2020年8月アーカイブ

 突如、辞意を表明した安倍首相だが、記者会見で「体調に異変が生じた」とした七月中頃の少し前、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏を聞き手に、胸の内を語っていた。

 コロナ対応を振り返るとともに、「拉致問題は任期中に結果を出したい」と強調。

 後継者については「高い立場から見下ろして育成できるものではないと思っています。政治の世界では、上から『あなたがふさわしい』と指名するのではなく、世論から、党内から盛り上がっていくものだと思います」と述べた。

 内閣支持率が低下している理由を「私の不徳の致すところです」と答えた総理に対し、橋本氏が「それじゃダメなんですよ。『不徳の致すところ』で片付けては原因がわからなくなってしまいます」と返す場面もあり、辞意の報を受けたいま読み返すと当時の心身のコンディションが読み取れる。

 インタビュー記事は、現在発売中の月刊『中央公論』9月号において、写真ページを含め10ページ、およそ1万字にわたり掲載している。

 安倍首相の突如の辞意表明を受けて、次の総裁選への動きが慌ただしい。

 有力候補とされる石破茂氏はインタビューに答えて、「私は楽しそうだった総理を見たことがない」と明かした。これは田中角栄、竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三、福田康夫といった歴代の総理をふりかえったものだが、安倍首相については「幹事長として選挙を共に戦い、あるいは地方創生担当大臣としてお仕えもしましたが、やはり重責を担われているのだなと思いました。近しい人を徹底的に大事にされる本来の優しさと、総理に求められる決断とを両立させるのは、難しいことも多々あるのだろうと勝手に思っています」と語った。

 来る総裁選については「未来永劫続く政権はないので、誰かが次にやらなきゃいけない。そのときに、これだけ役職を重ねて、総裁選挙に三回も出た人間が、『浅学非才の私にはできません』とか『もうやめます』とは言えません。選挙で選ばれた政治家は、国民の代表なのですから、本当にやらなきゃいけないときに逃げるわけにはいかないのです」と語っている。石破氏の動きに注目だ。

 インタビュー記事は、現在発売中の月刊『中央公論』9月号において、写真ページを含め8ページ、およそ7000字にわたり掲載している。

─本書は、東日本大震災から二〇一八年までの被災者の七年間を記録したルポルタージュで、福島県南相馬市在住の上野敬幸さんとその家族が主人公に据えられています。上野さんは津波で両親と二人の子どもを亡くすなどの悲しい出来事に見舞われていますが、取材にあたって信頼関係を構築するために、心掛けていることはありますか。

 上野さん一家とは震災の年、原発事故に揺れる南相馬を取材する過程で知り合って以来、随分たくさんお話を聞かせていただきました。そのように親しい間柄になっても、忘れてはいけない「一線」があると思っています。私が当事者ではない以上、ご家族のことを「本当にはわかりえない」と自覚し、知ったつもりにならないことです。被災者の感情というのは、常に揺れ続けています。私はその都度、「いまの気持ち」を尋ねるよう心がけています。

 

─取材を七年続ける過程で、笠井さん自身もテレビ局の報道職を辞されたり、映画制作のためにクラウドファンディングに挑戦されたりと、紆余曲折があったかと思います。ご自身を突き動かす動機は何でしょうか。

 震災で家族を亡くした遺族の喪失感、そして心が回復する過程とは現実にどういうものなのか、それを自分の目で確かめ、伝えたいと思ったのです。東日本大震災から九年が経ち、今では断片的な報道が多いと思います。一方私は、毎月同じペースで現地を訪ね続けてきたことで初めて、想像を超えた現実を知ることが出来ました。時間が経てばその分だけ、被災者の気持ちも前向きになる、などという単純なものでは決してない、ということです。
 上野さんとは震災の年の十月、南相馬の海岸で出会いました。私が手にカメラを下げたまま佇んでいた時です。
「なんだぁ!? コノヤロウ」
 と、突然、ドスの利いた怒鳴り声を浴びせられたのです。声の主は軽トラックに乗った上野さんでした。私のカメラを訝しみ、メディアに敵意をむき出しにしていたのです。すぐに、立ち去った上野さんを追いかけ、思い至らなさを謝りました。その時の上野さんの目が、あまりにも深い悲しみに満ちていて「この人には、きっと言いたいことがたくさんある」と強烈な印象が残りました。数ヵ月後、偶然再会した時に初めて聴いた上野さんのお話は、まさに、原発事故の陰で見捨てられた津波被災者たちの叫びそのものでした。
 そして、出会って半年後のある日、
「今度、いつこっちに来るの?」
 と上野さんから電話がありました。思ってもみないことで、うれしかったですね。

 

─文筆と映像制作の違いは何でしょうか。

 テレビや映像の世界に入って二〇年になりますが、今回初めて本を書きました。執筆にあたっては、東北の被災地で撮影した四五〇時間以上の映像を見返し、場面を描いていきました。映像の場合、切り取った小さなフレームの範囲内でしか表現できないところを、文字にする時はフレームの外側、周辺の全てを活字として再現する余地があるのです。自分が撮影した映像だからこそ、見れば即座に、現場で感じた日差しや風や匂い、身体の芯まで凍えるような東北の厳しい寒さなどが蘇ってきます。この本を読んだある新聞記者に私の文体は、場面を描く時に三つのセンテンスで完結させて、色々なことを言い過ぎないところが良いと言われました。限られたカットで表現するのが映像の醍醐味ですが、そうした「カット割り」を、文章表現の中でも私は意識せず行っていたようです。

─今後の活動予定を教えて下さい。

 震災六ヵ月後に生まれた上野さん夫婦の娘・倖吏生ちゃんがどう成長していくのか、一〇年、二〇年後に伝えるべきことがあれば新しい形で伝えたいですね。夫婦は歳を重ねて老い、一方の倖吏生ちゃんは大人になっていきます。震災によって、自分が生まれる前に家族を亡くしたという事実は、倖吏生ちゃんの心にも少なからず影響すると思いますが、元気に明るく幸せな人生を歩んでほしいと願っています。

〔『中央公論』2020年9月号より〕

小津映画の重役たち

 小津安二郎の映画を見ると、丸の内の重役たちは昼食の時に当然のようにビールを飲む。「もう一本いかがですか?」という女将の誘いに「いや、まだこれからお勤めがあるから」と断っていたから、彼らは微醺を帯びて午後の「お勤め」をしていたわけである。

 確かに映画を見ている限り、重役たちははんこを捺すことと同僚や友人と雑談する以外にあまり仕事らしい仕事はしていないから、生酔いでも差し支えなかったのだろう。今なら「就業規則違反」で懲戒だろう。

 かつてあった「献酬」という習慣もなくなった。「お流れを頂戴」というあれだけれど、若い人はそう書いても意味がわかるまい。やはり小津の『麦秋』の一場面では、料亭の

一室で、上司(佐野周二)が部下(原節子)に「まあ、一つ」と言って自分の盃を差し出す場面がある。これなどは今の女性には最悪の「セクハラ」「パワハラ」案件にしか見えないだろう。

 煙草もそうである。一九七〇年代までの映画を見ていると人々はほんとうによく煙草を吸っていた。私の主観的な印象だが、戦争中と戦後すぐは人々の喫煙量がそれまでよりずいぶん増えたような気がする。誰かハリウッド映画を精査して、時代別に「ボディ・カウント」ではなく「スモーカー・カウント」をして欲しいと思う。一九四〇年代の映画でも男性たちはよく煙草を吸っていたが、やはり四一年に真珠湾攻撃があって、アメリカが第二次世界大戦に踏み入ってから一気に登場人物たちの喫煙量は増えたように思う。ハンフリー・ボガートの『カサブランカ』なんか、見ているだけで部屋が煙ってくるほどである。

戦争と煙草

 喫煙と戦争の間にはたぶん関係がある。一つはケミカルな理由。

 煙草は「ダウナー」であるから、喫すると気分が少しの間だけ落ち着く。戦争中というのは頭が熱くなるようなことが続く時期であり、かつ頭に血が上がって判断を誤ると生命にかかわる。だから、わずかなりとも気分を鎮める「薬剤」が手元にあるならそれを間断なく投与するのは生存戦略上合理的なふるまいである。

『プラトーン』や『地獄の黙示録』を見ると、六〇~七〇年代にベトナムに参戦した兵士たちはほとんど間断なくマリファナ煙草を吸っていた。特に「美味しい」と思っているわけではないだろう。目の前の現実があまりに不条理で絶望的なので、それに引きずり込まれると生きる意欲が萎える。それよりは少しでも「ハイな気分」になっておいた方が生き延びる確率が高いと判断したのだろう。AK47で頭を撃ち抜かれたり、地雷を踏んで吹き飛ばされる方が肺癌で死ぬより確率的に高い場合には、三〇年後の健康に配慮するようなことをふつうの人はしない。

 戦争と喫煙の関係その二つ目は、煙を吐き出すことで、自分が生きていると確認できたということである。やはり小津の『風の中の牝雞』に、長く外地にとどめおかれ、ようやく復員してきた男(佐野周二)が妻(田中絹代)に「煙草を買ってきてくれ」と頼む場面がある。妻が銘柄を訊ねると、男は寝転んだまま「何でもいい。煙のたくさん出るやつ」と答える。私は二十代のときにはじめてこの映画を見て、この一言がずしんと腹に応えたのを覚えている。戦地から生きて家族のもとに戻り、自分の五臓六腑が機能していることを確認するために男は「大量の煙を肺から吐き出す」ことを求めたのである。

 私が二十代の頃、世の中が政治闘争で荒れていた時期があった。ある時、東京の郊外で国鉄の業務を妨害するという学生たちのデモがあった。何が目的だったのか忘れたけれど、ベトナム戦争の時だから、たぶん米軍の物資運搬への反対闘争だったのだろう。線路に坐り込んでいたら、夜半から雨が降って来て、そのあと機動隊に蹴散らされて痛い思いをした。明け方に濡れそぼってデモに参加した学生たちが三々五々最寄りの駅まで歩いていた時に、隣を歩いていた学生に「煙草ある?」と訊いたら「ああ」と言って一本差し出してくれた。私が持っていたマッチで二人の煙草に火を点けて、黙ってしばらく歩いた。その時にもし彼が複数の煙草を所有していて、好みの銘柄を訊ねられたら(そんなことあるはずないが)、きっと「なんでもいい、煙のたくさん出るやつ」と答えたような気がする。どうしてかはわからないが。

 今の例から知れるように、煙草と酒は例外的に「見ず知らずの他人からもらうことができるもの」である。居酒屋のカウンターで煙草を切らした時に、隣に座っている見知らぬ人に「一本頂けますか?」と言うと、だいたい黙って煙草を差し出してくれた(昔の話である。今は店が煙草を吸わせてくれない)。親切な人はライターで火まで点けてくれた。

 煙草そのものは固体だが、吐き出す煙は気体だからである。気体は本質的に私有になじまない。それは「コモン(共有物)」として観念されている。太古的な信憑である。

分割できないものを共有する

 酒もそうで、これは今でも旧習がかろうじて残っているが、宴席でビールや燗酒を飲みたくなったら、まず隣の人の盃に注いで、相手が「あ、気が付きませんで」と言ってビール瓶や徳利を持ち直して自分の盃に注いでくれるのを待つというのが「本式」である。人に飲むペースを決められるのは嫌だ、オレは自分のビール瓶から飲みたい時に自分で注ぐというようなハードボイルドなことを言う人がたまにいるけれど、それは「共飲儀礼」というものの本質をわかっていない人間の言い草である。

 共同体を立ち上げるための「共飲儀礼」「共食儀礼」を持たない社会集団は存在しない。その時に「共有されるもの」として選択されるのは「分割できないもの」である。液体と気体は分割できないから、この儀礼においては「コモン」として特権的な地位を占める。

 旧い漢字に「觚」「觳」「觴」「觗」などがあるが、どれも「さかずき」と訓ずる。動物の角は古代において身の回りに見出すことのできるもっとも「尖ったもの」であった。わざわざそれで「さかずき」を作ったのは、角でできた食器は下に置くことができないからである。自分の手を自由にしようと思ったら、「さかずき」は誰かに手渡すしかない。酒は共飲すべきものであって、私有になじまないということを古人は「さかずき」の形態を通じて教えたのである。

 北米先住民が煙草の共喫儀礼を持っていたことは西部劇を見た人は誰でも知っている。それが儀礼の素材に選ばれたのは、気体は分割することができないからである。分割できぬものを共有するためには、共同体をかたちづくるしかない。だから共飲・共喫の儀礼は「友愛」の儀礼として機能したのである。

 デオドラント社会というのは要するに「他人と気体を共有したくない」という欲望が過剰に亢進してしまった社会のことである。うるさく「パーソナルスペース」を言い立てるのも、「おまえの吐いた空気をオレに吸わせるな」とか言うのも、いずれも「分割し得ぬものを共有する儀礼を通じて共同体を基礎づける」という、長い人類史にわたって続いて来た習慣が失われたことの徴候である。

 喫煙という習慣も、隣の人の盃に酒を注ぐ習慣も、たぶん遠からず終わるだろう。イギリスで「コモン(共有地)」が終わったのは十九世紀の「囲い込み(エンクロージャー)」によってである。村の共有地を資本家が買い上げて私有地にして、土地の生産性を上げることを資本主義が要請したのである。歴史の流れに逆らえずに「コモン」を失った村落共同体は解体し、農民たちは没落して、「鉄鎖以外に失うものを持たない」都市プロレタリアになり、産業革命に安価な労働力を提供して資本家たちを喜ばせた。

 コモンの喪失は資本主義の要請である。衆寡敵せず。土地であれ、空気であれ、水であれ、他者とものを共有するのは「嫌だ」という人間が資本主義社会においてマジョリティを構成してしまった以上、私たちにできることはもうない。この世の中でこれから先、人々はいったいどのような儀礼によって他者との友愛と「分割し得ないもの」の共同所有を基礎づけるつもりなのか、私にはわからない。そんなものは要らないと言うのなら、どうぞご勝手にと言う他ない。

 

〔『中央公論』2020年9月号より〕

【対談】戸部良一×武田知己

「昭和史の天皇」が共感を得た理由

─武田先生は『失敗の本質』、そして本日のもう一つのテーマ「昭和史の天皇」(https://www.yomiuri.co.jp/national/20200812-OYT1T50267/読売新聞社会部記者によるのべ一万人への取材と文書資料を基に、昭和初期から終戦までを証言でつづった。一九六八年菊池寛賞受賞。単行本全三〇巻、中公文庫版全四巻〔現在は電子書籍で販売〕などを刊行。)から、どんな影響を受けてきましたか。

武田》僕らの世代において印象的な『失敗の本質』について、著者の戸部先生とお話ができるのは光栄の至りです。この本から学んだのは、ある特定の歴史観で歴史をとらえないということです。「昭和史の天皇」にも同じことが当てはまります。一つの歴史観にこだわらず、何が起きたのかという出来事を中心に描いています。一九六七~七五年に読売新聞で連載されましたが、十数年後の『失敗の本質』は、社会科学的な観点からの分析へと発展しており、歴史学の展開を実感できます。

戸部》「昭和史の天皇」は個人の歴史を伝えているように見えて、単なるノスタルジーではありません。戦後二〇年経って落ち着いたので、今まで何をやってきたのかもう一回考えようという時期だったのでしょう。

武田》話す側も「そろそろ話してもいいか」と思える、一区切り感があったのかもしれません。

戸部》それ以前にも戦争について語った人たちがいたと思うのですが、他方で、語らなかった、語れなかった人たちもいた。戦後の混沌とした状況ではとてもそういう気分になれないとか、自分が考えたまま言うと批判されるかもという懸念があったのでしょう。そういう思いを抱いた人たちが、政治的な安定期に入って、ようやく証言できるようになった。もちろん、生き残りがたくさんいたことが一番大きい。ですから、共感を抱いた読者が多かったのでしょう。
それと、連載を始めた翌年が明治百年。百年の来し方を考えようという気運があったのでしょうね。

武田》戦後に戦前の証言を聞いたというと、すごく昔のことを聞いているような印象がありますが、実は三〇年ほど前の話。今で言えば、平成初期の証言を聞く感覚です。

戸部》同時代性があるのですね。近過去に日本が何をしてきたのか、どこで間違ったのか、落ち着いたところでもう一度考えようという意識がどこかにあります。それが出ているので、共感できたし、客観的なデータとしても使えました。

武田》「昭和史の天皇」に携わっていた元記者の松崎昭一さんのご自宅を戸部先生と一緒に訪れた時にいただいた資料の中に、たくさんの手紙がありました。読者からも、また『沖縄決戦』の著者であり証言者の八原博通(やはらひろみち)さんからも感謝の手紙が届いています。国民の各層から初めて自分たちの思いを表現してくれた歴史だと受けとめられたのではないでしょうか。

人材を活かせなかった軍隊

─松崎さんが八原さんを訪問した際に手記の存在を知り、『沖縄決戦』の出版に結びつきました。「昭和史の天皇」の取材から生まれた本と言っていいですね。

戸部》取材テープを聞くと、八原さんが「神(じん)君は先帰って悪口を言うとったと聞いた」と言っています。沖縄防衛を担当する第三二軍の航空参謀を兼務していた陸軍軍人の神直道(なおみち)さんの八原評は、宮崎周一(みやざきしゅういち。最後の参謀本部第一部長)の日記で確認できます。第三二軍が非常に消極的だと批判されるのです。第三二軍では四五年四月初旬に一度攻撃を実施すると決断をしたところ、南部にアメリカ軍が上陸する脅威が高まったので攻撃を中止したのですが、『宮崎日誌』にはそれに対する批判があり、長勇(ちょういさむ。第三二軍参謀長)は威勢がいいのに、実際は「攻撃精神旺盛なる軍人とは申しがたし」と手厳しい。
 六月中旬、神さんは、航空決戦のために沖縄戦の実情を伝えに東京に戻った。そして宮崎作戦部長に、長軍参謀長と八原参謀の間で作戦思想が一致していないし、八原さんの人格が問題だと報告する。
 おそらくこうして大本営の中で八原像が作られていった。宮崎さんも八原さんに対して厳しかったと言われていますよね。残念ながら、沖縄戦の実情や、八原さんの基本的な考え方は大本営に伝わらなかった。

─もともと宮崎さんは本土決戦思想で、八原さんと考え方が異なりますが、八原さんの慎重さや意図が中央の大本営に伝わらずに、消極的だという批判が露骨に出ていますね。

戸部》「戦略持久」というよりは「消極的」だと伝わっていますね。ところが、八原さん自身も本土決戦論は否定していない。むしろその準備のために時間を稼ぐのだと。なるべく持久して敵に損害を与えようと考え、実行している。宮崎さんの本土決戦論と八原さんの戦略持久は、実は矛盾していないのです。
 テープ起こしを読んで「えっ」と思ったのは、沖縄へ充当される予定だった姫路第八四師団の派遣を、宮崎さんが途中で敵潜水艦に襲われるかもしれないからと中止にしますよね。松崎さんが、「あれもちょっとひどい話だと今は思いますね」と水を向けると、「送ってきたらまたあの、作戦の立て直しをやらなきゃいかんと。ちょっと面倒だなという感じがしましたね」と。持久でやるのだと臍(ほぞ)を固めているところが、非常に印象的でしたね。
 ところで、『失敗の本質』ではないですけれども、八原さんは『沖縄決戦』の中で日本軍の特徴を語っていますが、見事な分析ですね。

─高級将校に対して「感情的衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける」と批判し、科学的な検討に欠けると指摘しています。

武田》八原さんは批判的な観点を持っています。一方で、長さんや牛島満(うしじまみつる)さん(沖縄戦を第三二軍司令官として指揮し自決した)を嫌いでない。

─精神力を過度に重視などと批判はしていますけど、最後に牛島さんと長さんが自決する場面は特に思い入れを込めて書いていますね。

戸部》八原さんは合理主義を徹底した人ですけれども、だからと言ってカチカチの朴念仁ではなかった。人の思いや情熱に共感を覚えるタイプだったのではないでしょうか。でも、このような見事な軍人がなぜ沖縄戦にしか出てこなかったのですかね。

武田》ある種の左遷で沖縄に赴任したのでしょうか。

戸部》大東亜戦争が始まってさまざまな作戦があったにもかかわらず、八原さんがなぜ陸軍大学教官に留まっていたのか疑問です。陸軍という組織は、人的資源の使い方に問題があったのでしょうね。

「瀬島ノート」に見る実像と虚像

─話を次に進めますが、先生方が松崎さんからいただいた資料の中には、八原さんの書簡とともに、「瀬島ノート」がありました。瀬島龍三(せじまりゅうぞう)というと、シベリア抑留について尋ねる取材が多いのですが、あえて開戦時について尋ねています。

武田》「瀬島ノート」は「昭和史の天皇」の本記にほとんど盛り込まれなかった瀬島さんへの取材記録です。音声も残っている。ここで話したことが、後の自伝『幾山河』(一九九五年刊)の土台になっていると思います。

戸部》書籍『昭和史の天皇』最終巻のテーマは日米交渉ですが、唐突に終わっています。それは本社の方針でしょうが、おそらく「瀬島ノート」は、使うつもりだったけど使われなかったものでしょう。面白いのは、インタビューに同期生の原四郎(はらしろう)さんが同席していること。陸軍士官学校で一番と二番。二人とも超優秀な軍事官僚です。原さんが「開戦してから中期以降、まあ、十七、八年頃からは、瀬島君が全軍作戦の主任者というところじゃないですか」とヨイショしている。(笑)
 結論的に私の印象を言うと、たしかに瀬島さんは長期にわたり大本営参謀だったし、一時は「参謀本部の天皇」と言われるほど実権を持っていたとされますが、開戦前後について原さんのヨイショは虚像だと思います。だって瀬島さんは一九一一年生まれ、開戦当時三十歳で、班長でもない人が実権を持つはずがない。もし持っていたとしたら逆にすごい組織だと思いますね。

─それこそ『失敗の本質』ですね

戸部》今と違って、五十歳を過ぎればお年寄りの時代ですから、今の三十代とは違うかもしれないけれども、そんな実権は持っていなかったはずでして、例えば、南部仏印進駐を見合わすべきという服部卓四郎(はっとりたくしろう)作戦課長に宛てた上申書を本当に書いたのか。それを、評論家の保阪正康さんが問題にしていますが、たとえ本当に書いたとしても、影響力があったかどうかはわからない。

武田》ちょっと想定して書いておけ、と上司から命じられることは、まあ、ありうることですよね。

戸部》瀬島さんは上から言われたことをきちんとこなす能吏ですね。こういうケースもあります、別のケースもあります......と想定して整理し、幕僚の役割に徹している。きちんと分析して、文章もおそらく非常にうまく、要約力もあって「字がうまい」(「瀬島ノート」に記載された原四郎の評)。

武田》やれと言われたことはきちんとやる。「瀬島ノート」によれば「ひとたび決定された事項については、自分の意見はその時点で......我々は小さい時から、決定までには意見は言うが、決定されたら、決定に直ちにフォローしていくという、そういうしつけを受けていますからね」と語っています。
 大江志乃夫さんの『日本の参謀本部』のあとがきに、瀬島さんが登場します。瀬島さんは戦後、長く伊藤忠商事に勤め、第二次行政臨時調査会の委員に就いたが、「戦時中の陸軍の若いエリート・スタッフ時代の反省が現在の生活にどう生かされているのであろうか」と、戦争当時をまったく反省していないかのような取り上げられ方でした。もっとも、こうした評価を鵜呑みにはできませんが。

戸部》かわいそうな面もありますね。元軍人たちが企業で活躍したことは功罪両面あるとはいえ、一概に否定すべきことではありません。戦後の復興にもそれなりの貢献をした。ただ、開戦当時の瀬島さんに、戦後のイメージを重ねるのは間違いです。

八原と瀬島の違いとは

武田》瀬島さんも八原さんも中隊長を務めていませんし、同じ陸大出身の優等生で同じ能吏だけど、二人はちょっとタイプが違いますね。片や前線、片や中央という違いなのか。

戸部》もう一つの違いは八原さんはアメリカに留学していますが、瀬島さんは留学していないことです。一~二年留学すると、考え方に何らかの影響を受けるだろうと思います。違う文化に触れて、世界にはまったく違う発想をする人たちがいることに気付くか気付かないか。

武田》「瀬島ノート」を見ても、当時は若かったとはいえ、自ら判断した形跡がありません。たとえば「それじゃ国家として、対米戦争を決意しておるか、何も決意しておらない。むしろ、参謀本部の中でも、軍令部の中でも、対米戦争というようなものは、できたら回避したいという空気も、ぼくはあったと思います。できるだけ回避したいという考えです」といった具合です。

戸部》戦争が終わってから反対だったとか、南部仏印に行ったら大変なことになると思っていた、と言う人は少なくないですが、本当に当時、そう思っていたかということです。
 原四郎さんが何度も言っているのは、アメリカと戦争をする気はなかった。だけど譲歩もしたくない、と。じゃあどうするのですかっていう話ですが、それを自分たちで考えることはしない。

武田》晩年に瀬島さんがテレビ番組に出演した時、同じようなことを言っていました。アメリカと和平を結ぶことは屈服することである。和平を結ばないのは戦争をすること。屈服も嫌だ、戦争も嫌だ、と。

戸部》彼らからすると、答えは上司が出すのだということなのでしょう。われわれは屈服しない。戦争もしたくないという前提で計画は作る。
 瀬島さんの本を読んでいてよくわかるのは、幕僚は責任を持っていないという意識です。ですからあまり反省もしていない。「上申書を取り上げてくれなかった。アメリカなんかと戦争したくはなかった」と言う。上にいた人たちが責任を持つべきだという考えですよね。
 八原さんの場合には末端とはいえ、自分の決定したことで戦をやっているので、彼は最後まで責任を感じている。二人の回想録から受ける印象の違いはそこです。

武田》八原さんは苦しんでいる。他方、瀬島さんの能吏ぶりを考えるにつけ、そこにやはり組織の病があるのかもしれません。「下剋上」という言い方をよくするじゃないですか。当時、瀬島さんのように起案する立場の人たちが、力を持っていたと考えるべきなのでしょうか。

戸部》そこは非常に難しいですが、起案する人は起案したものが上に上がっていくから、自分に力があると思いますよね。だけど上司からすると、自分が命じたことを基本に据えて起案されたものだから、よほどその趣旨に違いがなければ採用して上まで上げるでしょう。私は書けと命じた側に実権があったと思います。

「できません」と言えるか否か

武田》やはりボトムアップというのは、官僚組織の在り方を考えれば普通のことなのですね。

戸部》ただ、ボトムアップは戦時の組織じゃないですよね。対米戦争前とはいえ、中国とは戦争をしているし、戦時であるのに組織それ自体が平時のまま動いている感じです。それはいろんなところに表れており、例えば沖縄戦の時にも、三月頃に人事の定期異動があった。この期に及んでそんなことをしているのかと思うのですが......せめて抜擢人事ならと思いますが、それもない。平時の定期異動です。
 いくら瀬島さんのように起案者が優秀でも、上が曖昧である限り下の方も曖昧にならざるをえません。『失敗の本質』的に言えばトップの戦略目的が曖昧であれば、部下がどんなに優秀であっても曖昧な起案しかできない。するとやはり問題はリーダー不在ですね。杉山元(すぎやまはじめ)参謀総長なんてどこで出てくるんだろうな、と思うくらい出てこない。上がはっきりした目的やビジョンを持っていなければ、八原さんのような現場の人も、瀬島さんのような中央の末端に属す人も動きようがありません。

武田》当時の英米の指導者が明確な将来像を持てていたのかというと、それもかなり怪しいのですが、日本は戦略が一つではなく、南進か北進か、ドイツと組むのか違うのか、戦略が分かれていますから、指導者層の間でビジョンが錯綜しています。
 戦略目的が曖昧だから瀬島さんは南進も準備して、北進も準備してという何通りかのパターンを想定するのが当たり前になってしまっている。

─北も南もというのは戦略的には無理がありますが、それをうまく起案できる能力があったのでしょうね。

戸部》でも、本当に能力のある人だったら「できません」と言うはず。そういう能力のある人たちは残念ながら中央にはいません。八原さんは「できません」と言うタイプですが。

武田》八原さんのような人は孤独な戦いを強いられてしまう。

─高度に官僚化された軍隊のような組織では、「できません」と言う人は周辺に追いやられ、「できない」と思いつつも起案できる人が中央に残る、ということでしょうか。

戸部》「できません」と言うこと自体がいつもいい回答であるわけはなく、本当に優れた人は最後まで上司の指示を前提として考えて考えて考え抜いて、その結果やはり「できません」と言うものでしょう。考えもしないで「できません」と言うのは、上司からしたらたまりません。(笑)

武田》八原さんは、牛島さんは自分が上げたものを何も見ずにサインする、と。こういう上司だったら俺が頑張らないと駄目だと書いていました。これもある意味で能吏的ですね。牛島さんも、人を使うのがうまかったのかもしれませんが。

戸部》よく日中戦争時の「海軍トリオ」(米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長)が評価されますが、沖縄戦の牛島、長、八原のトリオも見事です。八原さんが長さんを批判しつつ、でも愛情を持っているのは、それなりの上司の在り方だったのでしょう。

─リーダーも時によっては、「できません」と言うべきでしょうか。

戸部》日米開戦の見通しを問うた近衛文麿首相に対して、山本五十六が「是非やれと言われれば初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、二年三年となれば全く確信は持てぬ」と答えたのは有名ですね。でも山本さんは「できません」と言うべきだった。もちろん海軍大将として、組織を守るために簡単には言えないかもしれません。でも、国防や安全保障の本質を考えれば、「できません、戦えません」と本当は言うべきだった。これは、組織のリーダーとしての一つの心構えではないかと思います。

(以下略)

*司会・前田啓介(読売新聞社文化部)

*取材協力・読売新聞グループ本社知的財産部

*対談時の戸部良一氏の動画が以下でご覧いただけます。https://www.yomiuri.co.jp/stream/88/15856/1/

〔『中央公論』2020年9月号より改題して抜粋〕

「昭和史の天皇」(https://www.yomiuri.co.jp/national/20200812-OYT1T50267/)は昭和四十二~五十(一九六七~七五)年に読売新聞夕刊で連載。社会部記者によるのべ一万人への取材と文書資料を基に、昭和初期から終戦までを証言でつづった。昭和四十三年菊池寛賞受賞。単行本全三〇巻、中公文庫版全四巻(現在は電子書籍で販売)などを刊行。伊藤氏は読売新聞社等に眠っていた取材資料を発掘し、平成三十(二〇一八)年に読売新聞社による国立国会図書館憲政資料室への寄贈につなげた。その経緯と史料的な価値について伺った。

残されていた膨大なテープ

─先生と「昭和史の天皇」との出会いは?

 最初の出会いは読者としてでした。当時、私も夢中で政治家の聞き取りをやっていて、強い関心を持って読んでいました。ライバルと言ってもいい存在でした。
 昭和四十四年、一〇〇〇回の連載を前に、歴史学者の角田順氏が「昭和史の天皇」を「オーラルヒストリー編集上の偉業」と評価していました。この時、こういうのをオーラルヒストリーというのかと思ったことを覚えています。それまでは談話や聞き取りと呼んでいたので。おそらくジャーナリズムで初めて「オーラルヒストリー」と紹介されたものではないでしょうか。
 そして連載が二〇〇〇回を超えた時、私は「昭和史研究のために関係者からの聴き取りを行い、その重要さ・困難さ・緊急性を痛感しているものの一人として感慨少なからぬものがある」と読売新聞に寄稿しました(昭和四十八年一月二十七日付)。

─憲政資料室への寄贈の経緯は?

 平成七~八年にかけて、私は憲政資料室の調査員を務めていて、関係のあった読売新聞の担当者に取材資料の所在を尋ねたことが始まりです。平成九年になって読売新聞から少し見つかったと連絡があったので、大至急憲政資料室の中心的存在だった広瀬順晧(よしひろ)さんと駆けつけ、段ボール四箱分の資料を前に二日間かけて目録を作りました。
 その後、読売側の担当者が定年退職するというので、その四箱分の資料がドーンと送られてきました。これは大事なものだからなんとかしなくてはと、武田知己さん(大東文化大教授)に目録作成を依頼したところ、もともと二五〇〇本あった録音テープのごく一部しか残っていないことがわかりました。
 そこで、さらに「昭和史の天皇」の中心メンバーで旧知の松崎昭一さんに問い合わせ、膨大なテープを中心とする取材資料を受け取りました。それらの目録を作ったり、一部は文字に起こしたりするなどして、整理のめどがついた頃、憲政資料室に寄贈できるようになったんです。

─「昭和史の天皇」の意義とは?

 証言者は今となってはほとんどこの世にいない人ばかりで、テープに残された昭和戦前期の証言は貴重です。ここにしか記録として残っていない人物も数多くいると思います。
 しかも、記事を読むと、一つのイデオロギー、史観に縛られていない。このこともとても重要です。

記者だからこそ聞けたこと

─聞き手が研究者かメディアかで、何が違うのか?

「昭和史の天皇」に関わった記者のほとんどは専門的な歴史研究をやっていません。元駐独大使で、ナチス・ドイツとの連携で中心的な役割を担った大島浩に話を聞きに行った女性もそうだったそうです。大島は相手がわからないだろうからと実に細かく話して、その結果、どこにも話したことのないことまでしゃべっている。私たち研究者は、わかったつもりで聞き逃していることがあることを気づかされました。
 記者も取材を積み重ねていくと、いろんな証言者から多角的に話を聞いているから、知識が蓄積していく。だから一長一短と言いますか、聞き手が記者の場合でも研究者の場合でも価値は同じです。特に違いはないと思います。
「昭和史の天皇」は取材班の熱量が高く、熱心に聞いている。他にもジャーナリズムの媒体があるけれど、この取材班だけが手がけることのできた仕事です。
 この時期にできたのは、一つの時代が終わったからというのが大きい。敗戦により、時代の区切りができた。敗戦がなければ、軍人や政治家だって話はしなかったと思います。
 何人かのキーになる人物をピックアップして話を聞くということは今でもできるんじゃないですか。取材資料を財産として活用するだけでなく、読売新聞として「昭和史の天皇」を引き継いだ戦後史班(再軍備や教育をテーマにした一九八〇年代初頭の連載を担当)も含めて伝統を継承していくことが大事です。インタビュー記録を残していくことを次世代のジャーナリストたちにも受け継いでほしい。
 政治家や外交官など、日本の歴史上重要な人物の名が新聞の訃報欄に出るたび、聞いておけば良かったと悔しい思いをします。生前に聞いておかないと二度と聞けない。学者も取り組んでいきますが、ジャーナリストも頑張ってほしい。

音声記録ならではの発見

─「昭和史の天皇」の中で、特に重要だと思われる箇所は?

 全部重要です。それぞれの回、人物に意味がある。よく人を見つけたと思います。日中戦争のあたりは、関係者に話を聞いているけれど、記事にほとんど反映されていません。記事に出てこない聞き取りの成果は、特に貴重なデータだと思います。
 松崎さんは取材相手の史料を多少獲得していますが、せっかくだから、これからもその子孫をつきとめて、残された史料も収集する。そして憲政資料室に渡せばいい。すぐに整理して、公開してくれますから。「昭和史の天皇」は、まだまだ広がりが期待できます。

─音声テープが残っていると、相手が答えに詰まっている様子や、得意になっている様子などが直に伝わってくる。

 文字に起こすと、そういう感情の機微が全部抜けてしまいますが、録音テープだとぜんぶわかる。音声記録はそういう意味でも大事です。
 またオーラルヒストリーの大きなメリットは、時代ごとの「常識」の変化がわかることです。たとえば、終戦直後に「大阪まで行った」と言えば、東海道線に乗るより仕方がないのですが、後世の人は新幹線をイメージするかもしれません。だから私たちは、あえてどうやって行ったのか尋ねます。「昭和史の天皇」でも、内大臣だった木戸幸一に、「電話」の話をしつこく聞いている。終戦時に、木戸が関係者と電話でやり取りをしていたと話すと、記者は「あの頃の電話は、やはり交換台を通してでございますか」とか、「直通電話はないのですか」など質問を重ねている。さらに、「交換台を通した場合、交換台から秘密が漏れるとかなどお考えになりませんでしたか」と突き詰めている。木戸幸一は浩瀚な日記を残しているが、内容は極めて簡潔なんです。こういうやり取りを重ねることで、当時の様子がヴィヴィッドに再現されていく。
 この音声記録は今、憲政資料室に所蔵され、その一部は利用できます。それまで音声記録をほとんど扱っていなかったので、ちゃんと処理してくれるか心配でしたが、時間をかけながらも取り組んでいます。

歴史の複雑さ

─戦後、外務省や陸軍などで多くの公文書が焼失したため、先生が取り組んでこられた個人史料の調査やオーラルヒストリーが重要だ。

 公文書を補うために私文書があるわけではなく、結果としてそういうこともあるということ。オーラルヒストリーは、公文書や個人文書を補う手段の一つになるとは思います。
 開戦時の海軍大臣・嶋田繁太郎にインタビューをしたことがあります。嶋田は日記を見ながら我々には覗かせずに答えました(日記は最近公刊)。しかも、速記も駄目だと。嶋田だけではなく、警戒して素直に当時の思いを語ってくれない人は多い。特に戦犯になった人は自分を守るための理屈をいろいろ作っています。
 戦後的な価値に基づいた、後付けの理屈だなというのは、聞いていてわかりますよ。そういう時は「ちゃんと話しても問題はありません」と説得して話していただく。

─「昭和史の天皇」が残した数々の証言から、我々が今という時代のために学べることは何があるか?

 一般的に「歴史から学ぶ」とは言いますが、本当に学べることはありますか。私は無理だと思います。無理に教訓を引き出そうとして事実を曲げていることが多い。実際に起こったことをどう解釈すべきか、研究者ひとりひとりに評価はあるので。歴史は非常に複雑で、一つのこともあっちから見るのと、こっちから見るのとでは違います。
「昭和史の天皇」でさえ、日本の出来事を日本人に聞いているだけで、ソ連側、アメリカ側の見方は出てきません。硫黄島の戦いだって、沖縄戦だって、アメリカ側の史料とつき合わせないとわからないことがある。向こう側から見るのと、こちら側から見るのとは違うわけです。一つの史料だけを基に、教訓としてこうすべきだったなんて偉そうなことを言うのはとても無理です。「昭和史の天皇」と他の史料を照らし合わせて、立体的に歴史を検証していくべきでしょう。

*インタビュー時の伊藤隆氏の動画が以下でご覧いただけます。https://www.yomiuri.co.jp/stream/article/15855/

(聞き手・構成/前田啓介)

 

 

〔『中央公論』2020年9月号より改題して転載〕

評者:加藤文元(数学者)

 ルーヴルにウフィツィ、ブレラ......美術館にはよく行く。だから、平均よりはイタリア絵画を観ているかもしれない。とはいえ、評者は数学者であり、絵画にとりわけ明るいわけではない。門外漢の書評で関係者に迷惑をかけてしまったら申し訳ないと思う。しかし、評者はこの本を読んでとても勉強になったので、そのあたりのことを書いてみたい。

 

 本書はロンギが一九一四年に行った講義の記録である。ロンギは当時二十三歳。若い駆け出しの美術史家の講義は、若々しい情熱と率直さに溢れている。日本語訳の初版は一九九七年で、今年の六月に文庫版が出版された。

 

 ローマのモザイクから(地理的場所こそイタリアではない)セザンヌまで、それなりに通時態で書かれているが、時間軸のゲージを細かく刻むことがロンギの目的ではない。また、それぞれの絵画の主題や、その奥に隠された作者の物語を明らかにすることでもない。ロンギがやることは、まずは絵画という視覚芸術を、「素描」と「色彩」というディコトミーのダイナミズムの中に放り出すことだ。素描の伝統は、さらに「線」と「造形」という下位区分に分けられ、詳細に、かつ赤裸々に分析される。そして、これらが著者の言う「遠近法的綜合」という空間構造的概念装置によって融合し昇華されていく。ロンギの狙いは、このような大きな流れを示すことにある。

 

 線・形・色は、そう易々とは互いに馴染み合わないものだろう。人間の知覚という、この鮮やかで不可解で眩しい現実。評者は以前よりセザンヌの絵には特別なものを感じていた。しかし、なぜそれほど惹かれるのか、自分ではなかなか言葉にはできなかった。メルロー=ポンティはセザンヌについてしばしば言及する。「まなざし」「奥行き」といったメルローの魅力的な言葉では、しかし、何かもう一枚向こう側に行けないもどかしさを感じていた。

 

 セザンヌの天才を見事に言語化するために、ローマのモザイクから延々二七〇頁もの言葉を尽くす。本書は、あたかも、そういう本だ。読者はロンギの「遠近法的綜合」に、ひたすら引きずり込まれる。「言語化」は、著者と読者の共謀関係からしか生まれない。若い教師の率直で明快なメッセージが誌面に響き渡る。ピエロ・デッラ・フランチェスカ《コンスタンチヌスの夢》に導かれた挙句、思わずニヤリとさせられるときには、すっかりロンギの共犯者になっている。

 

 人間の知覚に深く根差していて、うまく馴染まない二分法は数学にもある。数学は「見ること(直観)」と「計算すること(論理)」の学問だ。そして、直観と計算を完璧に両立させ、数学世界の眩しい現実を見事に表現できるのは、天才だけである。現代数学とは、直観と計算というディコトミーを、集合や圏といった空間的綜合によって一体化しようとする学問だ。ロンギのイデーは、そのまま数学史のプラットフォームでもある。

 

 知覚的現実と精神との新鮮でみずみずしい接触を回復すること。ここまで引き上げれば、視覚芸術としての絵画と、数覚芸術としての数学が目指すものは同じだ。イタリア絵画史という舞台を通して、独自の「知覚の現象学」が展開される。若い著者のメッセージが、有無を言わせぬモーメンタムを顕わにする。本書はそういう本だ。

 

〔『中央公論』2020年9月号より〕

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◆ロベルト・ロンギ

一八九〇─一九七〇年。イタリア・アルバ生まれ。二十世紀イタリアを代表する美術史家。トリノ、ローマで学んだ後、ヨーロッパを放浪。
ボローニャ大学で中世・近代美術史を講じ、第二次世界大戦後フィレンツェ大学に移る。戦後イタリアを代表する月刊誌『パラゴーネ』を主宰。

注目を集めた推計作業

 四月二十八日、全国一七県の知事らがオンライン会議で「九月入学」の導入を含めた検討を政府に要請するメッセージをまとめた。さらに、翌日、安倍首相が「前広に」という表現で選択肢として検討すると述べた。そこから約一ヵ月の検討を経て、九月入学の導入が見送られたことは記憶に新しい。

 筆者は、五月の一ヵ月間に、本政策に関する推計に携わった。これは省庁などから依頼されたものではなく、苅谷剛彦オックスフォード大学教授の呼びかけに集まった研究者グループで独自に手がけたものだ。舞台裏を明かせば、そもそもICTや教育格差に関するデータ分析を進めていこうかと議論をしていた矢先、九月入学の議論が浮上したため、急遽取り組むことにした次第である。

 我々のスタンスは、九月入学への賛否はさておき、具体的な数字をもって、この政策のインパクトを推定することであった。そこでまず政府統計の集められている「e-Stat」(統計で見る日本、https://www.e-stat.go.jp/)を通じて、学校基本調査や地方教育費調査のデータを収集し始めた。

 この調査で明らかになった「一斉移行方式」(二〇二一年度に一七ヵ月分の児童を一斉に九月入学に移行する方式)の場合のポイントを、以下に挙げておく。

・導入すれば、初年度に小学校の教員不足は二万人を超える。

・政府が検討している案では、保育所または学童保育の待機児童が数十万人規模で発生する。

・国や地方自治体に、教員給与などで二〇〇〇億円前後の追加支出が生じる。

 最初にこうした推計の数字が算出でき始めた頃、正直なところ「このような粗い推計でよいのか」という不安があった。だが、ゴールデンウイーク中に始めた推計がその翌週末はおおむねまとまり、五月十七日付の『朝日新聞』に第一報が載るや否や取材対応に追われることとなった。そこで初めて、「この程度の推計すら誰もやっていない」事実に気づかされた。その間に専門家からも各種のご指摘を頂き、短期間でできる範囲で修正を行い、五月二十五日に「改訂版(暫定)」、六月四日に「改訂版(確定)」を発表した。この間、すぐさま集計された数字を記事にしようと待ち構えられることもあり、その緊張感は名状しがたいものがあった。

 このプロセスを経るなかで、日本の教育政策を構想するためには、どういう文脈(コンテキスト)を踏まえるべきかが見えてきた。それらを示すことが本論の目的である。具体的には、①政策立案をめぐる文脈、②政策を政治にする文脈、③教育格差と平等をめぐる文脈、そして、④少子化に関する文脈の四つである。

データを活用できない政策立案現場

 第一に、政策立案をめぐる文脈である。近年、実証に基づいた政策立案(EBPM)の重要性が指摘されるようになったものの、今回の推計に携わり、EBPMがほとんど機能していない実状を目の当たりにした。本研究チームの推計値が唯一の総合的な推計資料として、マスメディアに取り上げられただけでなく、政策関係者さえ我々に問い合わせてきた。驚くほど基本的な問題点の確認も行われずに政策が進められようとしているリスクがはっきりとわかった瞬間である。共に推計に携わった岡本尚也氏も同様に警鐘を鳴らしている(「『わかりやすさ』偏重が招くウィズコロナの教育格差」『先端教育』二〇二〇年八月号所収)。

 実は、根拠や推計の曖昧な政策立案プロセスの歴史は長い。既に、教育経済学者の矢野眞和氏は、戦後の教育に関する答申を検討した上で、文部省内で分析能力が蓄積された世代と蓄積されなくなった世代との交替が一九七五年前後に起きたと指摘する。

「その後の実証分析の欠如は、教育と経済の関係領域だけではない。現状の理解が衰退すると、そのときどきの教育世論に教育政策が振り回されることになる。現在の教育改革は、こうした雰囲気の中にある」と矢野氏は述べる(『教育社会の設計』東京大学出版会、二〇〇一年)。

 矢野氏が高く評価する一九七一年の四六答申から五〇年近く、矢野氏の著作から二〇年近くを経ても、この現状は変わっていない 。

 推計作業をするなかで、文部科学省(以下、文科省)の統計調査と厚生労働省(以下、厚労省)の統計調査を総合的に考えて政策を立案する部署が存在しないことも目の当たりにした。教育・保育分野以外の方にはあまり知られていないかもしれないが、教育分野において、文科省と厚労省の管轄は複雑に入り組んでいる。就学前教育では幼稚園は文科省、保育所は厚労省、小学校は文科省、放課後の学童保育は厚労省の管轄である。我々は報告書で、九月入学を実施する場合、その方式によって小学校教員数の不足と保育所の待機児童の問題がバーターに近い関係になることを明らかにしてきたものの、このような文科省管轄のデータと厚労省管轄のデータを組み合わせた総合的な政策立案はなかなか行われていないことを痛感した。

 また、近年の各国のEBPMでは、繰り返し調査による効果測定が常識となっている。ところが、日本の官庁統計は、個人はおろか、学校・施設や市町村といった単位でさえ経年変化を分析できるような形では存在していない。

 文科省も厚労省も、従来の基盤統計に加えて、優れた調査を実施し始めているにもかかわらず、数年で入れ替わる人事異動により、これらの統計データは単年度の基本的な集計にとどまっているのだ。苅谷剛彦氏も述べているように、「ビッグデータはすでにある。ただ、それらがバラバラに存在し、有効に関連付けられていない」(「ビッグデータ不在の教育行政」『週刊東洋経済』二〇二〇年七月十一日号所収)のである。

 残念ながら、今、我々の前にあるのは、データを抜きにした曖昧な政策立案の五〇年に及ぶ歴史的文脈である。これを変えていくためには、専門家は一つ一つの政策に、我々が行ったように、数値を出して推計を提示していく形で監視することが必要だ。そして、専門家以外の方々は、自分にとってかかわりのある政策について、情報を集め、推計が用意されていなければ政策立案側に用意するように、声をあげていくしかないであろう。

 九月入学をめぐる一ヵ月の議論は、あまりにも曖昧な政策立案プロセスに一石を投じるものであったと思う。

「レガシー」を求めたがる政治に注意

 第二に、政策を政治にする文脈について、取り上げたい。九月入学の議論において強く感じたことは、わかりやすい教育政策の結果を「レガシー」としたがる政治力学である。竹中平蔵氏の「9月入学の成果、教育改革を安倍内閣のレガシー(遺産)にすればいい」(「経済プレミア」二〇二〇年五月二十七日、https://maini
chi.jp/premier/business/articles/20
200525/biz/00m/020/011000c)という言葉に端的に表現されるように、政治家は自身の「レガシー」を求めたがる。特に教育は他の分野に比べて、政策によって大きく害を被る人がいないと考えられがちなため、政治家が「レガシー」としたがる動きが顕著になる。第一の文脈で述べた世論に振り回された教育政策(policy)は、政治(politics)として実行されるにあたり、より単純な言葉に変換される。

 五月初めに議論され始めた九月入学は、まさに「レガシー」作りの文脈にあふれていた。学校開始年度を九月にするためには、数多くの制度変更が迫られる。報道にもあるように、少なくとも三三本の法律改正が必要であると見積もられていた。

 しかしながら、法律の中身を変えること自体は、官僚および対応する現場の膨大な労働を顧みなければ、まさに法律の条文のなかに、そして歴史に日時と名前を残す「レガシー」となる。法律の変更自体が、政治家の実績となるのだ。そのため、経済政策よりも利害関係の認識しづらい教育政策では、法律の変更という手段が、「レガシー」として目的化しやすい。

 さらに、政策が政治になり、それが政策として実施される際には、明確な「数」が答えとして独り歩きしやすい。この点で、現在、急速に進む学校におけるICTの環境整備は注視しなければならない。公立の小中学校、高等学校におけるオンライン授業の実施率は、文科省が今年四月に自治体を対象にして行った調査によって五%と算出された。これを受けて、小中学校で一人一台の端末を配布するGIGAスクール構想の実現が加速した。確かに国際的に見て日本は、ICTを「文具」として活用することにおいて極端に遅れを取っており、その動き自体は間違っていない。しかしながら、「小中学校で一人一台」という数値目標の達成が目的化し始めていることに強い危惧を覚える。

 GIGAスクール構想を実質的なものにするためには、例えば、日本のICTの利活用の遅れを明らかにしてきたPISA(OECD〔経済協力開発機構〕が十五歳を対象に三年ごとに行う生徒の学習到達度調査)の項目のうち、「学校のウェブサイトから資料をダウンロードしたり、アップロードしたり、ブラウザを使ったりする」「校内のウェブサイトを見て、学校からのお知らせを確認する」といった実質的な活用を示す項目での改善がなされなければ意味がない。

 日本の学校現場におけるICT活用は、実はこのような「レガシー」にしたがるわかりやすい政治の積み重ねの歴史でもある。

 ここで簡単に振り返ると、国際化と多様化を強く指向する一九八〇年代の臨時教育審議会の答申の影響を強く受け、九三年より施行された中学校学習指導要領の技術・家庭科において、「情報基礎」領域の学習が中学校のカリキュラムに含まれるようになった。九〇年代当初、教育用コンピュータ整備費補助予算もつき、全国各地でコンピュータ教室の整備が進ん。結果として、ハード面では、二〇〇六年の国際比較調査において、日本の学校のコンピュータ施設の整備は進んでいたことが明らかにされてい。

 しかしながら、現在、国際的に見た場合に指摘されるような遅れは、既に二〇〇九年のPISA調査にはっきりと表れている。つまり、ハードを導入すること自体が数値目標化してきた一方で、それを活用することに全く目を向けてこなかった政治の結果が、現在の学校におけるICT活用の遅れとして現れているのだ。このように、政策が政治になる時には、我々は何が単純化させられているのかを注視する必要がある。

(以下略)

 〔『中央公論』2020年9月号より改題して抜粋〕

評者:難波功士(関西学院大学教授)

 二〇一八年、「サンデーうぇぶり」連載一回目の最初のコマには「私は浪速の漫才師です。シャンプーハットこいでと申します。ボケです。上方漫才大賞奨励賞を頂き、現在は大賞目指して頑張っています」とあります。「シャンプーハット」のことを、『中央公論』読者の皆さんがご存じかやや不安なのですが、関西ではそれなりに人気を得ている漫才コンビだとまずご理解ください。

 そのボケ担当こいでには、連載開始当時六歳だった長男なおじを筆頭に、一男二女の子どもたちがいます。漫才のネタ帳に、子どもたちが大きくなったら教えてあげようと、さまざまなエピソードを書きためてきたことが、このマンガにつながったとか。『パパは漫才師』は、こいで家の日常を中心に、こいでと芸人仲間たちとの交流を描いたエッセイマンガです。

 第五巻「第10幕 ママからのお話」の冒頭には、そのネタ帳自体も描かれています(第10話でも第10回でもないのは、演芸人としてのこだわりでしょう)。帳面の「漫才」のページには、「カード地獄 プロ野球カード 何枚買っても八重樫ばっかり」といったネタが、一方「子供」のページには「ちこ これがウワサの」などと書き留められています。

 このメモが活かされたのが、第三巻の「ちこちゃんの流行り言葉」シリーズです。ある時期、次女のちこは、何に対しても「これがウワサの」をつけるのが口癖となっていました。ある日、こいでが長女の唯とちことを焼肉店に連れて行ったときのことです(ママとなおじはサッカー部のごはん会)。肉を食べたちこは、「これがウワサの焼肉か~!」、ライスが来たら来たで「これがウワサの白いごはんかー!」。

 すると、隣のテーブルの老夫婦が、目に涙を浮かべながら「私達、頼みすぎて。(中略)良かったら食べてくれる」と、皿ごと肉を渡してきます。どうやら、生活の苦しい父子家庭が、初めて焼肉店に来ることができたのだと推測したようです。ちこは立て続けに「これがウワサのウインナーか!」「これがウワサのデザートかあ!」と連発します。感極まった老夫婦からは「また連れて来てあげてくださいね。頑張って! お父さん!」の声がかかります。

 そして支払いの際には、お札を見て「これがウワサの1万円かー」。さら
に帰り際に「お隣さんにちゃんとお礼言うてな!」とこいでが促すと、ちこは「ごちそう様でした。これがウワサのおなかいっぱいかー」。こらえきれず号泣する老夫婦を見ながら、こいでは内心、「ちこ、ええ加減にせえよ......」。

 基本的にはこうしたほのぼのとした話ばかりで、登場する芸人仲間にしても、一人として悪人が出てきません。そこに物足りなさを感じる向きもあるでしょうが、私はこのマンガを読み進んでいくうちに、こいで家にかなり感情移入してしまいました。三五年の住宅ローンに、まだまだ幼い子どもたち。パパ・ママを中心に、家族で乗り越えていかなければならないことばかりです。

 こいでは家の購入を機に、「周りを救うには、金がいる。今のままの仕事では、全てを救えない」と考え、「仕事量を増やし、芸人としてもっと上に行く」ための目標を設定します(第三巻「引っ越し」シリーズ)。歌ネタや一人芸にも力を入れ、二〇一六年には歌ネタ王決定戦やR-1ぐらんぷりで決勝まで進みました。この時、本業での目標は、やはり上方漫才大賞受賞です。その後吉本坂46にも参加し、デビュー曲の選抜メンバーに入りますし、画業では個展も開きます。最近ではステイホームが続く中、自らのユーチューブ・チャンネルを立ち上げ、自宅からの配信にも乗り出しているようです。その奮闘振りに私も、焼肉店での隣席の老夫婦のような心持ちになってしまいます。

 最後に蛇足ながら、この四月、シャンプーハットは第五五回上方漫才大賞を獲得しました。これがウワサの有言実行か~!

(現在、五巻まで刊行)

 

〔『中央公論』2020年9月号より〕

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