評者:難波功士(関西学院大学教授)
読者諸賢にはどうでもよいことでしょうが、私は一九六一年生まれです。同年の生まれとしてつねに意識しているのは、マンガ家の桜玉吉と唐沢なをき、それからスコットランドの俳優ロバート・カーライル。これらの人々の新作が出たと知ると、ともかく読むし、何をおいても見ます。そこまでするのは、この三名のみです。
とくに桜玉吉は、エッセイマンガを約三〇年にわたり発表し続けており、そこに描かれた近況や心境はまさしく私のそれだと思う瞬間がこれまで多々ありました。子どもの時に見たテレビやマンガ、若い頃接した映画や音楽、姉との二人きょうだいで育った点、一人でいることを苦にしない性格、さらには桜が調布あたりに仕事場を借りていた際、となりに反社会的勢力の人が住んでいたのに対し、私はその頃巣鴨にてそれらしき人の隣室に暮らしていたなど、シンクロするポイントは多々あります。
桜が三十代に入る頃から『しあわせのかたち』(アスキー、全五巻)で始まった、身近な出来事や人物を描く作風は、『防衛漫玉日記』(同、全二巻)、『幽玄漫玉日記』(同→エンターブレイン、全六巻)と引き継がれ、桜は不惑やら厄年をむかえます。その間、離婚やうつの発症がありました。
そして『漫玉日記』(エンターブレイン、全三巻)に描かれた四十代は、決して「おゆるり」なものではありませんでした。女性との新たな出会いと別れがあり、メンタルの激しい浮き沈み、自身の中の別人格が暴走する解離的な状況なども描かれています。歴史上の人物の書き残したものなどから、その精神や心理の状態を分析する「病跡学」という学問分野がありますが、将来その研究対象になるのではとさえ思えるほどです。
その後、休業状態に近い時期を経て、五十代に入るとマンガ喫茶に常駐してマンガを描くというスタイルで、徐々に復活を果たしていきます。適度に外出し、でも人と深く関わらないという環境下でなら、かろうじてネタを拾え、マンガが描けたようです。そして五十代半ばにさしかかり、『日々我人間』の連載が始まった頃から、伊豆の別荘地での隠棲へと移行していきます。
今日一日で会ったのは、コンビニの店員とシカ、ウサギ、イノシシ、ネコだけ。リスとサルとムカデと戦うリアルポケモンGOのような毎日。『日々我人間』第二巻の「静かな秋」の回では、玄関先で爪を切っていると、その音に反応して、遠くで猛禽類が、近くで山鳩が鳴き、近所のネコが見に来ます。そうした田舎暮らしとともに、自身にしのびよる老いが、淡々と語られていきます。
それとともに描かれるのは、地方で急速に進行する人口減少と高齢化。よく利用していた一〇〇円ショップは閉まり、山道の決まった縁石にはいつも腰掛けている「ルンバじじい(充電中)」がおり、中央分離線のない道路では高齢者ほど道の真ん中を走り、対向車に気づくのも遅い......。それで桜はミラーを折る接触事故にあう羽目となり、マンガの欄外で「死活問題なので単なるお願いですお願いします」と、ご老人に安全運転を呼びかけることになります。
またこれは『伊豆漫玉ブルース』(KADOKAWA)にあったエピソードなのですが、桜がコンビニで買い物をしていると、老女にいきなり郵便貯金のカードを渡され、ATMを操作して預金を下ろしてくれと頼まれます。桜が顔をそらして「ハイ。じゃ暗証番号押して!」と言うと、老女は「いちさんろく」と声に出し始めます。「だめだよ言っちゃ!」と諭しても「いいのいいの」と動ぜず、下ろす金額も指定してきます。金とカードを受け取り、「ハイどーも」と去っていく老女。桜はただただ「ポカーン」。
そこには運転が怪しくなっても、タッチパネルが扱えなくても、一人で生きていく高齢者の現実があります。いよいよ自身の還暦を目前にして、また桜にも私にもやや耳の遠くなった母親がおり、いろいろ考えざるをえません。
私にとっての『日々我人間』は、面識はないにせよ、三〇年来の知己の生存確認ができるマンガです。週刊誌の片隅の小さなスペースが、末永く続くことを願っています。
(現在、二巻まで刊行)
(『中央公論』2020年6月号より)
一九六一年大阪府生まれ。『族の系譜学』『ヤンキー進化論』など著書多数。