政治・経済
国際
社会
科学
歴史
文化
ライフ
連載
中公新書
新書ラクレ
新書大賞

趣向のこらされた「手紙小説」の妙 『十二人の手紙』(井上ひさし著)

松田哲夫
『十二人の手紙』(井上ひさし著、中公文庫)

評者:松田哲夫(編集者、書評家)

 四二年前に書かれた連作短篇ミステリーは、新刊書のようにピチピチと活きが良い。大事件が起きるわけでも、魅力的なキャラクターが登場するわけでもない。市井の小市民たちが繰り広げる出来事が描かれているだけ。それが、なんでこんなにおかしく、ハラハラし、しみじみとするのか。それは、井上さんの趣向(面白くする工夫)に、僕たちが見事にはまったからだ。


 井上さんは「芝居は趣向。これが戯曲を執筆するときのわたしの、たったひとつの心掛けである」と語っていた。小説家としても同じだった。『十二人の手紙』の場合、「手紙小説」とか「書簡体文学」とでも呼びたくなるように、ほとんど手紙だけで物語を組み立てている。この小説には、短い小説と戯曲が一篇ずつ、新聞記事が少し入っているが、ほぼ九割が手紙だ。中には、出生届、死亡診断書、洗礼証明書など公式書類で薄幸な女性の生涯を描いたり、「手紙の書き方」という実用書の例文をつなげて名家の後妻になった女性の苦渋を表現するというお話もある。


 パソコンも携帯もメールもない時代、手書きの手紙が重要な通信手段だった。そういう昭和後期の人々の暮らしがリアリティをもって綴られている。たとえば、東京に出稼ぎに行った娘の両親、恩師、友人、弟、それぞれに宛てた手紙を並べて読むと、この一家の暮らしぶり、人間関係、主人公の性格などが手に取るようにわかる。


 こうして、きっちりと書き込まれた時代を背景に、手紙を綴り合わせて、物語が展開されていく。そして、要所要所で手紙ならではの機能を効果的に使っている。たとえば、手紙は他人になりすますことも可能だし、架空の人物を実在しているかのように操ることもできる。さりげない記述の中に隠しメッセージを潜ませることも自在だ。  なんと贅沢なことに、一話一話には違ったタイプの落ち(どんでん返し)が用意されている。また、最後の一三話では、この小説にふさわしい大団円が待っている。さらに、それぞれの人生の途上で、道を間違ったり、傷ついたりした人たちが、相応しいパートナーを得て、大団円に花を添えている。


 このように、『十二人の手紙』は、井上さんが趣向をこらして創り上げた見事な名作である。


 でも、井上さんはこれで満足したのだろうか。何か、隠された謎があるのではと鵜の目鷹の目で探してみた。


 そもそも『十二人の手紙』とは何だろう。この本は一三話だし、手紙を書いている人は、ざっと数えて倍はいる。


 そこでふと思いついたのが、イエスに従った一二人の使徒だった。井上さんは洗礼も受けているし、第三話の「赤い手」というのは、現代の地上でイエスを探す話だ。


 ちなみに、この作品の文庫解説で扇田昭彦さんは「あくまでも軽妙なエンタテインメントでありながら、しかし同時にこの小説は井上氏の深い祈りである」と書かれている。


 考えてみたら、いろんな人の手紙を読むことができるのは神しかいない。すると、この作品は、読者が神になって、衆生の悩みや懺悔の言葉を聞く、そういうお話なのかもしれない。
 もう一つ謎を感じるところを紹介しよう。この作品に登場する多数の人物の中に「船山」姓の人が三人いる。一話・一三話に出てくる船山商事社長(東京・青戸)、三話の産婦人科医(千葉・市川)、そして、一二話の津野真佐子の旧姓である(宮城・仙台)。ここに書かれたもので見る限り、お互い無関係のようだ。でも、何かが秘められているような匂いがする。「山に船」だから、神、聖書つながりでいえば、「ノアの箱舟」とか......。
 井上さんは、小説や戯曲を書く時、詳細なメモを書いた。『十二人の手紙』のメモが残っていれば見てみたい。

 
(『中央公論』2020年5月号より)

松田哲夫
〔まつだてつお〕
一九四七年東京都生まれ。筑摩書房入社後、浅田彰『逃走論』、赤瀬川原平『老人力』、天童荒太『包帯クラブ』などを編集。著書に『印刷に恋して』『「本」に恋して』など。
1