2020年9月アーカイブ

 コロナ禍で今年度は中止になってしまったが、全国学力テストは開始から10年以上が経ち、来年度はパソコンを用いたオンラインでの解答方式の導入が検討されている。だが『全国学力テストはなぜ失敗したのか』の著書があるなど事情に通じた川口俊明福岡教育大学教育学部准教授によれば、全国学力テストはさまざまな問題を抱えているという。川口氏の寄稿の一部を抜粋してお届けする。

「政策のためのテスト」と「指導のためのテスト」

「全国学力・学習状況調査」(以下、全国学力テスト)が二〇〇七年に再開され、すでに一〇年を超える月日が流れました。毎年八月頃になると都道府県別の平均点が公表され、その順位が報道されるので、教育にそれほど関心がなくても全国学力テストの存在は知っている方が多いと思います。本稿では、現行の全国学力テストの問題点とその改善策について論じます。

 文部科学省によれば、全国学力テストは大きく二つの目標を持っています。一つは国の教育政策に活かすという側面です。全国の児童生徒の学習状況を国がモニターし、教育政策に活かすための基礎資料とするというものです。EBPM(Evidence Based Policy Making: 証拠に基づく政策立案)の重要性が叫ばれる昨今、教育分野でも、こうした「政策のためのテスト」が必要だということは、多くの人が納得すると思います。もう一つは、個々の学校の指導に役立てるという側面です。そこには、せっかく数十億円もの予算をかけて学力テストをするのだから、その成果を調査に参加した一人一人の子どもに還元できる「指導のためのテスト」として役立ててほしいという思いがあるようです。

 この二つの目標を同時に達成するために選択された調査法が、毎年度、すべての小学六年生と中学三年生を対象に、学力テストを実施するという方法です。そこにはおよそ次のような発想があります。まず、子どもたちの学習成果を知るためには、その総まとめである小学六年生、中学三年生の学力を把握すれば十分である。一人一人の子どもの点数がわかれば、テストを指導のために活かすことができる。そして、子どもの点数を学校ごと、あるいは自治体ごとに平均していけば、個々の学校・自治体の課題もわかるだろう。現行の全国学力テストの背後には、このようなある意味でシンプルな発想があります。

 こうした一人一人の子どもの点数を学校(あるいは自治体)ごとに平均すれば、その学校(自治体)の課題がわかるに違いないという考え方は、全国学力テストに関わる議論でも、しばしば目にします。各自治体(学校)がわずかでも平均点を上げようと必死になって努力しているのも、自治体(学校)の平均点が、その自治体(学校)の学校・教員の質を示しているに違いないと思われているからです。全国学力テストの点数が振るわないことを問題視し学校ごとの点数を公表すべきだという意見や、点数の低い学校の教員にペナルティを与えるべきだという見解の背後にも、こうした考えが潜んでいます。

平均点だけに注目しても意味がない

図1.jpg

 

 学校(自治体)の平均点が、学校や教員の質の表れだと考える人は少なくありません。まず、この発想が完全に誤っているということを示しましょう。次ページの図1は、ある自治体の小学六年生のデータを利用して、学校別の全国学力テストの成績を示したものです。この図では、学校ごとの国語の平均正答率を縦軸に、経済的な事情で自治体から就学援助を受けている児童の割合を横軸にとっています。一つ一つの円は各学校を示します。なお、円の大きさは、各学校に所属する児童数を示しており、大きい円ほど規模の大きい学校ということになります。また、図中の直線は回帰直線と呼ばれ、国語の正答率(Y)と就学援助率(X)のおよその関連を示しています。簡単に言えば、就学援助率が一〇ポイント上がるにつれて、国語の正答率が三・四ポイント下がる傾向があるということです。

 ここで注目したいことは、就学援助率と正答率のあいだに明らかな関連があり、しかも回帰直線付近に多くの学校が集まっているという点です。回帰直線から外れた位置にある学校もいくつかありますが、そのほとんどは円の小さい小規模校です。当然ながら、就学援助を受けている児童の中にも成績の良い子は少なくありません。そのため小規模な学校では、就学援助率が高くても、たまたま成績の良い子がいて回帰直線から離れた位置に学校が出現することがありえます。

 一方で、ある程度規模の大きい学校になるとこうした偶然が起こりにくくなるため、ほとんどは直線付近に集まります。何より、図の右上(就学援助率が高くても正答率が高い)や左下(就学援助率が低くても正答率が低い)には学校が存在しません。要するに、学校・教員の質は、就学援助率の高低による正答率の差を覆すほどのインパクトを持っていないのです。ときどき全国学力テストの成績が良い学校やその学校の教員を褒めている人を見かけますが、それがもともと恵まれている地域にある学校を褒めているだけになっていないかどうか、よく見極めなければなりません。

 もう一つ重要なことは、横軸に示される学校ごとの就学援助率のばらつきです。図1の自治体では各学校の就学援助率は、最低で三%から最大の八七・五%までばらついています。この差は、おそらくこの自治体に住む人々が、自由に「校区を選んだ」結果として生じたものです。多くの親は、子どもに良い学校で教育を受けさせたいと考えます。しかし、仕事の都合や経済的な問題がありますから、すべての人が自由に住む場所を選べるわけではありません。結果として、住む場所を選べる人々と選べない人々のあいだで、住む地域(そして通う小学校)が分かれていきます。

 図1は、こうした分離が進んだ結果を反映したものだと考えられるのです。全国学力テストの結果を、学校・教員の質に還元したがる人は少なくありませんが、その前に、そもそも自分たちの住んでいる地域の状況が、正答率の高低差を生み出しているのではないかという視点を持つ必要があります。

全国学力テストの抱える課題

 図1では、現行の全国学力テストの前提にある、個々の子どもの成績を平均すれば学校・教員の質の良し悪しもわかるだろうというシンプルな発想は間違っていることを示しました。しかし、全国学力テストの抱える問題はこれだけではありません。次に、「政策のためのテスト」と「指導のためのテスト」という二つの目標を同時に追求したことが、テストの質それ自体を損ねているという問題を取り上げます。

 全国学力テストは、一人一人の子どもの指導に活かすという「指導のためのテスト」のロジックを前面に出すことで、どの子どもも同一のテストを受ける悉皆実施を正当化しています。しかし現実的には、時間の制約から出題できる設問の数はどうしても限られます。そのため、現行の全国学力テストでは、さまざまな領域を持つ国語・算数(数学)のごく一部しか測定することができません。せっかくすべての子どもが受験するのに、日本の子どもの国語・算数(数学)の全体像はよくわからないという状況になっているのです。これは「政策のためのテスト」という視点から見て問題があると言わざるをえません。

 ちなみにこの問題を回避するために、PISA(OECD〔経済協力開発機構〕の実施する国際学習到達度調査)などの大規模な学力調査では重複分冊法という手法が利用されています。これは、用意した数百問の問題を複数の冊子に分割し、個々の子どもには、それぞれ異なる一冊の冊子の設問を解かせるという方法です。一人一人の子どもは異なる冊子に回答していますので、単純にその成績を比べることはできません。その一方で、国全体で見れば、幅広い領域を調査でき、全体の学力実態を適切に把握できます。

 全国学力テストには、他にもさまざまな設計上の問題があります。学力の水準以外の「付加価値」という発想が導入されていないこともその一つです(本シリーズ第一回の中室牧子氏の記事を参照)。学校・教員の努力の成果を知るためには、ほんらい複数時点の学力調査を行い、「成績の伸び」を測らなければなりません。しかし、全国学力テストは悉皆実施に予算を使い切ってしまい、「政策のためのテスト」に必要な複数時点の調査ができなくなっています。

 紙幅の都合もあって、全国学力テストの課題をこれ以上論じることはできません。しかし、「政策のためのテスト」と「指導のためのテスト」という二つの目標を同時に達成しようとするのは容易ではないということだけは、理解してほしいと思います。

(以下略)

 

〔『中央公論』2019年11月号より抜粋〕

─アリの音声コミュニケーションを研究されているとのことですが、一体、アリは何を話しているのですか。

 私が主に研究している南米原産のハキリアリは、農業をするアリで、キノコを栽培するために葉を刈って巣に運んでいます。この葉を切っている時に、ハキリアリが音声を使ってコミュニケーションをすることが明らかになりつつあります。しかも、興味深いことに、キノコが育ちやすい葉と、イマイチ育ちにくい葉とで、切っている時に出す音が明確に違うのです。現象として切る頻度の低い葉があるので、それを我々は嫌いだと見なしています。「この葉っぱはいい」という時の音はリズミカルですね。しかし、実験で、アリが嫌いな葉の下にスピーカーを置き、好きな葉を切っている時の音を流すと、近寄っては来るものの刈りません。ですから、刈る葉を選定する基準は、音だけでなく他にもあるみたいです。

─アリは葉をどうやって選別しているのでしょうか。

 アリは、現地だと約九五%、つまりほぼ全ての植物種を刈ることができます。何日か経つと刈る植物種を変えるのですが、その理由の一つは、特定の植物種は刈られ過ぎると、防衛するための苦み物質を出す場合があるためです。また、日ごとにキノコの状態が変わるのに合わせて、ハキリアリはキノコが好む葉を選んでいるようです。葉の成分分析をすると、例えば桜の葉の成分であるクマリンやお茶の成分カテキンが含まれていると刈らないことがわかっています。アリには全く無影響ですが、培地に混ぜて菌を育てるとうまく育たないのです。アリがどのように葉を査定しているのかはわかっておらず、これからの課題です。

─もしアリと会話できるとしたら何を聞いてみたいですか。

 働きアリであるメスは行動観察していて何となく言いたいことはわかります。しかし、オスが一体どういう気持ちでいるかがわかりません。交尾するという一つの機能しか持たないし、巣の中では働きアリにいじめられているし、何の仕事もできないし、どう思っているのかなと。悲哀に満ちた愚痴ばかりだとは思うのですが。

─アリの社会は人間社会にとって参考になりますか。

 例えばハキリアリは約二五〇種いますが、巣が極めて小さく社会がシンプルな種から、一つの巣に数百万匹がいて、二〇〇ものキノコ畑を作る種まで、進化段階が揃っています。普通は小さい社会から大きい社会に単線的に進化するのではないかと思うところですが、そうではなく、どちらの種も生き残れています。人間は社会を構成するとき、一つの目標に向かって邁進するのが善だと思うかもしれませんが、各々の地域に合わせた社会システムや向上の仕方があって、それは長い時間をかけて作り上げるものだということは、アリから学べるところだと思います。この本はそんなアリの姿を多くの人に知ってもらいたくて書きました。

─今後の研究の展望を教えて下さい。

 アリの音声コミュニケーションの実態を解明したいです。そして、ハキリアリやヒアリによる人間社会の被害を、農薬や殺虫剤を使わずに、音声やアリとの会話を通じて解決することを目指しています。今、約一五タイプの音を検出できていて、それらを組み合わせているのも少しわかっています。つまり、文法なり辞書なりがあるのかもしれません。それを応用できれば、単純に「こっちに来るな」だけでなく、「あっちの庭の雑草を刈っておいてね」とか、「これを収穫してほしい」などの指示を出せて、共存共栄の仕組みができるのではないかと考えています。実際にマヤ文明やアステカ文明では、ハキリアリに下草を刈らせたという記録があります。昔の東南アジアの人々は、攻撃性の高いツムギアリの、葉でできたボール状の巣を畑のそばに置いて害虫を退治していました。今でこそ、街路樹に石灰を塗って害虫を防除していますが。昔の人はそのように生物を有効利用していたのですから、できないはずはありません。

 

〔『中央公論』2020年10月号より〕

評者:小川さやか(文化人類学者)

 かつて日本をふくむ先進国の製造業で主流だったのは、選択と集中による連続的な価値創造だった。意思決定を企業の上層部に集中させ、事前に十分な検討を行ってリスクをあらかじめ予測・回避し、一丸となって「これぞ」と決めたプロジェクトに取り組む。ひとたび製品が出来れば、長期計画に則って少しずつ改良・改善を重ね、それまでに積み上げた強みを生かして競争的優位に立つことを目指す。

 本書は、このような製造業による連続的価値創造の時代からプロトタイプを駆動することによる非連続的価値創造の時代へとシフトしつつあるという。計画を立てるよりも、まず手を動かして試しに作ってみる。多様なプロジェクトを実践しながら、どれが正解なのか、どうしたらよいかを模索していく。検討や精査は後からすればよい。このようなプロトタイプ駆動を通じて、予想もつかないような新たな製品やサービスが生み出される。プロトタイプ駆動こそが、様々な技術革新とそれによりますます予測困難になった現代で理にかなったビジネスモデルになりつつある。そしてプロトタイプ駆動を可能にする、多様性を持つ人びとが集まり、アイデアやノウハウを交換する「プロトタイプシティ」が、中国の深圳をはじめ新興国の都市で胚胎している。本書は、プロトタイプ駆動がなぜうまくいくのか、プロトタイプシティとはいかなる場所かを解き明かしながら、世界がいまどのような時代を迎えているかをすこぶる明快に開示している。

 オープンソースによるソフトウェア開発やクラウドコンピューティング、スタートアップアクセラレータという投資モデル、モバイルインターネットやIoTの普及など、「ユニコーン現象」と呼ばれる技術革新に光をあてて、プロトタイプ駆動が有効なビジネスモデルになった背景を説明した第一章。中国のテクノロジー産業にはニューカマーが破壊的なサービスを試みても大きな問題を起こさないようにする仕掛けがあることを指摘し、誰もが自由にトライアル&エラーを試みられる「安全な公園」の重要性を説く第二章。プロトタイプシティの代表例である深圳が、イノベーションを担う中心と製造を担う外周部という二重構造のエコシステムを備えた理想的なベンチャー起業の拠点となった経緯を明らかにする第三章。プロトタイプシティの条件などを題材とする対談を収録した第四章。プロトタイプシティの働き方を実践する二人の起業家に具体的な体験談を聞き取る第五章。いずれの章にも、具体的な事例とともにプロトタイプシティ時代を戦うアイデアとヒントが盛り込まれている。

 本書には、プロトタイプ駆動の力強さとともに新しい時代に乗り切れていない日本の現状が随所に登場し、しばしば危機感を掻き立てられる。しかし「すべきだ」「しなくてはならない」という主張は控えめである。あとがきでも、新型コロナ禍のなかで未来を予測する言説が飛び交う現状に触れつつ、本書はそうした「予言書」の類ではないと断言する。「想像力は天から降ってくるようなものではなく、実際になにかの問題を解決する過程で生まれてくるもの」。第五章の実践者が述べるように、プロトタイプシティ時代に適応するためには未来予測にかまけるよりも、とりあえずやってみるしかないのかもしれない。

 

〔『中央公論』2020年10月号より〕

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◆高須正和〔たかすまさかず〕
一九七四年生まれ。株式会社スイッチサイエンスの事業開発担当、早稲田大学ビジネススクール非常勤講師。

◆高口康太〔たかぐちこうた〕
一九七六年生まれ。ジャーナリスト、千葉大学客員准教授。

評者:栗俣力也(仕掛け番長)

「何かオススメの作品はありますか?」

 二年間続いたこの連載も私の担当は今回が最終回です。最後ということでとても悩んだのですが、ここはひとつこの連載を楽しみに読んでいただいているあなたに私が今一番、読んで欲しい作品を思いっきりご紹介したいと思います。

 SNSで個人の考えが良くも悪くもダイレクトに伝わる昨今、誰でも騙されるのは嫌だという当たり前のようで見失いがちだった事実が、あらためて浮き彫りになってきた時代だと思います。

「○○は儲かる」「まだ○○をやってないの?」そんな正しいことのように聞こえる嘘。

 まるでその嘘を信じないことがすなわち弱者であるかのように錯覚すらしてしまう誘惑の数々が溢れています。

「失敗したくない」。そう思っている人ほどその罠に陥り騙され、失敗をしてしまうのです。

 今回紹介する『正直不動産』の主人公・永瀬は、口が上手く嘘でお客を信用させることで売り上げナンバー1を誇っていた凄腕の不動産営業マン。

 彼は不動産業界には「千三つ」という言葉があると語ります。永瀬が教育係をしている新入社員はこの言葉を「家が欲しいという話が千件あっても、契約にいたるのは三件」という意味であると解釈しているのですが、永瀬は「千の言葉の中に、真実はたった三つ」という意味だと教えます。不動産の営業は嘘をついてなんぼと豪語して、好成績をたたき出してきた彼ですが、とある地鎮祭で石碑を壊してしまって以来、不思議な力でなぜか嘘をつけなくなります。嘘をつく、または何か不都合なことを隠そうとすると、意思に反してその「真実」を話してしまうのです。

 永瀬が真実を隠せなくなる直前、ある客と「四年目以降家賃を二年ごとに原則三%上げる」ことをエサにアパートを建て、その入居者集めと管理を請け負う契約を結ぼうとします。さらに、これは「三〇年一括借り上げ保証で安心」という触れ込みですが、実は解釈によっては途中で解約することもできる契約内容なのです。ところが、彼は客にそのリスクを漏らし、怒らせてしまったから大変なことに。

 また例えば四〇〇万円を超える物件の場合、不動産屋が受け取る仲介手数料は「成約価格の三%+六万円+消費税」という話を聞いたことはないでしょうか? この内容にも実は隠し事があるのです。嘘がつけない永瀬は「実はこの三%は法律で決まった上限値で、三%以下であれば契約できる」という真実を顧客に告げてしまいます。

 その他にも、永瀬は敷金・礼金目的の悪徳オーナーの物件など秘密をどんどん明かしてしまい、営業が成り立たなくなり、ついにもうこの業界では生きていけないと思い詰めてしまいます。

 しかし意外なことに、その後に待ち構えていたのは、永瀬が想像していたものとは少し違う展開でした。怒っていたはずの客から少し経ったのち「君を信用する、これからも頼むよ」と契約を任せる旨の連絡を受け取るのです。

 この作品に描かれているのは、騙されるよりも騙す方が有利で、あくどければあくどいほど儲かる仕組みになっていると思いがちな世の中にあって、正直者でいるということがどんな利益をもたらすのか? そんな疑似体験なのです。

 嘘つきばかりの中で「正直者」であることがビジネスにどんな影響を及ぼすのか、それをこの作品は不動産営業マンの目線で教えてくれるのです。

「嘘をつけなくなる」という一つまみのファンタジーによる面白さと、練られたストーリー展開。漫画を普段読まない人でも読みやすいように考えられた場面の切り取りやコマ割り。難しい内容を読者にわかりやすく伝えるべく練られたセリフ回し。

 このように作品の作り方においても、カスタマーサイドである読者のことを徹底的に考え抜いた漫画だといえます。あたかも嘘がつけなくなった永瀬の営業の如しです。

「ビジネス書しか普段読まない」。そんなあなたにこそ、今一番読んで欲しい作品です。

(現在、九巻まで刊行)

 

〔『中央公論』2020年10月号より〕

「災害は忘れたころにやってくる!」

 宮城県石巻市の市報「いしのまき」の三月号には、こう大書された災害対策の特集記事が掲載されている。発行日は今年三月一日。二〇一〇年二月末に南米チリ沖で発生した地震による津波の襲来から、ちょうど一年の時期にあたる。「津波から逃れるために」と題した項目では、「津波警報や避難指示を待たず、直ちに海から離れ、急いで高台や鉄筋コンクリートなど丈夫な建物の2階以上に避難しましょう」と明記してある。

 この市報発行から一〇日後に発生した東日本大震災から三ヵ月以上が過ぎた。死者・行方不明者合わせて二万数千人を数える事態になってしまったいま、直前の・警告・はあまりにも空しく響く。石巻市内だけで六〇〇〇人近くが死亡・行方不明になったのだ。

 中でも、全校児童一〇八人のうち六八人が一瞬にして命を落とし、六人が行方不明になった市立大川小学校の悲劇は、教育現場を襲った災害として歴史に深く刻みこまれることになった。だが、それだけに限らない。単なる天災で終わらせることができない背景があるからこそ、長く記憶に留められるかもしれないのだ。

 私は約三ヵ月ぶりに石巻市を訪れ、大川小がある釜谷地区とその周辺を中心に取材して回った。つぶれた家屋や車がそこら中に散乱していた三月の宮城訪問時と比べると、瓦礫はかなり取り除かれている。だが、新築される家があるわけでもない。かつて家屋や漁業施設が寄り添うように建ち並んでいた一帯は、人気のない砂漠のような太古の姿をさらけ出し、鉄筋コンクリートの廃墟がいくつか無残に残されているだけだ。その一つが、子供の歓声が消え、無機質な静けさに包まれた大川小学校だった。すぐ後ろに見える針葉樹林に覆われた高さ数十メートルの小高い山の塊が、ひときわ存在感を示していた。

裏山に逃げていれば......

「いまは考える時間ができて、余計に悲しみと悔しさが増しています。なんでいつものように『ただいま』と元気に帰って来ないのか......」

 紫桃さよみさん(四十五歳)は、五年生の次女千聖さん(十一歳)を失った。溢れる涙を抑えながら「悔しさ」を口にしたのは、市教委や学校側の対応に対する疑問を拭えないからである。 「私も、ほかの亡くなった子の親も、『どうして助けてあげられなかったのか』と自分を責める日々なんです。でも、子供たちは学校の管理下にあって、先生の判断を仰ぐしかなかったんです。なぜ裏山に逃がしてくれなかったのでしょうか......」

 市教委の説明や地元住民の証言によると、あの日午後二時四十六分に地震が発生した際、子供たちの多くは「帰りの会」の最中で、机の下に隠れた。下校を始めていた一部の児童も学校に戻ってきた。放送機器は使えず、教務主任が校庭へ避難するよう指示しながら校内を回った。三時ごろになって児童が校庭に集合し、教員が点呼を取り始めた――。

 ここまでは普通に考えられる対応だ。時間的にもたついた様子もない。大川小は津波の際の市の避難場所に指定されているし、校庭に出るのがまずは最善と思われた。だが、この直後、現場にいた一一人の教員たちは・迷走・を始める。このまま校庭に居続けるか、津波を想定して逃げるとすればどこに避難すれば良いのか、すぐに結論が出なかったのだ。校舎の西脇にある裏山に逃げるべきだとの声も出たが、「倒木や雪がある。余震も続いている」などと異論が出た。鉄筋コンクリート二階建てで高さが一〇メートルある大川小に屋上がなかったことも、選択肢を狭めた。

 やがて、子供たちは泣き叫ぶなどして動揺し始めた。恐怖のあまり吐く子もいた。とにかく校庭を出発し、北上川に架かる新北上大橋脇の堤防道路の方向に一列になって避難し始めたのは、三時二十五分ごろになってからだ。校庭からは約七メートルの高さがある。

 一部の親たちが続々と車で駆けつけて我が子を連れ出し、児童の数は約八〇人に減っていた。市の広報車が、津波の接近を伝えながら慌ただしく周辺を走る。と、次の瞬間、校舎西側にある北上川と東側にある海岸の二方向から、一〇メートルを超す山のような津波が、轟音を響かせながら迫ってきた。そして運命の三時三十七分、堤防道路付近にいた子供たちを一気に飲み込んだのだ。教員も九人が死亡し、一人の行方がいまも分からない。校長は不在で無事だった。

「一一日後、校舎から一キロほどの場所で遺体が見つかりました。水を飲んだ様子もなく、穏やかな表情でした。津波に遭う前日には『一二年間育ててくれてありがとう。迷惑かけてきたけど心の中では感謝していました』なんて、普段は口にしたこともない言葉を書いた手紙も寄こしてくれたのに......」

 卒業を目前にした六年生の三男佐藤雄樹君(十二歳)を亡くした父親の和隆さん(四十四歳)は、沈痛な表情で言葉を絞り出す。微笑みを浮かべる遺影の傍らには、得意だった野球のバットとグローブが丁寧に添えられていた。

「地震発生のとき、仕事で市内の離れた所にいたんです。普通の揺れじゃなくて、地球が壊れるんじゃないかと思いました。すぐに自宅や学校がある地区に帰ろうとしましたが、一〇分で戻れるところが渋滞で一時間以上かかってしまった。時計を見て、『雄樹はまだ学校にいるな』と思いました。絶対に安全だと信じていたんです。あの状態では、裏山に逃げるしかないのに、どうして......」

 あのとき、車のラジオからは「津波の高さは六、七メートル」と流れていた。絶対に津波は来ると思った。でも、あそこには裏山がある。子供が飛んで行った野球のボールを取りに行くことがよくある場所だ。下草もなく、登りやすい場所だった。「あそこに逃げれば大丈夫だ」と言い聞かせていたが、実際はまったく別の方向に向かってしまったのだ。

 紫桃さんと同様、最愛の我が子を助けられなかった自責の念を抱きつつ、学校側の対応への不信感を隠さなかった

「なぜ大川小でだけ、こんなに多くの犠牲が出たのか。私は学校側の津波への備え、それに津波襲来時の対応が間違っていたと思います。津波が来るまでの五一分もの間、何をしていたのか......そう思わざるを得ないのです」

 けれども、もっと理解できないのは「事後対応」だと訴えた。

「校長は遺族をすぐに訪問せず、捜索にも協力的ではありませんでした。私たち遺族が『いったい何が起きたんだ』と途方に暮れているときに、学校側はいつまでも説明しようとしなかった。災害から一ヵ月経ってようやく説明会を開いたんです。誠意が感じられなかった」

 この四月九日の保護者説明会でさえ、重大な結果への謝罪はなく、避難の経緯や防災マニュアルの詳細についての説明にも、多くの遺族は納得しなかった。父母たちはさらなる説明を求めて「要望書」を市教委に提出し、六月四日午後七時に再び説明会が開かれたのだった。

 二度目の説明会の会場は、北上川下流の北岸に広がる山側に位置する別の小学校だった。保護者約七〇人のほか、亀山紘市長、市教委幹部、校長が出席。学校側は、裏山に逃れて助かった男性教諭や無事だった児童への聞き取り調査の結果を基に、地震から津波到達までの経緯を説明した。

 次に、学校に防災マニュアル自体は存在したものの、唯一、津波を避けられたと思われる裏山を想定した二次避難マニュアルを準備していなかったことを認め、それによって時間のロスが生まれたとの認識を示した。海岸から四キロ離れた大川小には、もともと大津波が来ると想定していなかったとも明かした。

 実は、市教委は昨年二月六日付の文書で市立学校に対し、津波に対する二次避難場所を設定するよう指導していた。海岸沿いを中心にこうした対応をとっている学校もあり、多数の子供たちが助かっている。だが、大川小が作成したマニュアルには、津波襲来の危険性を軽視していたのか、「高台」というあいまいな記述しかなかった。市教委もそれについて点検や指導はしていなかったのだ。

 説明会では、最後まで学校側からは、明確に責任を認めて謝罪する言葉は聞かれなかった。保護者からは、「先生への感謝の心もある。子供は学校が大好きだった。じゃあどうしてこうなったのか。あまりに鈍感じゃないのか。学校にいれば守られて、安心だったはずなのではないか」との問いが投げかけられた。苛立ちのあまり、「逃げようとばかりしている」「ごまかすな」などの怒号も飛んだ。

「被災時にすぐ現場に行かなかったこと、捜索に当初から参加しなかったことについて、お詫びしたい。遺族を訪問しきれていないことにもお詫びします。これから回ります。行方不明の児童六人、先生一人を継続して捜索もします」

 保護者からの矢のような視線を浴びながら、柏葉照幸校長はか細い声で弁明した。

「危機管理マニュアルでは、外にいるときは体を低くするように、校内では机の下に入るように定めていました。校庭に避難して終了としていましたが、堤防を越える津波の場合は高台に逃げるほかありません......。次回の防災訓練では、災害時に保護者に子供を引き渡す『引き渡し訓練』もやる予定でした......」

 その後も質疑応答が続いたが、学校側があらかじめ終了時間と決めていた「午後八時」を回ると、司会進行役の大川小の教頭が「もうこの辺で......」と繰り返し、八時半過ぎには打ち切ってしまった。保護者からの「次の(説明会の)予定はあるのか」との問いには、あっさり「ない」と答えた。

 説明会が終わった後、会場周辺はもう暗闇に包まれていた。玄関付近で出席者を探し出し、保護者男性に感想を尋ねると「ぜんぜん疑問が解消されねえっちゃ。典型的な事なかれ主義だわ」と吐き捨てるように言った。

 夫とともに地元の中学校教員でもある佐藤かつらさん(四十五歳)は、六年生の次女みずほさん(十二歳)を亡くした。やはり学校側の対応にはどうしても納得がいかない。

「どうしたら責任を認めない方向に持っていけるか。そればかり考えている気がします。県や市のレベルで、公立学校の危機管理に関する教員研修は何度も行われてきたはずなのに、まったく生かされなかったことになります。責任は重いと思います」

 自宅は大川小よりも三キロほど内陸側だったので無傷だったが、それでも北上川には近かったため、川を逆流する津波が直前まで到達した。好きだったピアノを一生懸命練習する頑張り屋だったというみずほさんの思い出を語りながら、かつらさんは静かに言った。

「みずほの死を無駄にしないためにも、私たち大人がしっかりと検証して、語り継いでいかなければなりません」

保護者間に「悲しい温度差」

 一方で、助かった命もある。大川小に当時二年生の男児を通わせていた母親(三十一歳)は、たまたま車で大川小に迎えに来ていたため、間一髪で連れて帰ることができた。当時の様子を知る貴重な証言者だ。

「二時四十分ごろに学校に着いたのですが、間もなく巨大な揺れが襲ってきました。二時五十分ごろ、先生と児童が次々と校庭に出てきて、間もなく点呼を取り始めました。このとき、先生数人が円形に向き合って話し合っていました。『六メートルだってよ』とか『一〇メートルか?』などと男の先生の声が聞こえてきました。『帰っていいですか』と先生たちに尋ねて、子供を親に引き渡す際の『受け渡し書』に署名をした後、一年生の友達も乗せてあげて三人で急いで逃げました」

 途中、道路が陥没している場所があって「戻ろうか」とも思った。でも、偶然にも迂回できる道があったため、自宅に辿り着けたという。

 釜谷地区の父親(三十八歳)も、当時五年生の男児を助けることができた。

「事務所で取引先の会長と話をしていたら、突然ぐらぐらっと激しい揺れが来ました。急いで従業員を帰宅させて、近所の家の窓を開けて『逃げろ』と言って回りました。三時十五分ごろに車で事務所を出て、北上川を見ると、川の水がどんどん引いていくのが見えました。三時二十五分ごろ、学校にいた子供を乗せて出発すると、新北上大橋に津波がぶつかり、乗り越えようとしていました」

 この後、波と競争しながら山の上まで車を走らせ、すんでのところで逃れることができたという。だが、この父親は、大川小のケースは「あくまでも天災」だと強調した。

「釜谷は三〇〇年以上、津波が来ていなかったと言われた地区で、五〇年前のチリ地震津波でも被害はなかった。津波への警戒心は薄く、実際に地元住民も多数亡くなっているんです。あの裏山は急斜面で、低学年の子では登れないと思います。私も息子も、たまたま助かっただけです。先生も死なせたくはなかったはずです。昔からの顔見知りばかりの集落の保護者の間に、悲しい温度差ができてしまったのは本当に残念です」

 私はこの後、釜谷地区から一〇キロほど西に進んだ地区にある避難所を訪れてみた。ここでは約五五〇人が避難生活を送っていた。浮津美和恵さん(四十四歳)は、当時六年生の女児を車で連れて帰った一部始終を語った。

「地震の揺れが尋常ではなかったので、すぐに自宅を出発し、道路の亀裂を避けながら走って、三時少し前になんとか学校に辿り着きました。学校はまだ落ち着いた様子でしたが、校庭にいた娘は恐怖で泣いていました」

 道すがら聴いていた車のラジオでは、大津波の襲来を伝えていた。近くにいた担任教員に「六メートルの津波が来ます。逃げてください」と裏山を指差して促した。だが、担任は「落ち着いてください」と言うばかりで、行動を起こそうとはしなかった。

 結局、担任に「周りの子が動揺するので、先に連れて帰ってください」と言われたので、三時五分ごろ、来た道とは別のルートを通って一〇分ほどかけて北上川沿いの自宅に帰った。すると、五、六メートルの高さの土手を越えて津波が押し寄せてきた。慌てて車を再び走らせ、自宅にいたほかの家族と一緒にさらに山の方向に逃げた。家はほぼ全壊し、避難所生活を余儀なくされることになった。

「うちの子は助かりましたが、亡くなった子供とご遺族の気持ちを思うと......親子ともに、みんな仲良くしていましたから......。あのとき、もっと強く山に逃げるように言っていれば、との思いもあります。でも、もう結果論でしかありません」

 浮津さんは、言葉少なに胸の内を明かす。ただ、遺族への学校の事後対応については、疑問も禁じえないという。

「最初からきちんとした謝罪が欲しかったのだと察します。みな安全だと思って、信頼して我が子を預けているわけですから......。学校側の保身や打算が見えていたのではないでしょうか。責任の問題はともかく、教訓として分かち合うべきです。人間としての『気持ち』を示してほしいのだと思います」

 津波が来る直前、市河北総合支所地域振興課の及川利信課長補佐は、他の五人の支所職員とともに大川小付近にいた。拡声器で避難を呼びかけつつ、海に向かう車一台一台に引き返すよう説得していた。

「地区の人たちは、家の前で立ち話をするなどしてなかなか動こうとしませんでした。『ここまで津波は来ない』と考えていたのだと思います。実際、市の防災計画やハザードマップでも、釜谷での大津波は想定されていませんでした」

 しかし、間もなく大津波は襲ってきた。及川課長補佐は大川小のあの裏山にやっとの思いでよじ登り、命拾いをした。六人の職員のうち、一人は津波に流され死亡している。その夜、みぞれが降る寒空の中、一六人が焚き火をして過ごした。大川小の児童三人もいて、ずっと押し黙り、憔悴しきった表情だった。助かった大川小の教員も見かけており、小さくなって疲れ切った様子だったという。

「あれだけの津波は想定していなかったにしても、海沿いに位置し、裏山の斜面も急な、もっと条件の悪い近隣の相川小、雄勝小の二校では、三階まで波を被りながら、学校にいた児童全員が山に登って無事でした。あの裏山は、子供が登れない斜面ではありません。倒木も見当たりませんでした」

過去には賠償認めた判例も

 私はもう一度、大川小を訪れた。裏山は一部を除いてさほどの傾斜はなく、多少の雪があったとしても、子供でも十分に登れるように思えた。釜谷地区全体の死者・行方不明者数は、全住民の四割の約二〇〇人に及ぶ。津波を見ようと堤防に行って流されたり、在宅のまま犠牲になった人も多かったという。あのとき、やはり大人たちに油断と判断の誤りがあったのだろうか。

 大川小は現在、市内の別の小学校に間借りして授業を続けている。校長に何度も取材を申し込んだが、その間借り先の小学校教頭が代弁し、「取材要請については校長に伝えたが、コメントは差し控えたいと言っている」と断ってきた。

 石巻市教委は、大川小のケースについて次のように説明した。

「学校に避難しようとする地域住民への対応、保護者への引き渡しに手間取り、先生たちがすぐに避難行動に移れなかった面がある。海沿いの多くの学校で決まっていた二次避難場所が、大川小になかったのは問題だった。ただ、校庭への一時避難を行うなどの対応はとっているので、全面的に非があるとは認められない。ただ、遺族の心情は理解できる。一つ一つ誠意をもって対応するしかない」

 小学校教員の人事権を持つ県教委にも取材したが、「県としても関心が高い事案だが、まずは市教委の判断、報告を待つ。こちらとして校長の処分などは考えていない」との返答だった。

 後日、私は行政訴訟に詳しい知人の弁護士に、大川小のケースについて尋ねてみた。すると、業務上過失致死傷罪などの刑事事件の立件については「刑法ではあくまでも個人の注意義務違反などを対象としている」として可能性は低いとしたものの、民事訴訟は可能だとの見方を示した。

「一五年前、北海道で起きた豊浜トンネル岩盤崩落事故では、犠牲者の遺族に対し、行政の説明不足や不適切な事後対応についての慰謝料を認めて、国に賠償命令を下す判決が後に出ている。これは従来はなかったケースだった。ほかの事故や災害についても、同様に賠償が認められた事例がある」

 百か日法要の六月十八日、大川小の合同供養式が市内でしめやかに営まれた。三五〇人が参列し、保護者らは遺族会結成を決めた。

 供養式の後、ある遺族は「死亡・行方不明となった児童の保護者のうち、七割ぐらいはまだ納得していないと思う」と打ち明けた。「ここは六年前に石巻市と合併した旧河北町の辺境の小規模地区。『学校側を批判するのは、金が欲しいからだ』と集落内で邪推されるのが一番怖い。だから口をつぐんでしまう遺族もいる」と訴える保護者もいた。

「百か日を機に前へ歩み出したい」「子供はもう帰ってこないし、誰も責めたくはない」などとして、責任追及を避けようとの声があるのも事実だ。だが、不満を募らせる遺族らは、徹底検証のための第三者機関の設置などを求め、県知事、国への要望のほか、市への提訴も検討し始めている。

 微妙な心情のずれが見え隠れする。大川小は前身の釜谷小学校が一八七三年に創立されてから、一四〇年近い歴史を持つ。地域のシンボルだった学校を取り巻くコミュニティーの絆に亀裂が入ることは、最も懸念されることだろう。

 津波は不可抗力だったとの見方がある。現場にいた教員は全力を尽くそうとしたと信じたいし、そのほとんどが犠牲になった事実も重い。けれども、学校で起きてしまった結果への責任はあまりに重大だ。マニュアルの不備や、「五一分」の間に取った行動が最善でなかったことも明らかだろう。遺族たちは、なお悔やんでも悔やみきれない心境に沈んでおり、心のケアも求められている。未来を断たれた子供たちのためにも、そして二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも、学校側は「何が起こったのか」をしっかりと刻印し、目に見える形での「けじめ」をつけるべきではないだろうか。(了)

 

〔『中央公論』2011年8月号〕

選手村村長の大仕事

二宮》川淵さんがサッカー協会会長に就任される際、「キャプテン」という呼称がいいんじゃないかと提案させてもらいました。スポーツ界全体を牽引する船長という意味で。昨年十二月に川淵さんは東京オリンピック・パラリンピック選手村の村長に就任されましたが、今度は「そんちょう」というよりも、より威厳のある「むらおさ」と呼びたい。(笑)

川淵》いやいや、村長っていうのは結局、飾りみたいなもので一番の仕事は入村式の挨拶。時間の都合で五ヵ国ぐらいずつまとめて国旗掲揚と国歌吹奏を行う予定です。

二宮》挨拶文はもう決めていますか。

川淵》いろんな制約があって自分の好きなように喋れないんですよ。英語とフランス語で行うんですが、その挨拶文をテープに吹き込んでもらって、丸覚えしようと思っています。

二宮》Jリーグ開幕の時の開会宣言「スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。一九九三年五月十五日、Jリーグの開会を宣言します」を思い出さずにはいられません。後世の記録のためにあえて西暦から日付をおっしゃったのだと。入村式でも川淵さんならではの挨拶を期待したい。

川淵》そうですね。文書ができた後に僕なりに手を加えます。通り一遍は嫌ですから。一九六四年の東京大会に選手として出場して、今回の東京大会には村長として参加する。これは、おそらく過去に例のないこと。僕の人生の最後を飾る本当にハッピーなことだと伝えたいですね。

二宮》オリンピックの一年延期はやむをえませんが、川淵さんにはいつ頃連絡があったのでしょうか。

川淵》皆さんとほとんど同じタイミングですよ。いまはとにかく諸々の努力が無に帰さないように、一年後にぜひ開催できたらいいなと思います。
 最近、選手村の状況を知ってびっくりしたのですが、ベッドなどの備品が全部備え付けられているから、室内に湿気がこもらないよう、しょっちゅう換気をしているそうです。そして一番驚いたのが、選手村には総合診療所があって、そこに高額な医療機器が備えられているのですが、一定期間作動しないと使い物にならなくなるらしい。このような維持管理費がかさんでいるのですよ。

何を簡素化すべきか

二宮》新型コロナウイルス(以下、コロナ)の感染状況次第では再延期し、二年後の開催はありえないでしょうか。

川淵》無理だと思いますね。二年後にはサッカーのワールドカップと北京の冬季オリパラが予定されています。個人的な意見ですけれども、もし来年できなければ延期でなく、中止でしょう。森喜朗・組織委(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)会長も、バッハIOC(国際オリンピック委員会)会長も、関係者は皆そう考えていると思います。コロナのワクチンと治療薬ができて、感染者数をゼロにするのは無理でしょうが、世界的に収束していけば......なんとか一年後に開催してもらいたいと思っています。

二宮》中止かどうか判断するタイミングは、組織委としてはできるだけ引き延ばしたいでしょう。いつ頃がリミットになりますか。

川淵》これも個人的意見ですけれども、年内に決めるのではなく来年一月とか二月とか、ワクチンや治療薬などの開発状況が見えてきて、感染者数のゆくえを見極めながらでしょうが、いずれにせよ、その頃には決断しなければいけないでしょうね。

二宮》いま組織委は「簡素化」ということを言っていますが、森会長に聞くと総論賛成各論反対の状況のようです。つまり、IOCからすると開会式は時間枠を取っており、放映権料をもらうことになっているのだから、開会式を短縮すれば違約金を支払わないといけない。ガラガラのスタンドを映すわけにもいかない、と。簡素化も思うに任せない。

川淵》アスリートの戦う場は絶対に簡素化できません。予選の回数を減らすと言っても無理があります。いろんな行事的なこと、本質的な競技以外のことをどう考えるか、それについては、僕は頭の中が整理できていません。
 だから簡素化と言うならば、何かしらの競技を外すとか、もっと大胆なやり方をしない限り無理だと思います。若者向けにいろんな競技を増やしましたが、一方で減らすものもあってしかるべきじゃないか。
 いま冨山和彦さんの『コーポレート・トランスフォーメーション』を読んでいる最中です。オリンピックは肥大化したとよく批判されますが、ドライに思いきって削減するとか、いわば種目をトランスフォーメーション(変革)すべきですよ。それにはいろんな抵抗があったとしても、ドライにやり切ることがいまの時代には望まれている。大胆に変化させるタイミングだと思いますね。

(中略)

チケットはもっと高くたっていい

二宮》川淵さんの呼びかけで、コロナ禍でスタジアムにお客さんが入場できない試合が「リモートマッチ」と命名されました。「無観客試合」と言うのは味気ないので、これは良かったと思います。リモートと言うのは、選手とファンが離れていてもつながること、そこにはオンラインでのつながりも含まれていると思いますが、これからはネット配信がスポーツビジネスの柱に加わるのではないでしょうか。これまでは入場料、放映権料、物販、飲食などが主な収入源でしたが......。

川淵》5Gの時代になり、大容量通信ができるわけで、一人の選手だけアップして撮り続けたり、瞬時に得点シーンを見せたり、いろんなことができるようになる。放っておいても変わっていくでしょう。そういったサービスが当然、クラブの収入にならないとプロとしての意味がありません。配信サービスで収入を増やしていく流れになるでしょう。
 しかし、現場で生の試合を見ることへのニーズは未来永劫変わらないと思います。プロスポーツは現場で見るのが一番だとサポーターはみなわかっている。すると、3密を避けるにはどうすればいいのか、その工夫を考えなければならない。これからオンラインでの「投げ銭」とかいろんな収入源が出てくると思いますが、一番大事なのは入場料ですよ。

二宮》川淵さんは昔からスタジアム観戦の重要性を指摘していますが、たとえば、いま大相撲では本来定員四人の枡席にコロナの影響で一人しか入れない。そもそも日本人の体格が大きくなり、外国人客も増えている時代に、あの枡席に四人を入れること自体に無理がある。スイートルームをつくるとか、もっと枡を大きくするとか、観戦環境を充実させるべきだと思うのですが......。

川淵》おっしゃる通りで、経営者はいまの座席で入場料も現状通りというのを前提にして、どうすべきかと考えるにとどまっている。そういうところが、もう全然違うと思うんですよ。
 一九九二年に英国のプレミアリーグが設立された時、ちょうどJリーグ開幕前だったので僕は現地に視察に行きました。当時、ヨーロッパで大きな事故があって、英国ではゴール後ろの立ち見席を個席に替えた。それによって入場料収入が減ることになるわけですが、テレビの放送料があるからしょうがない、という考え方でした。ところが、ライブ放送をしたおかげでたとえばマンチェスターユナイテッドのスタジアムの集客数は最初三万五〇〇〇人だったのが、お客さんがどんどん増えて、五万になり七万になった。またゴール後ろの席の料金は最初五〇〇円ぐらいだったのが、いま五〇〇〇円ぐらい。
 ヴィッセル神戸の三木谷浩史会長が元スペイン代表のMF、アンドレス・イニエスタ選手を一昨年に獲得した時に、「入場料を上げるのはどうでしょうか」と聞いてきたから、「絶対そうすべきだ」と伝えたところ、実際に値上げしました。よくやってくれたと思います。イニエスタというすごいソフトが入ってきて、同じ値段で見れると思うのかという話です。良いものを見せますよ、しかし高い入場料になりますよ、そう言える経営者でなければプロスポーツでは成功できません。

二宮》たとえば歌舞伎の海老蔵のチケットは、いい席なら二万円はします。イニエスタが五〇〇〇円や七〇〇〇円はありえません。庶民のスポーツだから安くていいというのは時代錯誤、差別化をはかるべきだと思います。

川淵》日本人の感覚の中には、庶民のものだからできるだけ安くという考え方があるんだけど、良いものを見るには、やはり高いお金を払わなきゃいけない。より多くの人が欲しがるものは値段が高くなるのは当然でしょう。そういう考え方が、まだ日本のスポーツ界にはありません。
 好例として思い出されるのは、バスケットボールのBリーグが開幕した時、コートサイドで四人の枡席のような二〇万円のプラチナボックス席。当時はそんな高額はけしからんと怒ってしまったのですが、そこが一番早く売れた。その時、僕はもう古いんだなあと痛感しました(笑)。その席の客は、会社の役員クラスのお年寄りかと思いきや、なんと若い人ばかり。二重の驚きでしたね。

二宮》日本のスポーツ界は、いまだにデフレ商法なんですよね。

(以下略)

 

〔中央公論2020年10月号より改題して抜粋〕

 アジア開発銀行(ADB)総裁を今年一月まで約七年務めた中尾武彦さんが、その日々を『アジア経済はどう変わったか』にまとめ、上梓した。アジア経済、そして台頭する中国の行方について聞いた。

コロナ後のアジアはどうなるか?

―新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)が世界で猛威を振るっていますが、このコロナ禍はアジア経済にどのような影響を与えるでしょうか。アジアはコロナの重症化率が低く、経済の持ち直しも世界的には早いのではないかとも言われます。

 私は医療の専門家ではないので、コロナが今後どのように収束していくのかはわかりません。ワクチンや治療薬などの開発・普及にどれくらい時間がかかるかも、経済に影響するでしょう。短期的なダメージはいずれにせよ非常に大きいと思います。今、各所が経済の試算を出していますが、これまでアジアは六%くらいの経済成長をしてきたけれど、それが今年はゼロになりそうです。

 アジアは世界の生産拠点として、サプライチェーンの要となっていますが、果たして従来のようにヒト、モノ、カネの移動が戻るのか。注目点の一つはサプライチェーンの行方、もう一つは安全保障に関する問題のインパクトです。米中対立が最たるものですが、中国が自国の利益と考えることを端的に主張するようになったことで、安全保障リスクが高まっている。各国との領土問題や技術移転、知的財産権の保護などに関する問題が大きくなってきています。中国の賃金の上昇もあり、以前から中国以外の生産拠点を持つ「チャイナ・プラスワン」という考え方がありましたが、それがさらに強まるかもしれません。工場を自国回帰させる、または他のアジア諸国に移転するなどの動きが出てくるでしょう。一方で、そう簡単に中国を切り離すことはできないとする考えもあり、アメリカの対中強硬派が唱えるデカップリング論は世界に深刻な影響をもたらします。世界のサプライチェーンは中国に依存してきたのです。

台頭する中国の行方

─中国は二〇一五年にアジアインフラ投資銀行(AIIB)を発足させましたが、ADBではAIIBをどのように見ていたのでしょうか。

 中国は改革開放後の一九八六年に加盟して以来、ADBとは良い関係を築いています。中国はADBのみならず、世界銀行からも融資を受けて非常に高い成長を遂げました。助言を素直に聞き入れるし、協調的に行動してきたのです。中国からすれば、ADBや世界銀行の融資を受けることは、金融上のメリットもあるけれど、それ以上に技術面、環境社会配慮なども含め、そのノウハウを重視してきたと思います。私は劉鶴副首相や易鋼人民銀行行長、歴代の財政部長など中国高官と意見交換してきましたが、中国側もまた、ADBの支援を高く評価しており、今後も借入を続け、専門知識などをシェアしていきたい、アジア地域に積極的に協力していきたい、と繰り返し発言していました。ADBは国際機関ですから信頼性を保つためにも、欧州諸国や韓国、カナダ、オーストラリアなど共通の加盟国も参加するAIIBと協調しないということは選択肢としてあり得ないのです。

 ただし、日本がAIIBに加盟するか否か、これはまた別問題です。日本やアメリカが国としてAIIBに参加しないとなれば、なおさらADBはAIIBと協調して国際基準の知見をシェアすべきだと思います。

─中国のGDPは一八年段階で一三・六兆ドルと、日本の四・九兆ドルを遥かに上回り、アメリカの二〇・六兆ドルに迫りつつあります。それでもなおADBが中国に貸付を行うのはなぜでしょうか。

 確かに中国は借入の卒業基準に達しているのにと、よく聞かれる質問です。ADBの借入国からの卒業基準は世界銀行と同じで、①一人当たりGNI(国民総所得)が六九七五ドル以上(一八年基準、毎年更新)であること、②リーズナブルな条件で資本市場からの資金調達が可能であること、③重要な経済的・社会的制度が一定の発展レベルに達していること、このすべてが満たされれば卒業プロセスを協議することになっています。中国はGNIが九四七〇ドルで基準を超え、市場での資金調達も可能です。しかし③の制度的な強さが十分でないことが、ADBが貸付を行う理由となっています。

 私はそれに加え、中国への貸付は環境問題や気候変動など外部効果のある分野に焦点を置き、金額も絞っていること、ADBの市場での調達金利に上乗せ金利を付けていること、ADBもまた金融機関で、トリプルAの格付けを持ったADB債を発行しているわけですが、信用度が高い大口借入国の中国を失うと、同じ格付けを取るのにさらに資本を要すること、また、中国に貸付をしながら協力関係を保っておくことは、アジア地域や国際社会にとって望ましいことであること、これらを貸付の理由として説明してきました。

─中国は自国で資金を賄えるだけの経済力があり、技術力も上がっている。それでもADBから借入を続けるのは、そのノウハウを得るため、国際機関との関係性を絶たないためでしょうか。

 そうです。中国は資金も技術も持っていますが、環境問題や住民移転、社会政策についての知見はまだそれほどありません。外部のコンサルタントを雇うのも一つの方法だけれど、ADBはインフラ整備や社会政策の分野で半世紀以上の蓄積を持っています。中国もそれをわかっているので、ADBのノウハウを得て、各国での経験もシェアする。そこに意義を見出しているのです。

 また中国にとっては、国際社会の重要な一員であることをアピールする面もあるでしょう。毎年春に開かれる中国開発フォーラムは壮観です。そこにIMFや世界銀行、ADB、OECDなどの国際機関の長、世界中の大企業のCEO、ノーベル賞級の経済学者を数十人招き、中国もまたそれら国際社会の重要な一員であることを強調しているのです。そしてAIIBは、中国が自ら立ち上げた国際機関であるのだと。そこには国際社会での地位、国威を示す意味も含まれているのでしょう。

AIIBは脅威にならないか

─ADBは世界銀行などと同様に投票権は出資比率に基づきます。アメリカは日本と同率一位で一五・六%の出資比率ですが、中国への貸付にはやはり反対に回るのではないでしょうか。

 まず、貸付規模やスタッフ数、知識の蓄積の差は大きく、ADBはAIIBを脅威とは考えていません。

 一般論としてアメリカは、税金を使う行政機関に対して議会が縛りをかけているので、ADBなどの国際機関でも特定の国に対するプロジェクトについて棄権や反対票を自動的に投じることが多くあります。トランプ政権になってからは中国に対して厳しい姿勢が強まっています。

─先ほど、AIIBにADBとしては関与すべきだが、国として日本が加盟することは別問題だ、とのことでした。AIIBへの加盟の可能性についてはどう見ているのでしょうか。

 AIIBがアジアのインフラ投資を助ける目的で設立されたことは理解します。また、社会や環境に配慮したプロジェクト基準、公平な入札に基づく調達を行うのであれば、ADBは共通の課題においてAIIBと協調できると考えました。

 私はADBの前総裁であって、日本の国家としての判断はまた別です。その上で、たくさんの人々とディスカッションしたことを振り返りたいと思います。

 AIIBへの日本の加盟に賛成する人たちが挙げたのは、「中国との関係を良好に保つべき」「プロジェクトの資材調達や工事で日本企業が不利にならないようにせよ」「AIIBに国際基準を順守させるためには、組織内から発言したほうが効果的」「アジア諸国が日本のAIIB参加を求めている」。主にこういう理由でした。

 一方の反対論は、「もしAIIBに加盟すれば、アジア域内の先進国として日本に多額の資金貢献が求められる」「中国との関係は大事だが、ADBやJICAを通じても協力できるのではないか」「日本企業の資材・工事は途上国のプロジェクトに対してオーバースペックで高コストなため、もともと落札が難しい状況にある」「AIIBは中国が圧倒的な議決シェアを持つので内部に入るよりも外部から意見したほうが効果的だ」。こういった声が多かったように思います。私はどちらかと言えば、後者側の立場でした。

─中国はAIIBを立ち上げ国際社会での存在感を高めようとしていますが、一方で知的財産権を守らない、強制的に技術移転させる、また香港やウイグルでの人権問題など重大な問題を抱えています。それらについてはどうお考えでしょうか。

 中国は国際社会での地位を高めようとしているのに、様々な問題で国際社会が非常に厳しい目を向けていることには気をとめず、国内向けの説明に終始しています。私が中国高官と会うたびに強調してきたのはその点です。中国は誰もが認める歴史のある大国です。経済力は今や日本の三倍近くになり、技術力も備えて、国際社会で十分なプレゼンスを持っている。たとえば、IMFや世界銀行において、日本が長年の苦労の末に手に入れたシェアとポストも手に入れた。一方で彼らには、まだ途上国であるという認識も強く、多くのことが途上国ゆえに許されると考えています。そこから国際社会との認識のずれ、あるいはダブルスタンダードが生じているように感じます。

 中国は、アヘン戦争で西洋列強に侵食されて以降の屈辱感を強く持っています。戦前の日本も西洋に対等に扱われていないことへの憤り、リゼントメントを抱き、それが拡張主義に陥らせ、自国民と周辺国の人々に甚大な被害をもたらしました。だから、中国にはそうならないでほしい。無理に急いで存在感を示すのではなく、安定した成長と国民の生活向上を目指せば、自然と世界からもっと尊敬される国になる。そのようなことを中国の高官には伝えてきました。

 中国はかつて鄧小平が唱えた「韜光養晦」、あまり自己主張せず、国際社会と協調していく路線でやってきました。しかし、習近平になってから世界に強く自己主張するようになった。例えば中国が南シナ海で主張する「九段線」には、東南アジア諸国が反発しています。国境線をめぐってはインドとも対立が激化している。香港やウイグルでの強硬な姿勢の問題もあります。中国からすると「核心的利益」になるのでしょうが、国際社会から見ると、やはり現状の変更であり、それは違うのではないかということになります。

中国輸出入銀行の融資の下にスリランカのハンバントタ港が第三の国際港湾として建設されましたが、借入を返済できず、中国企業に九九年間の港湾運営権を渡すこととなりました。米『ニューヨーク・タイムズ』紙が、これを中国による「債務の罠」であると指摘しましたが、AIIBも同様に「一帯一路」構想を進める機関にはならないでしょうか。

『ニューヨーク・タイムズ』の「債務の罠」報道は一八年六月で、ちょうど米中対立が鮮明化した時のことです。もともと中国は、中国輸出入銀行や国家開発銀行を通じて途上国への融資を自国の輸出に結びつけるタイド条件で行っていました。AIIBは国際基準に従ってアンタイドで融資しているので、問題のあるプロジェクトを行う可能性は低いと見ています。一帯一路での中国の融資は、経済合理性、あるいは債務の持続可能性に問題があります。

 日本を含むOECD加盟国ならば、公的な貸付は各国の財務省がすべて把握し、債権国会合であるパリクラブで議論します。しかし中国は、先の輸出入銀行、開発銀行、国有企業などが公的な融資を担っていますが、それぞれがバラバラに動いていて、どれだけのお金を動かしているか中国当局さえ把握できていないのです。だから中国の国際プロジェクトの多くがいま問題を抱えています。中国が一帯一路構想の下に影響力を行使したい、中国製品を買わせたい、という意向はあると思います。しかし、考えるほどうまくいくのか。

 そもそも一帯一路は、かつて中国と欧州を結んだシルクロードを、陸路と海路から復興しようという計画です。中央アジアを通って中国と欧州を結ぶ鉄道はその肝です。しかし、中央アジアは広大な土地に対して人口が少なく、採算に乗せることは難しい。ウズベキスタンのサマルカンドは紀元前から栄えた古都ですが、十五世紀以降は廃れていきました。なぜかと言えばインド航路が拓かれ、そちらが栄えていったからです。今でも、海路や空路に比べて維持費がかかる陸路が対抗することは、簡単ではないと思います。

─ご著書では劉鶴副首相など中国高官との交流も描かれ、彼らの開明的な考えに驚きました。国家体制とのギャップを感じます。

 劉副首相とは二〇〇九年以来のつきあいですが、彼はハーバード大学大学院への留学経験もあるインテリです。劉氏はケインズ的な拡張政策を安易に用いるべきではなく、むしろシュンペーター的な構造改革が重要だと言っていたのが印象に残っています。あれだけ大きな国で修羅場もくぐり抜けて高官になった人々は、非常に有能です。

 中国は目覚ましい経済成長や技術進歩を遂げる一方で、内陸部にはいまだ貧困が残っています。ADBの貧困削減プロジェクトで雲南省を訪れたことがありますが、山間部の村にはガス・上下水道がなく、裸電球に藁で作ったようなベッドに寝る老婆と寄り添う独身の息子がいました。同行した中国の財政部副部長もその暮らしぶりに衝撃を受け、ポケットからいくばくかのお金を渡していました。私が会ってきた高官たちには誠実な人物が多かったと感じます。

 中国は大きな国ゆえに地方格差、所得格差の是正は簡単ではありません。力をつけ、大国として世界にアピールしたい一方で、まだ途上国としての問題も多数抱えている。市場経済を生かしつつ、格差の是正と持続可能な成長にこそ力を注ぐべきです。最近の経済システムにおける国家・党主導の強化、地政学的な面での自己主張は、中国自身の利益にならないように感じます。

アジアの成長は、市場と民間の力

─アジアは人口も多く、今後も経済成長していきそうです。二十一世紀は「アジアの世紀」とも言われますが、将来をどう見ていますか。

 ADBが一九六六年に創設されたとき、アジアは非常に貧しく、一番の課題は食糧を行き渡らせることでした。当時、欧米の経済学者はアジアは「沈滞」しているなどと、非常に悲観していました。しかし経済発展は目覚ましく、アジアの開発途上国の一人当たりGDPは、一九六〇年に平均三三〇ドルであったものが、二〇一八年には四九〇三ドルと一五倍になりました。世界におけるアジア途上国のGDPシェアも、六〇年の四%から一八年には二四%に拡大しています。アジア全体においては、このまま成長できれば二〇五〇年までに世界のGDPシェアにおいて五〇%を超えるとも言われています。アジアの現在の人口は世界全体の約五五%ですから、平均的な生産性を実現できれば五〇%超を達成するのは必然とも言えます。

 ADBでは多くのスタッフたちを動員して『アジア開発史』(日本語版も刊行予定)を編纂しました。一九九三年に世銀が出した有名な『東アジアの奇跡』は中国や中央アジアをカバーしておらず、サービス産業、気候変動、ジェンダーなどの新しいテーマも加えてこれを書き換えることがねらいです。

 強調したかったのは、市場や民間の役割です。これまで欧米の学者を中心に、アジアの成長は政府主導の特殊な経済政策、金融政策があったからだという見方がありました。一九八〇年代にカリフォルニア大学のチャルマーズ・ジョンソン教授などは、官主導を強調して「日本異質論」を展開しました。確かに日本では、戦前の総動員体制の時代から資源も貯蓄も外貨も不足していた戦後の一時期まで、政府が国内産業を助ける産業政策をとっていました。しかし、それは十九世紀の米国やドイツなども含め、工業化の時代に広く世界で行われてきたことでもあります。アジア各国の経済発展史をデータとともによく見ていくと、開放的な貿易・投資体制、インフラや教育への投資、安定的なマクロ経済政策など、各国がそれぞれの段階を踏まえ、標準的な経済理論で説明できる政策をとってきました。つまりアジアの成長に特殊な「アジア・コンセンサス」などはないという立場です。

─ご著書でもその点を強調されています。

 近代化、工業化は欧米で先に進み、経済学も西洋で発達したので、これまで欧米の思想がリードしてきたことは確かです。一方で、今やアジアにも英語で発信できる優秀なエコノミストはたくさんいます。私は大蔵省勤務の八〇年代後半に、日米構造協議に携わりましたが、日本は政財官が連携して不公正な競争を行っている、土地価格が高いことまでが排他的な政策だというような決めつけに強い違和感を持っていました。今でもアジアは「輸出志向」経済であると、過度に強調されて誤解を生んでいます。日本は、資源や技術を輸入するために輸出を必要としたのであって、経常黒字によって成長を主導したわけではありません。

 私は、アジアの人々が自国の経済、歴史をきちんと分析し、もっと世界に説明し、新しいアイデアを提唱していく必要があると考えます。「欧米の経済学者がこう言っているから」という姿勢はいただけません。アジアにも誇るべき経済発展や思想の歴史があります。日本には江戸時代からの商人の伝統と資本の蓄積がありました。明治に入り、それまで身分制度に押し込められてきた人々のエネルギーが一気に近代的な制度と経済を作っていきました。戦前も、たとえば日本の鉄道、都市計画は小林一三の阪急や五島慶太の東急に牽引されてきました。

─経済の低迷にあえぐ日本はどうしたらよいでしょうか。

 日本は、生産年齢人口一人当たりの生産性を見ればアメリカと同程度に伸びているのだけれど、人口が減少し、高齢化が進んでいるので実質GDPの伸びは抑えられています。バブルがはじけたあとのバランスシート調整が尾を引いたこと、中国や韓国の製造業、アメリカのIT産業に挟撃されて日本の産業がかつての輝きを失っていることも事実です。しかし、日本には収益にはつなげきっていない独自の付加価値や高い技術も多くあります。今後、高等教育や技術開発にもっと財政資源を向けること、投資や貿易だけではなく教育や専門人材、金融、技術交流などを通じてアジアの勢いを取り込んでいくことが鍵になると思います。

 

〔『中央公論』2020年10月号より改題して転載〕

いまなぜ「デジタル遷都」か

平》私が個人的に提案している「デジタル遷都」は一言で言えば、リアルな社会にある現在の行政機能を、デジタル空間に移すことです。
 新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)によって、デジタル化の必要性、あるいはテクノロジーの進展に合わせた規制改革の必要性が顕在化しました。いまこそデジタル・ガバメントやDX(デジタルトランスフォーメーション、デジタルを中心にしたビジネスモデルの再構築)を強力に推し進めるべきです。

宮坂》一九九五年頃にインターネットが普及し、リアルの地球とは別に、デジタルという名の「新大陸」が発見されました。一部の企業や国は、それに賭けようと果敢に挑み、この二〇~三〇年間でぐっと伸びました。
 一方で、様子見をしているうちに乗り遅れてしまった国や企業もありますが、いまではその必要性を理解しています。官民一体、立場を超えてデジタルという新大陸に行こうというのは大賛成です。

平》官民ともにデジタル化すると、地域差がなくなります。いまは職場の近くで家賃が高く、狭い部屋に住んでいるとしても、基本的にリモートで働けるのであれば、広く、庭付きの家に住むという選択肢も出てくる。「密」から「疎」への移行という社会的な要求にも応えられますし、多様性も広がっていくと思います。

宮坂》コロナ禍以降、ますます東京一極集中が議論の的になっていますが、それは東京対地方という、あくまでも地理的な話です。デジタル化を進めていけば、地理的な制約は消滅していきます。デジタル化によって世界がどんどん小さくなっている中、地理的な物差しによる一極集中の議論は本質的ではありません。
 デジタル化の本質は、いま地理的空間で営まれている社会のすべての機能をデジタル空間に移して「できる化」していくところにあります。それが進めば進むほど、地理的な空間の格差はほとんどなくなり、東京対地方どころか、日本対世界という文脈で見ても、何ら違いがなくなってくると思います。

デジタルは自然災害にも強い

平》デジタル・ガバメントの実例として、エストニアがよくあげられます。エストニアのデジタル・ガバメントが進んだ背景には、隣の大国からいつ侵攻されるかわからない危機感があり、もし国土を失っても、世界中に散らばった国民がデジタル・ガバメントと繋がることで、国家を存続させることができるという考えがあった、と聞きます。
 日本の場合、侵略のリスクよりも、大地震などの自然災害で多くの方が亡くなるリスクが身近にあります。地球温暖化やスーパー台風などの被害も考えられます。デジタル・ガバメントを作れば、自然災害にも強い、持続可能性があって強靭な政府にすることができると思います。

宮坂》IT化が進んでいるロンドンやニューヨーク、シンガポールといった都市には、行政組織の中にIT関連のエンジニアが数千人単位でいます。しかし、東京は一〇〇人以下、本当の意味でコーディング(コンピュータ言語で指示・命令を書く作業)ができる人は一〇人程度かもしれません。あとはすべて外注です。これでは行政のデジタル化は進みません。
 東京都のデジタル化は遅れているといわざるを得ませんが、上下水道や交通インフラなど世界でも有数のシステムを持っています。その部署を見てみると、やはり土木や機械のエンジニアがたくさんいます。これからは、デジタルのエンジニアにも行政組織に参画してもらわなければならない。しかも一〇人、二〇人ではなく、一〇〇〇人単位でないと、東京サイズの大都市ではうまくいかないと思います。

平》国も、デジタル化を進めるためには、ある程度の数のエンジニアを抱えて内製化できるようにしなければなりません。一方で、一七〇〇の地方自治体のすべてがエンジニアを抱えなければいけないわけではなく、効果的な人員配置を考える必要があります。自治体が自前でエンジニアやサイバーセキュリティの人材を抱えることには限界がありますから、共通システムやクラウドを用意し、そこに参加してもらえるようにしたいと考えています。
 また、中央官庁には省庁の縦割りがあるので、これを壊さなければなりません。各省庁に任せておくと、例えば、サイバーセキュリティの基準をバラバラに作ってしまう。民間と違って、情報漏洩や外国からのウイルスの攻撃のリスクも高いので、不必要にインターネットには繋げたくないが、全く繋げないわけにもいきません。どの程度のリスクまで許容するのかというバランスを議論しなければならないのですが、かなり難しい。こういった課題を整理し直さなければなりません。
 ただ、今年から政府全体の情報システム予算の一般会計約四八〇〇億円のうち、各省共通の約七〇〇億円が内閣官房IT戦略室の一括計上になりました。さらに三年以内にシステム基盤を一括調達する方式に移行することをめざします。これによって、各省が個別にベンダー(製造元)に依頼するという弊害を取り除くことができますし、コスト削減にもなる。人数もそれほど増やさなくても済むはずですし、クラウド化も一気に進むと思います。

(中略)

公務員と議員はガラケー率が高い!?

宮坂》先日、面白いアンケートを見ました。デジタル・ガバメント化を進めるにあたり、基本的にはスマートフォン利用人口がどれだけいるかがベースになりますが、残念ながら、日本は世界に比べてスマホ人口が少ない。職業別の利用率では、公務員は突出してガラケー利用率が高い。民間では一〇パーセントを切っていますが、私の見た感じでは公務員の二〇パーセントくらいはガラケーです。議員の先生方もガラケーが多い。

平》私の見る限り、有力国会議員にもガラケーの方は多い。(笑)

宮坂》そこを変えるには、日常的に使う道具から変えていくことです。仕事のメールをチャットに切り替える、資料はメール添付ではなくクラウドの共有ファイルにみんなで書き込む、会議をオンラインにする、エクセルではなくSaaSのアプリケーションに入力することに慣れていく......、そういったことが大事だと思います。
 先ほどデジタル人材が必要だといいましたが、全員がプログラミングできる必要はありません。しかし、わからないと困る。慣れていないものに急に切り替えるのは難しいから、少しずつ慣れていくことです。

平》COCOA(新型コロナウイルス接触確認アプリ)について議員の皆さんに説明した時に、「これを機にスマホにしてください。もしも陽性の国会議員が出た時に、私はガラケーなので接触確認アプリを入れていないと国民に言えますか」と問題提起をしました。各自治体の首長さんも、場合によってはITに関するリテラシーや理解度が地域住民の命を左右することがあるかもしれない。真剣に考えてほしいと思います。

宮坂》デジタルに慣れていないと、間違った意思決定をしてしまう恐れがないとはいえません。

組織を横に繫ぐチームが不可欠

平》コロナ以前には、保健所はよく機能していました。しかし、保健所の情報を市区町村、都道府県へと上げ、さらに国に報告が上がる過程がスムーズにいかなかった。そのやりとりを一気に解消するために導入したのが、先ほど話題にしたHER─SYSです。みんながクラウドに入力し、そこから情報を得るようにしました。しかし、二つの問題が残っています。
 一つは、個人情報保護条例が自治体ごとにまちまちなので、これを標準化しないと、情報の流通は迅速にいかない。
 もう一つは、独自のサーバーとソフトを動かしている自治体もあるので、国がクラウドを用意したからといって、いままで投資してきたサーバーを捨てなさいとは言えない。かといって、更新の時期を待っていたら何年も先になってしまう。
 この二つに手を付けないと、いつまでもデジタル・ガバメント化はできません。

宮坂》個人情報の扱いについては慎重であるべきです。非常時になると「みんなのためだから」と圧力がかかりやすくなります。しかし、過去の感染症の歴史をひもとけば、情報公開に関する問題がたくさんあったわけですから、勇み足にならないようにしなければいけない。行政は抑え気味でいいと私は思います。

平》同感です。韓国と台湾がITを駆使した感染症対策で効果を上げたと言われていますが、韓国のように位置情報を使うことは日本では想定しません。COCOAは、インストールも陽性になった時の登録もオプトイン(承認式)ですし、位置情報も取りません。電話番号も名前も取らない仕組みにしています。
 また、台湾がうまくいった理由は、みんなが持っている保険証にICチップが入っていたことが大きい。それにならうなら、日本はマイナンバーカードの普及に努めるべきです。
 ただ、デジタル・ガバメントの推進やビッグデータの解析、EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング、証拠に基づく政策立案)といったことを考えると、個人情報においても、みんなが納得できる基準は必要だと思います。

宮坂》情報は流通させてなんぼですから、情報のフォーマットや定義を決めておくことはとても重要です。
 システムを統合することが難しくても、情報の標準化だけは絶対にやっておかなければなりません。最低限、情報の項目を揃えておけば、システムがバラバラでも合体できます。
 コロナでは、データを入力する項目が違ったりしているので、手作業で調整をしなければならないために、情報の目詰まりの一因になりました。
 政府は数年前からオープンデータ化を進めていますが、自治体もオープンデータのフォーマットを全国で揃えていくように努力しなければなりません。フォーマットも揃えられないのにシステムを揃えようというのは難易度が高すぎます。

平》デジタル遷都のような、行政機能をサイバー空間に移す作業は、国だけがやっても仕方がありません。サービスを受けるのは、国民一人一人であるのに対して、サービスの提供側には市区町村、都道府県、国があり、それぞれに役割分担があるわけですが、この窓口を一元化し、業務フローを一体化しなければなりません。自治体と議論を深めてビジョンを共有しないと、デジタル・ガバメントは機能しないでしょう。予算と権限をもった専門の執行集団が必要です。

宮坂》同感です。どんな組織も事業別や顧客別に作られるので、縦割りになります。しかし、情報共有やデータの集約を縦割りにしては、デジタルの力は活かせません。デジタルは基本的に横に繋ぐものです。どんな組織でもデジタル化を進めるためには横に繋ぐ強力なチームが必要です。

(以下略)

〔『中央公論』2020年10月号より改題して抜粋〕

瀕死の厚労省

 昨年辺りから、霞が関のブラックな働き方に関する報道が増えてきた。私自身も幾度となく新聞、雑誌、TV番組などで話をさせていただいた。そうしたところ、今般の新型コロナウイルス感染症の問題で役所が機能しなくなっているのではないかとの懸念が広がってきた。特に、コロナ対応の中心となる厚生労働省の疲弊は著しい。

 厚労省の入る霞が関の合同庁舎五号館の二階に大きな講堂がある。その巨大な部屋が新型コロナ対策本部になっている。最盛期は他省庁からの応援組も含めて五〇〇人規模の職員が詰めており、講堂に収まり切らず同じ建物の環境省の会議室にまで広がった。コロナは長期戦になっており、経済や国民生活への深刻な影響もこれからだ。今もほぼ変わらない規模の職員が詰めている中で、この夏の人事異動もあり、他省庁からの応援者は大分減っている。感染症対策もアプリやワクチン開発などの仕事が増えているし、コロナ本部以外も医療の体制確保、物資の確保、生活保障、雇用対策、テレワーク導入支援、介護など各種施設の支援、困窮者対策など全方位が非常事態の様相を呈している。

 政府全体のコロナ対応の司令塔として、内閣官房に新たにできた新型コロナウイルス感染症対策本部も厚労省からの出向組だらけだ。

 厚労省の本省の定員は約四〇〇〇人しかいないのに、五〇〇人規模の新たな部署が急にできたことになる。あらゆる部署からコロナ本部へ配置換えしているので、コロナ以外の部署は空席だらけになっている。

 こうした状況の中、若手の離職も続いている。私のところにも、退職の報告が次々と届く。体調不良で休む職員も多い。戦力がダウンする中で、圧倒的な業務量をこなさないといけない状況が続いている。

 このままでは、コロナ対策も生活支援もたちゆかなくなり、国民生活に甚大な影響が出るだろう。

コロナの前から厚労省は圧倒的な人手不足

 厚労省はそもそもコロナの前から構造的な人手不足だ。昭和四十年代後半のオイルショックを境に高度経済成長期が終わり、霞が関を縮小するため行政改革の動きが本格化した。いわゆるスクラップ・アンド・ビルドの原則で一つ課を作る場合は、一つ課を減らさなくてはならない。これを省庁ごとにやった結果、昭和五十年頃までに仕事が多かった省庁には戦力が温存され、それ以降に仕事が増えた省庁はどうしても人員不足になる構図だ。

 厚労省(当時は厚生省・労働省)は、昭和五十年以降に忙しくなった省庁の代表だ。高度経済成長期は失業率も低いし給料も右肩上がりの時代だ。少子高齢化の問題もまだ顕在化していなかった。家族の規模も大きく、企業の福利厚生や地域のつながりも強く、助け合いもあったので、困りごとに対する行政の出番も少なかった。厚労省の政策需要は今よりはるかに小さかったのである。その後、高齢化、少子化、経済の停滞、経済のグローバル化、雇用の流動化、家族機能の低下、地域のつながりの希薄化などにより、加速度的に厚労省分野の政策需要は大きくなっている。

 こうした構図を反映して、一七の国家公務員の労働組合で作る「霞が関国家公務員労働組合共闘会議」が毎年公表しているアンケート調査では、二〇一八年まで五年連続で厚労省が最も残業が多かった。

 省庁ごとの定員は、前年度ベースで増減を決めているが、実態に合わなくなっているのだから、一度現在の業務量と人員が合っているのかゼロベースで検証すべきだ。厚労省のキャパシティオーバーを理由に分割すべきという意見も見られるが、むしろ組織全体がある程度の規模があるのでコロナのような緊急事態に迅速に人員を集めることができるし、人を増やさずに組織を分割すれば、管理部門が複数必要になり、ますます人手不足になり問題は全く解決しない。また、分割するにしても検討、準備、分割後の定着含めて数年かかるが、そんな猶予はない。

国家公務員の人員について

 私が経験している二〇〇〇年代以降も行政改革の動きは加速していく。〇六年の閣議決定に基づき、五年間で国の行政機関の定員は五・三%純減したし、国家公務員の新規採用を〇九年度比で一一年度には四割減、一三年度には六割減と大幅に抑制した。この頃入省した世代は今や実務の中心世代なので、人手不足に拍車をかけている。

(以下略) 

〔『中央公論』2020年10月号より改題して抜粋〕

厚労省に「働き方改革」

竹中》今回のコロナ危機に始まったことではありませんが、まずはこのコロナ危機での行政の逼迫、公務員の疲弊について伺いたいと思います
 厚生労働省は感染症対策の当該官庁ですが、一方で「働き方改革」の旗振り役でもあります。去年施行された働き方改革関連法では一〇〇時間以上の残業には罰則が設けられながら、国家公務員は適用外です。厚労省の過重労働についてはどのようにお考えでしょうか。

加藤》二〇一四年に内閣人事局が発足し、私が最初の内閣人事局長を拝命しました。また、かつては大蔵省の役人でもありました。それらを踏まえて考えるのですが、まずは基本に立ち返って対策する。残業量を把握し、時間に則って残業代が支払われることが基本です。そこからいかに残業を減らすか。国家公務員の労働基準法の適用問題は別にしても、「隗より始めよ」で、民間だけではなく、政府においても率先して取り組むべき課題だと認識しています。私が厚労大臣になったとき、霞が関で最も残業代が多いのが厚労省でした。そんな中で若手から働き方の具体的な改革案が出てきた。すぐに着手できるもの、時間がかかるもの、優先順位をつけながら一つひとつこなし、先般も若手の皆さんと厚労省改革を議論しました。その矢先にコロナが起きたのです。
 先頃、小泉進次郞環境大臣のお計らいで環境省から、また他省庁や、民間からも厚労省にサポートに入って頂きました。厚労省全体を見て、特定の働き手に負荷が集中しすぎないように対応しているところです。

竹中》他の省からはどれくらいの人数が応援に入っているのでしょう。

加藤》環境省からは合計五三名にほぼ専従の形で入ってもらっていました。また、防護服やマスクの手配などで経済産業省の方から相当の支援があります。内閣官房にはコロナ対策本部が置かれ、オールジャパンで対策に取り組んでいます。

竹中》これは厚労省だけではない、官庁全体にまたがる問題ですが、官僚の過重労働の一因として国会での質問通告があると思います。「質問は審議の二日前の五時までに通告してください」と申し合わせましたが、まったく守られていません。

加藤》内閣府の特命担当大臣のとき、私も各党にお願いに回らせて頂きました。しかし、国会の中で委員会がいつ設定されるかわからない問題もあり、通告時間は「誰の問題か」とはなりにくいものです。一方で、開催が事前にわかっている場合は割と早く各省に質問を頂けるようになってきました。質問を受ける側も、大体の内容がわかれば、該当部局以外の人は待機せず帰るようになりましたし、または、家でウェブを使って対応できるようにもなりました。色々な工夫はされてきています。

竹中》厚生労働省は、かつて厚生省と労働省に分かれていたものを一つになって処理しています。よって法案の審議もタイトになり、大臣の負担も非常に大きくなっていると思います。自民党の行政改革推進本部からは厚労省の分割を検討するという案が出ていますが、これについてはどうお考えでしょうか。

加藤》これは、政府をどのように作るかという大きな話でもあります。

(以下略)

〔『中央公論』2020年10月号より改題して抜粋〕

省庁縦割りの壁

竹中》今日は新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の対策に関して、政府と行政の対応について伺いたいと思います。まずは内閣において、菅官房長官と加藤勝信厚生労働大臣、西村康稔コロナ対策大臣はどのように役割分担したのでしょうか。

菅》基本的に私が内閣の危機管理全体の責任者です。コロナは感染症ですから、所管は当然、加藤厚労大臣になります。しかし、あまりに業務が広範で過重なので、新型インフルエンザ等対策特別措置法の担当大臣として西村さんに就いてもらいました。私の役割をわかりやすく言えば、縦割りの行政による不備、穴を調整する。省庁をまたぐ調整は、和泉洋人総理大臣補佐官にもサポートしてもらっています。

竹中》政治評論家の田㟢史郎さんが第二次安倍政権になって、総理、官房長官、副長官、総理秘書官が定期的に会うようになったと著書で記されています。この会合は続いていますか。

菅》毎日行っています。総理秘書官として出席するのは今井尚哉秘書官です。いつも私は、総理に一日二回はお会いして報告していますから、特別なことには感じませんけれども。

竹中》さて、コロナ危機への対応を今一度ふりかえりたいのですが、まずダイヤモンド・プリンセス号(DP号)の対応について教えてください。検疫があるので、厚労省が最初に動いたのでしょうか。

菅》確かに検疫は厚労省の担当ですが、多くの役所が一体となって対応する必要があり、これは私が主導しました。
 日本で最初のコロナ感染者が確認されたのは一月十五日。中国・武漢からの邦人帰還の第一便到着が一月二十九日。そしてDP号の横浜入港が二月三日夜です。翌四日に、検査結果が最初に出た乗客三一人のうち、一〇人が陽性だったと連絡があった。これは大変なことになると思いました。そこで厚労大臣、国土交通大臣、内閣危機管理監に加えて関係省庁の次官や局長を深夜十二時に招集して、対応を検討しました。しかし乗客が約二七〇〇名、乗員約一〇〇〇名でとても船から降ろして宿泊させることはできない。そこで船から降ろさずに対応することを決めました。乗客の約半数が七十歳以上である中で、PCR検査は症状のある人から、また高齢者から順に行うことにしました。その後、搬送などの支援が必要になるので自衛隊、また船の通信体制が弱いので総務省も呼んで対応しました。オペレーションが軌道に乗るまでの一週間は大変でした。

竹中》次に、深刻なマスク不足になり、四月下旬に国が医療機関に直送するシステムを作っています。これも菅長官の指示でしょうか。

菅》はい。一月末から全国でマスクが不足していると言われていたので、厚労省に「マスクは大丈夫か?」と聞きました。すると「大丈夫」だと言う。確かに二月後半段階で、日本でマスクを作っているメーカーは二四時間態勢での増産に入っていました。しかし日本でまかなえるのは必要な量の二割、八割は中国製に頼っていました。とても足りません。だから私の指示で厚労省にマスクチームを作り、経産省の職員を一〇名入れて、シャープなど日頃はマスクを作っていない企業にも補助金を出して生産の協力を要請しました。次に総務省です。私は横浜市議会議員から議員生活を始めているので、地方自治体がマスクを備蓄しているのをよく知っています。もちろん厚労省も各自治体にマスクを出すよう促したのですが、自治体は保健福祉部局しか厚労省の言うことを聞かない。そこで......

(以下略)

〔『中央公論』2020年10月号より改題して抜粋〕

 自民党新総裁の最有力候補である菅義偉(すがよしひで)内閣官房長官が、「国と地方の権限には再検証が必要」と訴えるなど、自らの政治観をたっぷり語った。インタビューは竹中治堅政策研究大学院大学教授を聞き手に、新型コロナウイルスへのここまでの対応を振り返ったもの。

 コロナを機に省庁間の縦割り行政や、菅氏が「東京問題」とする東京都と23区の間の連携などが課題として浮き彫りになった。菅氏は官邸がいかにして調整をしてきたのかを明かすとともに、「かつての厚生省と労働省が一つになっている状況は、やはり大きすぎるでしょう」等と行政改革への持論を展開した。

 また、随所に横浜市議会議員時代の経験を引き合いに出し、地方への権限委譲を訴えた。

 インタビュー記事は、9月10日発売の月刊『中央公論』10月号において、写真ページを含め7ページ、およそ6500字にわたり掲載している。

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