─名門婦人服メーカーを舞台に、戦後から今日まで八五年間のアパレル業界の栄枯盛衰を描き、大ヒット中です。
執筆のきっかけは、二〇〇二年に村上ファンドが老舗婦人服メーカー、東京スタイルに仕掛けたプロキシー・ファイト(委任状争奪戦)です。日本初の「物言う株主」を描こうと、東京スタイルの株主総会にも潜入しました。 両者の争いは、ワンマン社長の高野義雄氏が率いる東京スタイルが、銀行や商社との株式持ち合いを強化して勝つには勝ったのですが、その後、村上氏が証券取引法違反で逮捕され、高野氏はがんで急死し、会社は別のアパレル・メーカーに経営権を奪われ、消滅してしまいました。なんというドラマかと思って、五年前から取材を始めました。
─村上世彰氏や高野義雄氏にも取材をされたのですか?
村上氏にはプロキシー・ファイトの頃、広尾の「アッピア」というイタリアン・レストランに連れて行ってもらって話を聞きました。超高級店で、タレントの梅宮アンナが来ていましたね。村上氏は「爺殺し」と言われるだけあって、愛嬌があって、人を惹きつける人でした。 高野氏のほうは、郷里の山梨県の人たちに話を聞きました。運動神経抜群で、子どもの頃はありとあらゆる悪さをして、お母さんが柱に縛り付けて箒で叩いていたそうです(笑)。 ユニクロの柳井正会長兼社長は実名で登場しますが、柳井氏と仕事をしたことがある人に話を聞いたり、同社の広報を通じて事実関係を確認したりしました。飾らない性格で、物事を徹底して追究していく人のようですね。
─小説という表現形式を選ばれたのは、なぜですか?
私は昔から城山三郎さんや山崎豊子さんのように事実を物語形式で書いてある作品を愛読していました。読みやすくて、頭に入ってきやすいですから。作家デビューして間もない頃、角川書店のベテラン編集者から「黒木さんの表現方法はいいと思います。物語で勉強したいという読者は多いですから」と励まされました。ただ自分で作ったフィクションは基本的に入れません。書いてあるのは実際に起きたことです。 小説の利点というのは、たくさんの人たちの経験を一人の登場人物に集約し、テーマや業界を最も効果的かつ分かりやすく表現できることです。今回の作品で言えば、アパレル・メーカーの営業マンからマーチャンダイザーになる堀川利幸、アパレル業界の変遷に応じて様々な業務を手がける総合商社マンの佐伯洋平などです。ノンフィクションでまともに書いたら、登場人物が百人ぐらいになってしまいます。
─五年間で約六〇人に取材されたそうですね。
事実の重みが、作品の迫力と説得力の源泉だと思うので、たくさんの人たちに会って、ドラマを掬い上げていくのが自分のスタイルです。 作品としてモノになるかどうかは、意外性があって人間臭いエピソードを発掘できるかどうかですね。今回の場合は、早い時期に取材させてもらったある百貨店の婦人服担当者から、売り場の模様替えのとき、各アパレル・メーカーの営業マンたちが勢揃いして、少しでもエスカレーターに近く、少しでも広い場所を確保しようと、激しい陣取り合戦を繰り広げるという話を聞きました。そのとき「あっ、このテーマはモノになるな!」と直感しました。 このほかにもはっとしたエピソードがたくさんありました。 たとえば、東京スタイルの創業者の住本保吉さんが厳しい人で、粋がって金時計をしていた社員の腕時計を金づちで叩き壊したとか、札幌の百貨店で長年婦人服売り場を担当していた人が、仕事のあと居酒屋に行って、その日に売れた商品の半券を目の前に並べて、売れ筋の予想を必死に立てた話。一九九二年に紳士服安売りの青山商事が銀座に進出したとき、オンワード樫山が商品を買って分解し、実際にどれくらいのコストの製品なのかを調べた話。三菱商事がイタリアのサルヴァトーレフェラガモ社に頼まれて、日本の旗艦店開設用に銀座の角地を必死に探した話。尾州(岐阜県と愛知県にまたがる日本最大の毛織物産地)の毛織物メーカー(機屋)が常に経営危機にさらされながら、時代遅れのションヘル織機を使って、天皇(現・上皇)陛下が着るスーツの布地を作るまでになった話などです。
─主人公たちが話す武骨な甲州弁も土臭さがあって印象的です。
甲州弁については岩波書店の編集者がよい監修者を探してくれて、作品に独特の味わいを出すことができました。岩波は編集者に限らずインテリが多い出版社で、色々なツテを持っていて、ずいぶん助けてくれました。中国語の上海方言の監修にも、京都大学の研究者をすぐ探してくれました。
─他の作品同様、海外の場面も多く登場します。
今回の作品の取材では、上海、ミャンマー、ブルガリア、フェラガモ本社があるフィレンツェなどに行きました。ロンドンは地元なので、地下鉄で。 上海では、かつて勤めた銀行の後輩や国際金融の案件を一緒にやった他行の人たちが皆、支店長や中国総代表級になっていて、話を聞かせてくれた上にご馳走までしてくれました(笑)。 縫製大国の中国には日本の工業用ミシン・メーカーも多数進出しています。全土に出張して、各地の工場に納めたミシンの操作方法の指導やメンテナンスを行っています。縫製業は労働集約型産業なので、ミシンの輸出先は発展途上国が中心で、ベトナムやカンボジアなど東南アジア諸国をはじめ、パキスタン、アラブ首長国連邦、トルコ、東欧、エチオピア、南アフリカなどだそうです。「トルコの商売はこんな感じ。マダガスカルではこんなことがあった」と次々話が広がって、発展途上国好きの私も舌を巻きました。 ミャンマーでは発展する国独特の熱気が渦巻く工業団地、ブルガリアでは首都のソフィアや世界遺産のリラの僧院を取材しました。 自分のモットーは「もし売れなくても、読者に喜んでもらえるいい本を地味に作ろう」なのですが、今回は取材の成果が売れ行きに結び付いた幸運な作品となりました。
(『中央公論』2020年6月号より)
1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒業、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資やプロジェクト・ファイナンスを手がける。2000年、『トップ・レフト』で小説家デビュー。主な作品に『巨大投資銀行』『法服の王国』『島のエアライン』など。1988年からロンドン在住。