評者:加藤文元(数学者)
ルーヴルにウフィツィ、ブレラ......美術館にはよく行く。だから、平均よりはイタリア絵画を観ているかもしれない。とはいえ、評者は数学者であり、絵画にとりわけ明るいわけではない。門外漢の書評で関係者に迷惑をかけてしまったら申し訳ないと思う。しかし、評者はこの本を読んでとても勉強になったので、そのあたりのことを書いてみたい。
本書はロンギが一九一四年に行った講義の記録である。ロンギは当時二十三歳。若い駆け出しの美術史家の講義は、若々しい情熱と率直さに溢れている。日本語訳の初版は一九九七年で、今年の六月に文庫版が出版された。
ローマのモザイクから(地理的場所こそイタリアではない)セザンヌまで、それなりに通時態で書かれているが、時間軸のゲージを細かく刻むことがロンギの目的ではない。また、それぞれの絵画の主題や、その奥に隠された作者の物語を明らかにすることでもない。ロンギがやることは、まずは絵画という視覚芸術を、「素描」と「色彩」というディコトミーのダイナミズムの中に放り出すことだ。素描の伝統は、さらに「線」と「造形」という下位区分に分けられ、詳細に、かつ赤裸々に分析される。そして、これらが著者の言う「遠近法的綜合」という空間構造的概念装置によって融合し昇華されていく。ロンギの狙いは、このような大きな流れを示すことにある。
線・形・色は、そう易々とは互いに馴染み合わないものだろう。人間の知覚という、この鮮やかで不可解で眩しい現実。評者は以前よりセザンヌの絵には特別なものを感じていた。しかし、なぜそれほど惹かれるのか、自分ではなかなか言葉にはできなかった。メルロー=ポンティはセザンヌについてしばしば言及する。「まなざし」「奥行き」といったメルローの魅力的な言葉では、しかし、何かもう一枚向こう側に行けないもどかしさを感じていた。
セザンヌの天才を見事に言語化するために、ローマのモザイクから延々二七〇頁もの言葉を尽くす。本書は、あたかも、そういう本だ。読者はロンギの「遠近法的綜合」に、ひたすら引きずり込まれる。「言語化」は、著者と読者の共謀関係からしか生まれない。若い教師の率直で明快なメッセージが誌面に響き渡る。ピエロ・デッラ・フランチェスカ《コンスタンチヌスの夢》に導かれた挙句、思わずニヤリとさせられるときには、すっかりロンギの共犯者になっている。
人間の知覚に深く根差していて、うまく馴染まない二分法は数学にもある。数学は「見ること(直観)」と「計算すること(論理)」の学問だ。そして、直観と計算を完璧に両立させ、数学世界の眩しい現実を見事に表現できるのは、天才だけである。現代数学とは、直観と計算というディコトミーを、集合や圏といった空間的綜合によって一体化しようとする学問だ。ロンギのイデーは、そのまま数学史のプラットフォームでもある。
知覚的現実と精神との新鮮でみずみずしい接触を回復すること。ここまで引き上げれば、視覚芸術としての絵画と、数覚芸術としての数学が目指すものは同じだ。イタリア絵画史という舞台を通して、独自の「知覚の現象学」が展開される。若い著者のメッセージが、有無を言わせぬモーメンタムを顕わにする。本書はそういう本だ。
〔『中央公論』2020年9月号より〕
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◆ロベルト・ロンギ
一八九〇─一九七〇年。イタリア・アルバ生まれ。二十世紀イタリアを代表する美術史家。トリノ、ローマで学んだ後、ヨーロッパを放浪。
ボローニャ大学で中世・近代美術史を講じ、第二次世界大戦後フィレンツェ大学に移る。戦後イタリアを代表する月刊誌『パラゴーネ』を主宰。