行う際には、各家庭の資源に依存することになる。二〇二〇年度の高校三年生が一年生のときの調査(PISA二〇一八)のデータを分析すると、「勉強に使えるコンピュータ」「インターネット接続回線」「静かに勉強できる場所」の三つが家庭にある生徒は全体の五五%で、各高校の生徒の所持率を算出すると二一~九四%と学校間で大きな差がある(平均五三%・標準偏差一四%)。高SES家庭が高校受験までに高い学力を身につけ高ランク校に通っているので、オンライン教育に適した条件の家庭間格差は、学校SES(生徒のSESの学校平均)・学校ランク(生徒の学力の学校平均)と無関係ではない。即ち、高ランク校は高SES校であり、そのような進学校の生徒は家庭にオンライン教育を受ける条件がある傾向なのだ。高ランク校・高SES校の教師は、生徒の大半がパソコンなどを所持している前提でライブ双方向授業を行ったり課題を出したりできるが、低ランク校・低SES校では、普及率の高い生徒のスマートフォン頼みになるだろう。画面が小さい端末のみという条件では、対面授業の代わりをオンライン向けに準備する教師にとっても、学習する生徒にとっても、相当に困難ではないだろうか。

 さらに、端末と通信回線が整備されても、ICT活用後進国である日本の教師がすぐに有効に使えるようになるわけではない。文部科学省が教員に対し効率的なICT活用法の研修と時間的余裕を付与すべきだろう。これを契機に、教師の献身的な長時間労働に頼るのを止め、情報伝達を主とする講義は既製の動画を利用し、個別的な質疑応答や学習の進捗状況の確認に特化するなど、教師の役割をICTで代替不可能な領域に重点化することを提案したい。

ICT活用でも格差は縮小しがたい

 ICT活用が一気に普及したとして、休校で拡大したであろう教育格差を縮小させることはできるだろうか。休校時にICTが助けになることは確実だが、格差の縮小までは期待できそうにない。オンラインは対面による教育の代替にはならないのだ。

 大学生を対象としたアメリカの研究結果によると、対面の代わりのオンライン授業だと平均成績と卒業率が低下する。インターネットによって教育機会・情報へのアクセスの地域格差が減ったことは間違いないが、そのまま自動的に結果につながるわけではないのだ。「ゆとり教育」で土曜日が休みになって学習時間・学力・教育サービス利用の格差が拡大したように、学習動機の獲得しやすさも含め、有形無形の資源量が多い高SES層にとって有利であることに変わりはないと考えられる。

 今後もICT活用を進めるべきだが、高SES層が便利なツールを駆使して学習する以上、学校で標準的に教えられる活用法の恩恵を受けつつも低SES層が追いつくことは難しいだろう。教育格差は複雑かつ根深い現象なのだ。

コロナ禍の影響を検証するために

 日本の教育行政の伝統芸は「改革のやりっ放し」である。たとえるなら、医者が診察・血液検査もせずに主観的な思い込みで病名を断定し、何となく良さそうな投薬・手術を(「平等」の名の下に)全員に対して行うが、経過観察により治療効果を確認することはない。データで現状を把握した上で課題に適した政策・実践を行い、効果を測定して少しでも結果を向上させるために微調整を繰り返すことをしてこなかったのである。

 普段からまっとうなデータを取得していないので、コロナ禍によって、どんな「生まれ」の子供にどのような不利益があったのか明らかにするには工夫がいる。アメリカでは、二〇〇五年のハリケーン・カトリーナによって引っ越しを余儀なくされた子供を追跡した研究が発表されている。被災前のデータがあることによって、天変地異による被害を明らかにできるのだ。

 日本でも近年は地方自治体や研究者グループの努力によって、全国規模ではないが学力を含む同一の子供を追跡するパネル調査も出てきている。その代表例は本誌二〇一九年五月号で解説されている「埼玉県学力・学習状況調査」である(政令指定都市であるさいたま市を除く)。この同じ子供を追跡し学年間で学力が比較可能な調査を分析すれば、コロナ禍前と比べて「生まれ」による学力格差がさらに拡大しているかどうかがわかるはずだ。

 ただ、現状は親を対象とした調査がないため、家庭の文化資源量(本の冊数)や通塾の有無といった限定的な指標による確認に留まる。今からでも親に対する調査を行い、どの層が最も休校の被害を受けたのか検証すべきだ。特に低SES層は親が失職したり生活のために労働時間を増やしたりすることで、子供の家庭生活に影響を与えうる変化(収入、親本人のストレス状態、子供と過ごす時間など)を余儀なくされている可能性が高い。休校と家庭の経済状態の悪化はほぼ同時期に起きていると考えられるので、これらを切り分けて分析するためにも、親を対象とした調査は不可欠だ。また、休校期間中の在宅学習の課題やオンライン利用の有無などを把握できる教員調査があれば、どのような教育実践が休校期間中でも学力を向上させられたのか明らかにできる。さらには、都市部の学力変化と天変地異の影響を今後検証できるようにするために、さいたま市も調査に参加すべきである。

 また、PISAとTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)といった国際学力比較調査でも、その傾向がわかるだろう。前者は三年おき、後者は四年おきに実施されてきたので、以前の調査結果と比べてSESによって学力格差が拡大しているかがわかる。コロナ禍による休校期間は国によって大きく違うので、国際比較研究の結果も発表されることになるだろう。これらの調査の実施はまだ先であるし、分析結果が出るまで数年は待たなければならない。ただ、これまでの研究知見から推測するに、学校という標準化された教育介入がなければ、SESによる差が拡大しても不思議ではない。換言すれば、学校があることで一定程度に抑えられていた「生まれ」による教育成果の格差は拡大するだろう。以前から子供たちは無限の可能性という血を日々流してきた。コロナ禍の休校によって、特に低SES層の出血量がさらに増えていることが懸念される。

(中略)

「やった感」はもういらない

 休校によって家庭間・学校間など以前から存在する様々なコロナ禍前格差が増幅され、誰の目にも明らかになった。学校が再開されれば、以前のように形式的な機会が「保障」されることで見えづらくなるだろうが、それは格差がなくなることを意味しない。「生まれ」によって多くの子供たちの無限の可能性が大きく制限されてきたのが戦後日本社会の実態であり、決して「今までのやり方でまわってきた」わけではないのだ。教育関係者の尽力は疑わないが、その「肌感覚」による教育行政と実践についての、実証的な「答え合わせ」の結果が、子供たちの無限の可能性という血が流されてきた「教育格差社会」であり「緩やかな身分社会」の維持である。無論、「答え合わせ」の責任は教育だけが負うものではないが、教育にはもっとすべきこともできたこともあったはずだ。この現実と向き合わず、「今までのやり方」の学校教育を維持するのであれば、これまでと同程度の「生まれ」による教育成果の格差になるだろう。行政が短・中期的なデータを積極的に取得せず、教育投資を増やさないまま、この現状を「世の中そんなものだ」と追認するのであれば、教育制度は「教育格差社会」と「緩やかな身分社会」を維持する装置に過ぎないと宣言しているに等しい。

 データを取得せず実態が可視化されていないからこそ、行政や学校が成果を出さなくても、個人の見聞に基づく解釈でどのような教育の現状であっても「そういうもの」と追認されてきた。今後は「改革」や教育実践の「やった感」の演出ではなく、実際に結果を出すことにこだわるべきだ。私たちにできることは派手ではないが明確だ。(1)行政と学校現場が先行研究に基づいた上で格差を縮小しながら子供たちの無限の可能性を具現化するための教育実践を計画、(2)小規模の効果検証、(3)効果のあった実践の全国展開だ。そして、この研究と実践のサイクルをまわすために必要な人員と予算の確保が必要である。また、「生まれ」による「教育格差」を縮小するためには、「同じ処遇」では足りない。低SES層に対して追加的に資源を配分し、実際にどれだけ伸びたかデータで明らかにすべきだ。内実のない政治的煙幕として利用されるような「やった感」ではなく、実際に子供たちの認知・非認知能力の向上という結果を出そう。

 すぐにできるのは、コロナ禍を奇貨としてICT活用による効率的なデータ取得を進めることだ。普段から子供と学校単位でデータを蓄積していれば、教育で不利な社会経済的に困難な家庭と地域がわかるわけで、緊急時の資源の追加投入に優先順位をつけることができる。一人一台端末配付も、本来は低SES地域から優先することが望ましい。量的に一度に追加配分できない場合は、低SES地域の中からランダムに選んで、支給時期をずらせば効果を測定することもできる。教員加配や退職者を再雇用しての追加派遣も同様だ。  これまでのように、ICTを活用せず教員の献身的な長時間労働による総力戦を続けたところで、国際的に「凡庸な教育格差社会」を何とか維持することにしかならない。もう子供たちが無限の可能性を追求できていない現状を解釈で追認するのは止めよう。「今までのやり方」では不十分であったデータが示す実態と向き合おう。現状の追認は現実主義でも「いい大人」の振る舞いでもない。単に虚無の胃袋の中に落ちているだけだ。予算増も含め、私たちは子供たちのためにできることをすべてしてきたのだろうか? 答えは明快にNОである。違う制度と教育実践の在り方があるはずなのだ。私たちにはもっとできることがあるはずなのだ。子供たちが無限の可能性を追求できる社会にするために、まず、私たち大人自身にもっとできることがあると信じてみようではないか。

堀 成美さん(東京都看護協会危機管理室アドバイザー)インタビュー/聞き手・川端裕人さん(作家)

*この記事は6月24日(水)にYahoo!ニュースに配信したものです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b3d6882eed2366b2d6486033ba005943f333aca8

わかんないよね新型コロナ」(ニコニコ生放送)に出演し、視聴者の疑問にわかりやすく応える堀さんは、感染症対策のプロフェッショナルだ。コロナ第一波で浮き彫りになった課題を川端裕人さんが訊いた。川端さんはフィールド疫学者が主人公の小説『エピデミック』の著書があるほか、Webナショジオで「 『研究室』に行ってみた。」を連載するなど、サイエンスに詳しい。

テレビ報道の「悪意」

川端》 僕が堀さんに話を伺いたいと思った理由は、コロナをめぐって臨床医はよく取材されるし、専門家会議やクラスター対策班も発信を重視している。でも、ブラックボックスがあって、堀さんご出身のFETP─J(国立感染症研究所〔以下、感染研〕の実地疫学専門家養成コース。Field Epidemio logy Training Program Japan)関係者が何をやっているのか、恐らく実務的にも大変なんでしょうが、本人たちは何も言えない状態だと推測しています。

堀》 そう。前面に出て発言はしていないですね。

川端》 また、感染症看護の専門家で、国立病院の感染症対策専門職だったこともある。複数の語られざる現場に通じ、全体を見渡せる方です。

堀》 つかまれていますね。(笑)

川端》 まず、テレビに出るような人気の専門家の発言をどう見ますか。

堀》 想定の範囲内でしたけれども、医療関係者が国難にあたって何とかしなきゃとなっている時に、ここまで執拗に、悪意を疑ってしまうくらい、嫌な扱われ方でした。私は一度だけテレビ出演しましたが、制作者は「視聴率が取れるんですよ」とか言っている。NHKでも変なBGMをつけたりしていますよね。あれやめてほしい、と関係者にも伝えています。

川端》 過剰な効果音とか。

堀》 そう。一人一人の報道関係者は会うと悪い人たちではないのですが、結果的に患者さんに対する偏見や差別を生むようなことをやっている。

 私たちはHIVの感染で苦い経験をして反省したはずなのに。感染症ネタは放っておくと暴走します。

川端》 堀さんは「わかんないよね新型コロナ」というネット上の番組を四月から平日毎日続けていますね。

堀》 これは日本科学未来館と国立国際医療研究センター国際感染症センターのコラボですが、さかのぼるとエボラの時、科学未来館のサイエンスコミュニケーターから一般の人になかなか伝わらないことを伝えたい、と依頼を受けたんです。続いてMERSや性感染症も扱いました。クリスマス・イブに猫耳をかぶって、「聖なる夜に性なるお話を聞きたい、画面の前にいる奇特な皆さん、こんばんは」とか言って(笑)、本当に届けたい層への発信を試みたのです。今回は三月初頭から取り組むべきだったと、出遅れを反省しています。

川端》 先ほど「悪意」という言葉も使われましたが、テレビ報道の問題点はどういうところですか。

堀》 PCR検査が一番いい例です。どうすればいいか、正解はなかったし今でも答えは一つではありません。しかしテレビは犯人探しのような雰囲気を作って怒りや不安を醸成してしまった。

川端》 PCRに関しては、最初は検査数が足りないとテレビは連呼していましたが、次第に陽性率にこだわり始めましたよね。

堀》 批判ネタを次々探していました。

クラスター対策班の役割は終わった

川端》 確かに検査数は日本では少なかったけれど、対策班の責任にするのもおかしいと思っていました。

堀》 そうですね。でも、クラスター対策班や専門家会議が、それを十分に伝えるコミュニケーションをしていたかというと、大いに疑問です。

川端》 誰もが不安な時期に十分に伝えられたかというと、決してそうではなかったでしょう。でも、それが彼らの役割なんでしょうか。

堀》 冷たく聞こえるかもしれませんけど、クラスター対策班はクラスター対策班でしかありません。専門家会議はその分野の専門家としてただ招聘されているだけで、彼らが何かを決めて実践する立場にはない。そういう原則に立ち返ればよかった。

川端》 分析して判断のための材料を提供したり、政策提言するところまでですよね。それが、なぜか対策班や専門家会議が政策を決めているような印象を持たれていました。でも、今の対策班は遠からず解散しますよね。これまでのデータを分析してやるべきことがわかったら、国のレベルでも自治体のレベルでもそれをやっていくというふうになっていく。対策班の最初の大仕事は終わりつつあるけれど、クラスター対策はこれからも続いていくわけです。

堀》 そう、落とし込みなんですよ。クラスター対策班が示したエッセンスを、自治体や職場で実践していくフェーズに移すことが重要ですよね。

いまだにFAXの世界

川端》 今回、医療現場では何が一番大変だったのでしょうか。

堀》 ドクターたちがよく言っていたのは、「普通にウイルス感染症の医療をやらせてくれよ」という言葉。今は血栓症も問題になっていますが、当初は一部の人が重症の肺炎になるけど、多くの人は軽症の呼吸器系の感染症の対応だった。だから、本当は普通に戦えたはずなんですよ。

 例えば、患者さんが退院する条件に、原則二回の陰性確認が義務づけられていますよね。でもなぜか、治っているはずなのにいくら検査しても陽性になる人がいる。部屋でスクワットをするような元気な人が帰れない。ある時期からは病床やホテルの部屋が空いてきたからなんとかなりました。「医療崩壊」の内実はウイルスが厄介というより、別の負荷が大きくなっていたことです。

 普通の病気のように医師の判断に任せればいいのに、患者を診てもいない人たちから検査はダメとか、逆に「陰性二回確認はルール」とかいうお役所対応をされると現場の心は折れてしまう。大変なのはコロナウイルスではなく、診療や対応を複雑にしている仕組みなんです。

 もう一つ触れておきたいのは、なんで医療現場に"ごみ袋"が必要になったのか、ということです。

川端》 PPE(個人防護具)の生地として、ですね。

堀》 そう。マスクや防護服がなくなったのは、皆が一斉に買ったから。台湾や韓国は早々に国が物資のルートを押さえたので、日本みたいな混乱は起きていない。それらの医療物資があれば、コロナの診療はここまで難しくなかったはずです。

 だから世間では「医療現場で働いている人、ありがとう」というムーブメントがありますが、ちょっと違うんだよなという空気はありますね。

川端》 そうした混乱がなければ、医療や看護に専念できたはずだと。

堀》 そう思います。もう一つ医療現場から聞こえたのは、書類が多すぎて大変という声。指定感染症になったので、公費にするためにも書類が要る。ホテルに移すには、その同意書を取る必要も。さらに行政や保健所から「患者さんは今どうなったか(退院したのかホテルなのか)」といった問い合わせもある。

 医師はコロナ患者が発生したら、FAXを保健所に送る。保健所はそのFAXを見て端末に入力。そうしてようやく都道府県、厚生労働省(以下、厚労省)、感染研がデータを見られる。現場はこのFAXを早くやめてくれ、と言っています。しかも、パソコンで作成してはダメで、手書きで書いて、はんこを捺さなければいけません。まだあるんですよ(笑)。「今、FAXを送りました」と電話して、原本は郵送......。

 なぜ日本では統計がしっかり出ないのだと批判されていますが、こういうレベルでのつまずきなんです。早く変えたほうがいいよねといわれてきた仕組みが、ここに至って現場にしわ寄せを生んでいます。

コロナスキームという問題

川端》 危機においては、情報の遅れや混乱が、足を引っ張りがちですね。  FAXでのやり取りは、四月半ば頃、河野太郎防衛大臣がツイッターで医師の悲鳴を拾いあげて、データ入力できる態勢になったようですね。

堀》 そう。でも喜んだのは、ツイッターを書いた人とその周辺ぐらいで、他はすごく冷ややかに「患者が減ってきたのに、今頃ですか」と。

川端》 次の波が来るまでに、改善しておく必要はありますよね。

堀》 でも、データ入力できるようになったのはコロナだけ、という問題もあるんです。感染症法に基づいてFAXで報告しなければいけないものは他にもある。独自のコロナスキームを作ったがために、他が放置されているのも問題です。

川端》 違うスキームを走らせてしまうと、局所的にさらに大変になる人が出てくる可能性はありますね。

堀》 だから繰り返しますが、ただの新しい呼吸器系感染症を相手に戦いたかったのに、病院も保健所も大変、データはよくわからない......。これではデータをもとにするフィールド疫学者は戦いようがありません。

川端》 データの取り扱いについては、自治体ごとに違いが出ていますね。

堀》 もともと新型インフルエンザ等が流行したら、自治体ごとに責任を持って取り組む仕組みがありました。大阪府や三重県は独自の仕組みを作りましたね。東京都は二三区の裁量が大きく、足並みを揃えるのが難しくて出遅れましたが、都としての仕組みを作りました。その後にタイミングがずれてコロナについてだけ国が似たようなものを作っている。

川端》 ここでもまた二重、三重の、スキームが走り始めるわけですね。

堀》 自治体ごとに頑張ってね、というのが国の基本スタンスのはず。でもメディアから「国は何をしているんだ」と突き上げられると、国は自治体に縛りをかけ始めるわけですよ。

 私が強調したいのは、FAXも元気な人が退院できないことも、「おかしい」と皆が気づいているのに、現実が変わらないということ。どんな困難でも、良いほうに変われば希望を見いだせる。リーダーにはその役割を期待したい。

 データについてはもう一点。私は海外から「日本のデータはどこにあるんだ」と尋ねられ続けて困りました。厚労省や感染研のホームページで英語での情報が探せないんだけど......という問い合わせです。厚労省のホームページは"総合デパート"みたいで情報が探しづらい。感染研のページも、コロナで検索しても時系列情報が探せない。

川端》 やっと見つけた情報も、しばしばPDFで残念ですよね。

堀》 エクセルで出してほしいですよね。それと、外国の人が言っていたのは、発症日のエピカーブ(感染症疫学の中心テーマである発症日のグラフ)がなかなか出なかったこと。ようやく四月の終わりに、感染研のページに出たんですよ。なぜそれまで出なかったのか。

川端》 読者向けに補足すると、日々ニュースで接する新規感染者数は確定診断された日がベースですが、疫学的な実態に迫るには、発症日を見たいわけです。感染症疫学の分析は日ごとの発症者数を描いたエピカーブを作るところから始まるんですよね。

堀》 エピカーブがなかなか出なかったことで、「実はとんでもない事態になっているのでは」といった疑心暗鬼が生まれたことは残念です。


(以下、略。月刊『中央公論』2020年7月号より抜粋)


=======================================================================
◆ほりなるみ

神奈川大学法学部、東京女子医科大学看護短期大学卒業。民間、公立病院の感染症科勤務を経て、2007~09年国立感染症研究所実地疫学専門家養成コース(FETP)修了。聖路加国際大学助教、国立国際医療研究センターを経て、18年よりフリーランスのコンサルタント(感染症対策・地域や組織のグローバル対策)。著書に『感染症疫学ハンドブック』(編著)など。

【聞き手】

◆かわばたひろと

1964年兵庫県生まれ。東京大学教養学部卒業。ノンフィクション作品に『PTA再活用論』『我々はなぜ我々だけなのか』(科学ジャーナリスト賞、講談社科学出版賞)など。小説作品にフィールド疫学者が主人公の『エピデミック』など。

評者:中村計(ノンフィクションライター)

 タイトルと表紙のイラストを見ても食指は動かなかった。むしろ、敬遠したい部類の本だと思った。正直、いくらなんでも、いかにも過ぎるのでは......と。が、著者名を見て、その考えが一八〇度変わった。この組み合わせなら「十分アリ」だと思ったのだ。


「愛」を語り、それを商品として成立させるのは、実は相当難しい。当たり前だが書き手には、本物の愛情が求められる。さもなくば、言葉は過剰になり、上滑りする。そして、情熱と同じくらいの量の冷静さも必要だ。さもなくば、のろけ話に堕する。もう一つ加えれば、技術がなければならない。伝えたいことほど言葉にしない方が読者の心に染み入るからだ。藤島は、このいずれも満たしている。最後の条件に関しては、テクニシャンという言葉では足りない。藤島は、詩人だ。


〈記憶なのだ。ラグビーのワールドカップは記憶の祭典である〉〈特大の砂袋が高速で飛んでくるようなタックル〉〈力ずくではないのに残忍で荒々しい。ラグビーの理想だ〉〈ラグビーに勝者はない。敗者もない。ラグビーそのものがすでに勝っている〉


 アイシテイルなどと決して言わないが、とめどない「愛」が行間から溢れ出す。人物描写も思わずため息が出る。レジェンド、平尾誠二をこう評する。


〈鷹の視線でグラウンドを呑み込み、鋭敏な直感でゲームを支配、なお用心深いまでに警戒心を解かなかった。負けず嫌いだが露骨を嫌った〉


 読みやすさと読みにくさ、紋切型と奇抜の間をすり抜ける。


 本書はさまざまな媒体に寄稿した短い文章を一冊にまとめたものである。サブタイトルに「2015─2019 ラグビーW杯日本大会」とあるように、一九年のW杯にまつわる記事が多い。


 読み進めつつ、一つのことがずっと気になっていた。藤島は、予選ラウンド二戦目、日本対アイルランドの結果をどう予想していたのか。


 あの時、ラグビーに精通している人ほど、まさか日本が勝つとは思っていなかった。スポーツライターは予想屋ではない。どう予想しようが、評価に影響するものではない。ただ、藤島ほどの見巧者はそうはいない。藤島はラグビーだけでなく、人を見る目も確かな書き手だ。人間が関わるものに「絶対」はないことも熟知している。それだけに本当のところを知りたかった。


 あとわずかで読み終えそうなところで、ようやくその部分に触れた記事が載っていた。「ネタバレ」を気にするような種類の本ではないので引用してもいいのだが、読者には是非、同書を手に取って欲しい。なので、ここでは控える。私は、その件を読んでホッとした。とても正直に書かれているように思えたし、藤島が信頼できる書き手であることを再確認できたからだ。


 最後の最後、タイトルにまつわるエピソードも紹介されていた。じわりとくる。やはりこのタイトルと装丁は、藤島の著書でなければ荷が重過ぎる。
 もったいぶって予想部分の引用を控えた代わりといってはなんだが、もう一ヵ所、抜粋して締めくくりたい。実は、藤島は名グルメライターでもある。カツを食するシーンをご堪能あれ。


〈割り箸が肉をくるむ衣に入る。ジュッ、たまらぬ音がする。勘定を。きょうはいいよ。ラグビーの英雄はかくのごとく遇されるべきだ〉


 ふぅ。ため息が出る。

 


(『中央公論』2020年7月号より)


=======================================================================

◆藤島大(ふじしまだい)

一九六一年東京都生まれ。スポーツライター、ラグビー解説者。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。 卒業後はスポーツニッポン新聞社を経て九二年に独立。『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鐵之祐』(ミズノスポーツライター賞)など著書多数。


【評者】

◆中村計(なかむらけい)

一九七三年千葉県生まれ。同志社大学法学部政治学科卒業。『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(講談社ノンフィクション賞)、『金足農業、燃ゆ』など著書多数。

─タイトルにひかれました。辰野金吾が主人公の小説です。日本銀行本店や東京駅など、近代日本を象徴する建物を矢継ぎ早に設計していった明治を代表する建築家。江戸を東京に変貌させた人物ですね。江戸の誕生に材を求めた『家康、江戸を建てる』の続編としてお書きになったのでしょうか。


 それは意識していません。万城目学さんとの『ぼくらの近代建築デラックス!』でのお仕事が大きいですね。大阪、京都、神戸、横浜、東京の五都市の近代建築を万城目さんと見て回って語り合うもの。近代建築を知れば知るほど、その中心にあるのは辰野金吾だということが見えてきました。


─お二人の関心の指標になるのかもしれませんが、『ぼくらの近代建築デラックス!』では辰野金吾は四二回登場しますね。コンドルは八回、曾禰達蔵は四回、片山東熊は八回、妻木頼黄は九回。辰野がダントツです。


 近代建築ど真ん中。いつかは辰野金吾と対峙しなくてはならないな、という思いが次第に募ってきていました。辰野を書くということは東京と立ち向かうこと。明治とも向き合うわけです。かなり大きな仕事になりそうなのでなかなか決断できずにいました。そんなところに文藝春秋の方から「辰野金吾を書きませんか」とのお誘いが。覚悟を決めて書くことにしたのです。


─明治十六(一八八三)年、辰野金吾が三年間の英国留学を終え、横浜に上陸する場面から始まりますね。


 辰野は工部大学校造家学科(現東京大学工学部建築学科)の第一期生。同期には片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次朗がいます。名にし負う建築家たち。彼ら第一世代の代表格、辰野金吾が建築を通して日本の近代化にどう挑んでいったのかをいたって人間臭く描きました。書名は「日本、はじまる」「近代、はじまる」でもよかったほどです。


─英国人のコンドルにすでに決まっていた日本銀行本店の設計を伊藤博文に直談判して、辰野自らがぶんどってしまう。すごい手を使う人なのですね。


 辰野は英国で見聞を広めるうちにコンドルが一流でないことがわかっちゃったんですね。なによりも、国家の顔となる建物は日本人が造るのだ、という強い意思。このくらい強引にお雇い外国人の手から権限を奪わないと、日本人自らが日本の近代化をやり遂げられない、列強に伍せない、という強烈な思いがあったのだと、そういう推測のもとに場面づくりをしました。これが第一世代共通の明確な意識です。辰野の弟子、伊東忠太のような第二世代になると、日本と西洋をつなげたい、という意識が働く。伊東自身は、法隆寺の柱が古代ギリシャ建築エンタシス様式の東漸した証である、とか言い出しますよね。その真偽はともかく。文学でも、『源氏物語』は世界最古の長編恋愛小説である、といった説もこの時期に登場します。どの分野でも第二世代に起こり得る共通のメンタリティーがあるようです。論理づけて考えるのが彼らの特徴ですね。


─長男隆との人生観の対立もそんなところとかかわるのでしょうか。


 のちに仏文学者となる辰野隆は東京帝大法学部を出た後に文学部仏文科に入り直して、自分がやりたいこと、好きなことに突き進みます。国家のためを第一義とする金吾から見れば正反対の価値観です。「なにを言っているんだ」となる。隆が独文だったら違ったニュアンスだったかもしれませんが。


─辰野金吾は国家の顔ともいえる日銀本店や東京駅を造りました。できあがっていくくだりには興奮しました。


 歴史を題材にした小説を描くことが多いのですが、読者に喜んでもらえるためにどうするかという私の解答のひとつは情報量です。普請中の場面はいちばん難しいところ。工夫を施しながらとりわけ丁寧に描きました。そこは相当、手をかけたつもりです。


─今後はどのような作品を?


 辰野のライバル、妻木頼黄に興味があります。いずれ書いてみたいですね。今は『サンデー毎日』に、豊臣秀吉の朝鮮侵攻だけに焦点を絞った「なぜ秀吉は」を連載しています。


(『中央公論』2020年7月号より)

評者:栗俣力也(仕掛け番長)

「何かオススメの作品はありますか?」

 今回の原稿を書いているゴールデンウィーク明けの現在、緊急事態宣言で「自粛」の真っ只中という状況なのですが、家で過ごす時間が増えたことでプライベートやSNSでオススメ本を聞かれる機会が非常に増えています。


 そんな日々の中で最近感じているのは、書店員の存在価値が変わってきたのではないかということです。つまり、書店という場で本を売る人から、場所に関係なくいろいろなシーンで本をセレクトしてオススメする人への転換です。


 電子書籍などがここまで一般的になる前は、リアルな売り場の中から読みたい本を探していればよかった。そのため新作が求められるのが普通でしたし、旧作は絶版となり選ぶ対象から外れていきました。


 しかし電子書籍が普及してからは、昔の作品と新しい作品が同じ土俵に乗って同じように購入できるようになり、絶版という概念自体がなくなりつつあります。


 そうなると、選ぶ対象となる作品が爆発的な数になり、その中から自分に合った作品を探すというのは非常に難しい。


 そんな時に一人一人に合った作品を膨大な知識の中からセレクトすることが、書店員の価値として大きくなっているのではと思っています。


 この状況の中で「私は普段マンガを読まないけれど、この機会に読みたい」という方と店舗に限らずSNS上やメールでやり取りしております。


 お相手が「誰なのか」によってもセレクトする作品は大きく変わるものですが、その中でも三十代から五十代の男性にオススメする機会がたまたま多く、出会いを喜んでもらえた作品をご紹介します。


 それは『怪異と乙女と神隠し』。


 小説家をめざす緒川董子と謎めいた童顔で糸目の少年(?)化野蓮。この二人の書店員が首都圏のとある町で起こる数々の不思議な出来事を解決していくというストーリー。


 いわゆる怪異ものである本作の特徴は、まずマンガとしてのバランスが非常に上手い点。


 マンガは良くも悪くも絵で読者を選んでしまうものですが、この作品のタッチはとても個性的であるにもかかわらず、あまり読者を選ばない。個性的なデザインの面白さと見やすさを両立させているのです。


 また吹き出しが小さめに配置されていて絵をより目立たせるようなつくりになっているのですが、絵の情報量と文字の情報量のバランスが良い。余白の使い方が上手いので、読むのに疲れるということがありません。しかも濃い内容がしっかりと頭に入ってきて、物語としての満足度は非常に高いのです。


 ここまで読ませて、なおかつバランスを意識した作品は、あまりないと思います。


 そしてもう一つの特徴は、情報の出し方。つまり小出しにされたいくつもの謎がストーリーとしてつながることで本筋が見える、いわゆる連作短編の効果をものすごいスパンの短さで発揮させていく。


 一例をあげましょう。この町には「!」だけの標識が多い→それは「その他の危険」の警戒標識である→書店で起きる「逆万引き」(知らないうちに本が増えている現象)→そして......とメインの怪異の話につながっていくのですが(作品を読まないとわかりづらいかもしれませんが......)、こうした展開により読者を物語から離さないのです。 「ストレスを感じることなく、作品に没入でき物語を楽しめる」と、多くの方から絶賛の言葉をいただきました。


 日々の生活の中で、今年は今までにないストレスを感じることが多くなりそうです。そんな時こそ、ぜひマンガを手に取ってみてください。
 マンガを読んでいる時には日常から少し気持ちが離れて、別世界を楽しむことができると私は思っています。


 私と同様にTwitterなどのSNSで素敵な作品をオススメしている書店員が今は沢山います。何を読もうか迷った時は、そんな書店員に尋ねてみるのもいいかもしれませんよ。
(現在、一巻まで刊行)


(『中央公論』2020年7月号より)

西浦博北海道大学大学院教授インタビュー/聞き手・構成 川端裕人(作家)

*この記事は6月12日(金)にYahoo!ニュースに配信したものです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/602a038dc47f6aa1a3952ba5f318888f50cc0713

「これまで目標としてきた流行の制御はできたわけですが、課題もたくさん残されていますし、コミュニケーション上、誤解を解かなければならない部分もあります。何より、今後のことで心配なこともいくつかありますから」  前編「厚労省のビルから北大の研究室に戻るにあたり伝えたいこと」に続き、西浦が、今「コロナ禍」の体験を共有するすべての人たちに伝えたいことをまとめる。

兵隊ではなく司令官が言わないと

「反省点であり、誤解を解いておきたいことがあります。それは、引き締めと励ましにかかわるコミュニケーションの問題です」  西浦はそんなふうに言う。真意はいかなるものだろうか。 「厚労省のビルの中にいてすごく困ることは、やはり自由に話せないことです。クラスター対策班が独自にコミュニケーションできる機会を得たのは、4月15日以降、直接に記者会見ができるようになってからでした。その第一回で、僕は、記者さんの前で、何もしない最悪の想定では、約85万人が重症化し、その約半分が死亡するという話をしました。被害想定が重要であるとメディア側からの要望もあって、とはいえ、想定される死亡者数を直接的に言うのはダメだと厚労省側から言われ、ああいう歪んだ言い方になりました。後で『西浦の乱』と書かれましたけど、この被害想定を僕が話すことは、官邸まで事前に通っていたことです」  この「乱」の効果はてきめんで、翌日の新聞ではのきなみ死亡想定が掲載されたし、テレビでも大いに取り上げられた。官邸からは「(政府の)公式見解ではない」とのコメントが出たものの、一定のリアリティをもって受け止められ、「接触減」に寄与したのではないかと思われる。 

 でも、実際にはそれではダメだと西浦は言う。 「42万人というのは何も対策しなかった場合のプレインな数字です。それを言うと同時に、皆さんが自粛して接触を減らすことを徹底すると流行自体を抑えられる可能性が高いということや、その数を減らして、みんなで接触を減らして、徹底して頑張ってみようというような、励ましに相当する言葉がうまく伝わっていないんです。それで、分かったのは、これは、僕が言ってしまったけど、本当に僕が言うべきことなのかってことです」  専門家の言葉として42万人という数字だけがひとり歩きすると、それは限りなく「恫喝」に近く聞こえる。人々は行動を変容させるかもしれないが、どちらかといえば恐怖やあきらめのようなネガティヴな感情に基づいたものになる。そして、ネガティヴな感情に基づいた行動は長続きしにくい。だから、西浦はこれを「励まし」とセットで語る必要があるという。しかし、それができるのはその専門家ではなかろうというのである。

 「自分の立場はただの兵隊の1人ですので、これから戦いが始まる時に、『42万人亡くなります』と、司令官側が『公式ではない』と言うような数字を言うのはおかしいんです。むしろ、司令官がちゃんとそれを言った上で、だからみんなこうするぞ、みたいなことを言わないと。だから、理想的なのは総理大臣が、国民の皆さんに向かって、原稿を読まず、心から語りかけることだったと思います。科学者の試算は蓋然性が高い。でも、これは最悪の場合の数字で、接触を減らせれば、ゼロが1つ、2つ取れていくから、みんな一緒に頑張りましょう、と。でも、僕が言うことで、数字だけがひとり歩きして、引き締めき効果はあったかもしれないけれど、そればかりが強調されすぎました。その跳ね返りが解除後の行動に影響するのではないかと心配しています」

 跳ね返りにはいろいろな形がありうるのだが、ひとつすでに見られるパターンとしては、本稿をまとめている6月はじめの時点で、「結局、亡くなったのは九百人くらいだし、あの42万人というのは間違っていた」という議論が出てくることだ。「最悪の想定を回避できて良かったね」と、みんなで勝ち取った成果として受け止めるのではなく、科学者への不信の理由にされてしまうと、今後の対策にも影響を与えかねない。

科学顧問が必要?

 もう一点、今度は「8割おじさん」の件。 「僕自身、8割の話ばかりを発信する役割を担い過ぎたので、反省点も大きいです。8割は厳し過ぎて経済がダメになっちゃうから、被害をある程度受け入れて経済を回したほうがいいよというような、そんな思いになってしまう人も出てきたと思います。そうすると、今度は逆に自粛警察的なものも出てきて、それもよくないことです。この件で、効果的なメッセージを出せるのは大臣か総理だったのでしょう。8割の外出自粛というのは大変なんだけども、ここで一回感染者が減ったら、ゆっくりと徐々に社会経済活動を戻していって、本当にハイリスクな部分だけをうまく抑制しながらやっていけるようになるはずだから、そこまで頑張ろうというようなメッセージですね」

 西浦のような専門家は感染症制御のために呼ばれているわけで、対策の根拠は示すことができる。その際、求める水準が厳しいものであったため、西浦はみずから「8割おじさん」として発信を行わざるを得なかった。これ自体、データを分析して政策提言する立場の科学者が自ら行うべきことなのか、議論の対象になることだろう。 「専門家の僕たちが、直接にリスク管理の話をし過ぎるというのは決して良くないと思っています。僕たちは、あくまでもリスク評価のデータ分析をして結果を出すところまでが専門で、リスク管理はしっかりと政治にお返ししますよという形を作らないと」

 しかし、現実問題としては、政治家のリーダーシップや説明能力が不足気味なのが、今の日本の難点であるわけで、そういう場合にはどうすればいいのだろう。 「イギリスのやり方ですが、チーフ・サイエンティフィック・アドバイザー、主席科学顧問が任命されて、科学コミュニケーターやクライシス・コミュニケーションの専門家に助けられながら、国民にメッセージを発する仕組みがあります。今回も、京都大学の山中伸弥教授が、ウェブサイトなどで発言してくださっていますが、山中さん、あるいは、より良いのはクライシス状況にも百家争鳴しがちな科学コミュニティ内の調整に長けた人が、専門家会議からも政府からも独立して発信できる公的な仕組みを実装していくというやり方もあると思います。やろうと思えばできることです」

「8割はもうできないかも」という心配

 以上のような反省を踏まえて、西浦は今後について不安を抱いている。 「結局、8割の接触減ができるのは、4月、5月だけだったかもしれないんです。今後、クラスター感染が見られたハイリスクの環境を最後に残しつつも、段階的に社会が開いていくことになります。それも身体的接触を最小限にとどめつつです。それで抑えられなかったらまた集団レベルでの接触削減が必要になるんですが、でも、みんなまた同じことができるんでしょうか。そのためには、社会として自己効力感を持つことが必須なんですが......」  もう少し具体的に言うと、どういうことだろうか。

 西浦は、専門家会議の記者会見での一コマを話題にした。 「新規感染者がやっと減り始めていた時期、5月14日の専門家会議の記者会見で、副座長の尾身茂先生が優しい声かけで記者さんたちに言ったんです。『皆さんもこんなのは二度としたくないですよね』って。すると、そこにいた記者たちが全員、いっせいにうんうんと深く頷くんですよ。『うわー』っと思いました。そりゃそうですよね。皆さん、たぶんどんな意見を持っている人でも、政治的な立場がどうだろうと、一致している意見だと思うんです。だから、単につらい体験というわけでなく、リーダーが『みんなが頑張ったのですごいぞ。社会、コミュニティとしてやれたぞ』って、正直に喜びを分かち合える機会があったほうがいいと思います。そのために一番ふさわしいのはやはり政治的リーダーだと思います。そして、再び同じ思いをしないためには、『もう少し頑張ろう』とみんなが奮い立って、ここからの予防をしていくと、感染者が異常に増えるのを避けられるかもしれないわけです」

 ただ、政治的なリーダーがそのようなことに向いていない場合、どうすればいいのか。科学的な発信については、「科学顧問」のような役割が想定できるということだったが、こちらはもう少し位相が違う話だと思う。また、各国を見ていてもそのような「適切に鼓舞できる」政治のリーダーを今この瞬間に持ち得ている国は、それほど多くないように見える。そこを政治に求めるのは、かなり運にも左右されることだろう。 「政治家がダメなら、芸能人ですとか、あるいは文化人でしょうか」と西浦は悩ましげに言う。この場合も、今の時代、全国民的な支持を得る芸能人も文化人もなかなかいない。小さなリーダーがたくさん登場するのが現実的な解なのかもしれない。

 なお、「小さなリーダー」は効率が悪いかもしれないが、西浦が抱える、ある種のジレンマをやわらげる可能性はある。西浦の立場では「数十万人の死亡」のゼロを何個取れるかというレベルでの議論になる。これは非常に大きな使命だが、そのための対策や努力は、素のままだと社会的マイノリティを押しつぶす。だからこそ、それぞれの分野でのニーズをすくい上げつつ対策をカスタマイズしていく必要があり、その場に即した小さなリーダーがいるほうが適していることもあるだろう。あくまでも西浦の話を聞いて本稿をまとめている筆者の所見として記しておく。  もちろんこういったことを西浦も理解している。 「この感染症は、社会的な弱者のほうへと寄っていく傾向があります。具体的にいうと、今東京で最も再流行を心配しているところは夜の街なんです。もし軽症だったら病院には行けないような人たちが感染しますし、イギリスでも貧困層に感染者が多いという傾向が出ています。シンガポールでは、外国人労働者が雑魚寝をしているような環境でクラスターが起きているようなこともあって、日本で同じ状況になっても不思議ではありません」

 こういった人たちは、西浦がいう「ハイリスク」な集団になりがちで、緊急事態宣言解除後に社会が開いていく際にも一番最後までとどめ置かれたり、不安定な雇用でしわ寄せを受け続けるグループだ。金銭的な不利益だけでなく、社会的なスティグマも背負わされかねず、それを避けるためには......やはり自助努力や自己責任に近い「小さなリーダーシップ」では荷が重く、結局は政治側の毅然とした対策と、そういった対策を取り得る者からの「適切な鼓舞」が大切だという話に戻らざるを得ないのだが。

政治と行政は負けないで

「もう一点、心配なことがあります。それも差し迫ったことです」と西浦は続けた。 「3月に入って欧米からの帰国者が大きな感染の波をもたらしたように、当面の大きなリスクは海外からの流入です。例えばですが、アメリカの流行対策は日本と比べるとあまりうまくいっていません。今恐怖なのは、そんな国が、流行の制御をある程度諦めて経済を回すために国境を開けることなんです。実際、アメリカでは、実効再生産数が1を切ったところで経済を回そうという話が出ています。これって、流行がピークを越したということではありますが、まだまだ感染者が多い状態です。日本ではしっかり感染者数を下げてから開放しようとしているわけで、相当感覚が違います。でも、トランプ大統領に『今国境を開けよ』と言われて、日本の政治が抵抗できなかったら、次の大きな流行が起きるきっかけになると思っています。だから、日本の政治には毅然とした態度で臨んでほしいです」

 そして、もしも政治が耐えきれなかった時には、行政の頑張りどころだという。 「政治が折れてしまったら、行政で全力で抵抗してもらいたいんです。入国管理局は入管法、厚労省で検疫法。これらを駆使して、運用する中で、すぐには入国してこれない仕組みを作ってほしい。厚労省のビルの中にいて知り合いも増えて、本音で話してもらえるようになってきましたが、対策本部のメンバーも検疫を司る検疫所業務管理室の人たちも、いったん苦労して感染者の数を下げたのだから、再流行させたくないというのはみんな思っています。国としての方針が決まっても、現場での実施のさじ加減は行政で決まります。全力で抵抗しようと思ったら抵抗できるし、全力で緩めようと思ったらそれもできます。そこを諦めないでやってほしいんです」

 西浦が強調するのは、国内でのクラスター対策でなんとか抑え込めていた時に、欧米からの帰国者の波をかぶった時には対処できなかったという忸怩たる思いだ。「消えやすいウイルス」だということを見出し、一度は「ゼロにできるかもしれない」と思ったところに、欧米で予想外の感染拡大が起きた。そこからの波を「丸腰」でかぶってしまった。 「三月中旬の頃、僕や押谷先生は『ああ、もうすぐ来る』って、ひしひしと全身で感じるぐらい、感染者が増え始めていました。それと同じような状況になりますから、対応を間違えれば、『また接触削減』ということになります。政治も行政も折れずに頑張ってもらって、次の大きな流行を起こさずにやっていくというのが、ワクチンができるまで時間稼ぎをしながら乗り切るための、一番大事なポイントの一つではないかなと思っているところです」

西浦教授が試算した大規模流行の確率とは?

 今後、どれくらいの感染者が日本に渡航してきた場合、大規模流行が起りうるか、西浦は医療従者向けの情報サイトm3で具体的な試算を公表している(6月2日付け)。確率モデルの1つである「分岐過程」を使ったシミュレーションで、1日10人感染者が渡航してくる状態が続く前提で計算したところ、2週間の停留措置やPCR検査を行ったとしても、3ヶ月以内に大規模流行を引き起こす確率は98.7パーセントにもなる。この想定は、感染率が1パーセントの蔓延状態の国からなら毎日1000人が日本に入国した場合に相当するわけで、航空機3~4便の乗客数で簡単に超えてしまう。

 一方で、1日毎の感染者の入国を4人、2人、1人に絞ることができれば、「停留+PCR」の条件下では、それぞれ82.5パーセント、58.1パーセント、35.3パーセントと大規模流行の確率を下げることができる。いずれも「検疫なし」では、ほぼ100パーセントになるので、ここは現場の努力が大いに問われる領域でもある。  西浦の危機感の背景にある「数字」はこのようなものだ。いかに厳しい認識を持たざるを得ないか理解していただけると思う。

 もっともこういった危機感も、前項でも少し触れたような問題につながりやすい点は要注意だ。感染症の制御は、我々の社会の基本原則である「人権」や「自由」といった概念と相性が悪い。この例でいえば、国境での防疫上、一定の移動の自由を奪うことを正当化せざるを得ない。個別の事例では、ものすごくひどいことが起きる可能性もある。また、国境をまたいでの移動を日常的に行う人たちへの風当たりが強くなったり、今、国内にいる外国人にまで差別的な言動、それこそ『出ていけ!』というような感情を発露させる人を誘発してしまうこともあるだろう。しかし、そういった分断は、少数者に不利益を押し付けるだけでなく、実は、社会の感染リスクも高める。今、国境の内側にいる人たちは、ある意味、同じ運命に結び付けられており、誰かを非難して追い詰めても逆効果だということは、常に忘れてはならない点だ。

 結局、「毅然と臨むリーダーが、その毅然たる決意の一部として、個々人への最大限の配慮や、『差別はダメ』というメッセージを発し続ける」というのがまずはベースになければ、というところに結局、戻ってきてしまう。

研究を回せ

 西浦が東京で対策班の規模を縮小し、北海道に戻るにあたって「伝えたいこと」を、若干の私見も加えつつも、できるだけ忠実にまとめたつもりだ。  今後、西浦研の総動員体制は終わり、西浦自身も週の半分くらいは東京に来て、残りの半分は北海道にいるような生活になるという。これまでのようにデータ分析や政策提言や広報に明け暮れるのではなく、研究に割く時間もある程度取れるようになる(と期待される)。

 研究というと、あたかも「象牙の塔」のようなイメージを抱く人がいるかもしれないが、西浦が専門とする感染症の数理モデルの世界は、研究の遅れが対策の遅れにもつながりかねない。新しい感染症であるCOVID-19は、本当に様々な難しい要素が満載で、研究しなければならないことも多い。感染の本質的な部分を見抜いて、どんなふうに数式やアルゴリズムで表現すればシミュレーションが正確になるかその方法を研ぎ澄ましたり、取り得る対策に実際にどれだけの効果が期待できるか見積もったりするのも(逆に対策したあとで効果を評価するのも)大切な役割だ。だから、日本の理論疫学のエースである西浦が、データ分析と政策提言に専念することは、対策に必要な研究上の遅れにもつながるジレンマがある。

 怒涛のような日々だった2月からの4ヵ月間、西浦は大学研究者としての活動をかなり抑えてきた。それは、東京に入った研究員メンバー(その中にはこれから学位取得のために研究を進めなければならない大学院生もいる)も同様だ。 「研究員のメンバーにも理解してもらってきたんですけど、今、僕たちは流行対策のために呼ばれているから、平日の日中の時間は流行対策に使って、リサーチを考えるのは、できるだけオフアワーになってからにしようと。だから夜になってからみんな、わらわらといろんな議論が進むんです」

 日中の流行対策の分析や、後には広報対応(西浦研の若手もTwitterで配信される解説動画に登場するようになった)で疲労困憊した後、それでも研究の話をするのは、研究者としての本能であると同時に研究者的な思考が対策上必要だからという部分もあった。特に、流行の初期はそうだったという。 「流行対策が始まった頃は、クラスター対策を形作らないといけないので、どんな場でクラスターができるのか、リスクが高いのは環境なのか、人なのか、あるいはウイルス量みたいな生物学的な要因なのか、といったものがまったく分かっていませんでした。そういう議論をオフアワーの疲れ切った中でもやっていましたね」

 そして、西浦自身、国際的な「最先端」の同業者コミュニティとのやりとりを欠かさない。各国でそれぞれ政府に助言をするような立場にある一線の研究者たちとのつながりは貴重なものだ。それぞれの国の対策には個性がありつつも、背景にある知識や方法論は共通しており、意見交換を通じて常にチェックし合うこともできる。 「毎金曜日はWHOの『モデリングコール』というのに出ています。各国の感染症モデルの研究者が、今自分の国でこういうものをやっていて、あるいは科学的に重要な見解としてこういうものがあって、みんなはどう思う? といったことを聞けるところです。そこでは、もし軽症だったり、無症候性の感染では抗体が付かないときはモデル上でこういう修正ができると思うんだけど、どう思う?みたいな、そんなアイデアさえ出始めていて、みんな素早いなと感心します。自分は厚労省のビルの中でひいひい言っているだけではいけないと自戒の念を抱き、遅れを取り戻さないといけないと強く感じますね」

 西浦が、研究で明らかにしなければならないことは多い。COVID-19の様々な特異な特徴は「感染症数理モデルへの挑戦」のような部分もある。また、そもそも論として、第1波と第2波の対策がそれぞれどれだけ効果があったかということも評価しなければならないし、さらにそもそも論として、結局、日本ではどれだけの人か感染してきたのかということも、今後の対策を考えるためには必須の検討事項だ。日本で欧米なみの爆発的な感染の増加や死亡者の増加にならなかったことについて、対策以外の生物学的な理由があったのかという点も、多くの人たちが疑問に思っている。こういった問いにひとつひとつ答えていくことは、そのまま日本の対策をより頑健にするものだろう。

 というわけで、西浦が平穏に北海道で分析し、論文を量産できることを今は祈っている。それは、とりもなおさず、大きな再流行がなく、現場でのリアルタイムでの分析が必要な局面が少ないということでもあるのだから。

必ず再流行はある

 もっとも、西浦自身は、あまり楽観していない。 「必ず再流行すると思っています。小さい規模でも再流行が起こり、それに対応することがまた繰り返されると思います。そこで皆さんがまた学習をして、新しい生活様式が根付いていくことになるのかもしれません。今のように経済的な理由で前のめりになって、なし崩し的にリスクが高くなるのではなく、ハイリスクのところだけを止めてスマートな接触の削減ができるようになって、流行が防げるんだという状況を、何とかして形作っていかないといけないです」

 安全で効果もある使いやすいワクチンが開発されるまでの場つなぎを頑張って、なんとかそのゴールまで走り切ること。そのためには、西浦が言う「スマート」な新しい生活様式が必要だということにつきる。「ハイリスク」なところへの配慮も常にセットにしていくことも常識にしていかねばならない。  そして、その後も、「元の生活」に至るまでには、いくつものチェックポイントを経なければならない。その際、何か大きな一里塚となるようなものはないだろうか。例えば、オリンピックのような巨大なスポーツイベントは? と問うたところ意外な答えが返ってきた。

 「これから、どんどん生活が変わっていってその中でいろんなものが戻ってくる中で、文化活動とスポーツ活動は画期的なランドマークになると思っています。だから率直に皆さんに喜んでもらいたいと思うんです。例えばプロ野球やJリーグが、無観客でも私たちの生活の場面に戻ってくるということ。そういうのは、全員で勝ち取った一つの勝利になるんですよね。だから、政治的な面では諸説入り交じるんですけれども、あくまでその文脈で言うと、世界中のアスリートが真剣なまなざしで、人生を懸けて戦うオリンピックも、この感染症に関して人類が勝ち取るものとして、とても大きなことだというのは間違いないです」

 しかし、東京オリンピックは1年後だ。その頃までに安全で有効なワクチンが開発され、普及している可能性はとても低いだろう。仮に世界各国で流行が制御されていたとしても、まだ「混ぜるな危険」という時期に違いない。 「もちろん人の移動を伴うリスクということを考えると、世界中から観光として東京に人がたくさん来るということは、ちょっと難しいのかもしれません。ですけど、自分たちがやり遂げて、今、スポーツが戻ってきたということは、皆にとって一番喜ばしい材料の一つになると思うので、専門家の端くれとしては、そういうことを尊重していきたいと思うんです。その象徴がオリンピックだとすれば、1年で達成できなかったら2年でもいいので、無観客でも必ずやるべき重要なことだと思っています」

 以上、厚労省のビルから北海道の研究室に戻る間際、西浦から聞き取ったことをまとめた。

 メッセージのエッセンスは、まさにこれからも続く「新しい生活様式」の日々について、これまでの文脈を共有し、反省点も共有し、かなり先にあるゴールまでモチベーションを失わずに走り切ろう、ということにつきる。そして、ふたたび、かつてと同じではなくても、人類が古くから育んできたたくさんの大切なものを取り戻していこう。まさにその第一歩を我々は歩みだそうとしているということだ。


=======================================================================
◆にしうらひろし

1977年大阪府生まれ。宮崎医科大学医学部卒、広島大学大学院医歯薬総合研究科修了(保健学博士)。ロンドン大学、チュービンゲン大学、ユトレヒト大学、香港大学で専門研究と教育を経験。2016年より現職。 専門は感染症数理モデルを利用した流行データの分析。厚生労働省新型コロナウイルスクラスター対策班で「3密」を特定し、人との接触機会の8割減を唱えたことから「8割おじさん」という異名を持つ。

【聞き手】
◆かわばたひろと

1964年兵庫県生まれ。東京大学教養学部卒業。ノンフィクション作品に『PTA再活用論』『我々はなぜ我々だけなのか』(科学ジャーナリスト賞、講談社科学出版賞)など。小説作品にフィールド疫学者が主人公の『エピデミック』など。

西浦 博北海道大学大学院教授インタビュー/聞き手・構成 川端裕人(作家)

*この記事は6月11日(木)にYahoo!ニュースに配信したものです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/7296592623494483d13edd5da3a75bb9eb35ee9b

「緊急事態宣言がほどなく終わることがほぼ確実かと思いますので(インタビュー実施は5月19日)、それを踏まえておそらく専門家のやってきたことに関してある程度検証が進むと思います。東京に出てきていた研究員たちも輪番制にして北海道に帰し、僕自身もパートタイムになります。そこで、この3、4ヵ月のうちに経験したことや、反省点、今抱いている問題意識について共有できればと思っています」

 北海道大学・西浦博教授は、Zoomのウィンドウの中からそのように語り始めた。「8割おじさん」として知られるようになった日本の理論疫学のエースは、この4ヵ月、厚生労働省(以下、厚労省)が入居する中央合同庁舎5号館に「登庁」する日々を送ってきた。データ分析を一手に担い、対策の科学的根拠を提供してきたのが西浦らのチームである。Twitterでの発信や、マスコミとの「意見交換会」などを通じて、肉声を届ける回路を保ってはいたものの、今、緊急事態宣言の解除に向かって事態が好転しているように見える時だからこそ、話しておきたいことがあるという。

「これまで目標としてきた流行の制御はできたわけですが、課題もたくさん残されていますし、コミュニケーション上、誤解を解かなければならない部分もあります。何より、今後のことで心配なこともいくつかありますから」

 というわけで、本稿では、西浦が、今「コロナ禍」の体験を共有するすべての人たちに伝えたいことをまとめる。

クラスター対策班の誕生

 まずは、2月から西浦らが経験してきたことについて。これは西浦らがなぜ「クラスター対策班」で、国の意思決定に影響をおよぼすアドバイスをする役割を担ったのかという点にも関わってくる話だ。 「実は、COVID-19の流行が始まるずっと前から、国立感染症研究所の脇田隆字所長や感染症疫学センターの鈴木基センター長といった方々と、なにかの流行が起こった時は北大の西浦研究室(以下、西浦研)が東京に出て、至急で研究・分析ができるチームを作って手伝う、という話をしていたんです。それもあって、2月の前半にダイヤモンド・プリンセス号の問題が生じた頃から僕はすでに個人的なレベルで厚労省のビルにいてデータ分析をしていました。最初の頃は『下船オペレーション』に付き添う形です。下船する人から何人感染者が出て、この後、発病したり亡くなる方がどれくらい出るかという計算をしていました。その間、北大の研究員たちが3人ぐらい僕と一緒に上京してきて作業をしていました」

 今となってはものすごく過去のことに思えるが、当時、中国での流行が制圧局面で、ダイヤモンド・プリンセス号の問題は、日本のみならず世界的な関心の中心だった。オペレーションのまずさが批判されてネガティヴなイメージが強かったものの、船内の感染制御によって感染者や死亡者を減らすことにはある程度成功していたと後になって分かったし、下船後に2次感染から流行を生み出すこともなかった。満点のオペレーションではなかったにせよ、なんとか切り抜けたといえる。その背後にリアルタイムのデータ分析を担当した西浦らのチームがいたわけだ。

 「大学の研究室とはまったく違う生活スタイルで、朝8時には厚労省にいて、船内と無線がつながっている部屋につめて、データ分析して、国会の質疑があるのでそれ用のデータも作らなきゃと対応すると、日付が変わる頃になってやっと帰るような日々でした。それで厚労大臣たちとの関係もできてきて、2月25日になって新しい組織の話が出たんです。東北大学の押谷仁先生と僕と、感染研の脇田所長、鈴木センター長が呼び出されて、こういうチームを作るから厚労省のビルの中で活動してくれと。それでうちは来られる研究員を総動員することにして、15~16人ぐらいが東京に来ました。東北大の押谷先生のところと、他の大学から参加した人たちもいて、総勢30人ちょっとくらいで活動することになりました」

 

 クラスター対策班の誕生である。以降、北大の西浦研は事実上の総動員態勢で、厚労省の中で分析を担当することになる。2月25日と言えば、ダイヤモンド・プリンセス号の件は下船がひと段落して、概ね先行きが見えてきた時期だ。一方では北海道の「第一波」の流行が始まっており、28日には知事判断による「緊急事態宣言」が出されることになる。そこから実に3ヵ月にわたって、北大の西浦研や東北大学の押谷研などが厚労省の中に拠点を持って活動することになった。結成時のプレスリリースによると、サーベイランスと接触者追跡を感染研が、データ解析を北大が行い、東北大が中心となったリスク管理チームがリスク管理案を策定することになっている。

 もっとも、クラスター対策班は、当初こそ、主な業務が日本各地で発生するクラスター対策そのものだったが、次第に活動範囲が広がり、そのうちに名前が実情と合わなくなっていく。西浦が「8割おじさん」として知られるようになった時期には、個別のクラスター対策では間に合わず、全国的に「接触の8割削減」がテーマになったわけだが、それでも名称は同じままだった。 「実は、患者ベッド数の予測とか、海外からの感染者侵入シミュレーションさえやっていましたから、途中から名称変更のリクエストもしていました。『データ解析班』的なものを作ってもらえないかとか。でも、そこまで手が回らなかったというのが正直なところです」

「消えやすいウイルス」だと分かる

 日本で疫学の専門家が政府に近いところに入り、その知見をインサイダーとしてリアルタイムで提供するケースはこれまでほとんどなかった。COVID-19でのクラスター対策班が事実上、初だ。だから、西浦らは、専門家として提案した政策や対策がどのように効いてくるか、内部者として最速で見る稀有な体験を得た。もちろん、COVID-19は、感染から発症を経て検査を受け、その結果が出るまで2週間もかかる非常にやっかいな遅延を持った感染症だが、それでも自らのチームを含むデータ集積の努力もあって(「ボランティア班」と呼ばれる大学院ボランティアで都道府県のプレスリリースなどからかき集めていた部分も大きいそうだ)、いち早くデータにアクセスして最新の動向を分析できる立場にあった。 「第一波で分かったのは、これが流行対策によって消えやすいウイルスだということです」と西浦は言う。

 ここでまず注釈しておかねばならないのは、「第1波」の意味だ。  世間一般では、つい最近脱したばかりの緊急事態宣言をもたらした「波」が、第1波だと考えられている。しかし、西浦たちの観点からは、それは第2波だ。第1波というのは、2月、中国からもたらされたもので、北海道では大きな流行が起きた。これはいったん制御されたものの、3月になって欧米からの帰国者由来の流行があり、それが今につながる第2波だ。対策班にとっての第1波、第2波をまとめて、世間では第1波と捉えており、そんな中、北海道の人たちだけは、対策班と同じ感覚で、第1波、第2波という言葉を使っているかもしれない。

 そのあたりを理解していただいた上で、西浦が「消えやすいウイルス」と言う真意を問う。 「クラスター対策って、多くの人が感染するようなところを見つけて潰していくわけですが、第1波の頃、まだこのウイルスの性質がよく分かっておらず、実はもうちょっと少数の2次感染が起こるところも見ておかないと、制御できないんじゃないかと心配していました。でも結果的に、3月の上旬には一度、制御に成功できました。このウイルスが思っていたよりも『消えやすい』ことが分かったんです」

 ここで、今、多くの人が知るようになった、再生産数Rについて思い出そう。これは1人の感染者が、何人の2次感染者を生むか平均を取った数字で、特に「免疫がない集団に最初の一人の感染者が入ってきた場合」のものは基本再生産数(R0)として、その病原体の感染力を表す指標として使われる。R0が1よりも小さい感染症は、1人の感染者が1人未満の2次感染者しか生まないのだから流行せずに消える。しかし、1を超えると、ねずみ算式に増えていって流行する可能性がある。パンデミックになるようなウイルスのR0は、当然、1よりも大きい。そこで、感染制御の立場からは、様々な介入によって実効再生産数を下げて1よりも小さくするのが目標ということになる。

 西浦らが取り組んだクラスター対策では、多くの2次感染者が生まれるような環境(クラスター感染が起きる環境)を重視して、連鎖を切ったり、予防策を講じてきた。これはCOVID-19の伝播の仕方として、ほとんどの人が2次感染をさせなかったり、少しの2次感染者しか生まないのに対して、ごく一部の感染者が8人、10人というふうに多数の2次感染者を出すことが分かってきたからだ(最近、北米の合唱団で1人から52人が感染した報告があり、びっくりさせられた)。例えば、Rが同じ2の感染症でも、全員が2人ずつ2次感染させるようなものなら「全員」に対策しなければならないけれど、一部の人がたくさん感染させるがゆえに平均としてのRが上がっているなら、その一部の人たちや、そういった感染をしやすい環境を制御することで、平均を1以下に下げることができるかもしれない、という発想だ。

 さらに、こういう「Rの分布のばらつき」が大きい場合の特徴として、R0が1を超えていても、自然に消えてしまうことがあり、そちらの効果も期待できるという。 「1人当たりの感染者が生み出す2次感染者数を、分岐過程という確率過程で記述すると絶滅確率というものが出てきます。仮にR0が1を超えていても、実際のところでは勝手に消えていく確率が90パーセントですよとか、分布のばらつきが大きければ大きいほどそういう消えやすい傾向があるんですね。クラスター対策の最初の頃に僕らが悩んでいたのは、2次感染者を少ししか生まない人たちの曝露環境もちゃんと見ないと、そこで絶滅確率も変わってくるので、そこがどうなっているのか心配だったんです。その後いろんな地域で対策がうまくいっているのが分かって、このウイルスはやはり絶滅しやすくて、勝手に消えていく性質があることを強く感じました」  だから、クラスター対策は、大きな感染の連鎖を断ち、その環境を制御して予防することで、ウイルスが「絶滅」するのを助ける、ということでもあった。ただし、こういった「消えやすい」性質に期待できるのは、感染者があまり多くない時だけだ。  そして、3月中旬から下旬にかけて、事態が急変する。

接触を削減することでも解決できる

「実は僕も押谷先生も、新規の感染者をいったんはゼロにできるかもしれないと楽観視していました。状況が変わったのは3月上旬から中旬にかけてです。イタリアだけじゃなくてアメリカ、ドイツ、スペイン、それからイギリスで、かなりのスピードで感染者が増えたんですね。これは衝撃でした。残念ながら、どれだけ検疫を強化しても、そういった国々から日本人は帰ってきますし、その中に感染者がいるのは避けられません。3月19日の専門家会議で僕も相当戦ったんですけど、当時はまだ経済重視で、つまり何か事が起こる前から引き締めるような選択肢はありませんでした。それで、その週末、すごい人出で、上野公園の様子なんかをテレビで見て危機感が募りました。そこで、僕は医学の医療従事者向け情報サイトm3に、『助けてください』という記事を書いた記憶があります」

 西浦は、「『解禁ムード』広がってしまうことを大変危惧」「今こそイベント自粛とハイリスク空間回避が必要」として、「今は2月よりも厳しく、今からこそイベント自粛とハイリスク空間を避ける声を保健医療の皆さんから届けていただけるよう、助けてください」と述べている。後にヤフーニュースにも転載されて、「非常識を承知で分かりやすいようにミサイルで例えると、1月から2月上旬は短距離ミサイルが5~10発命中した程度ですが、この3月のパンデミックの状況というのは空から次々と焼夷弾が降ってきているような状態」という生々しい表現が話題になった。

 この時の懸念はまさに当たっていた。いや、西浦には、データ分析の上でもその予兆を捉えて未来が見えていた。だからこそ強い警告を発し、緊急事態宣言が出た後も「8割おじさん」として「接触削減」のメッセージを発し続けることになった。 「この時期は本当に大変なことになっていました。後からの分析で実効再生産数が分かるんですが、東京では2.5ぐらいで安定的な値を取っていたんです。これは1日だけの瞬間風速じゃなくしばらく続いています。だから、日本でも欧米なみの大規模流行を起こす可能性があったということは明白です。でも、オリンピックが延期されることになった3月24日あたりから、小池百合子都知事がイベント自粛の要請など、どんどん手を打ってくれて、それに従って実効再生産数が落ちていきます。さらに、国の緊急事態宣言が出た後は、都市も地方も含めて皆さんが協力的に接触を削減してくれた成果もはっきり出ました。『自粛を要請する』って日本語が崩壊しているようなコンセプトですけど、それで流行が防げたこと自体は良かったかと思います。本当にそれで大丈夫なのかと心配でしたが、やり遂げました」

 自粛の要請という、とても不思議なものでCOVID-19の感染制御に成功したというのは、なんとも複雑な気分にさせられる。しかし、それで失敗して感染が広がるよりずっと良かったことには違いない。西浦はそこは積極的に評価すべき点だとした。

 以上、まとめると、比較的感染者が少ない段階ではいわゆるクラスター対策が有効で、「絶滅確率」に期待することもできる。一方、感染者数が増えてしまった後でも「接触を減らす」という取り組みで対処できる。

 これは良いニュースだ。普段づかいの対策と、いざという時の秘策が、ともに検証されたことは大きい。

 しかし、大いなる課題や問題点も、同時に明らかになる。 「人の接触を減らすのは、経済的なダメージが計り知れないわけです。僕らが泊まっているホテルの近くの飲食店でも、店を閉めることにしましたというところが出てきましたし、『レナウン』という名のある企業の倒産が当たり前のように新聞に出る状況は、異常な事態ですよね。そういうのを見ていると政府の対策として公衆衛生と経済のつなぎをどうするのか、なんとかもっとうまく政治的な解決手段を講じてくれないだろうかというのが最近までの自分の実感としての悩みで、感染者が増えた時に関しての明確な答えはまだないんです」 「感染者が少ない時」の対策についてはともかく、「感染者が増えた時」の対策は劇薬だ。しかし、また同じ状況になったら、緊急事態宣言の再指定をせざるを得ない。だから、これまでの反省点を洗い出し、できるだけそのような事態にならずに済むように努める必要がある。

(以下、「後編」に続く)


=======================================================================
◆にしうらひろし

1977年大阪府生まれ。宮崎医科大学医学部卒、広島大学大学院医歯薬総合研究科修了(保健学博士)。ロンドン大学、チュービンゲン大学、ユトレヒト大学、香港大学で専門研究と教育を経験。2016年より現職。 専門は感染症数理モデルを利用した流行データの分析。厚生労働省新型コロナウイルスクラスター対策班で「3密」を特定し、人との接触機会の8割減を唱えたことから「8割おじさん」という異名を持つ。

【聞き手】
◆かわばたひろと

1964年兵庫県生まれ。東京大学教養学部卒業。ノンフィクション作品に『PTA再活用論』『我々はなぜ我々だけなのか』(科学ジャーナリスト賞、講談社科学出版賞)など。小説作品にフィールド疫学者が主人公の『エピデミック』など。

  IL-6遺伝子を発見し全構造を解明するなど、輝かしい業績をあげてきた免疫学者の平野俊夫先生に、新型コロナウイルス感染症を克服するまでの道のりについてご寄稿いただきました。 集団免疫の方策について、また、今どのようなワクチン・治療薬が研究・開発されているのか、最前線の状況を解説。


6月10日発売の『中央公論』7月号に先駆けて、全文公開いたします。

はじめに

 読者がこの論考を読んでおられる6月10日には日本はどのような状況になっているだろうか? 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が、緊急事態宣言(5月25日に全面解除)により一定の収束を迎え、ある程度社会生活が戻りつつあることを祈るばかりだ。  2019年12月末に中国・武漢ではじまった新型コロナウイルス感染症との闘いは水際作戦で失敗、パンデミックとなった。この闘いは、100メートル走でも1万メートル走でもなく、フルマラソンであることを改めて認識し、ペース配分を考えないと完走できない。そして、最悪を想定するのが危機管理の原則だ。治療薬やワクチンが開発されない限り、このマラソンレースが2、3年は続くと覚悟を決める必要があり、その間は、全ての社会活動の低下は避けがたい。


 医療崩壊を防ぐとともに、市民生活や経済活動をどうするか。また政治のあり方や、子ども達の教育をどうするか。目の前の難局を乗り切るために、国、組織、そして個人のレベルで考え、可能な限り活動を続ける工夫をしながら、行動しなければならない。一刻も早くこの感染症の流行を収束させるためにも、それが何たるかを正しく知る必要がある。本稿では新型コロナウイルス感染症とは何かを考え、その克服の道を検討していきたい(感染者数などの数値は、後の比較のためにも、緊急事態宣言の延長が宣言された5月4日の脱稿時のものとする。数値はworldometerを参照した)。

過去の教訓は活かされたか?

 昨年12月末に中国で発生した新型コロナウイルス感染症は、当初、中国政府が情報公開せず、また事態を甘く見ていたこともあり、瞬く間に中国国内に広がった。台湾当局が素早く対応し、WHO(世界保健機関)に報告したにもかかわらず、1月当初はWHOをはじめ、欧米諸国も日本も見通しが甘かった感がある。流行は中国、韓国からヨーロッパ全域に拡大し、イタリアなどでは医療崩壊さえ起きた。そして今やアメリカが世界最大の感染国になり、治療の最前線に立っていたニューヨーク市の医師が自殺してしまうなど、医療現場の悲惨な状況が伝えられている。世界全体の感染者数は5月4日現在、約360万人、死者は24万8000人(致死率7%)となり、わずか1ヵ月程で感染者数が約7倍、死者の数は9倍にまで増加した。2002年のSARSの教訓を活かした台湾や、2012年のMERSの教訓を活かした韓国のように封じ込めに一定の成果をあげた例もあるが、今や世界中にウイルスが拡散し、パンデミックとなった。


 日本では1月15日に初めての感染症例が報告され、2月はじめのダイヤモンドプリンセス号での感染騒ぎを経て、2月24日に専門家会議が今後1~2週間が瀬戸際であると発表した。そして政府は全国の学校に休校を要請した。感染爆発にまでは至っていないが、日本でも危機感が募り、4月7日に緊急事態宣言が東京都など7都府県に限定して発出され、4月16日には全国に拡大された。そして5月4日に期限を5月末まで延長することが発表された。あらゆる社会活動が冬眠状態に陥り、経済危機が迫る。


 日本では、5月4日現在、感染者数は1万4877人、死者は487人で推移している(致死率3.3%)。感染者数はPCR検査の規模に依存するので海外のそれと必ずしも比較はできないが、人口100万人あたりの日本の死亡者数は4人であり、ベルギーの677人、スペインの540人、イタリアの478人、アメリカの207人と比較しても2桁少ない状況が続いている。医療崩壊が生じていないドイツの82人と比較しても20分の1だ。日本は、政府と国民が一致団結して行っている対策が功を奏しているように見える。一方で、単位人口当たりの死亡者数が少ないのは、まだ解明されていない他の理由によるものかもしれない。また、2010年に出された新型インフルエンザ対策総括会議の報告書に明記されているように、日本にもアメリカのCDC(疾病予防管理センター)などのような危機管理体制が整備されていれば、現在の混乱は回避できたかもしれない。今回こそ必ず教訓を活かして将来の感染症に備えることを肝に銘じるべきだ。

人類と感染症の闘いの歴史

 人類の歴史は感染症との闘いの歴史だった。感染症の免疫を持っているか否かが戦争の勝敗や、文明の盛衰に大きな影響を与えたのである。中世ヨーロッパではペストが大流行し、人口の半分近くが死亡し、中世封建体制が崩壊した。16世紀にアステカやインカ帝国がスペイン人によって滅ぼされたが、武力以上に大きな影響を与えたのが感染症に対する免疫の有無だった。ヨーロッパでは天然痘の流行がしばしばあったが、当時北米や南米大陸には天然痘が存在せず、現地の人々には免疫がなかった。インカ帝国を200人たらずのスペイン人兵士が襲撃し、その中に天然痘の罹患者が1人いた。スペイン兵は集団免疫を持っていたため大事には至らなかったが、この1人の罹患者からインカの2000万人にあっという間に天然痘が広がり、半数近くが死亡したのである。インカ帝国は1年でスペインに降伏した。


 新型コロナウイルスは、我々に免疫がないという点で、当時のインカ帝国の人にとっての天然痘に相当する(もっとも天然痘の致死率は約50%なのではるかに危険だ)。また、1918~20年に世界的に流行したスペインインフルエンザでは5億人が感染し、5000万人が死亡したと推計されている。スペインインフルエンザでは、収束するまでの2年間に3度の流行の波を繰り返した。最近では2002~03年のSARS、2012~15年のMERSや2009年の新型インフルエンザの流行がある。

ワクチン・治療薬の実現可否で、収束に2、3年かかる可能性も

 感染症の流行が収束する条件は集団免疫閾値(Herd immunity threshold)で決まる。これは、ワクチンや自然感染により集団が免疫を獲得する割合のことだ。例えば、1人の感染者から3人に感染する威力があるウイルスの場合、3人のうち2人が免疫を獲得していれば、感染者は増えない。これは3分の2の割合、すなわち67%の人が免疫を獲得するまで感染が広がることを意味している。感染させる威力が小さければ、割合は小さくなる。新型コロナウイルスの威力(基本再生産数、後述)は1.25~2.5人と推定されているので、2.5人とすると60%、1.25とすると20%の人が免疫を獲得するまで感染が広がることを意味する。これはあくまでも特定のウイルスなどの病原微生物に対して免疫が成立するということが大前提で、免疫が成立しないか、成立しても短期間しか持続しないような感染症に対しては適用できない考え方である。

 これは以下のような式で表せる。


 H=(1-1/R0)×100

 H:集団免疫閾値, R0:再生産数〔1人の患者が感染させる人数〕


 再生産数には、基本再生産数と実効再生産数がある。  基本再生産数は3つの要素、ウイルスの性質、感染する人の遺伝的要因や生活習慣、そして環境要因や社会習慣などの社会的要因によって決まる。ウイルスが異なれば当然基本再生産数は異なる。例えば、季節性インフルエンザは1.5~2、麻疹(はしか)は12~18と言われている。また同じウイルスでも変異により感染力が増減する。感染様式が飛沫感染か空気感染かでも異なる。感染する人の遺伝的要因や免疫力などの相違も反映される。また、握手やハグ、あるいは土足で家に入るなどの生活習慣などの相違も反映される。これらの要因を総合した結果、特定のウイルスの特定の国や地域での基本再生産数が決まる。当然ながら、同じウイルスであっても、ヨーロッパ人と日本人では遺伝的要因や社会的要因の相違で数値は異なるし、同じ日本であっても、大都市と農村地域では異なることになる。  そしてもう一方の実効再生産数は、前記3番目の社会的要因を政策的に変動させることにより、基本再生産数を人為的に操作した時の数字である。例えば人と人との接触機会を減らすなどの社会距離戦略(Social distancing)を取り、新たな社会環境を一時的に作り出した時の基本再生産数と考えてもよい。


 麻疹は、乳幼児にワクチンを接種、または自然感染して免疫を得ることで集団免疫が成立し、大流行を防いでいる。ワクチン接種と自然感染の両方を併せて集団免疫閾値を獲得すると感染は広がらずに収束に向かうことになる。しかし新型コロナウイルスに対するワクチンが存在しない状況では、20~60%の人が自然感染して免疫を獲得しなければ収束に向かわないことになる。


 感染収束までに要する期間は単純ではなく、様々な要因に依存する。医療崩壊を抑えながらどの程度の社会距離戦略を、どの程度の間隔と頻度で行うか。BCG接種などの影響による自然免疫がどの程度感染防御や重症化防止に関与しているか。さらに、遺伝要因や社会的要因など様々な不確定要素に依存している。現状のように、ワクチンをはじめ画期的な治療薬や医療技術なしでの収束には少なくとも2、3年はかかる可能性がある。しかも日本だけ収束しても世界で収束していなければ、海外からの第2波が日本を襲う。

集団免疫と社会距離戦略

 スウェーデン政府の「感染拡大を前提として集団免疫を達成することにより感染流行を収束させる」という方針が世界から注目を浴びている。市民の行動規範を信用することにより、経済活動などの社会活動を原則として政府主導では制限せず感染流行を収束させる方式で、中国が実施した極端な都市封鎖や、それとは程度の差はあるが欧米や日本に見られる政府主導の社会活動の制限政策とは対極をなす。


 周知の通り中国、または欧米や日本は、都市封鎖や、外出規制や在宅勤務など、人と人の接触機会を減らす社会距離戦略により、実効再生産数を1以下に誘導して感染を収束させる戦略を取ってきた。一方、スウェーデンは実効再生産数を積極的に1以下にする政策は取らず、国民の意識に基づく行動に委ねる。言い換えれば、社会距離戦略を国主導で行うか、国民主導で行うかの違いとも考えられる。社会距離戦略は以下のように大きく4つに分類できる。


(1)完全隔離方式

社会距離戦略を極端に強め、1人1人を完全に隔離してしまう(実効再生産数ゼロ)方式。感染流行は非常に短時間で収束し、死亡者数は最小限に収まる。


(2)武漢方式

実効再生産数を1以下で限りなくゼロに近づけることを最優先して行う方式。これは中国・武漢で行われた完全なる都市封鎖に当たる。この政策によりウイルスの拡散を減らし、比較的短時間で流行を収束させることが可能となる。


(3)欧米・日本方式

程度こそ異なるが、欧米や日本で取られている方式。実効再生産数を1以下にするのを目的として社会距離戦略を行い、感染拡大が弱まれば医療崩壊が生じない程度に緩和し、状況により再び強化する。これをワクチンや治療薬が開発されるまで継続する。比較的長期化する。


(4)スウェーデン方式

早期に集団免疫閾値が達成できるように、実効再生産数を1以下にするための積極的政策介入をしない方式。市民に対して自主的に社会的距離をとる行動を求める。


 感染症対策に限定すれば(1)の方式はもっとも効果的だが、社会生活や家族生活が完全に停止することを意味するので、実現は不可能だ。


 また(1)と(2)の方式では集団免疫を獲得できないので、一旦収束しても、外国など他の地域からの第2波の感染を防ぐことはできない。武漢では初期対応を誤り医療崩壊が生じて多くの犠牲者が出たが、その後は(2)の方式により短期間で収束させた。

(3)の方式は、ワクチンや治療薬ができるまで時間稼ぎをしながら犠牲者を可能な限り少なくできるが、社会活動に与えるマイナスの影響が長期化する。またワクチン開発と併せて集団免疫の獲得が可能となる一方で、社会距離戦略の実行の判断を誤ると、感染者数が急激に増え医療崩壊により死者の数が増える結果になる。イタリアやアメリカのニューヨーク市でこの医療崩壊が生じている。日本は政府による要請というもっともゆるい社会距離戦略を取りながら、5月4日現在では医療体制のキャパシティ以内に感染者の数を抑えている。


(4)のスウェーデン方式は、最大の目的を集団免疫閾値達成に定めて、社会活動を保ちながら短期間で感染症を収束させるという方式だ。しかし短期間に多くの死亡者が出ることにより世間の批判が噴出するリスクと、一歩間違えば医療崩壊に伴い多数の犠牲者を出すリスクが高い。一方で医療体制が十分なら、死者数は感染症本来の致死率の範囲内に収まる可能性が高い。スウェーデン方式はハイリスク、ハイリターンであると言える。


 スウェーデンにおける人口100万人あたりの死亡者数は265人で、致死率(感染者が死亡した割合)は12%だが、隣国のデンマークでは、84人と5.1%、フィンランドでは42人と4.4%である。また、医療体制が優れているとされている(3)の戦略をとっているドイツでは82人と4%だが、医療崩壊が生じたイタリアでは478人と14%だ。また医療崩壊が生じているニューヨーク市では、1256人と7.6%だ。ちなみに日本では4人と3.3%だ。スウェーデンでは単位人口当たりの死者数や致死率が高いので、すでに医療崩壊が発生しているという見方もあるが、そうではなく、将来発生すると予想される死者数が単に前倒しで発生しているだけだと考えることもできる。

検査体制を整え、1日も早い実態解明を

 世界の人口を計算単純化のため70億人、日本を1.2億人とする。基本再生産数を2.5とすると世界で42億人、日本では7200万人が感染しなければ収束しないことになる。もし、何も対策をせず、現時点の推定致死率(世界:7.0%、日本:3.3%)を基に単純計算すれば、世界で約2.9億人、日本で約240万人が犠牲になることになる。果たしてそうだろうか?


 現在、各国でPCR検査を行いその感染者数が報告されているが、PCR検査は無症状の感染者も含めて検査しているわけではないので、実際の感染者数はそれより多いと考えられる。また、現在の抗体検査では普通のコロナウイルスによる風邪にも反応するなど、必ずしも新型コロナウイルスだけに反応する保証はない。それでも、アメリカなどで予備的に行われた抗体陽性者の割合から推定すると、実際の感染者数は、PCR検査で確定された数の10倍以上存在すると考えられている。この結果を参考にすると、感染者数は10倍以上になるので、致死率は10分の1以下となり、日本のそれは0.33%となる。その結果、予想される死者の数は世界で2900万人、日本で24万人以下となる。さらに、もし実際の感染者数が20倍なら予想死者数はさらに半減する。


 ここまでの数字は、先述の通り新型コロナウイルスの基本再生産数を2.5として推定した数字である。しかし、もし基本再生産数が1.25で、実際の感染者数をPCR検査で算出された感染者数の20倍と仮定とすると、感染者数は世界で14億人、日本では2400万人となり、死亡者数は世界で480万人、日本で約4万人と推定値も下がる。後述するように、日本の死亡者の数はさらに少なくなるかもしれない。


 ニューヨーク市では、社会距離戦略のもとに、感染流行はピークを過ぎて収束に向かっている。4月27日の記者会見でクオモ知事は、抗体検査の結果ニューヨーク州全体で15%、ニューヨーク市内では25%が感染していると述べた。抗体検査にはその正確性にまだ問題があるかもしれないが、集団免疫の成立(20~60%)に近づきつつあることを意味している。


 さらに、医療崩壊していないドイツと日本を比較すると、致死率はほぼ同じだが、ドイツでの流行は日本より遅れて始まったにもかかわらず日本の感染率はドイツの20分の1だ。すなわち、日本の方が感染しにくいことを意味している。しかし、PCR検査数が少ないので感染率が実際よりも低くなっているだけかもしれない。そして検体数を増やした時に、ドイツ並みに日本の感染率が上がったとすると、逆に致死率はドイツの20分の1以下となり、日本人は重症化しにくいということになる。


 感染しにくい理由としては、日本で流行しているウイルスは感染力が弱い、日本人は遺伝的要因や生活習慣要因でアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)受容体などの発現が少なく感染しにくい、社会慣習の違いで社会距離が大きい、などの要因が考えられる。また重症化しにくい理由としては、日本のウイルスは弱毒性である、遺伝的要因や食などの生活習慣、あるいはBCG接種などの自然免疫力などにより、日本では感染してもウイルスに対する抵抗性が強く重症化しにくいなどの要因が考えられる。


 感染しにくいのか、重症化しにくいのか、あるいは両方の要因が交じり合った結果なのかは、PCR検査を増やすか、無作為抽出抗体検査により感染率を正確に調べることによって判明するはずだ。感染しにくいということは基本再生産数が低いということであり、ドイツよりも感染割合が少ない状態で収束することになる。また、致死率が低ければ、当然医療崩壊のリスクも低く、最終的な死亡者の数も少なくなる。日本では医療体制を整えながら、社会距離戦略を緩和し、社会活動をもっと早く正常化に近づけることが可能かもしれない。


 このように、再生産数や致死率によって推定される死亡者数も大きく変わる。現在、日本における感染率は不明で、致死率の予測も不正確だ。登山で言えば現在何合目にいるのかがわからない状況のため、有効な対策も出口戦略も見えてこない。実態を正確に把握する必要があり、1日も早く全国的な無作為抽出による抗体検査が必要だ。


 またPCR検査においても、手間暇かかる鼻腔粘膜から綿棒で検体を採取する方法から、唾液に替えるとともに、現在の手作業から全自動の機器態勢に速やかに変えなければならない。さらに補完として、抗原検査の導入が望まれる。抗原検査の感度はPCR検査より劣るが、ウイルス抗原を免疫学的手法で検出することで簡易にウイルスの存在を検出可能である。


 日本でも6月10日の時点でPCR検査や抗体検査の態勢が整い、実態がより正確に判明していることを期待する。いや実現していなければ日本の未来は暗い。

医療体制整備は出口戦略の要

 どのような社会距離戦略を取るかは、それぞれの国の事情によるところが多く、また、感染症対策と社会活動はトレードオフの関係にあるので、どの戦略が優れているか一概には言えない。しかし共通して重要な点は、医療体制の整備である。仮にキャパシティが無限大であれば、どの戦略を選択しても医療崩壊に至ることはない。医療体制のキャパシティは、医療機関や医療関係者の量や質、医療レベル、そして医療機関と行政との連携の質に依存する。日本は、穏やかな社会距離戦略で感染拡大のスピードを抑制し時間を稼ぎながら、医療体制を整備し、ワクチンや治療薬の開発を進める戦略だ。しかし、医療体制や検査体制を整えるスピードがあまりにも遅い。医療体制のキャパシティを増強することこそが、緊急事態からの出口戦略そのものであると発想を転換し、医療体制と検査体制強化に全力投球すべきである。


 仮に3年間で日本の人口の20%の2400万人が感染し、その20%が重症化し、その50%がICUを必要とするなれば、ICUが必要な患者数は240万人になる。ICU1床で3年間に平均40人の重症患者を治療できるとすると、ICUが6万床あれば良いことになる。現在日本にはICUが約6000床ある。ドイツでは、感染症対策としてICUを40%増やした結果、4万床となった。ドイツの人口は約8000万人で、日本の人口に換算すると6万床に相当するので決して不可能な数字ではない。前述したように、日本人は重症化しにくい可能性もあるので6万床までは必要でないかもしれない。ICUで治療ができる十分な医療体制が整っていれば、安心して社会活動を正常に戻すことも可能となる。


 極端な例を示したが、医療体制の整備が出口戦略の鍵となることを強調したい。感染症との闘いは2、3年続く長期戦であると考えると、医療体制のキャパシティを少しでも増強すべく、国、都道府県と、医療機関や検査機関、医師会や看護師会との連携と協調が欠かせない。これに加えて、医療の質を上げることができれば、飛躍的に医療体制の強化が可能となる。社会活動の正常化や経済の立て直しに向けての最善の策は医療体制強化であり、これに全力投球すべきだと考える。

ワクチン開発は集団免疫獲得と医療体制増強の要。しかし......

 ワクチンの開発が実現すれば重症者が減り、相対的に医療体制が強化される。集団免疫の獲得が容易になり、感染拡大はすみやかに収束する。また、治療薬が開発されれば重症化率と致死率が下がり入院期間も短くなるので、その影響力は季節性インフルエンザ並みになる可能性がある。


 ワクチンや治療薬を開発するには、ウイルスの正体を理解しなければならない。ここで改めて、新型コロナウイルスの正体に迫りたい。


 一般的な風邪を引き起こすコロナウイルスには4種類あることが明らかになっている。また、これまでの研究から、SARSウイルス(SARS-CoV)や、MERSウイルス(MERS-CoV)は、コロナウイルスの仲間であることがわかっている。これらウイルスの遺伝子情報があったことで、2019年の年末に中国で発生した原因不明の重症肺炎を引き起こすウイルスが、RNAウイルスであるコロナウイルスの仲間、SARS-CoVやMERS-CoVと似ていることがわずか2ヵ月以内という歴史的とも言える短期間に明らかになった。WHOはこのウイルスを「SARS-CoV-2」と命名し、これによって引き起こされるウイルス感染症を「2019年新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」と命名した。SARS-CoV-2の遺伝子はSARS-CoVと約80%、MERS-CoVとは約50%似ている。また、コウモリのコロナウイルスと約90%似ているため、コウモリ由来と考えられている。これほど迅速にウイルスが解明されたのは、以前の研究成果が素早く生かされたためで、20世紀には考えられなかったこと。医学や科学技術の進歩の賜物である。


 新型ウイルスの遺伝子情報が早期に得られたので、ワクチン開発も非常に早く開始できた。しかし、ワクチン開発には安全試験や有効性の試験が必要で、少なくても1~3年、場合によっては5~10年を要すことも珍しくない。有効性や副作用の面で問題が生じることもあるので、各種の方法で推進することが必要だ。現在、欧米や中国、そして日本で様々な研究機関や製薬企業がワクチン開発に取り組んでいる。早ければ2021年はじめにワクチンが完成する可能性もあるが、決して予断を許さない。というのも、麻疹や風疹のように一度罹患すれば、または一度ワクチンを接種すれば長期間再感染しないものもあれば、ノロウイルスのように短期間に再感染するものもある。つまり、免疫がどのくらい持続するかはウイルスによって異なるのだ。またデング熱やSARSウイルスなどでは、抗体が逆にウイルス感染を促進する現象が報告されている。よって、新型コロナウイルスの免疫がどのように成立し、どのくらい持続するかは、今のところ不明点が多い。1日も早く有効なワクチンが開発されることを願ってやまないが、ワクチンどころか、集団免疫も成立しない最悪の事態も考えておかなければならないだろう。

治療薬は現状打破の有効手段であり、最後の砦

 新型コロナウイルスに対する免疫が成立しても、一過性で長続きせず、集団免疫もワクチン開発も不可能となった時、最後の砦は治療薬である。また、この感染症の80%が無症状か軽症ですむことを考えると、致死的な急性呼吸器不全に至る重症肺炎を防ぐ有効な治療薬の開発が社会距離戦略を緩和し、社会活動を正常に戻すためにも大きな力となる。


 SARSウイルスが細胞に感染する(細胞に侵入する)には、細胞表面にあるACE2というタンパク分子に結合する必要があること(このようなタンパク分子をウイルス受容体と呼ぶ)、さらにACE2に結合するウイルス蛋白であるスパイク分子が細胞表面にあるタンパク分解酵素(TMPRSS2)で切断される必要があることがこれまでの研究でわかっていた。これらに基づき、新型コロナウイルスもACE2を受容体として、TMPRSS2依存的に細胞に感染することが超スピードで3月には明らかになった。これらの研究成果は治療薬開発の重要な基礎となっている。


 治療薬は大きく分けると2種類に分類可能である。  1つはウイルスの増殖や細胞への感染などを阻害する抗ウイルス薬だ。新型コロナウイルスはRNAウイルスであることが明らかになっている。同じくRNAウイルスであるインフルエンザの治療薬として開発された ファビピラビル(商品名アビガン)や、やはりRNAウイルスであるエボラ出血熱の治療薬として開発されたGS-5734(同レムデシビル)などはRNAの増幅を阻害することにより新型コロナウイルス増殖を抑制することが期待されている。また膵臓炎の薬として開発されたTMPRSS2の阻害薬であるナファモスタット(同フサン)やカモスタット(同フオイパン)はウイルスの細胞侵入を阻害することが期待されている。これらの抗ウイルス薬は感染初期から中期に効果が期待できるが、後期に発生する急性呼吸器不全を伴う重篤な肺炎にはあまり期待できない。しかし、これらの候補治療薬が有効であれば重症者の数は減り、致死率も下がるだろう。


 もう1つは、致死的な呼吸器不全に至る「重篤肺炎」に対する治療薬だ。新型コロナウイルス感染症では、感染者の約20%が重症の肺炎になる。さらに重症肺炎になった患者の30~40%が急性呼吸器不全を伴う重篤な肺炎に陥り死に至る。時には全身の臓器が機能不全に陥る多臓器不全も生じる。もし致死的な急性呼吸器不全を阻止できれば、致死率は低下する。


 急性呼吸器不全や多臓器不全になると、これらの臓器の細胞が破壊される結果、呼吸器機能や腎臓機能などが失われる。このような重篤な肺炎は、新型コロナウイルスが引き金となってはいるが、実はウイルス自身が引き起こしているのではなく、体の免疫応答の暴走で起こる自己破壊的な現象である。これはウイルスなどに対して感染防御に働いているタンパク質サイトカインの1種であるインターロイキン6(IL-6:Interleukin-6)などの様々な免疫応答制御分子が爆発的に産生されるサイトカインストーム(サイトカインの嵐)により、患者自身の肺組織を自己破壊する現象だ。したがって前記の抗ウイルス薬は有効ではない。


 私自身は、1986年にIL-6を発見し、以来34年にわたりIL-6の作用の仕組みや、IL-6の異常でなぜ関節リウマチなどの自己組織破壊的な炎症性疾患が発症するのかを研究してきた。そして、IL-6が増幅される仕組みを解明し、このIL-6増幅回路(IL-6アンプ)の異常により関節リウマチなどの炎症性疾患が発症することを明らかにした。こうして、IL-6阻害薬のトシリズマブ(同アクテムラ)が関節リウマチに効果がある医学的根拠を明らかにしたのだ。関節リウマチは関節でIL-6アンプがじわじわと長期間にわたり活性化されている状態である。長年積み重ねてきたこれらの基礎研究の結果から、新型コロナウイルス感染症に見られる重篤な肺炎は、IL-6アンプの活性化が爆発的に肺で生じることによりIL-6をはじめ様々な炎症性サイトカインが過剰に産生されて引き起こされるサイトカインストームであることを提唱した論文を4月にアメリカの免疫学雑誌である『Immunity』に発表した。


 白血病の治療にCAR-T療法と呼ばれる非常に優れた治療方法があるが、この治療における重篤な副作用はサイトカインストームで生じることがすでに明らかになっている。特筆すべきことは、IL-6の作用を阻害する抗体医薬であるトシリズマブがCAR-T治療の副作用であるサイトカインストームに対して有効であるということだ。したがって、新型コロナウイルス感染症に見られる重篤肺炎はトシリズマブなど、IL-6の作用を阻害する薬剤で治療できる可能性がある。すでにアメリカや日本でトシリズマブをはじめ複数のIL-6阻害薬の臨床試験が進行中だ。これが有効であれば、重症肺炎で死亡する感染者の数は減り、新型コロナウイルス感染症はインフルエンザ並みの感染症になる可能性もある。

地球市民として連帯と協調を

繰り返しになるが、目の前の医療体制のキャパシティを早急に引き上げ、検査体制を整備することが必要だ。ワクチン開発や治療薬の開発も国を挙げて全力投球しなければならない。財源と人材を医療体制を整えることに集中的に投資することが暗夜を切り抜ける最善の方策であり、正道である。


 また、2009年の新型インフルエンザの教訓を十二分に活かせなかったことを猛省し、将来の新たな感染症はもちろん自然災害や放射線災害に備えるために、これらを一元管理する危機管理センター(仮称)を、今度こそ実現しなければならない。


 今回の未知の感染症に対してわずか2、3ヵ月以内という歴史的スピードでウイルスの正体やその感染の基本的な仕組みが明らかにでき、ワクチン開発や治療薬開発の道筋ができたのは、過去の基礎研究の積み重ねがあったからである。引き続きウイルス学や免疫学などの基礎研究を強化して、将来の未知の感染症などに備えなければならない。


 18世紀に、産業革命からスタートし、世界大戦を2度も経験した時代が終焉を迎えつつある。それは成長神話に基づく経済至上主義の時代であった。究極までに環境と生物多様性を破壊してきた時代であった。新型コロナウイルスは数百年に1度訪れる歴史の転換点を私たちに提示し、新しい時代の扉を開こうとしている。


 経済至上主義から持続可能な社会への転換を図らなければならない。企業も社会あっての存在であることを自覚し、利他の精神のもとに公共の福祉に今まで以上に貢献すべきだ。感染症はもちろんのこと、環境や生態系の破壊を防止することを真剣に考えなければならない。また、科学技術を基に、持続可能な社会を構築していかなければならない。


 今回の新型コロナウイルス感染症は、いみじくも私たちに、「世界は一つである」こと、「国境はないこと」を教えてくれた。最近芽生えつつある、グローバル化から一国主義、協調から対立へ、信頼から疑心暗鬼への流れに新型コロナウイルスは警鐘を鳴らしている。世界が協調しなければ、新型コロナウイルス感染症を克服することはできない。 「地球市民」としての自覚と、「相手の立場を尊重し、信頼し、助け合う、連帯と協調の精神」が重要である。


(『中央公論』2020年7月号から先行公開)

楽観していた日々が一転

 横浜に寄港していたダイヤモンド・プリンセス号での感染者増加への懸念が少しずつ高まりつつあった二月十日、私はレオナルド・ダ・ヴィンチ没後五〇〇年に関わるテレビの取材で、日本からイタリアのミラノへと向かった。その時点では欧州での感染者の報告はまだ出ておらず、制作サイドは撮影には支障がないと判断していたし、私もこのウイルスについては、現代医療や政府の組織力で近いうちに抑えられるものだろうと楽観していた。


 しかし、我々の搭乗機は悪天候の影響で、経由地であるロンドンへの着陸を断念。イギリスのヒースローを目指していたフライトは、急遽、ドイツのミュンヘン空港に行き先を変更することになった。ミュンヘン空港には、ほかにも目的地に着陸できなかったフライトが一斉に集まってしまい、行き先の変更を余儀なくされた大勢の客によって大混乱状態に陥っていた。入国審査では数え切れない乗客たちの長蛇の列ができていたが、中には激しく咳き込んでいたり、血の気のない顔をして椅子に座り込んでいる人もいる。その光景を見たとき、私の中で初めて新型コロナウイルス感染への不安が芽生えた。


 実はその取材が終わったら、私はイタリアのパドヴァの我が家にいったん戻ろうかと考えていたのだが、学校の教師をしている夫から「COVID-19は自覚症状がなくても感染している場合がある。万が一を考慮したほうがいい」と忠告され、大げさだと思いつつも諦めることにした。しかし、そんな空港の有り様を見ているうちに、夫のリスク回避の考慮が一気に現実味を増した。


 ようやくたどり着いたミラノの空港の通関ゲートでは、数人の係員が搭乗客を一人ずつ止めては額に赤外線体温計をあてていた。そのために出口がボトルネックとなり、先になかなか進めなかった。まだその時点では感染者の報告は無かったが、事態を見越した慎重さがうかがえた。イタリアでは感染症に対して神経質な人が多いことを踏まえると、そのような空港での念入りな水際対策も不思議ではなかった。


 例えば私の義母は、毎年インフルエンザの流行にいち早く備えようとしており、流行の兆しが見えると、家族分のワクチンを薬局から調達してきて、「備えあれば憂いなし」と皆で接種する。日本人が普段しているようなマスクがイタリアで普及しない理由のひとつにワクチン接種が手軽にできる安心感も関係しているのかもしれない。


 ミラノやロンドンでの滞在中は、周りから心配されたような東洋人差別に遭うことはなかったし、現地のニュースでも、中国・武漢の感染拡大や、日本に寄港しているクルーズ船について、決して最優先で扱われているわけではなかった。対岸の火事とまではいわずとも、自分たちの国で感染者が出ないうちは、それくらいのスタンスで良かったのだろう。


 ところが日本に帰国して間もなく、事態は一変した。つい先日まで訪れていたミラノを州都とするロンバルディア州のコドーニョで、最初の新型コロナウイルスの感染者が見つかり、その翌日には我が家のあるパドヴァ県で、感染による最初の死亡者が出たと報道されたのだ。


 イタリアは一気に緊張感を高めた。二日後にはパドヴァの大学も含む教育機関全てがたちまち閉鎖。中国からのフライトを受け入れない措置が取られ、スーパーマーケットに買い物に出た夫から、ビニールの手袋を付けた手で商品を棚から取っている写真と、普段はマスクなどすることのないイタリアの子供達が、マスク姿で道を歩いている写真が送られてきた。イタリア国内での感染者数はロンバルディア州やヴェネト州、そしてエミリア・ロマーニャ州など北部を中心に日に日に増えていき、北部イタリアの各都市ではロックダウンを実施。迷彩服を着た軍隊と警察官があらゆる道に配置された。夫は同じヴェネト州内の四〇キロ離れた街にある両親の家へ行くことも叶わなくなった。


 ヴェネツィアではちょうどカーニヴァルが始まったばかりだったが、大きな観光収入をもたらすこの伝統行事の実施も、不満に思う観光客や地元の人々の声に耳を貸す間もなく、瞬く間に中止となった。普段の観光客の絶えることのないヴェネツィアのサン・マルコ広場からも、ミラノのドゥオーモ広場からも人影が消え、イタリアの新聞の一面に、無数の鳩と数人の兵士だけが写っている珍しい写真が掲げられた。

イタリア北部の経済的特性

 最初の感染者が見つかって以来、北部イタリアを中心として感染拡大に歯止めがかからなくなった要因について様々な臆測が行き交った。ミラノやヴェネツィアを訪れる中国人観光客が感染媒介の中心になったのではないかという噂もあったが、私は当初からそうは感じていなかった。


 コドーニョでのイタリア最初の感染確認者は、ビジネスで中国を訪れていた帰国者と、その人の濃厚接触者から感染したとされた。イタリア北部のロンバルディア、ヴェネト、エミリア・ロマーニャといった六州には、イタリア全二〇州の経済の半分を支える中小企業や工場が集中しており、経済において、中国との関わりが他のイタリアの地域に比べて圧倒的に多い。


 ヴェネト州で私の知り合いが経営する自動車部品工場も、親族が先祖代々営むセラミック工場も、経済的な利便性を理由に数年前にイタリアから中国に生産拠点を移していた。北部にはそのような会社が多く、近年イタリアと中国を往復する経営者や労働者は著しく増加していた。イタリアには現在三〇万人と言われる中国人が暮らし、その大半は北部に集中している。ヴェネツィアでもミラノでもフィレンツェでも、中国人がイタリア人から買い取って経営しているカフェや飲食店が少なくない。遡ればトウ小平の時代から、イタリア経済が脆弱になっていくにつれ、中国からの入国者も増え続けてきた。北部に集中して感染者が増えた理由には、そうした中国依存型の経済が大きく関係している。

世界中での深刻な感染拡大

 メディアで新型コロナウイルスの感染が報道された直後、イタリアでは一旦、日本と同じようなクラスター防止策が取られていたが、間も無く大規模なPCR検査が一斉に実施され、わずかながらでも不安を感じた人々は皆病院に駆け込むようになった。そして、それが後の医療崩壊へとつながっていった。


 "無意識の感染媒体"というCOVID-19の厄介な性質が一般の人たちにも認識されるころ、イタリアでは既に悲惨な事態が頻発しており、無意識に自分がウイルスを移してしまった父親がたちまち重症化して死んでしまったと、悲しみ悔やむ入院中の息子の映像が何度も流れていた。


 容赦無く感染死亡者数が増えていく中、ロンバルディア州に次いで感染者の多いヴェネト州の病院で介護士をしている夫の従兄弟も感染した。幸い重症では無かったそうだが、電話越しに様子を伝える家族の声にはただならぬ緊迫感があった。


 海外では、日本におけるPCR検査実施数の少なさなどを含めた対策や、報告される感染者数及び死亡者数の抑制された数値に、メディアが注視し始めた。長い歴史から得た教訓で、どんな詳細で説得力のある情報であろうと鵜呑みに信じることはせず、自分の頭で分析し疑念を投じるのがイタリア人である。私と夫の電話も、日本とイタリアの事態への対策や受け止め方、そしてお互いの緊張感の温度差を巡って、喧嘩のような会話になる回数が日に日に増えていった。ずいぶん早い段階で、このウイルスの性質を通常の風邪やインフルエンザと同じだと言った私の言葉を「経済を止めないために、そう思い込まされているようにも感じる」と勘ぐった。


 東京オリンピックの延期が決まる以前、海外の報道では、日本のPCR検査の抑制は、大会の実施を考慮したものではないかという疑念の声が少なくなかった。一方イタリアでは、驚異的な経済的ダメージと、その後の想像を絶する後始末への懸念を抱えながらも、余計な躊躇はせず都市閉鎖を実施した。それゆえに、イタリア人には、日本政府が緊急事態宣言で唱えた"自粛"という意味がのみ込めない。夫には、日本の憲法上、緊急事態とはいえ命令というかたちでの強制権はなく、ロックダウンをしても政府は外出禁止令を出すことはないだろうと言うと、「行動の判断も責任も国民が個人で持てという意味なのか」と問われ、自粛とはそういう意味だと不安気味に返す。


 確かに、欧米の首相のように切迫した事態を人々に強く訴えかけ、激励し、苦境と向き合う姿勢を求めようとする演説には、聴く人の緊迫感を高める効果があるが、雄弁さを指導者に求めているわけでもない日本では、メディアを介して錯綜する情報から、それぞれがすがるべき言葉を探し出すしかない。


 ただ、いくら首相が責任感に満ちた力強い演説を行っても、安置場所を確保できないいくつもの棺を、イタリア軍のトラックが街の外へ運び出す映像は世界中を震え上がらせたし、何より医療崩壊については、イタリア国民も目を逸らすことのできない大問題ではあった。その話題を振れば夫も押し黙る。


 ドイツでの感染による死者は、皆ICUのベッドで亡くなっているのに対して、イタリアではICUどころか病床にも就けず、ましてや人工呼吸器など目にすることもなく亡くなる重症者であふれた。そして、最初はイタリアだけが向き合っていたこの問題が、間もなくスペインやイギリス、アメリカへと波及することになる。


 国内で最もたくさんの感染者と死者を出しているベルガモ市では、感染の有無を確かめられぬまま自宅で重症化して死亡するというケースも多発した。イタリア全国における三~四月期の全体死亡者数を前年度の数値と対比した結果、実際の感染死者数現状よりも二万人増とする報告もある。

 かつては世界第二位とされていたイタリアの医療だったが、世界金融危機の際にEUから財政規律を課され、財政赤字と巨額累積責務を減らすために医療費が削減された。それによって病床数は減らされ、早期退職と給与削減を促された医師たちの中には海外に出ていく人も増加した。私はかつてイタリアで三度ほど入院した経験があるが、そのうち二回は一般の病室に空きがなく、廊下にベッドを設えられた。イタリアでの医療崩壊の根本的要因はそういった既存の問題点に紐付けられる。


 医療全体に不安材料を抱えながらのPCR検査の一斉実施も、莫大な財政危機を懸念する余地もなく実行に移されたロックダウンや経済活動の抑制も、日本の政府が下してきた判断とは大きく違うが、「人の命が先に守られなければ、優先されなければ、先には進めない」と言い切るイタリアの家族の言葉越しに、彼らの倫理観がキリスト教によって象られていることを痛感せざるをえなかった。たくさんの感染死者を出してしまったのも、希望者全てに対する検査が先決という判断がもたらした結果だったとも言えるし、スペインもおそらくそれと同質の理由が起因で死者数が増えてしまったのではないかと思う。

イタリアの国民性

 イタリアの高齢者数は第一位の日本に次ぐ高さだが、夫の実家でも、かつて百歳近い老人二人が、老衰で亡くなるまで同居をしていた。それもまたキリスト教の倫理観が根付いた社会の傾向であり、よって老人介護施設は日本のようには普及しない。年寄りは無条件で敬われ、家族に守られて当然の存在なので、三世代で高齢者と一緒に暮らす世帯が珍しくないが、そんな家族構成もCOVID-19というウイルスには好都合だった。小さな孫は学校から戻ると祖父母にハグをして頬にキスをする。食事の場では老人たちも一緒にテーブルを囲んで、皆盛んにおしゃべりをする。その家族の中にひとりでも感染者がいた場合、どのような顛末を導くことになるのか。そんな一般的なイタリアの家族の様子を思い浮かべるだけで、辛い気持ちになる。


 前述したように、イタリアではマスクの着用が普及してこなかった。うちの子供もかつて日本から持ってきたマスクをつけて登校をしたところ、直ちに担任の教師から「恐ろしい疫病でもあるまいし、皆が嫌な気持ちになるからすぐに外しなさい。風邪くらいで大げさだ」と指示されたことがある。 イタリアでは過去のパンデミックの恐怖が様々な形で今に伝承されているが、我が家の場合は、自分の父親を感染症で亡くした祖母が、第一次世界大戦後に流行ったこの疫病による惨憺たる有様をうろ覚えながらも語り続けていた。その当時に撮影されたマスク姿の人々の写真には、異常事態下の不安と恐怖が映し出されている。つまり、マスクは物騒で不穏な記憶を呼び覚ます疫病の象徴として捉えられてきたと言っていい。ワクチン接種が頻繁であること、喋りにくい、表情が見えないといった違和感だけではなく、百年前から受け継がれてきた疫病のトラウマも、彼らがマスクを嫌厭する理由になっていると考えられる。 先日イタリアの街頭でインタビューを受けた女性は「自由を拘束する忌々しいマスクを早く外したい、こんな不吉なものは二度と付けたくない」と心境を語っていた。


 イタリアでの感染率の高さの要因を、こうした日常生活のレベルで考察してみると、思い当たる事柄はいろいろある。  だが、満身創痍になりながらも苦境を乗り切ろうとしている彼らの中には、これまでの歴史で積み重ねられてきたパンデミックの経験が息づいている。感染症の恐ろしさについては国語や歴史の授業でも学ぶし、美術館で見かける恐ろしい死神の形で表された黒死病の地獄絵図を見た人は大人でも震え上がるだろう。学校の教育や日々の生活で感染症への警戒心を煽られることは滅多にない私たち日本人との受け止め方の差異は明確だ。


 パンデミックとは、それまでの自分たちの社会のあり方や人間としての脆弱さを冷静に見改める希有な機会だと言えるが、情報に翻弄されない模索や疑念を含む想像力の駆使は、いったん終息の気配を見せているこれからも間違いなく必要だ。 果たして私たちは新たなる感染拡大の可能性に対して緊張感を維持していけるのか、各国政府が打ち出す対策や姿勢はこれからもしばらく比較されていくことになるだろう。そして、そこから得られるデータは、自国を正当化したり自負や安堵を高める為にではなく、情報に翻弄されない個人の思考力や判断力を鍛えるための手がかりと捉えていきたい。


(『中央公論』2020年6月号を一部加筆修正)

─名門婦人服メーカーを舞台に、戦後から今日まで八五年間のアパレル業界の栄枯盛衰を描き、大ヒット中です。


 執筆のきっかけは、二〇〇二年に村上ファンドが老舗婦人服メーカー、東京スタイルに仕掛けたプロキシー・ファイト(委任状争奪戦)です。日本初の「物言う株主」を描こうと、東京スタイルの株主総会にも潜入しました。  両者の争いは、ワンマン社長の高野義雄氏が率いる東京スタイルが、銀行や商社との株式持ち合いを強化して勝つには勝ったのですが、その後、村上氏が証券取引法違反で逮捕され、高野氏はがんで急死し、会社は別のアパレル・メーカーに経営権を奪われ、消滅してしまいました。なんというドラマかと思って、五年前から取材を始めました。


村上世彰氏や高野義雄氏にも取材をされたのですか?


 村上氏にはプロキシー・ファイトの頃、広尾の「アッピア」というイタリアン・レストランに連れて行ってもらって話を聞きました。超高級店で、タレントの梅宮アンナが来ていましたね。村上氏は「爺殺し」と言われるだけあって、愛嬌があって、人を惹きつける人でした。  高野氏のほうは、郷里の山梨県の人たちに話を聞きました。運動神経抜群で、子どもの頃はありとあらゆる悪さをして、お母さんが柱に縛り付けて箒で叩いていたそうです(笑)。  ユニクロの柳井正会長兼社長は実名で登場しますが、柳井氏と仕事をしたことがある人に話を聞いたり、同社の広報を通じて事実関係を確認したりしました。飾らない性格で、物事を徹底して追究していく人のようですね。


─小説という表現形式を選ばれたのは、なぜですか?


 私は昔から城山三郎さんや山崎豊子さんのように事実を物語形式で書いてある作品を愛読していました。読みやすくて、頭に入ってきやすいですから。作家デビューして間もない頃、角川書店のベテラン編集者から「黒木さんの表現方法はいいと思います。物語で勉強したいという読者は多いですから」と励まされました。ただ自分で作ったフィクションは基本的に入れません。書いてあるのは実際に起きたことです。  小説の利点というのは、たくさんの人たちの経験を一人の登場人物に集約し、テーマや業界を最も効果的かつ分かりやすく表現できることです。今回の作品で言えば、アパレル・メーカーの営業マンからマーチャンダイザーになる堀川利幸、アパレル業界の変遷に応じて様々な業務を手がける総合商社マンの佐伯洋平などです。ノンフィクションでまともに書いたら、登場人物が百人ぐらいになってしまいます。


─五年間で約六〇人に取材されたそうですね。


 事実の重みが、作品の迫力と説得力の源泉だと思うので、たくさんの人たちに会って、ドラマを掬い上げていくのが自分のスタイルです。  作品としてモノになるかどうかは、意外性があって人間臭いエピソードを発掘できるかどうかですね。今回の場合は、早い時期に取材させてもらったある百貨店の婦人服担当者から、売り場の模様替えのとき、各アパレル・メーカーの営業マンたちが勢揃いして、少しでもエスカレーターに近く、少しでも広い場所を確保しようと、激しい陣取り合戦を繰り広げるという話を聞きました。そのとき「あっ、このテーマはモノになるな!」と直感しました。  このほかにもはっとしたエピソードがたくさんありました。  たとえば、東京スタイルの創業者の住本保吉さんが厳しい人で、粋がって金時計をしていた社員の腕時計を金づちで叩き壊したとか、札幌の百貨店で長年婦人服売り場を担当していた人が、仕事のあと居酒屋に行って、その日に売れた商品の半券を目の前に並べて、売れ筋の予想を必死に立てた話。一九九二年に紳士服安売りの青山商事が銀座に進出したとき、オンワード樫山が商品を買って分解し、実際にどれくらいのコストの製品なのかを調べた話。三菱商事がイタリアのサルヴァトーレフェラガモ社に頼まれて、日本の旗艦店開設用に銀座の角地を必死に探した話。尾州(岐阜県と愛知県にまたがる日本最大の毛織物産地)の毛織物メーカー(機屋)が常に経営危機にさらされながら、時代遅れのションヘル織機を使って、天皇(現・上皇)陛下が着るスーツの布地を作るまでになった話などです。


─主人公たちが話す武骨な甲州弁も土臭さがあって印象的です。


 甲州弁については岩波書店の編集者がよい監修者を探してくれて、作品に独特の味わいを出すことができました。岩波は編集者に限らずインテリが多い出版社で、色々なツテを持っていて、ずいぶん助けてくれました。中国語の上海方言の監修にも、京都大学の研究者をすぐ探してくれました。


─他の作品同様、海外の場面も多く登場します。


 今回の作品の取材では、上海、ミャンマー、ブルガリア、フェラガモ本社があるフィレンツェなどに行きました。ロンドンは地元なので、地下鉄で。  上海では、かつて勤めた銀行の後輩や国際金融の案件を一緒にやった他行の人たちが皆、支店長や中国総代表級になっていて、話を聞かせてくれた上にご馳走までしてくれました(笑)。  縫製大国の中国には日本の工業用ミシン・メーカーも多数進出しています。全土に出張して、各地の工場に納めたミシンの操作方法の指導やメンテナンスを行っています。縫製業は労働集約型産業なので、ミシンの輸出先は発展途上国が中心で、ベトナムやカンボジアなど東南アジア諸国をはじめ、パキスタン、アラブ首長国連邦、トルコ、東欧、エチオピア、南アフリカなどだそうです。「トルコの商売はこんな感じ。マダガスカルではこんなことがあった」と次々話が広がって、発展途上国好きの私も舌を巻きました。  ミャンマーでは発展する国独特の熱気が渦巻く工業団地、ブルガリアでは首都のソフィアや世界遺産のリラの僧院を取材しました。  自分のモットーは「もし売れなくても、読者に喜んでもらえるいい本を地味に作ろう」なのですが、今回は取材の成果が売れ行きに結び付いた幸運な作品となりました。


(『中央公論』2020年6月号より)

評者:難波功士(関西学院大学教授)

 読者諸賢にはどうでもよいことでしょうが、私は一九六一年生まれです。同年の生まれとしてつねに意識しているのは、マンガ家の桜玉吉唐沢なをき、それからスコットランドの俳優ロバート・カーライル。これらの人々の新作が出たと知ると、ともかく読むし、何をおいても見ます。そこまでするのは、この三名のみです。


 とくに桜玉吉は、エッセイマンガを約三〇年にわたり発表し続けており、そこに描かれた近況や心境はまさしく私のそれだと思う瞬間がこれまで多々ありました。子どもの時に見たテレビやマンガ、若い頃接した映画や音楽、姉との二人きょうだいで育った点、一人でいることを苦にしない性格、さらには桜が調布あたりに仕事場を借りていた際、となりに反社会的勢力の人が住んでいたのに対し、私はその頃巣鴨にてそれらしき人の隣室に暮らしていたなど、シンクロするポイントは多々あります。


 桜が三十代に入る頃から『しあわせのかたち』(アスキー、全五巻)で始まった、身近な出来事や人物を描く作風は、『防衛漫玉日記』(同、全二巻)、『幽玄漫玉日記』(同→エンターブレイン、全六巻)と引き継がれ、桜は不惑やら厄年をむかえます。その間、離婚やうつの発症がありました。


 そして『漫玉日記』(エンターブレイン、全三巻)に描かれた四十代は、決して「おゆるり」なものではありませんでした。女性との新たな出会いと別れがあり、メンタルの激しい浮き沈み、自身の中の別人格が暴走する解離的な状況なども描かれています。歴史上の人物の書き残したものなどから、その精神や心理の状態を分析する「病跡学」という学問分野がありますが、将来その研究対象になるのではとさえ思えるほどです。


 その後、休業状態に近い時期を経て、五十代に入るとマンガ喫茶に常駐してマンガを描くというスタイルで、徐々に復活を果たしていきます。適度に外出し、でも人と深く関わらないという環境下でなら、かろうじてネタを拾え、マンガが描けたようです。そして五十代半ばにさしかかり、『日々我人間』の連載が始まった頃から、伊豆の別荘地での隠棲へと移行していきます。


 今日一日で会ったのは、コンビニの店員とシカ、ウサギ、イノシシ、ネコだけ。リスとサルとムカデと戦うリアルポケモンGOのような毎日。『日々我人間』第二巻の「静かな秋」の回では、玄関先で爪を切っていると、その音に反応して、遠くで猛禽類が、近くで山鳩が鳴き、近所のネコが見に来ます。そうした田舎暮らしとともに、自身にしのびよる老いが、淡々と語られていきます。


 それとともに描かれるのは、地方で急速に進行する人口減少と高齢化。よく利用していた一〇〇円ショップは閉まり、山道の決まった縁石にはいつも腰掛けている「ルンバじじい(充電中)」がおり、中央分離線のない道路では高齢者ほど道の真ん中を走り、対向車に気づくのも遅い......。それで桜はミラーを折る接触事故にあう羽目となり、マンガの欄外で「死活問題なので単なるお願いですお願いします」と、ご老人に安全運転を呼びかけることになります。


 またこれは『伊豆漫玉ブルース』(KADOKAWA)にあったエピソードなのですが、桜がコンビニで買い物をしていると、老女にいきなり郵便貯金のカードを渡され、ATMを操作して預金を下ろしてくれと頼まれます。桜が顔をそらして「ハイ。じゃ暗証番号押して!」と言うと、老女は「いちさんろく」と声に出し始めます。「だめだよ言っちゃ!」と諭しても「いいのいいの」と動ぜず、下ろす金額も指定してきます。金とカードを受け取り、「ハイどーも」と去っていく老女。桜はただただ「ポカーン」。


 そこには運転が怪しくなっても、タッチパネルが扱えなくても、一人で生きていく高齢者の現実があります。いよいよ自身の還暦を目前にして、また桜にも私にもやや耳の遠くなった母親がおり、いろいろ考えざるをえません。


 私にとっての『日々我人間』は、面識はないにせよ、三〇年来の知己の生存確認ができるマンガです。週刊誌の片隅の小さなスペースが、末永く続くことを願っています。
(現在、二巻まで刊行)


(『中央公論』2020年6月号より)

危機にこそ先人に学ぶ

岡崎》新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫)が売れているそうですね。


永江》先日チェックしたらAmazonでは品切れ、私が見た限り、街の本屋のどこにも在庫がありませんでした。


岡崎》久しぶりやなあ、本屋から消えるほど売れる本の話を聞くのは。


永江》大きな社会的事件や事故がきっかけで特定の本が売れるというケースは、わりとあるんですよ。東日本大震災の後には吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫)が話題になり、鴨長明『方丈記』が災害記録文学として注目されました。ただ『ペスト』は、虚構なんですよね。石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫)が売れるのはわかりますが、『ペスト』は一九四七年に出版されたフィクションであって、もともとは全体主義やファシズム、共産主義などのメタファーとして読まれていたわけでしょう。


岡崎》確かに、小松左京『復活の日』(角川文庫)なんかのほうが、時代的にはリアルな気がする。


永江》でも、実際に感染症が流行ってみると、あまりにも似た状況が起きている。流行初期には医師会のボスが「ペスト」と言わないようにしようとするとか、行政の初動が遅れるとか、街を封鎖したら人々のフラストレーションが極限まで溜まっていくとか。半世紀以上前の小説ですが、今の私たちにリアリティをもって迫るものがある。


岡崎》現実的な危機や恐怖は、読書の入り口としては間違っていない気がするね。


永江》先人に学ぶ、ということですよね。震災後の原発事故では東京電力側が「想定外だった」と連呼しましたが、明治、昭和の大津波の状況や人々の行動を記録した『三陸海岸大津波』を読むと、決して「想定外」ではなかったとわかる。みんなが忘れてしまったような過去の事実をきちんと伝えてくれるのは、書物のすごさだと思います。

一発屋と定番作家

岡崎》二〇〇八年頃「年越し派遣村」に関連して、小林多喜二『蟹工船』が注目されたこともありましたね。新潮文庫版が一年で五〇万部売れたとか。文庫と漫画の総計が八〇万部! Tシャツや「蟹工船弁当」まで出た(笑)。〇八年一月、高橋源一郎と雨宮処凛が行った『毎日新聞』での対談で雨宮さんが「『蟹工船』は今のフリーターの置かれている状況と似ている」と発言したのがきっかけだったそうですが。


永江》バブル崩壊直後にはフリーター=気楽でいいよね、というイメージだったのが、景気の悪化に伴ってワーキングプアや貧困が深刻化し、全然気楽じゃない、ひどいぞ、と。その流れでプロレタリア文学への注目が高まり、「蟹工船」ブームにつながったのでしょう。


岡崎》しかし他のプロレタリア文学、例えば小林多喜二を描いた戯曲、井上ひさし『組曲虐殺』(集英社)にまで手が届いたとか、中野重治を読み直す人が増えているという話は聞かないから、どこか一発屋っぽい。もちろん、普段読まない人が読んでみようかなと思い、読んだら意外と迫力があって面白いとなれば、それでいいんだけど。継続した読者にはならないという意味では、タピオカのブームと同じちゃうかな。(笑)


永江》今回『ペスト』を手にとった人には、篠田節子『夏の災厄』(文春文庫)も読んでもらいたいな。これは篠田さんが八王子市役所勤務時代の経験から書いた小説で、日本脳炎に似た伝染病に突如襲われた郊外の街が、行政の後手後手の対応のせいでパニックになるという話です。


岡崎》カミュといえばサルトル、サルトルといえばボーヴォワール、みたいな方向性もありますよ。カミュをきっかけに同じ実存主義文学の作家を芋づる式に知ってもらえると、僕らとしては非常にうれしい。


永江》継続的な人気ということで言うと、太宰治ブーム。あれは定期的に来るよね。


岡崎》ああ、ありますね。


永江》しかも不思議なのは、ほぼ全作品が「青空文庫」(著作権の消滅した作品、または著作権者が許可した作品をインターネット上で無料公開したサイト)でタダで読めるのに、本が売れているということ。これはまだ青空文庫に収録されていないけれど、夏の文庫フェアでは『人間失格』は集英社、新潮、角川に入っている。


岡崎》やっぱり紙の本を手元に置いておきたいんだ、というのは救いですね。


永江》二〇〇七年夏、集英社文庫が『人間失格』に『DEATH NOTE』で人気の漫画家・小畑健によるイラストのカバーをつけたら一ヵ月半で七万五〇〇〇部売れたとか、芥川賞を受賞した、お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹が心酔しているというので話題になったり。そもそも太宰人気の基礎はずっとあるんですよね。遺体が発見された日を「桜桃忌」として今でも墓参が絶えないのは、その証です。だからこそ何かきっかけがあると、大きなリバイバルにつながる。

POP・帯・書店員のチカラ

岡崎》目立たなかった古典が、店頭POPや帯からブームになることもあるね。井上ひさし『十二人の手紙』(中公文庫)が売れているそうですが、一九七八年の刊行当時、話題になった記憶はないんだよなあ。


永江》旧作文庫の発掘企画の一つだったようですよ。都内の書店でレジ前に置いてみたら、コンスタントに売れた。そこでミステリーマニアで知られ、「本屋大賞」に関わっている広島のカリスマ書店員に帯コメントをもらって展開したところ、三ヵ月で一〇万部に届くヒットになった。  書店員による発掘はときどきあります。古いところでは、テリー・ケイ『白い犬とワルツを』(兼武進訳、新潮文庫)。千葉県の津田沼駅前にあった昭和堂の店員のPOPから人気に火がついた。


岡崎》書店員が本のことを知らないとか悪口を言われる中、意地を見せてくれた感じがしたな。


永江》『十二人の手紙』も、二年前に突然ブレイクした三島由紀夫『命売ります』(ちくま文庫)も、帯の文句が手書き文字でした。九〇年代に流行したヴィレッジヴァンガードの手書きPOPに馴染みのある層にとって、手書き文字の味わいは、ポジティブなイメージなんですよね。


岡崎》洗練の逆やね。かつて駅の伝言板にチョークで書かれた汚い文字のような生々しさというものが、世の中から消えてしまった今、手書きが新鮮というのはよくわかるな。


永江》その感覚を中公文庫やちくま文庫はうまく使っていますよね。


岡崎》ちくま文庫は何と言っても、獅子文六を復活させたのが偉い。三十代の編集者が「やりたいんだ」と社内を説得して。 永江 メガヒットを狙わないのが勝因かもね。そこそこ売れればいい、ぐらいのスタンスが逆に効いている。

力のある作家はよみがえる!

岡崎》しかし『十二人の手紙』の井上ひさしにしろ有吉佐和子『悪女について』(新潮文庫)の再ブームにしろ、やっぱり力のある人やね。物語をきちっと書ける人の本が再読されている。傑出した作家の、面白くて、しかも現代性のある作品。これ、大事やね。読めば絶対に面白いんだけど、特に物故作家の場合、出会うチャンスがない。となると、何かのきっかけで若い世代が知ればブームは起きうる。  佐藤泰志という一九九〇年に自死した地味な純文学作家を巡っても、似たようなことが起きている。二〇一〇年前後から次々と作品が文庫化され、さらには代表的著作がすべて映画化されるという「佐藤泰志バブル」が起きて、僕もいろいろ仕事させてもらいました。最近では、野呂邦暢の再評価が進んでいます。随筆集『夕暮の緑の光』(みすず書房)は新装版が出ました。力のある作家はリバイバルするんですよ。特に佐藤は社会の閉塞感に打ちひしがれた若者を描いているから、時代が回り回って今ヒットするのでしょう。  売れたといえば、『漫画 君たちはどう生きるか』(羽賀翔一画、マガジンハウス)は売れたねえ。あれはまず、コミックやね。


永江》原作は吉野源三郎のロングセラーですね。中高年以上の人に「若者に薦めたい本」を聞くと挙がる。


岡崎》鶴見俊輔さんも、一級の哲学書だと推していました。


永江》漫画の大ブレイクには仕掛けの妙もあったと思います。原作に大胆なアレンジが加えられている。岡崎さんがおっしゃったように、元々が長く支持される良質な作品であり、形を変えたことでそれをより広い読者に知らせることができた、ということなんでしょうね。

漫画で開眼、古典の魅力

岡崎》ただあの話は僕みたいな貧乏な時代の大阪に育った者からすると、ちょっと鼻につくのよね。「おじさん」はきっと帝大生でしょう。


永江》まあね。でも原作が書かれた一九三〇年代当時、高等教育を受けられたのは人口のおそらく一、二%。エリートの責任のようなものがあった時代ですからね。


岡崎》ノブレス・オブリージュですか。


永江》そうそう。漫画が優れた表現手段だなと思うのは、銀座・和光の上から俯瞰するシーン。小説ではわからない細部のイメージが手に取るようにわかる。絵画表現のすごさを感じましたね。


岡崎》羽賀さんの絵がまた、ざら紙の匂いのするようなタッチで、内容にマッチしていたしね。  漫画といえば、「マンガ 日本の古典」シリーズ(中央公論新社)が刊行から二五年を経て、再び売れているとか。描き手がみんな超一流。


永江》中高生が漫画で歴史や古典を学ぶ流れは、「ビリギャル」で完全にできましたね。「ビリギャル」のモデルになった女子高生が「学習まんが少年少女日本の歴史」シリーズ(小学館)を愛読して慶應義塾大学に合格したことから、「歴史はまず漫画で基礎を学べばいい」というイメージが親御さんの間に広まった。


岡崎》漫画はまだまだいける感じがするな。僕も谷口ジローと関川夏央の漫画『『坊っちゃん』の時代』(双葉文庫)が好きで何度も読み返しているけど、漫画から漱石や啄木に入るのもいいよね。僕なんかは漫画に対する偏見はまったくなくてね。


永江》だって岡崎さん、漫画家じゃん。


岡崎》そう、俺、漫画家。(笑)


永江》上京当初は漫画家でしたね。履歴から抹消していますが。(笑)


岡崎》じゃあやっぱり偏見あるんやな(笑)。最近驚いたのは佐々大河『ふしぎの国のバード』(KADOKAWA)やな。『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードを漫画にしようという発想がすごい。


永江》『戦争は女の顔をしていない』(小梅けいと画、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ原作、KADOKAWA)も、これを漫画にするのかと驚きました。原作はノーベル文学賞受賞作家の主著で岩波現代文庫に入っているけど、第二次世界大戦のソ連の従軍女性たちの地味な話で、たいして売れていないはずです。


岡崎》もはや漫画にできないものはない、みたいになってきたよな。僕も、もういっぺん戻ろうかな。(笑)


(本対談の後半は略)
構成:高松夕佳

 

(『中央公論』2020年6月号より抜粋)

 

=======================================================================
◆岡崎武志(おかざきたけし)

1957年大阪府枚方市生まれ。立命館大学卒業後、高校教師、雑誌編集者を経てフリーライターに。『気まぐれ古書店紀行』『読書の腕前』『上京する文學』『昭和三十年代の匂い』『蔵書の苦しみ』『気まぐれ古本さんぽ』『ここが私の東京』『古本道入門』など著書多数。


◆永江 朗(ながえあきら)

1958年北海道生まれ。法政大学卒業。西武百貨店系洋書店に約7年勤務の後、『宝島』および『別冊宝島』の編集を経てライター専業に。『インタビュー術!』『本を読むということ』『筑摩書房 それからの四十年』『小さな出版社のつくり方』『私は本屋が好きでした』など著書多数。

感染当事者からのメッセージ

─三月半ば、田嶋さんが新型コロナウイルス感染を実名で公表され、世の中に大きな衝撃が走りました。


田嶋》今にして思えば、感染したのはおそらくヨーロッパでだったのではないかと思います。二月末にイギリス・ベルファストでの国際会議に参加し、オランダ・アムステルダムへと移動しました。アムステルダムではちょうど二〇二三年女子ワールドカップ招致に関する重要な会議があり、ライバル国もプレゼンテーションする。私たちもプレゼンの機会を与えられていたし、キャンセルという選択はありえないと思いました。振り返れば、その時期のヨーロッパは今と全く状況が違っていて、町では誰一人マスクをつけていなかったし、平気で握手したりハグしたり。知人にハグされると「大丈夫かな」と多少の抵抗を感じなくもなかったけれど、拒めない。海外出張中、同行した日本人四名は必ず手を殺菌してから食事をし、部屋ではうがいや手洗いもしていたので、その時点での警戒感は欧州の人たちより高かったと思います。私はその後アメリカへ移動して女子の日本代表試合を見て、三月八日に帰国しました。思い返せばニューヨークの酒場もごった返していて、まさしく「三密」そのものでした。  一方、私がこの出張に出る直前の二月二十六日からJFA(日本サッカー協会)では在宅勤務を開始しています。というのは中国・武漢が深刻な状態となり、緊迫感が高まっていたからです。私自身はそれまでテレワークをしたこともないし、Web会議には正直、戸惑いはありました。「会議は顔をつきあわせてやるものだ」なんて思っていた人間ですから。ただ、この新型ウイルスの危険性を考慮すると、早い段階で在宅勤務に切り替えた方がよいと判断しました。後になってそれが正しい判断だったという結果になりました。


─ご自身の感染が発覚したのは、どのようなことがきっかけですか。


田嶋》三月八日、私が日本へ帰った直後にヨーロッパでは感染が一気に広がり封鎖状態になって、アメリカでも外出制限がかかり、あまりの急激な変化に本当に驚きました。私自身のことでいえば、JFAではすでにテレワーク体制にしていたため人に会うこともなく過ごし、体調の変化もありませんでした。  帰国から六日後、新しい会長を決める理事会があり、出席しました。会議終了後に少し疲労感と寒気を感じたため、今日は早めに就寝しようと寝床でネットニュースを見ていたら、「セルビアのサッカー連盟会長がコロナに感染」という報道を目にして、「待てよ、自分も同じ場にいたよな」と。すぐ医師である妻(土肥美智子氏。国立スポーツ科学センター勤務)に、同じ家の中にいながら携帯電話で相談し、妻は私が触ったドアノブなどを全て消毒して部屋で自己隔離できるようにしてくれました。家族とは直接すれ違わないように家の中の動線を分け、三食は部屋の外に置いてもらい、翌日三七・五度と微熱のある状態で保健所に電話して「同じ会議に出ていた人が発症した」と伝えました。指定された専門病院で検査を受けたら陽性で、そのまま入院でした。  医師に聴診器を当てられて肺炎と診断されましたが、息が苦しいといった症状も全くなかったからびっくりしました。何を言いたいのかというと、もし自宅で熱が下がっていたら、そのまま検査せずに動き回り誰かにうつしていたかもしれない、ということです。


─入院中はどんな思いでしたか。


田嶋》「どうかJFAがクラスターにならないでくれ」「一緒に海外出張に行ったメンバーに感染者が出ないでくれ」とひたすら祈る気持ちでした。自分の体の心配よりも他の人にうつしていないかが非常に気になりました。不幸中の幸いで協会内や海外に同行した人からも感染者は出なかったのです。  三月半ばまでの日本では、コロナに感染した人の名前はまだ一人も公表されていませんでしたが、JFA会長という公の仕事をしている以上、自分の名前を公表すべきだろうと。迷いはありませんでした。もちろん家族の同意が前提でしたが。ウイルス感染に対する警告メッセージになるとも思いました。


─ご家族も検査をされたのですか。


田嶋》僕が感染した時は「クラスター対策」の真っ最中で、単純に検査を増やすと陽性者でベッドが埋まり重篤な人が医療を受けられない、と予測されていました。妻は発熱も症状もなかったので、検査はせず二週間自己隔離することになりました。  その後、無症状者・軽症者をホテル等へ移す対処がとられるようになった。つまり局面が変わったんです。となればベットが満杯になる懸念も解消し、疫学的に考えても検査数を増やしていくべきだろうと。状況に応じて検査の仕方も変化する、ということだろうと思います。  保健所スタッフの過酷な仕事も目撃しました。私の場合は濃厚接触者が二〇名近くですみましたが、多い人は一〇〇名にも上り、一人一人コンタクトし対処方法を慎重に伝えていく仕事は非常に手間がかかる。それをきめ細かに的確に進めていく仕事に感銘を受けました。そうした現場の人たちを必要以上に疲弊させてはいけない。医療現場では防護服やマスクが不足していますが、院内感染対策が必要なことは、先んじて感染が拡大し医療崩壊した中国やヨーロッパから学ぶべきだった。なぜ日本は「子どもの宿題」のようにすぐに対応に乗り出せないのか。現場を見てきた当事者だからこそ、そこを強調したいと思います。  当事者として、もう一つ強調しておきたいことがあります。未知のウイルスが怖いというのは当たり前の感情です。私自身も再び陽性になるかもしれない。家に荷物を届けに来た宅配の人は、玄関の外にそっと黙って荷物を置いていく。「接触したくない」からです。そうした感情を当然のことと認めた上で、医療機関で感染リスクを背負いながら必死に患者に向き合っている医療従事者や関係者のことを想像してほしい。日本人はもっと、そうした人たちに敬意や感謝、応援の気持ちを持ってほしい。そして欧州では夜八時に医療従事者へ拍手を送るといった光景が見られますが、日本でも医療現場を応援する気持ちを届ける努力をしたい。医療現場を疲弊させてはならないし、崩壊を招いてはいけない。もちろん医療従事者やその家族への差別なんて絶対にありえないことです。

タフに闘うしかない

(中略)


─東京五輪開催延期を受けて聖火リレーは中止になってしまいましたが、出発予定地だったJヴィレッジ(日本サッカーのナショナルトレーニングセンター)は、福島第一原発事故に対応する最前線の拠点でしたね。


田嶋》東日本大震災からたくましく再生しつつある姿を世界へと伝える「復興五輪」、その象徴として聖火リレーのスタート地点にJヴィレッジが選ばれた時は、もう鳥肌が立つくらい嬉しかったんです。Jヴィレッジは個人的にも思い入れが強い場所で、選手の育成システム「JFAアカデミー」を創設した拠点でもあります。けれども聖火リレーの予定日の前に私自身が入院してしまったので「見に行けなくなった」とがっかりしていたら、五輪延期が決定し、全て仕切り直しになってしまった。もうこうなったら来年はさらにたくましく復興した福島を見せる、と気持ちを切り替えるべきでしょう。聖火リレーの再スタート地点はもちろんJヴィレッジに、と思います。


─日本オリンピック協会(JOC)副会長という立場から、五輪開催に向けての課題を教えてください。


田嶋》どの競技団体も「二〇二〇年の夏に最高のパフォーマンスを出す」ことを目指してコンディションを調整し、資金を投下してきました。一年延びたことにより、追加の強化資金をどこから持ってくるのかは大きな課題です。JOCの予算の大半は国から出ているので、山下泰裕会長が先頭に立ち、国やスポンサーに対して費用を捻出するための交渉を進めています。私も会長を全面的にサポートしていきます。一方、選手にとっては、練習や試合ができない時間が長くなるという問題があり、そのしわよせで今度は短期間に何試合もこなして疲弊する、といったことにならないよう、慎重に日程調整などをしていきたいと考えています。


─一年延びることで、再選考するのかどうか、選手の代表権をめぐる議論がありますね。


田嶋》意見はいろいろあるでしょう。全ての選手が納得する選考は難しいかもしれません。ただ、こんな危機だからこそスポーツの原点、五輪の原点をしっかりと見つめ直すべきです。日本はこれまで恵まれた環境下にあり、選手たちもベストに近いサポートを受けてきた。それは、この国が平和で安全で人々が健康だからこそ実現していたんですね。例えばアフガニスタンや中東などを見れば、国際紛争もあり政情不安もある。彼らはそうした環境下で必死に練習し国際試合に出てくるわけです。その過程はとても「平等」とは言いがたい。でも彼らは試合でベストを尽くして闘っています。そのように、私たちも激変した環境を現実として受け入れ、新たに設定された条件でタフに闘っていくしかないと思います。


─東日本大震災直後、なでしこジャパンの活躍が人々を元気づけました。コロナ感染危機に対して、スポーツができることは何でしょうか。


田嶋》東日本大震災はまさしく「日本の危機」でした。そして、今回のウイルス感染拡大は「世界的な危機」です。どの国の人も苦しんでいる。二〇二一年の五輪では、勝った選手も負けた選手も新型コロナに関する苦しいストーリーをそれぞれ背負っているはずです。だからこそ、危機に立ち向かい、打ち勝った姿を見せることが五輪のテーマであり、世界中のアスリートにとっての課題だと思います。ただし、楽観はできません。新型ウイルスについては判明していないことも多く、たとえ日本国内で収束したとしても、来夏に他国で蔓延していれば五輪は開催できないかもしれません。とにかく今できることにしっかりと最大限の力で取り組みたいと思います。  また、日本は治療薬の開発や供給、最新の治療技術や人工呼吸器などの医療機器の提供など、物的・人的貢献も含め、やれることはたくさんある。特に今後アフリカや南米などで感染が拡大していく恐れもあり、世界に向けて日本が貢献しなければならないでしょう。
(構成:山下柚実)


(『中央公論』2020年6月号より抜粋)

永田町政態学

 国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との電話会談を終えた三月二十四日夜、安倍首相は高揚感に包まれていた。 「すごくうまくいった。日本としては一〇〇%取れたんじゃないか」


 会談で、首相が東京五輪パラリンピック大会の一年延期を提案すると、バッハ氏は「一〇〇%同意する」と応じ、二〇二一年夏までの開催を確約したからだ。


「パンデミック」となった新型コロナウイルスの感染拡大。状況が深刻化しつつあった二月中旬から、首相はひそかに大会延期の検討を指示していた。首相官邸は「中止になったら、政権は倒れる」というほどの危機感を抱いたが、IOCの同意を得られなければ中止に追い込まれる可能性もある。首相と周辺は慎重に、そして周到に動いた。


 三月十一日に世界保健機関(WHO)がパンデミックを宣言すると、首相は延期の腹を固めた。宣言翌日、トランプ米大統領は「無観客で実施するよりも、一年間延期する方が良い選択肢だ」と発言する。首相は「渡りに船だ。これを使おう」と即断した。翌日にはトランプ氏と電話会談し、「ここだけの話」とことわった上で、一年延期の考えを伝えた。自分のアイデアを採用されたトランプ氏は「一〇〇〇%支持する。日本で開催してくれ」と賛意を示した。


 首相は、英仏首脳とも個別に電話会談を重ね、十六日に先進七か国(G7)首脳とのテレビ会議に臨んだ。首相は感染症を克服した証として大会を「完全な形で開催する」と提案した。中止ではなく、延期を示唆したものだが、提案は支持された。


 首相はIOCとの交渉に備え、聖火に着目した。聖火が日本に上陸してしまえば、既成事実として、五輪の日本開催が担保される。首相は、聖火の到着までは延期の意向を表明しないと決め、対外的には予定通り開催する姿勢を示し続けた。聖火は二十日に到着した。首相は「聖火はもうギリシャには返さない」と周囲に宣言し、大会組織委員会会長の森元首相を通じてバッハ氏との交渉に乗り出した。


 二十四日夜、首相は公邸に森氏と小池東京都知事を呼んで、バッハ氏との電話会談に臨んだ。バッハ氏は会談後に電話でIOCの臨時理事会を開き、日程について決めることを予定していた。バッハ氏が一年延期提案を受け入れる準備は整っていた。


 トランプ氏ら各国首脳と意思統一を図り、思惑通りの一年延期を勝ち取れたのは、七年以上にわたって外交面で手腕を発揮してきた首相の面目躍如と言えるだろう。もっとも、五輪一年延期で、二一年九月末に首相が自民党総裁としての任期を終えることによる「ポスト安倍」の政局の見通しは流動的となった。


 首相の意中の後継候補は自民党の岸田政調会長だという。党内の一部には、首相が今年夏の五輪・パラリンピック大会を花道に退陣し、総裁選を一年早めて岸田氏にバトンタッチするというシナリオが出ていた。一種の「禅譲論」だが、首相が来年の大会終了までは辞められない状況になり、ついえた。


 延期後の日程では、来年七月二十三日から五輪が始まり、パラリンピックが終わるのは九月五日。首相の党総裁任期満了の直前になる。そこまで衆院選がなかった場合、衆院議員の任期満了の十月二十一日も迫ってくる。すると、首相の次を担う党総裁は、事実上の任期満了による衆院選を避けることができない。選挙直前になれば、岸田氏よりも国民的に知名度の高い石破茂元幹事長が浮上してくるとの見方もあり、首相も悩ましいだろう。首相は四月七日、感染拡大を受けて法律に基づく初の「緊急事態宣言」に踏み切った。「日本が戦後、経験したことのない国難」(首相)を迎え、来年の五輪も政権の行方も、感染の収束次第と言えるだろう。長期政権の仕上げを見据え、首相にとっても先の見えない闘いが続く。(有)


(『中央公論』2020年6月号より)

書評『よその島』(井上荒野著)

| コメント(0)

評者:小池昌代(詩人、作家)

 若い頃、私は人生について誤解していた。年齢を重ねれば、少なくとも今よりは、迷いのない、真実の領域に近づけると思っていた。実際は、どうだったか。迷妄は深まるばかりである。一番、不可解なのは自分自身で、その自分の記憶ほど、頼りないものはない。思い込み、記憶違い、単なる物忘れ。否が応でも謙虚にならざるを得ない。 『よその島』は、「老い」が引き寄せたある現象を、物語の「謎」としてうまく活かし、先へ先へと読ませていく。何のことかと思うだろうが、明かすわけにはいかないので、読んでもらうしかない。


 三人の七十代男女が登場する。一組の夫婦と一人の男。それまでの人生に区切りをつけて、共同生活をするため島へやってきた。かつて古物商を営み、テレビのお宝発掘番組に出て、人気を博した碇谷芳朗、その妻、蕗子。そして芳朗の店の客だった野呂晴夫。彼は売れっ子のミステリー小説家だった。


 七十代といっても、皆どこかに子供っぽさを残し、成熟という境地にはだいぶ距離がある。現代の七十代は簡単には終わらない。もっとも、一回性という、生きることの本質に立ち帰れば、終わらないどころか、老年もまた、初めて経験する「未来」なのだ。


 物語はミステリー仕立てで進む。冒頭から、碇谷芳朗は、妻を殺人者と認識している。いったい過去に何があったのか。夫の女性問題と夫婦の危機。それらを巡る夫妻の記憶は、曖昧で生き物のように変転する。どこまでが事実で、どこからが妄想なのか。共有できる記憶は何なのか。読者も騙され、翻弄される。自分でも制御できない暴走する記憶が、罪の意識を伴って、物語をかきまぜていく。


 彼らに比べれば、住み込みの若い家政婦、みゆかのほうがよほど大人だ。シングルマザーである彼女の生活には、妄想の入り込む余地がない。三人を統御しているのは、実はみゆかなのかもしれない。一方、子供を産めなかった蕗子は、天然で可愛らしく、ふわふわとした存在感を漂わせる。作者は蕗子を子供のような存在に近づけながら、子供の世界から排除された女として描いている。小説全体が「子供」に対し、ある種の強迫観念を孕んでいるように見えて、興味深い。


 例えば碇谷夫妻が、かつて新婚旅行先の海岸で見た青い乳母車。なかに赤ん坊はおらず、ただ砂が溜まっていたという。蕗子は後に、「あのとき、呪いをかけられたのだ」と思う。「あの乳母車を見つけなければ......私たちは子供を授かることができたかもしれない」と。また、過去に妻子を捨てた野呂が、舗道の上で制服姿の幼い子供たちに囲まれる場面。「野呂は子供たちに何かを持ち去られた気がした」という一行がある。蕗子を逆上させたのは、「私なら芳朗さんの子供が産める」という、芳朗の浮気相手の言葉だったし、島に引っ越したばかりの頃、海岸の岩場で蕗子が出会ったのは「蟹みたい」な双子の女の子だ。この世に生まれ出た小さな子供らの、何という不気味さ、不埒な存在感。


 しかし最後、思いが至るのは、ついに誕生しなかった碇谷夫妻の子供だ。青い乳母車が象徴する「無の存在」。それこそが、後に芳朗の頭の内で展開する「記憶の劇場」を生み出す種になったのでは。悟らない老人たちが織りなす、エンターテイメント小説だ。

 

(『中央公論』2020年6月号より)

 

=======================================================================
井上荒野(いのうえあれの)

一九六一年東京都生まれ。成蹊大学卒業。「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞。『潤一』(島清恋愛文学賞)、『切羽へ』(直木賞)、 『そこへ行くな』(中央公論文芸賞)、『赤へ』(柴田錬三郎賞)、『その話は今日はやめておきましょう』(織田作之助賞)など著書多数。

評者:植村秀樹(流通経済大学教授)

 高校を卒業し、「一度くらい花のお江戸で暮らしてみよう」と田舎から出てきた私が、木枯らしが吹き始めた頃だったか、少しは受験勉強をせねばと書店で手に取ったのが『動物農場』の原書"Animal Farm"だった。オーウェルの名前ぐらいは知っていたし、薄いペーパーバックは、一見すると初学者でも読めそうに感じられた。辞書を片手に読み始めるやいなや、その面白さにたちまち引き込まれた。最後のページにたどり着いて、仰天した。無知で純朴な田舎青年には、そのラストシーンはあまりに衝撃的だった。


 何とか大学に入り、マルクス主義を少々かじると同時にソ連型社会主義(スターリニズム)の実態も知ると、あれは寓話のかたちを借りたソ連批判の書だったのだとあらためて納得した。


 とはいえ、執筆当時の英国とソ連は、ナチス打倒のために相携えて共に戦う間柄だった。「真実は、たとえ痛みを伴うとしても、癒すためにしか傷つけない」という名文句を序文に戴くアンドレ・ジッドの『ソヴィエト旅行記』がそうであったように、当時としては勇気のいる出版だったのではなかろうか。ところが、書店に並ぶやいなや、たちまちベストセラーになり、日本でもGHQからすぐに翻訳許可が下りた。反共・反ソ宣伝に好都合だからだ。


 話の筋は単純といえば単純だ。ある日、とある農場で、動物が人間を追い出し、動物の、動物による、動物のための「動物農場」が誕生した。そこにはレーニンを思わせる者(豚)、スターリン、トロツキー、さらにはトハチェフスキー将軍らしき者(馬)まで登場する。動物の楽園になるはずが、一部の動物とその取り巻きが新たな支配者となり、やがて粛清の嵐が吹き荒れ、動物たちは過酷な暮らしを強いられる。革命は裏切られた。


 大学を卒業すると間もなく、オーウェルのもう一つの名作『一九八四年』の年がやってきた。その数年後にはベルリンの壁が崩壊し、続いてソ連自体も解体した。動物農場は再び人間が支配する農場(資本主義)に戻ったというわけだ。その頃には「歴史の終焉」をうそぶく者まで現れ、この作品も歴史的役割を終えたかに思われた。


 しかし、そうではない。共産主義国における権力の腐敗や権力者の裏切り、つまり革命の失敗を描いたものとかつての私は理解していたのだが、それにとどまるものではない。


 詭弁、強弁、さらには恫喝。自分に不都合な報道を「フェイク」と罵ったり、公文書を改ざんしたり廃棄したり。「お友達」優先の権力私物化に「ご飯論法」まで、今、私たちの眼前で繰り広げられている政治が描かれている。言論は歪められ、格差は拡大し、あまつさえ戦争に駆り立てられる。


 さらに重要なことは、今ここにある政治のありようを暴露するだけではなく、支配される者たちに警鐘を鳴らしていることだ。豚に翻弄される愚かな動物の姿はあまりに痛々しい。騙されるだけではなく、裏切ったり、日和見を決め込んだりと、動物たちの愚かさもまた、それぞれなのであって、まさに今の私たち自身の姿をそこに見る思いがする。寓話であることによって、その真実味は一層増している。


 どんな政治学の教科書も文学と政治の融合に成功している『動物農場』にはかなわない。「象を撃つ」「絞首刑」などオーウェルの珠玉の作品は、通り一遍の観察からは生まれ得ない。英イートン校を経てインド帝国警察に勤務し、パリやロンドンでどん底暮らしまで経験したオーウェルならではの名作群の中にこれを置いてみれば、人と社会を見る眼が深くその実相をえぐり出していることが容易に感得されよう。


 ソ連とその勢力圏の瓦解を含むこの四〇年を経て再読した私は、最後に、やはり天を仰いだ。

 


(『中央公論』2020年6月号より)

パンデミックの正体は都市災害

 中国発の新型コロナウイルス感染症が日本に、そして世界に広がり、甚大な被害を及ぼしている。世界保健機構(WHO)は感染症の世界的流行を意味する「パンデミック」宣言をした。しかし、ここで留意したいのは、感染症の流行はウイルスが引き起こす自然由来の災害だが、パンデミックとなると「都市災害」でもあるということだ。筆者は、世界の都市災害を最前線で研究してきた。以下では、都市災害としてのパンデミックを考察したい。


 都市の災害は、その街と被害の規模の大きさによって小さい順にそのレベルを、都市化災害、都市型災害、都市災害、スーパー都市災害と変える。そして都市の災害は、自然のみを要因とするわけではない。1990年代以降、大規模なテロ事件の発生に伴って懸念されるようになった「CBRNE(シーバーン)」がある。つまりテロリストが、有毒物質などの「化学 chemical」、病原体などの「生物 biological」、または「放射性物質 radiological」「核 nuclear」、「爆発物 explosive」を使って甚大な災害を引き起こすことだ。ちなみに感染症によるパンデミックは、人為的に引き起こされるものではないが、CBRNEの「生物」に準じるものとして検討される。


 これらCBRNE災害が都市で発生すると、当然ながら、甚大な人的被害と社会経済被害が生じる。その被害は、都市の人口が多いほど、人口密度が高いほど大きくなる。感染症の被害規模もこれと同様に考えられる。


 行政の統計などで使う区分、「都市的地域 (urban area)」で見ると、「東京(東京=横浜圏)」の人口は約3800万人で、世界1位である。インドネシアのジャカルタ(約3400万人、2位)、インド・デリー(約2800万人、3位)、アメリカ・ニューヨーク(約2100万人、8位)と比較しても、いかに東京の規模が大きいかがわかるだろう。つまり、爆発的な感染症の拡大が発生した場合、最も危険なのは東京ともいえる。


 そして周知の通り、新型コロナウイルス感染症の拡大は、現在、感染源を特定できないウイルス拡散過程に入っている。ここで東京が爆発的感染拡大状態に陥れば首都機能が麻痺し、世界初の「スーパー都市災害」になるだろう。ちなみに筆者は、今ある事態は災害であると判断し、4月6日の朝、内閣府の防災担当の高官に、政府は一刻も早く「緊急事態宣言」を出すべきだと連絡し、本稿の原案をメールで送った。


 後述するが、世界で最初の都市災害は1995年、神戸市を中心とする阪神・淡路大震災だった。2度目は2001年、アメリカ同時多発テロのニューヨーク、そして3度目は2012年にニューヨークを襲ったハリケーン・サンディ、そして4度目もニューヨークで、今回のコロナウイルスの猛威である。


 ここからは欧米先進国の危機管理体制を紹介し、感染症拡大の制御を考えたい。

なぜアメリカは感染症拡大防止の初動に失敗したか

 戦争に勝利するには、戦略と戦術が必要である。これは古今東西を通じて真理である。しかし、今回アメリカはトランプ大統領の初期の判断が甘く、戦略を誤った。国家非常事態宣言が三月十三日と随分後手に回ってしまったのだ。


 アメリカでは今回のような感染症の拡大事案は、連邦緊急事態管理庁(FEMA)が実施する15のESF(Emergency Support Function、応急対応業務)の第8:公衆衛生・医療に該当し、保健福祉省が主要調整機関となって、CDC(Centers for Disease Control and Prevention、疾病予防管理センター)やNIAID(National Institute of Allergy and Infectious Diseases、アレルギー・感染症研究所)の連携協力の下で意思決定を行う。


 アメリカのCDCは、我々が普通に想像するような単なる研究センターではない。職員1万5000人、年間予算1兆3300億円(2019年)を持つ総合研究機関で、感染症の制御のほか生物化学兵器の研究にも携わり、軍産実務機能を有する国家安全保障上の重要施設なのである。また、アトランタのCDC本部は、大統領がワシントンで指揮命令できなくなった時の代替施設の機能も併せ持つ。その中央司令室は、四面コンクリート壁で窓がなく、出入りは鉄扉一枚のみ。そして、中央部に大きな円卓が置かれ、大統領が着席する椅子も決まっている。


 これほどの研究機関を持つにもかかわらず、トランプ大統領は、コロナウイルス感染症がアメリカ国内で拡大するまで、大変楽観的な意見を繰り返した。それは国家非常事態宣言後も、3月15日の「我々は素晴らしく制御できている」との発言まで続いた。


 ウイルス感染の制御がなぜ難しいかというと、ウイルスの拡散方程式に含まれる拡散係数と、致死率の事前の推定が非常に難しいためである。実験や数値シミュレーションだけでは、スケール効果(規模の違いからくる実験やシミュレーションと現実とのずれ)の計測まではできない。しかし、今回は1000万都市、中国・武漢での感染症拡大がエピデミック(地方での感染症流行)として先行していた。当地での爆発的拡大は、1月10日頃から1月25日の春節に向けての大型連休がきっかけである。つまり、中国の数字、たとえば18日に開催された伝統的な大宴会「万家宴」に集まった人数や、会場空間の大きさ、その後の感染率や死亡率の推移、患者の年齢構成などの数値をAIに入力すれば、拡散係数と致死率の推定はそれほど難しくはない。アメリカの能力をもってすれば、中国の実態に迫った数値を入手することもできるはずだ。にもかかわらず、トランプ大統領はCDCやNIAIDの助言があったとしても軽視し、それによってアメリカの初動が遅れたと考えられる。


 3月20日時点で、55%のアメリカ国民が今回の大統領の措置を評価しており、1週間で支持が12ポイント上昇とメディアが伝えているが、それは国民がここで紹介した状況を知らないからである。流行がある程度落ち着けば、検証が行われるはずだ。

ニューヨークの感染症拡大は都市災害

 筆者は長らく災害研究をしてきたが、今からおよそ35年前、40歳の頃から都市災害に集中して研究を進めた。その最初の成果は、都市人口の増大とともに、都市化災害、都市型災害、都市災害と、災害規模も大きくなることを明らかにしたことだ。予見した都市災害は8年後に世界で初めて阪神・淡路大震災となって発生した。予見はできたが被害軽減には至らなかった。だから、一歩進めて対策を攻究するようになった。


 そして2001年のアメリカ同時多発テロ事件である。ニューヨーク市だけで約2800名の犠牲者と約14兆2000億円の被害が発生した。CNNのキャスターはこの事件直後、「Urban disaster (都市災害)」が起きたと叫んだ。自然災害であろうとテロであろうと、大都市における大被害への対応には共通するものがある。それを研究しなければならない。


 3番目もニューヨーク市だった。2012年のハリケーン・サンディによる高さ4メートルの高潮で、マンハッタンのウォールストリートのビジネス街を含む南部地域が水没し、そこに位置する地下鉄八駅や、すべての道路トンネルで浸水・水没被害が起こり、同市を中心におよそ8兆8000億円の社会経済被害が出た。しかし、死者は米国とカナダで132人に抑えられた。なぜなら、事前にタイムライン(防災行動計画)を告知することに成功したからである。


 わが国のメディアは、死者が少ないと大きな災害ではないと誤解してしまうため、ほとんど報道されなかった。しかし、筆者が団長となった防災関連学会と日本政府による合同調査団は、同時多発テロ事件と高潮災害による2つの都市災害の現地調査を実施し、その成果を還元してきた。国土交通省が2014年度から一級河川を対象にタイムラインを策定したのがその一例である。


 今回の感染症拡大はどうか。膨大な数の感染者を出しているニューヨークと武漢の共通点は、社会経済活動が多重ネットワーク状となり、人の流れも物流も多くの部分で重なっていることだ。都市災害は、暴露人口が極めて多いという特徴がある。阪神・淡路大震災では、震度6弱以上の揺れに襲われた地域に約350万人が居住しており、同時多発テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンターの昼間人口は約5万人、ニューヨーク市の人口は約840万人であった。


 すでにミラノやベネチア、ロンドン、パリ、ベルリン、ロサンゼルスやモスクワでは患者が急増しており、そして東京も要注意である。予防ワクチンが未開発な状況では、できるだけ外出を控え、人込みを避けるなど対人接触を抑えて、ウイルスの拡散過程から身を遠ざけることが重要である。

同時多発テロが変えたアメリカの危機管理システム

 2001年の同時多発テロを未然に防げなかったことは、FEMAを中心としたアメリカの危機管理システムの大失策であった。アメリカ史上、国内で1000人以上が犠牲になった攻撃はこのテロが初めてだっただけに、その衝撃は極めて大きかった。なぜ、このテロが防げなかったのか。最大の理由は、軸足を事後対応に置いていたからである。テロが起こる前兆がいろいろとあったにもかかわらず、見逃してしまった。そこで事件後に、事前対応を中心とする組織再編がなされ、FEMAはそれまでの大統領直属の機関ではなく、新たに設けられたDHS(Department of Homeland Security、国土安全保障省)の一部局に格下げになった。


 しかし、この新体制で迎えた2005年のハリケーン・カトリーナの襲来では犠牲者が1800人以上となり、80年ぶりに犠牲者が1000人超となる自然災害となってしまった。この災害の検証作業によって、情報システムの活用に失敗したため被害が大きくなったことが明らかになった。カトリーナは超大型のハリケーンであったため、広域災害となり、時空間的に被害が変化したのに対し、情報活用に時間差や地域差が発生し、大混乱が生じたのである。


 2012年のハリケーン・サンディ災害では、カトリーナの惨劇を教訓としてFEMAの事前対応がタイムラインなどに生かされ、見事に人的被害を少なくすることができた。米国では、大災害が起こっても社会経済被害のおよそ90%以上が各種保険でカバーされるので、ほとんど国家的な問題とはならない。アメリカの危機管理能力の高さを考えると、本来であれば、感染症の爆発的拡大の危険性の判断を初期の段階で誤るとは考えられないのである。

ヨーロッパ先進国の危機管理の特徴

 4月14日現在、コロナウイルスの感染者数が8万人を超える国は、多い順にアメリカ、スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、イギリス、中国である。イタリアは以前から医療体制の脆弱性が指摘されていたが、同じくG7の先進国、ドイツ、フランス、イギリスまでもが揃って含まれている。これら三国には原子力事故や災害などの発生時に担当する省庁などを決めた緊急事態条項に相当する法律があるが、今回のような爆発的な感染症の拡大はいずれも想定していなかった。したがって、独自の緊急事態条項を設け、今回はたとえば、外出禁止令などの新法を施行するなどして対応している。


 筆者の研究グループは、これらの国の危機管理体制を現地調査してきたので、簡単に説明しておきたい。


《ドイツ》  ドイツは連邦国家で、国防は中央政府が担うが、災害などを対象とした緊急事態計画・管理は各州政府が担当する。大規模災害発生時には、州政府の内務大臣をトップとする災害対策官庁が担い、州をまたがる広域災害の場合は各州の内務省参加の会議を開催して、役割の分担などを決定することになっている。原子力、生物、化学関連事件・事故の場合は、消防隊(常備消防:全国で約2万7000人)と消防団(ボランティア:同約100万人)が出動する。大規模な消防団の活動はドイツ独自のものである。
 1968年に連邦政府により、緊急事態条項を加える基本法改正案が提案されて成立し、緊急権制度が導入された。その特徴は、緊急命令の乱用によって政府の独裁を許さないよう、緊急事態においても、連邦政府に緊急命令制定権を与えず、連邦政府の措置をできる限り議会及び連邦憲法裁判所の統制の下に置こうとする点にある。さらに、1970年から施行された「大災害からの保護措置の拡大法」では、それまでの防災対策が完全に州の管轄とされていたのを、資金面と教育面において連邦政府がこれを補佐し、積極的に関与することになった。これに則った形で、連邦政府と各地方行政府との連携が進んだ。
 メルケル首相は3月18日に声明文を発表し、ついで記者会見で、つぎのように述べた。今後、同じ世帯に住んでいる人々や、業務上の集まりを除く3人以上の集会が禁じられることや、警察が市街を見回り違反者は見つかり次第罰せられること、この規則はドイツの全州に適用されて、少なくとも2週間は続けられることとした。


《フランス》  フランスは中央集権国家としての歴史を持つ。日本の市町村数は1741だが、フランスの市町村は3万6569にも及ぶ。行政区画が細かいが、それでも統制が取れていることが特徴である。
 一方、1970年代末から地方分権化が進み、災害や火災などの危機管理については、市町村長が最初に対応することとなっている。危機の規模が大きくなるにつれ、その上位の県知事(知事は中央政府が任命する)、さらに大規模な場合は防衛管区長官が対応し、さらに上位に内務大臣と国防大臣が位置する。
 フランスは議院内閣制と大統領制の両者を併用し、大統領が首相を任命する(国民議会の多数党から選出する場合もある)。また、第五共和国憲法第16条で、大統領の強い非常措置権を規定している。
 マクロン大統領は新型コロナウイルスの感染拡大を受け、3月17日から全土で外出制限を実施すると発表。外出制限の期間は17日正午から5月11日まで延長された。移動は必要最低限の買い物や、在宅勤務ができない人の通勤などに限定され、違反者には最大135ユーロ(約1万6000円)の罰金を科すとしている。同大統領は演説で、「私たちは(ウイルスとの)戦争状態にある」と何度も強調し、国民の移動を制限する異例の措置に踏み切ることへの理解を求めた。


《イギリス》  イギリス政府の危機管理体制は、1920年の国家緊急権法にさかのぼり、1964年に緊急事態の要件が「人物の行動」から「事件」に変更され、自然災害にも対応できるようになった。2004年の市民緊急事態法により、危機管理は首相直轄組織のCCS(Civil Contingencies Secretariat、民間緊急事態事務局)が担当し、官僚の最高ポストである内閣官房長官の統括のもと、総合危機管理を推進することになった。実際に災害が発生した際には、必要に応じて内務大臣を長とする民間緊急事態ユニット(Civil Contingencies Unit, CCU)が設置され、主導官庁を決定する。
 しかし今回は、イギリスの感染症対策が円滑に作動していないことが判明した。まだ感染拡大が爆発的になる前にチャールズ皇太子が感染しただけでなく、ボリス・ジョンソン首相、マット・ハンコック保健相まで罹患した。イギリスは、今回の感染症における死亡率が、イタリアと同程度に高い。これは感染症拡大に対する危機管理体制に問題があり、特に医療システムがネックになっているためと推定される。
 筆者がイギリスを訪問したとき、体調が悪くなったり、自分が病気になっていると思っても、すぐに地域の医療施設や病院に駆けつけることはできなかった。電話で111を回し、医療的な指示やアドバイスを得なければ診察してもらえないからである。余談になるが、息子がオックスフォード大学に留学中、耳の調子がおかしくなり耳鼻科を紹介してもらおうとしたところ、地元ではなくロンドンの病院を指示され、1日がかりで受診したそうだ。医療システムの不備が想像される。

都市災害としてのパンデミックの制御

 筆者は、首都直下地震による被害軽減の研究を過去10年以上継続してきた。その間に東日本大震災が起こり、熊本地震や西日本豪雨、東日本台風などの災害が発生した。それらについて現地調査を行うとともに、政府、自治体の関係部局に助言を重ねてきた。それらの経験を踏まえ、最後に感染症拡大について端的に対策を示したい。


 それは、感染症による複合災害と連続滝状災害(以後、連滝災害と呼ぶ)の発生を抑制することである。複合災害の発生は、患者クラスター(集団)によるものだ。このクラスター同士をつなげてはいけない。クラスターは、ネットワーク状に感染が拡大する構造のノード(独立した機能を持つ組織)に相当する。よって対策としては、ノードをできるだけ孤立させることである。


 連滝災害は、二次災害、三次災害というようにつぎつぎと新しい被害が発生することを指す。これを阻止するには、ネットワークのエッジを切る(たとえば、鉄道ネットワークの場合、ターミナルと各駅、あるいは駅間の列車運行を停止する)、つまり関係をなくすことである。私たちの社会は各種ネットワークで構成されており、ウイルスもそのネットワークを経由して感染していく。よって、不要不急の外出を控える、人が集まらない、大声でしゃべらないなどは対策の基本となる。どうしても必要な人同士のコミュニケーションや物流のためには、ネットワーク自体をできるだけ小さくし、できるだけ独立性を保たなければならない。便利さを犠牲にせざるを得ないのだ。

インド、中国の対応から考えておきたいこと

 最後に考えておきたいのは、インド政府の感染症に対する先手の対策だ。インドのモディ首相は、まだそれほど感染が拡大していない時点でおよそ13億5000万人の国民に外出禁止令を出した。非常に強い対応で、大混乱が起こったのは当然である。しかし、モディ首相は生物化学兵器の威力を理解していたため、この対応を実施したと想像する。


 筆者は2004年に約23万人が犠牲になったインド洋大津波災害の発生以後、インド洋沿岸諸国にも太平洋津波警報センターと同じような多国間の地震計群と津波計群からなるネットワークシステムを作るプロジェクトを提案した。しかしインド政府に、高感度地震計のネットワークは、核開発のレベルを白日の下にさらすという理由で反対されてしまったのである。


 今回の感染症拡大に際し中国政府が実施した強権的な対策も、その政治体制のみならず、生物化学兵器に用いるウイルスの拡散の威力に関する正確な評価が根底にあると考えなければならない。今回実際に起こった感染症拡大から取得した精度の高い感染過程のデータとAIを駆使すれば、レベルの高い兵器が開発できる。怖いのは核弾頭だけではないのである。感染症対策は、その国の保健衛生水準だけでなく、軍事力にも関係することを忘れてはならない。

――本作は『読売新聞』朝刊で連載された道中物語でした。執筆中、主人公の二人と一緒に旅をしている気分はありましたか。


 それはありました。透明人間になって二人の旅に同行しているかのような臨場感で、毎日楽しく小説を書きました。以前、街ですれ違った人に対して「どこかで見たことあるな」と思ったのですが、よく考えたら自分の小説の登場人物のイメージとそっくりだった、ということがあります。玄蕃と乙次郎とは、江戸から青森まで一緒に旅をしたことになるので、僕にとっては実在の人物に近いですね。


――以前、本誌で連載していただいた『一路』は中山道を舞台にした時代小説でした。今作の舞台は奥州街道。取材の際、違いは感じましたか。


 まず中山道は宿場がそのまま残っている箇所が多かった。どうやら後に引かれた鉄道が街道に沿って造られたので、観光地として保存されたらしい。比べて、奥州街道は遺構があまり残っていませんでした。宮城県の有壁にある本陣など、きれいに残っている場所も一部はありますが、宿場町の縁を偲べなかった。ただ、空気感は十分に堪能できました。北に向かうことにより滲み出る寂寥感というものを、この作品には活かしたかったんです。 「北に向かう」という行為には、どこか深くに沈んでいくような、不思議な感覚があります。大阪に行くのと盛岡に行くのでは距離はほとんど変わらないのだけれど、なぜか北に行くほうが遠く感じませんか。これは日本だけでなく、『中原の虹』の取材で中国の東北部に取材に行った時も、まったく同じ印象を覚えました。『中原の虹』で北国の寂寥感を描いた経験も、この『流人道中記』に活かせたのではないかと思っています。


――浅田さんの「北」を描いた作品には『壬生義士伝』もあります。


「おもさげながんす」とか、南部の言葉が登場するので、近い印象を持った読者もいるかもしれませんね。これは主人公の二人が南部領に入った時に、物語がぐっと深く沈み込むようにしたかったので、登場人物の言葉を意識的に盛岡弁に切り替えました。遠くへ来た、というイメージを持たせ、その土地の人間性を想像させるのに、方言というものは強い力を発揮しますから。


――北へ向かう道中の風景描写も印象的でした。


 小説に花鳥風月を描くことは、日本文学である限り必要だと思っています。美しさというものは、人間にしか理解できない概念ですから。「花より団子」という言葉があるけれど、人間であれば本当は飯より花を選ぶべきではないでしょうか。それに日本には、四季という背景が、日常の中に存在しています。四季の風景に物語を載せることこそが、日本文学の正しい在り方だと思います。


――この物語のテーマは「懐疑」だと聞きました。現代の日本において、この意識は薄くなっていると思いますか。


 平和が長く続く時代や国が成長を続ける時代は、懐疑しない時代になるんです。僕が学生時代、周囲の人たちは学生運動の只中にあり、みんなが懐疑の意識を持っていた。その後、高度成長期を経て暮らしが豊かになっていくうちに、だんだん物事を疑わなくなっていったんです。バブルの時代なんて、長くは続かないと分かりきっていた。テレビや新聞で、バブル崩壊の危険性も指摘されていた。なのに、誰も後のことを考えようとしなかった。今の世の中も、まだその延長線上にあるように思えます。新型コロナウイルスの感染拡大に対する国の方針を見ても、当初は最悪のことを想定していなかった。希望的観測にもとづいた対応でした。  江戸時代は約二六〇年間、他国の侵略も内戦もない、世界に類を見ない平和な世でした。幕府が支配する軍事政権であったにもかかわらず、です。江戸の町はものすごく治安がよく、おそらく殺人事件の数も現代より少ない。戊辰戦争ですら史料を見ると、お互いに使者を立てて話し合いの場を設けている記述が多く目につく。どこまで本気で戦争をしていたのかすら、疑わしいんです。この長い平和の中で築かれた楽観主義が、日本人の国民性として根付いてしまったのではないでしょうか。


――楽観主義的な国民性を持つ日本が明治維新以降、急成長を遂げられたのはなぜでしょうか。


 それはやはり教養主義の力が大きかったと思います。だけどその教養主義も近年、崩壊してきている。文学部不要論をはじめとして、哲学や文学までも不要なものだという考え方があります。でも、これこそ日本的な教養であり、すべての知識の土台となっているのではないか。今後、経済や科学技術の発展に重きを置き、義務教育もこれらを重視したものにシフトしていったとすると、教養主義の敗北ということになる。そうなれば、日本はあっという間に没落するのではないだろうかと危惧しています。今の時代も、それぞれの人が自分なりの思想、哲学を持つべきです。 「読書離れ」と言われて久しいけれど、それも小説というものが、必ずしも必要なものだとは考えられなくなったからではないでしょうか。でも、小説を読まない人は、想像力が培われない。想像力がない人は、会話をしていても、どこか面白くないんです。


――ネットの文章だけではなく、紙の本を読んでこそ培われるものはありますね。


 インターネットの世界から「物知り」はたくさん生まれるかもしれないけれど、本当の「知識人」は生まれません。知りたいことの答えが、検索すればすぐに分かってしまう世界では、「考える」「想像する」という力は育ちませんから。この小説を書き始めるとき、「懐疑」というテーマを決めるとともに、主人公の二人には「求道者と悩める弟子」というイメージを持たせました。  新型コロナウイルス感染症の流行で今作のサイン会はすべて中止になってしまいました。これは残念なことだけれど、外に出られない時だからこそ、ぜひこの本を読んで主人公の二人とともに旅をしてほしい。たくさん本を読んで想像力を養い、懐疑する心を培ってほしいと思います。



(『中央公論』2020年5月号より)

評者:足立倫行(ノンフィクション作家)

 現生人類(新人、ホモ・サピエンス)が誕生したのは二〇万~三〇万年前のアフリカ。現在の私たちは全員、アフリカから拡散したのだ。


 遺伝学研究によるそんな驚くべき学説の発表は一九八〇年代末だった。それから約三〇年。古代ゲノム解析の進展によって、旧人ネアンデルタール人と私たちの祖先が交雑していたことや、デニソワ人という新種の旧人がアジアにいて、アジア人の祖先と交雑していたことなども明らかになった。


 では、現生人類は、旧人たちが生きていた世界にどのように進出し、なぜ私たちの祖先のみが生き残ったのか?アジアの果ての日本列島にはどう辿り着いたのか? 本書は、考古学や人類学のフィールド調査、古代ゲノム研究などを踏まえ、内外六人の研究者らが最新の成果をまとめたものだ。


 現生人類の出アフリカは二度あった。第一次が一〇万~二〇万年前、第二次が五万~六万年前である。最古の人骨はミスリヤ洞窟(イスラエル)の一八万~一九万年前のものとされる。北はギリシャ、南はアラビア半島南部まで分布した痕跡があるのだ。この時期、すでにヨーロッパにいたネアンデルタール人が南下し、西アジア各地で現生人類と交雑した。重要なのは、旧人と新人の行動様式に大差がなかったこと。石器(尖頭器など)や獲物(アカシカなど)がほぼ重なり、装身具も同段階だった。ネアンデルタール人の認知能力が劣り、私たち新人との競争に負けたわけではない。


 だが、現生人類が第二次出アフリカで本格的にユーラシアへ進出すると、入れ替わるように旧人は絶滅した。その理由は何か? 現在のゲノム(生物学的遺伝情報)研究では、人口減少が続いた旧人集団内での「有害変異の蓄積」ではないか、とされる。


 一方、考古学では、五万年前の寒冷化でシカなど大型動物が減少した頃、新人は小石刃など軽量・鋭利な石器でウサギ、リスといった小動物を獲ったが、旧人はできなかった、と見る。おそらく複合的な要因だったのだろう。現生人類のユーラシアへの拡散は、北回りと南回りのルートがあった。北は乾燥した草原・砂漠地帯で大型有蹄類が多く、南は高温多雨の密林や島嶼、多様な動植物。現生人類はそれぞれの移住先の自然環境に適応した。北ルートの中国北部では、デニソワ人やネアンデルタール人あるいはその交雑の集団がすでにいたが、北京近郊の田園洞遺跡の人骨調査などから、約四万年前には現生人類が定着した。南ルートはもっと古く、中国南部で八万~一〇万年前(異論あり)、東南アジアで六万~七万年前に早くも現生人類が到達していた、と推定される。北は石刃石器群主体だが、南は小集団が不定形石器を用い、渡海技術や釣魚技術を創出するなど研究上の「魅力的なフィールド」を形成している由。


 昨年、西太平洋域での現生人類の海洋進出を証明する実験航海が日本の国立科学博物館チームによって実施された。台湾から与那国島まで、三万八〇〇〇年前と同じく丸木舟で渡り、日本列島への初到達を再現したのだ。


 現生人類の世界への拡散については、人骨の空白地域があるため、まだ不明な点が多い。しかし本書の報告で、ぼんやりと輪郭が見えた気もする。「人類みな兄弟」を実感するためにも、今後もこの分野の研究に注目したい。

 

(『中央公論』2020年5月号より)

 

=======================================================================
西秋良宏(にしあきよしひろ)

一九六一年滋賀県生まれ。東京大学総合研究博物館教授。専門は先史考古学。 東京大学大学院博士課程単位取得退学。ロンドン大学大学院博士課程修了。Ph.D.(ロンドン大学)。

評者:かとうちあき(『野宿野郎』編集長)

 すごいな、面白いな、と思うものに触れて、でもそのすごさや面白さをぜんぜん言語化できなくって、もどかしくなることはありませんか。わたしはある。しょっちゅうある。っていうか毎回だ。それで「すごい」「面白い」を連呼して、マンガの場合は「とにかく読んでみて!」とか言っちゃうので、おのれの言語化能力の乏しさや頭の悪さに打ちひしがれるのです。


 今回ご紹介させていただく『ベルリンうわの空』の中には、 「生きていると、わからないことが多いな... ほとんどわからない」 と主人公(香山哲さん)が呟くところがあって、わからないものはわからないものとして受け止めてゆく佇まいがとてもすてき。そうだよ、わからないことばかりだよ、なんてわたしは激しく頷いちゃうわけですが、わからないものをわからないと認識することと、あるはずのものや考えを言語化できないことは、ぜんぜん違うんだよなあ......。


 このマンガを読んでいると、わからないことはやわらかく受け止めて、でも発見や思考は明晰に表現されているので、「頭のいい人はすごいなあ」ってほれぼれするのでした。
 あと、自分が知りたかったことや、言葉にできなかったもやもやが形にされている感じがすごくあるのですが、そもそも共感がおこるってことも、言語化(マンガ化?)能力の高さゆえなんだろうなあ。


 ってあらすじ紹介もまだなのに、一体全体なんの話をしてんだよって感じですよね......。 『ベルリンうわの空』は、作者の香山哲さんが実際にドイツの首都・ベルリンに住んで、街や生活について考えながら描いた、随筆的なマンガです。


 登場人物たちが、動物だったり宇宙人みたいな感じだったり、人と言い切りにくい多様な姿に描かれているため、どこか別の街、別の世界の話のようにも読めるんだけど、それぞれ個性のある人やベルリンの街の姿をじっと見つめていったら、世界はこう見えるのかもしれないっていうリアルさがあって、不思議な読み心地です。 「街全体に余裕ややさしさが多いな...」と香山さんが感じて描く、たくさんの移民たちがまざりながら積み重ねてきたベルリンの街は、多くの社会問題や葛藤を抱えてはいるものの、広場や公園がたくさんあってあちこちで人が集っていたり、いらなくなったものをとりあえず誰かのために置いておく文化があったり、個人経営のカフェが多かったりと魅力的。


 そこで香山さんは散歩をしたりスーパーに行ったり、のんびり生活をしてゆくのですが、ただ街のよさを味わうだけではなくって、カフェで知り合った人たちと「こども新聞」をつくって配り始めるなど、街を形づくるような行動もしていきます。


 ずっと同じ場所にいると、その環境に合わせてうまく生きることをよしとしてしまいがちだけど、自分が住みたいと思う場所を探して選んでゆけばいいんだよな、とか。よい場所は個人個人の行動の積み重ねでつくられたり保たれたりするんだよな、とか。自分の好き嫌いを少しずつ知ってゆき、なるべく手放さないで生活してゆこうとする香山さんの日々を追体験することで、考えさせられることが、たくさん!


 このマンガは一冊で完結していますが、現在、続きともいえそうな『ベルリンうわの空 ウンターグルンド』が電子書籍ebookjapanに連載中です。


 ほかにも、作品配信サイトnote(https://note.com/kayamatetsu)上では文章や「自主れんさい漫画」の『ビルドの説』などを読むことができます。香山さんによれば「ビルド」とは「生活拠点ではないところに新たに自分の快適さや充実を、無い場所に作り出すこと」。これを使って海外に滞在するようすが描かれているのですが、「ビルド」が上達したり面白がれたりするようになったら、なんだか気が楽になれそうです。


 ほかにも、香山さんは自身が主宰するレーベル「ドグマ出版」から、長く作品を発表しており、現在も『香山哲のファウスト1』『心のクウェート』などが手に入るはず。


 どれも、すごくて面白いので、とにかく読んでみて!


 
(『中央公論』2020年5月号より)

評者:松田哲夫(編集者、書評家)

 四二年前に書かれた連作短篇ミステリーは、新刊書のようにピチピチと活きが良い。大事件が起きるわけでも、魅力的なキャラクターが登場するわけでもない。市井の小市民たちが繰り広げる出来事が描かれているだけ。それが、なんでこんなにおかしく、ハラハラし、しみじみとするのか。それは、井上さんの趣向(面白くする工夫)に、僕たちが見事にはまったからだ。


 井上さんは「芝居は趣向。これが戯曲を執筆するときのわたしの、たったひとつの心掛けである」と語っていた。小説家としても同じだった。『十二人の手紙』の場合、「手紙小説」とか「書簡体文学」とでも呼びたくなるように、ほとんど手紙だけで物語を組み立てている。この小説には、短い小説と戯曲が一篇ずつ、新聞記事が少し入っているが、ほぼ九割が手紙だ。中には、出生届、死亡診断書、洗礼証明書など公式書類で薄幸な女性の生涯を描いたり、「手紙の書き方」という実用書の例文をつなげて名家の後妻になった女性の苦渋を表現するというお話もある。


 パソコンも携帯もメールもない時代、手書きの手紙が重要な通信手段だった。そういう昭和後期の人々の暮らしがリアリティをもって綴られている。たとえば、東京に出稼ぎに行った娘の両親、恩師、友人、弟、それぞれに宛てた手紙を並べて読むと、この一家の暮らしぶり、人間関係、主人公の性格などが手に取るようにわかる。


 こうして、きっちりと書き込まれた時代を背景に、手紙を綴り合わせて、物語が展開されていく。そして、要所要所で手紙ならではの機能を効果的に使っている。たとえば、手紙は他人になりすますことも可能だし、架空の人物を実在しているかのように操ることもできる。さりげない記述の中に隠しメッセージを潜ませることも自在だ。  なんと贅沢なことに、一話一話には違ったタイプの落ち(どんでん返し)が用意されている。また、最後の一三話では、この小説にふさわしい大団円が待っている。さらに、それぞれの人生の途上で、道を間違ったり、傷ついたりした人たちが、相応しいパートナーを得て、大団円に花を添えている。


 このように、『十二人の手紙』は、井上さんが趣向をこらして創り上げた見事な名作である。


 でも、井上さんはこれで満足したのだろうか。何か、隠された謎があるのではと鵜の目鷹の目で探してみた。


 そもそも『十二人の手紙』とは何だろう。この本は一三話だし、手紙を書いている人は、ざっと数えて倍はいる。


 そこでふと思いついたのが、イエスに従った一二人の使徒だった。井上さんは洗礼も受けているし、第三話の「赤い手」というのは、現代の地上でイエスを探す話だ。


 ちなみに、この作品の文庫解説で扇田昭彦さんは「あくまでも軽妙なエンタテインメントでありながら、しかし同時にこの小説は井上氏の深い祈りである」と書かれている。


 考えてみたら、いろんな人の手紙を読むことができるのは神しかいない。すると、この作品は、読者が神になって、衆生の悩みや懺悔の言葉を聞く、そういうお話なのかもしれない。
 もう一つ謎を感じるところを紹介しよう。この作品に登場する多数の人物の中に「船山」姓の人が三人いる。一話・一三話に出てくる船山商事社長(東京・青戸)、三話の産婦人科医(千葉・市川)、そして、一二話の津野真佐子の旧姓である(宮城・仙台)。ここに書かれたもので見る限り、お互い無関係のようだ。でも、何かが秘められているような匂いがする。「山に船」だから、神、聖書つながりでいえば、「ノアの箱舟」とか......。
 井上さんは、小説や戯曲を書く時、詳細なメモを書いた。『十二人の手紙』のメモが残っていれば見てみたい。

 
(『中央公論』2020年5月号より)

『三体』大ヒットの理由

─今日はSFの定義をゆるやかにして、近未来小説なども含めて魅力を紹介してください。まず、全世界でシリーズ累計二〇〇〇万部を超える大ヒットとなった劉慈欣のSF小説『三体』ですが、昨年、立原さんの監修のもと邦訳が出版されました。これを機に日本でも中国SFがブームですね。


立原》中国では二〇〇六年にSF雑誌に連載されて、SFファンの間だけで話題になっていました。しかし二〇一四年にケン・リュウ(中国系アメリカ人の小説家・翻訳家)が英訳版を出すと、翌一五年にヒューゴー賞(アメリカでSFやファンタジー作品に贈られる権威ある賞)を受賞します。それを機に一般の方も興味を持つようになり、社会現象的に広く読まれるようになったんです。日本では急にブームが来たという感じで、中国とは広がり方がずいぶん違いますね。


飯塚》中国でSFブームが来たのは、今世紀に入ってからだと思います。その背景の一つは、若い書き手が多く現れたこと。


立原》そうですよね。中国のSF作家はデビュー年によって数世代に分類されますが、今は「更新代」や「全新代」と呼ばれる二〇〇一年以降に登場した作家が中心です。


飯塚》それから日本でブームになった要因としては、中国語の原文からではなく、英語圏を経由して入ってきたことも大きいと思います。今、日本で出版されている中国SFのおそらく八割ぐらいは、英語版を翻訳したものですよね。


立原》英語圏でよく読まれる中国SFには共通点があるそうです。それは中国的・アジア的であること。逆にそういうエキゾチックさを感じさせない作品は、あまり好まれないみたいですね。だから作家も、あえて中国的な要素を埋め込む工夫をしている。つまり、最初から海外展開を狙って書いているわけです。私は、そういう作家さんに何人かお会いしたことがあります。


飯塚》なるほどね。また日本人の側も、中国から直接来るより、欧米経由のほうが受け入れやすい傾向があります。たとえばSFではありませんが、九〇年代初頭の『ワイルド・スワン』もそう。中国出身の作家ユン・チアンのノンフィクションですが、英語圏で大ベストセラーになったことで、日本でも爆発的にヒットしました。  それからもう一つ、日本では、立原さんのように中国SFを地道に紹介してきた人たちがいました。雑誌で言えば、早川書房の『SFマガジン』の功績も大きいと思います。そういう土壌があったからこそ、『三体』で中国SFが一気に花開いたのではないでしょうか。


立原》『三体』が面白いのは、とにかく発想が突飛なところ。古代の聖人が入り乱れながらVRゲームを作るとか。科学的に突き詰めればいろいろ不自然な点もあると思いますが、それを押しのけるパワフルさがあります。アイデア勝負なところに惚れ込みました。  それから、人間のことを「虫けら」と呼び捨てるところがグッときます。劉慈欣さんは、他の短編でも人類を「虫けら」や「蟻」に喩えるシーンを書いています。それについてご本人に尋ねたら、「マクロとミクロの視点を意識しているから」とのことでした。ミクロの視点として蟻や虫を出すそうです。


飯塚》たしかにゲームのシーンは面白いですね。科学的な知識をふんだんに盛り込みつつ、サスペンス風な展開で読者を惹き付けます。ただし、地球人と異星人が戦うわけですが、地球防衛軍の主要メンバーはすべて中国人で、欧米人が中国人に何の疑問も持たずに従っています(笑)。日本の小説なら日本人が、アメリカの小説ならアメリカ人が中心になるのは当然ですが、ちょっと違和感がありますね。


立原》中国の読者もそれを求めている気がします。一方で日本の場合、たとえば田中芳樹さんの大ベストセラー『銀河英雄伝説』の主要登場人物は日本人ではありません。このあたりは、日中の違いというより作家の個性かもしれません。

中国政府の強力な後押し

飯塚》中国SFが世界的に話題になっているのは、中国政府の後押しも大きいですね。とにかくお金をかけて賞を創設したり、盛大なイベント的なものを開いたり。


立原》以前は二つぐらいだったSFのイベントが、今では地方を含めて多数あります。時には共産党幹部が最前列を占拠し、彼らの挨拶があって、SF関係者の挨拶が続くという感じ。共産党が密接に関わっていることがよくわかります。  また成都市は「SF都市宣言」をして、街自体をSFの聖地にしようとしています。世界中から"巡礼者"を呼び込むために、巨費を投じてテーマパークや研究施設などさまざまな建物を建設中です。  経済面でも、今では「SF産業」と呼ばれる分野が確立しています。どこにどれだけのお金をかけて、どれだけ儲かったかという報告が毎年されるようになっているんです。官民を挙げてSFを後押ししている感じですね。それに、結果が出るようにきちんと計算している。すごくうまいなという気がします。日本はとても真似できない。(笑)


飯塚》に限らず、映画などあらゆる文化芸術で、政治的に問題がなくて国威発揚に使えるものは何でも使うという感じです。政府のバックアップを受けたSF文学は、今後ますます力を得ていくでしょう。  だから、SF文学とか純文学といった区別はもう意味がないと思います。SF作家には「自分たちは傍流」という意識があるようですが、むしろ今は力関係が逆転しているかもしれません。


立原》SF小説は子供向けの科学普及のための読み物とされ、文学として扱われない時代が長くありました。それが急に脚光を浴びるようになり、拡散と浸透の時代に入りました。もう傍流ではないですね。  それどころか、SFは現実の科学技術の発達とも強く結び付いています。たとえば劉慈欣は、政府から「中国火星大使」に任命されました。つまり科学技術の象徴的な存在になっているわけです。  言い換えるなら、中国SFの根本には科学の普及があるということです。現実の科学と幻想が混在してもかまわない。とにかくSFを通じて子供のみならず若者にも科学的な思考を教え、国家として科学強国になることを目指しているわけです。先ほどお話ししたSFのイベントに出席する共産党幹部も、そんな挨拶をすることがよくあります。

大陸で出せないSFは台湾で

飯塚》たしかに、中国社会のIT化は日本よりずっと進んでいます。キャッシュレス決済が当たり前だったり、AIを使ったドローンやアンドロイドが発達していたり。 そういう社会で暮らすと、本当に快適らしい。私の友人がこの一年、中国で暮らしていたのですが、最初は社会に溶け込めなかったものの、スマホにいろいろアプリを揃えたら、すべてが便利になったそうです。 たとえば昨今の新型コロナウイルス対策としても、過去二週間の行動履歴を下に健康状態を証明してくれるアプリがある。その代わり、個人情報を逐一提供することになりますけどね。今の中国は「幸福な監視国家」と呼ばれていますが、まさに言い得て妙だと思います。最近のSF作品も、そういう現状を反映しているんじゃないでしょうか。 ただし、すべての作家にとって創作環境が快適というわけではありません。中国には「主旋律」という言い方があります。政府の意向に合致したテーマで書くことを指す言葉です。純文学の作家の中には、主旋律をしっかり守って書く人もいますが、反発して社会批判の要素を盛り込んで書く人もいる。また、政治にいっさい関わりのない自分の日常生活だけを書く作家もいます。SFの作家も同じでしょう。


立原》最近、政府によって作品の発表が禁じられたという話を、少なくとも私は聞いたことがありません。しかしそれは政府が寛容になったというより、作家のほうが自主的に「こういう書き方は危ないだろう」と忖度している感じです。あるいは作家が暴走しそうなら、出版社側がブレーキをかけるとか。それぞれの立場でバランス感覚を身に付けている気がします。


飯塚》国内で出せないと判断したら、台湾や香港で出すとかね。たとえば、私が紹介したい一冊の『しあわせ中国』は香港で出版されました。二〇〇九年に書かれた作品で、舞台は当時から見て近未来の二〇一三年。皆が過去の記憶を失って幸せに暮らしているというディストピア小説です。「幸福な監視国家」を予言した作品と言えるかもしれません。  あるいは、台湾で刊行された王力雄の『セレモニー』もおすすめしたい。日本では『三体』とほぼ同時期に出た近未来のSFですが、まったく対照的な作品です。『三体』に政治色はゼロですが、『セレモニー』は体制批判が全面に出ている。そもそも国家主席を暗殺する話ですからね、中国で出せるはずがない。  また『三体』にはなくて『セレモニー』にあるエンタメ要素は、男女の恋愛や性愛です。靴にICチップが埋め込まれ、行動をすべて監視される社会なので、浮気がすぐにバレてしまいます。(笑)  王力雄は、かつて民主化運動の活動家として逮捕されたり軟禁されたりした経緯があります。もともと政府に批判的なので、作品も過激になるのでしょう。  ただし、こういう作品を読んで、「やっぱり中国は怖い」と思うだけではダメだと思います。近未来の日本も似た姿になるのではないか、という視点も重要です。美術や映画の分野では、表現の自由がおびやかされる事態も起きています。「明日はわが身」という警鐘を込めて、この作品を選びました。


立原》先生はディストピアの世界がお好きなんですね。いずれも中国大陸では出せない作品なので、ドキドキします。  台湾に関連して言うと、私は『台湾セクシュアル・マイノリティ文学(2)紀大偉作品集「膜」』をおすすめしたい。特に表題作の「膜」は、ジェンダーSFの最高傑作だと思っています。ディストピアではありませんが、やはり大陸では書きにくい。台湾だからこそ生まれた作品です。  日本はまだ、ジェンダーで遅れている部分があります。こういう作品から学んでいくべきじゃないかなと。


飯塚》ジェンダーにしてもLGBTの問題にしても、台湾は日本よりずっと先行していますからね。  ついでにもう一冊挙げるなら、やはり台湾で出された『グラウンド・ゼロ』もいい。近未来に台湾第四原発がメルトダウンを起こすという小説です。東日本大震災による福島第一原発の事故を受けて、台湾でも反原発運動が加速しました。著者の伊格言は、本作を書くことで運動を推し進めようと考えたそうです。  実際、これが見事に実を結び、台湾は政権交代を経て脱原発に政策の舵を切りました。ディストピア小説は政治による不自由を描くものが多いですが、この作品は文学の力で政治を変えられることを示しました。
(構成:島田栄昭)

 

(『中央公論』2020年5月号より抜粋)

=======================================================================
◆飯塚 容(いいづかゆとり)

1954年北海道生まれ。東京都立大学大学院修了。専門は中国近現代文学および演劇。著書に『中国の「新劇」と日本』など。訳書に、高行健『霊山』『ある男の聖書』『母』、余華『活きる』『ほんとうの中国の話をしよう』『死者たちの七日間』、閻連科『父を想う』、高行健・余華・閻連科『作家たちの愚かしくも愛すべき中国』など。2011年に中華図書特殊貢献賞を受賞。


◆立原透耶(たちはらとうや)

1969年大阪府生まれ。大学院生の時から香港に通い詰め、のちに中国大陸に留学。91年「夢売りのたまご」で下期コバルト読者大賞受賞、翌年『シャドウ・サークル 後継者の鈴』で文庫デビュー。以来、ファンタジーやホラーやSFなどを発表。中華SFを好み、翻訳や紹介がライフワークになる。劉慈欣『三体』日本語版を監修。某私立大学で中国語の教員をしている。

文・大木 毅

 一年間に刊行されたすべての新書から、その年「最高の一冊」を選ぶ「新書大賞」(『中央公論』三月号掲載、https://www.chuko.co.jp/special/shinsho_award/)。「新書大賞2020」では『独ソ戦』(岩波新書)が大賞に輝きました。著者の大木毅さんに『独ソ戦』執筆の動機について、戦史・軍事史研究に対する問題意識について寄稿していただきました。


 このたび、拙著『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)で、二〇二〇年の新書大賞を受けることになりました。聞くところによれば、選考委員諸氏より過分の評価をいただいて決定されたとの由、なんとも光栄で、また面映ゆい気分です。とはいえ、拙著が評価されていることについて、少なからぬ数の読書人が戸惑いを覚えているように見受けられます。


 なぜ、独ソ戦などという凄惨な戦争の歴史を描いた本が多くの読者を獲得したのか、それははたして一般に常識として踏まえておかねばならぬような知識の提供を目的とする新書のかたちで出版されるべきものだったのか?


 こうした問いかけにお答えすることは、もとより拙著執筆の動機を説明することになりましょうし、ひいては、現代日本の戦争や軍事に対する視座の問題点を指摘することにもなるかと思います。

旧軍における学問的アプローチの欠如

 迂遠なようではありますが、まずは、近代以降の日本において、戦史や軍事史がいかに扱われてきたかという点から、論を起こしましょう。旧陸海軍に関する史資料を収蔵する文書館、たとえば、防衛省防衛研究所史料閲覧室や靖國神社偕行文庫などで、「戦史」というワード検索をかけてみると、膨大な量の文献がヒットするはずです。そのリストを見れば、さすがに軍事のプロフェッショナルである帝国軍人は、戦争について深く研究してきたのだと思いたくなる。しかしながら、それは錯覚にすぎません。多くの例外があることを承知の上で、鋭利な鑿で丹念に削り出すのではなく、鉈を振るうようにして断定するならば、旧陸海軍のアプローチのほとんどは「教訓戦史」の域に留まっていたといえます。


 どういうことか。欧米の軍隊において、十九世紀にはじまった近代的な戦史・軍事史研究は、従軍者の論功行賞の前提とする、あるいは、社会に対して軍の存在意義をアピールするといった性格を残しつつも、将来に資することを目的として、戦闘、作戦、戦争を分析するようになっていきます。両世界大戦で列強が採用した用兵思想は、おおむね、そうした過去の研究から着想されたものであったといっても過言ではないでしょう。また、そのような営為をより有効にするために、公刊戦史の執筆者として、軍隊経験を持つ民間の歴史学者や政治学者を起用するといったことも一般に行われはじめました。事実を再構成し、その意味を解釈するには、軍人のみならず、人文・社会科学の視座が必要であることが経験的にあきらかになったからです。こうして、「古い軍事史」、オーソドックスな戦史の方法論は、第二次世界大戦を経て、長足の進歩をとげました。これについては、後段で述べます。


 もちろん、旧陸海軍の戦史・軍事史研究も、こうした流れをみておりました。にもかかわらず、右のごときアプローチが取られることはでした。戦史・軍事史から、日本軍がこう戦うと定めた方針、いわゆるドクトリンに都合のいい例を抜き出し、おのれの正当性を確認することに終始したのです。


 具体的な例として、「シュリーフェン計画」の評価について述べましょう。第一次世界大戦前に、ドイツ陸軍参謀総長のシュリーフェンは、つぎの戦争ではロシアとフランスという二大強国を同時に相手にすることを余儀なくされると判断し、極端な戦略を立てました。ロシアの領土が広大であるため、動員に時間がかかることに注目し、主力を西部戦線に集中、まず短期決戦でフランスを降したのち、返す刀で東部戦線に兵力を移し、戦争を継続するとしたのです。さらに、西部戦線での作戦も、右翼に兵力を集中、長駆進撃して、フランス軍を包囲殲滅するというものでありました。主力の進路も、パリの西側を通過するように策定されています。東側、つまりドイツ寄りのそれではありません。どれほどの機動を予定していたか、おわかりになると思います。


 今日では、この構想は、外交や経済の要素を度外視した無謀な計画であったとして批判されております。作戦的にも、シュリーフェンが求めたような長距離の進撃は、当時の軍隊の能力や補給の実情からして不可能であったというのが、おおかたの評価であると思います。


 ところが、多くの日本陸軍将校は、現実には後任参謀総長の小モルトケが改悪してしまったために蹉跌したものの、原案通りに実行していれば、ドイツは第一次世界大戦に勝利したとする言説─これも、現代では、シュリーフェンに近かったドイツ軍人が敗戦後に流した主張であったと判明しています─を肯定しました。そして、シュリーフェン流の気宇壮大な機動・包囲戦こそ、日本陸軍が採るべき作戦の模範ともてはやしたのです。たとえ、当時入手し得た史資料だけでは、「シュリーフェン計画」必勝論が神話にすぎないことを見抜けなかったとしても、歩兵の行軍速度や兵站の推進能力など、日本陸軍がすでに有していたはずの経験知をものさしとして当てはめれば、かかる構想は机上の空論であると結論づけられたはずなのですが。


 一事が万事であります。日本陸海軍は、将来の戦争に備え、真の見通しを得るために、過去と真剣に向き合うのではなく、おのが既定方針を補強する戦例を探し、そこから一面的な教訓を引き出して、自らを肯定するアプローチ、「教訓戦史」に頼ったまま、あの戦争に突入したのです。旧陸海軍は何故に、かような視野狭窄におちいったのか。第一次世界大戦で明示されたようなかたちの総力戦は、日本の貧弱な国力では遂行できない。そうした、語られざる共通認識が自己欺瞞としての「教訓戦史」につながったのではないかと、わたくしは考えておりますが、それはまだ漠然たる仮説でしかないことをお断りしておきます。

咀嚼されていない「古い軍事史」の方法論

 戦後の自衛隊が行ってきた戦史・軍事史研究も旧軍の轍を踏んではいないだろうか。公開された自衛隊の研究成果、あるいは折に触れて洩れ聞く挿話から、そうした危惧を抱かずにはいられません。あの戦争の公刊戦史である全一〇二巻の戦史叢書をはじめとする、自衛隊による戦史・軍事史研究は、事実の再構成においては、偉大なる成果を挙げました。しかし、これからあり得る有事に備え、現在まさに有益な戦訓を過去から汲み取るという点ではどうでしょう。


 すでに述べたように、欧米における戦史・軍事史研究(本稿でのちに触れる「新しい軍事史」、すなわち、日常史・社会史的アプローチを主とするものとは異なる、「古い軍事史」ということです)は、世界大戦を経て、学問的かつ「」な水準へと脱皮しました。ここでいう「批判的(クリティッシュ)」とは、あら探しをし、何かケチをつけてやろうとするようなトゲトゲしい精神を指しているわけではありません。教条主義的に、あらかじめ定められた「正答」に向かって対象に当たるのではなく、懐疑と批判精神を以てテーマに取り組み、より貫徹力の大きな解釈を得ようとする姿勢のことです。


 そうした方法論の進歩によって、今日では「古い軍事史」研究にあっても、時系列に沿って事実を並べるがごとき叙述はすたれております。たとえば、ある戦闘を研究・分析するに際しても、「戦争の諸階層(levels of war)」、つまり、戦争目的を定め、そのために戦力化された国家のリソースを配分する「戦略」、戦略の要求に従い、各方面で軍事行動を実施する「作戦」、作戦実行に際して生起する個々の戦闘に勝つための方策である「戦術」の三つの次元を枠組みとして、批判的に考察することが当たり前になっているのです。さらには、組織文化・制度論の面から軍隊の強弱を分析する「軍隊有効性(military effectiveness)」論、また作戦史と政治外交史の結節をはかる研究なども進められております。やや逆説的なもの言いになりますが、「古い軍事史」研究は、その枠内で革新を行ってきたのでありました。


 しかしながら、洩れ聞くかぎり、自衛隊の戦史・軍事史研究は(防衛省戦史研究センターや、防衛大学校の総合安全保障研究科のごとき例外はありますが)、こうした流れを咀嚼せず、戦史叢書等を文字通り「教科書」とするものになっているようです。たとえば、硫黄島における栗林忠道中将についても、その「指揮」を批判的に検討し、通時的・共時的な意義を探るのではなく、もっぱら彼の「統帥」─将兵を立派に戦わしめた武人であるとの顕彰に留まっている研究・教育が少なくないかと思われます。


 これは、あらたな「教訓戦史」ではないでしょうか。このような戦史・軍事史の研究から、はたして、将来あり得る紛争に応用可能な知を引き出すことができるのだろうか。


 懸念を抱くのは、わたくしだけではありますまい。

「新しい軍事史」は古くなっていないか

 旧軍・自衛隊の戦史・軍事史研究に至らぬ点があるとすれば、ひるがえってアカデミズムのそれはどうか。こちらもまた、とても豊穣な地平が開けているとはいえません。そもそも戦前から、軍事や戦争などアカデミズムが扱うものにあらずという風潮があったことはよく知られています。そうした傾向は、辛酸を舐めた国民の経験から反戦・反軍感情が強まったことと相俟って、戦後いっそう顕著になりました。このような背景から、若干の例外はあるにしても、アカデミズムにおいて軍事史プロパーの研究はなされず、また、欧米の成果が学術論文や研究書を通して紹介されることもなきに等しいという状態が続いてきたのです。


 けれども、二十一世紀に入ったころから、注目すべき変化がみられるようになりました。日本でも、日常史・社会史の関心から、軍事という未開拓の分野に踏み入ってくる研究者が現れたのです。これらの人々は「新しい軍事史」、あるいは「広義の軍事史」研究を唱え、多数の興味深い成果を挙げております。しかしながら、わたくしのみるところ、日本の「新しい軍事史」研究者は、ここまで述べてきたような特殊事情によるハンデを負っていたように思われます。


 いうまでもなく、欧米の「新しい軍事史」研究者は、「古い軍事史」の土台に乗って、新しい分析や議論を展開することが可能でした。ところが、日本の研究者には、あいにく、そのような踏み台はなかったものですから、結果として軍事の常識を踏まえずに、軍事史の議論を展開するという極端な例すらみられるようになりました。


 さらに、もう一つ、日本の「新しい軍事史」研究に共通する奇妙な特徴は、戦闘、もしくは戦場の忌避であります。軍隊は戦闘に従事し、それに勝つことを目的とする組織であることはいうまでもありません。にもかかわらず、戦後ながらく続いてきた戦争・軍隊嫌悪、あるいは「古い軍事史」の成果を無視したいという感情からくるものなのか、日本の「新しい軍事史」研究において、戦闘や戦場が対象とされることは、ほとんどないのであります。


 実は、こうした事態に対する反省は、「新しい軍事史」の研究者にも存在します。たとえば、ロシア史を専攻する田中良英教授(宮城教育大学)は、「......日本の近世軍事史研究をリードする阪口修平らが、しばしば『広義の軍事史』の意義を主張する際に、いわゆる『狭義の軍事史』研究との差別化を強調している一方で、軍隊の実態を正確に理解するためには、戦術や装備など、むしろ『狭義の軍事史』研究で扱われていた、戦場での具体的活動に関わる内容との接合がやはり必要だ」と指摘されています(「一八世紀前半ロシア陸軍の特質─北方戦争期を中心に」『ロシア史研究』第九二巻、二〇一三年、三頁)。昨年の新書大賞を受賞された吉田裕名誉教授(一橋大学)が、日本の軍事史研究で手つかずのままに残されている分野は戦史であるという意味のことをインタビューでおっしゃっていますが、これも同様の現状認識を示しているのではないでしょうか。


 事実、欧米の「新しい軍事史」研究は、とうの昔に戦場や戦闘というテーマに踏み入っています。近世フランス軍事史の専門家であるジョン・A・リン名誉教授(イリノイ大学)が二〇〇三年に上梓した『会戦』より引用しましょう。


「文化というテーマを追求するにあたっても、この『会戦』〔という書物〕は、軍事史における本源的なファクトとは、戦闘、そのすべての危険や大量の犠牲といったことを含む実際の交戦であることを忘れはしないだろう。われわれは、直接戦闘を扱ってはいない研究からも、多くのことを学んではいる。しかしながら、戦争の歴史を、軍事制度の社会史や他の流血とは縁のない研究だけに転じることはできないのである」(John A. Lynn, Battle:A History of Combat and Culture. From Ancient Greece to Modern America, Boulder et al. 2003, p. XV)。


 このような問題意識に接するとき、わたくしは、日本の「新しい軍事史」研究は古くなっていないかとの危惧を覚えるのであります。

戦史・軍事史の空白を埋める

 かくのごとく、日本の戦史・軍事史研究には、アプローチの新旧を問わず、方法論上の著しい遅れ、あるいは空白がみられます。そうであれば、わたくしが戦史・軍事史の論述に取り組む理由について、贅言を弄するまでもないでしょう。空白を埋める。その単純素朴な目標をめざして、文筆活動を続けています。拙著『独ソ戦』もその一環なのです。


 けれども、読者のなかには疑問を持つ方も当然おられることでしょう。戦史・軍事史研究が等閑視されるのは、それが日本社会にとって不要なもの(防衛の任に当たる自衛隊は措くとしても)だからではないのか。戦争などという忌まわしいものは、研究する価値などないのではないか、と。


 より直截的には、もはや戦争が、どこか遠い国のできごとではなくなったという状況のもと、戦争を知ることが必要になったとお答えすることができるかと思います。かつての冷戦時代においては、日本はアメリカとの同盟に頼り、西側チームの一員として、ごく限られた正面の守備に当たっていればよかった。また、憲法第九条の存在が、政治の手段としての戦争への誘惑を断つ歯止めとなっていたことも否定しません。そうした状況にあっては、当然、戦争の蓋然性は低くなりますから、それを無視し、知らなくてもよいとする空気が圧倒的であったのも無理からぬことでしょう。


 しかしながら、冷戦終結後、そうした歴史的にみても稀である、幸福な政治環境はなくなりました。戦後、日本人が、さまざまな努力を払って振り切ってきた戦争に追いつかれようとしている。わたくしのみならず、少なからぬ国民が、さような実感を抱いているのが現状でありましょう。「諸君は、戦争には関心がないというかもしれない。だが、戦争のほうは諸君に関心を持っている」というトロツキーの不気味な言葉が想起される事態であります。


 そのとき、戦争を拒否、もしくは回避するためには、戦争がいかなる変化をとげ、現在どのような性格を帯びているかを知る必要がありましょう。仮に反戦運動を展開するにしても、新しい時代には新しい戦争への理解、とりわけ、いかなる歴史的経緯をたどって、それが成立したのかを踏まえていなければ、説得力を持たせることは難しいはずです。実際、拙著のみならず、少なからぬ数の軍事書が読まれだしているのは、かくのごとき問題意識が国民のあいだに生起していることの反映ではないかと思われます。


 つぎに、大きな射程からみれば、人間とは、また、人間の集団とは何かを探究することを目標とする人文・社会科学にとって、戦争は、避けて通れない研究対象であることが指摘できましょう。むろん、人間がいかに効率的に人間を打ち倒すかを追求する戦争は、憂鬱なる研究分野であります。しかしながら、ignore (無視する)ignorance(無知)に至るという警句の通り、日本で戦史・軍事史が検討されてこなかったがゆえの空白は、人間の営為の探究に際して、もはや看過できない欠落であろうと考えます。


 もし、拙著『独ソ戦』が広範な読者を獲得できたとするなら、それは、この空白を衝いたことが幸いにも、すでに述べたような需要に合致し、さらには、あるテーマに対して必要な知識をコンパクトなかたちで提供するという新書の性格に沿っていたからではないでしょうか。おそらくは今後も、そうした読者の要求は続くものと推測され、わたくしも、戦史・軍事史に関する空白を埋めるべく、いっそう努力していきたいと思っているしだいです。

(『中央公論』2020年5月号より)

永田町政態学

 政権の危機を迎えた安倍首相が頼りにしたのは、第一次内閣以来の「側近」たちだった。新型コロナウイルスの感染拡大をめぐり、首相がトップダウンで決定を下す場面が増えている。第二次内閣発足以降、菅官房長官らが中心となって政策決定をリードしてきた「官邸主導」は、「首相主導」に変化している。


 「これで完璧だ」。三月初旬、首相官邸で中国と韓国からの入国制限を強化する方法を協議した際、首相は北村滋国家安全保障局長の示した案に思わず膝を打った。


 北村氏の提案は、両国民に発給済みの査証(ビザ)の効力を停止するものだった。入国拒否に近い対応となる。首相の支持基盤である保守派内では、早くから中韓両国からの全面入国拒否を求める強硬論があった。その声に応えると同時に、出入国管理・難民認定法に基づく入国拒否ほどの強硬な措置ではないため、相手国の面目を潰さないという利点もある。


 首相は三月五日、中国の習近平国家主席の国賓来日延期が発表された約三時間後に、「国民の不安感を解消する」として、入国制限強化策を発表した。菅氏に相談したのは発表当日だったという。


 北村氏は警察庁出身。第一次内閣で首相秘書官を務めて以来、首相に忠誠を誓う側近中の側近だ。第二次内閣発足後、内閣情報官として最も頻繁に首相と面会し、国内外の情報を伝えてきた。昨年九月に外交・安全保障政策の司令塔となる国家安全保障局長に昇格した。前任の谷内正太郎氏は外交方針をめぐる首相との意見対立が指摘されたが、北村氏が首相に異を唱えることはないとみられ、「首相との関係はますます近くなった」(政府関係者)とされる。


 北村氏と同じく第一次内閣の首相秘書官で、第二次内閣で首席秘書官に就いた今井尚哉氏は、昨年九月に政策全般を担当する首相補佐官を兼務し、さらに存在感を増している。


 首相は、小中学校、高校などの一斉休校を要請した際も、事前の検討を今井氏に委ねた。首相の出身派閥に属する萩生田文部科学相ですら、知らされたのは要請の当日だった。萩生田氏は保護者への影響が大きいと難色を示したが、首相と今井氏は「あとは責任を持つ。任せてほしい」と引き取った。


 感染拡大は経済にも深刻な打撃を与えている。首相は、経済産業省出身の今井氏に対応策の検討を任せている。政府は大型の経済対策を四月にまとめる方針だが、霞が関では「今井氏の下で経済産業省が具体案の作成を主導するのだろう」との声が漏れる。


 第二次内閣以後の安倍政権は「官邸主導」と評されてきた。この言葉を体現してきたのが、政権の要である菅氏だ。内閣人事局で人事権を握って各省幹部を品定めし、警察庁出身の杉田和博官房副長官とともに、危機管理を取り仕切ってきた。


 新型コロナウイルスをめぐっても、中国・武漢へのチャーター機派遣など初期対応は菅氏が主導した。しかし、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」への検疫に関して国内外の批判を浴びると、首相は自ら対応に乗り出し、トップダウンの色を強めるようになった。主導権は菅氏から、首相側近の今井・北村両氏へと徐々に移っていった。「菅氏は各省のどの官僚が使えるかを知っているが、首相はそんな細かいところまで分からない。自然と、気心の知れた側近を頼る」と政府関係者は解説する。


 首相は周囲に「緊急時は走りながら決めていくしかない。調整や制度設計は後回しでも仕方ない」と語る。しかし、菅氏が霞が関に指示するこれまでのスタイルが崩れたことで、厚生労働省などは蚊帳の外に置かれることになり、不満がたまっている。 「首相主導」で失敗すれば、首相の求心力低下に直結する。官邸内力学の変化は、政権の行方も左右する可能性がある。(米)


(『中央公論』2020年5月号より)

このアーカイブについて

このページには、2020年7月に書かれた記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2020年6月です。

次のアーカイブは2020年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。