なお選考には、猪木武徳、山内昌之、北岡伸一、白石隆、吉川洋、老川祥一、松田陽三の各委員があたりました。
〔二〇二〇年六月 中央公論新社〕
読売・吉野作造賞という伝統の賞を頂くことになったことは、私にとっての生涯の名誉であり、関係者の皆様に深く感謝したい。これまでの受賞者の方々の赫々たる実績に及ぶべくもないが、これを励みとしてさらに精進していきたい。
この機会に、私をこのような名誉ある場に導いてくれた三人の先達について述べさせて欲しい。一人目は宮崎勇さんだ。宮崎さんは経済企画庁の大先輩で、私が一九六九年に経済企画庁に入った時の最初の課長(内国調査課長)である。宮崎さんは官庁エコノミストとして大活躍していた。現役官僚時代の七五年に『人間の顔をした経済政策』(中公叢書)で吉野作造賞(読売・吉野作造賞の前身)を受けている。私は、官僚という立場を貫きながらも、対外的にも優れた業績を残しつつある大先輩を誇らしく仰ぎ見ていたものだ。私は、宮崎さんから「経済は、人間を幸せにするという最終目標のために存在するものだ」ということを学んだ。これは、その後私自身が経済を見る上でのコア哲学となっている。私は、何人かの仲間たちと、宮崎さんが亡くなる直前まで、宮崎さんを囲む会を続けてきた。続けてきたどころか、宮崎さんが亡くなった後は、「偲ぶ会」と名を変えて現在に至るまで続いている。いかに宮崎さんが多くの後輩に慕われていたかが分かるだろう。
二人目は香西泰さんだ。香西さんは、私が役所に入って二年目に課長補佐として私の直接の上司となった。香西さんは、役人世界で誰もがその実力を認める存在となっており、対外的にも幅広く活躍していた。私は当初、悲しくなるほど厳しく鍛えられたものだ。その後、香西さんが日本経済研究センターの理事長だった時に、主任研究員として私を招いてくれるなど、親しく指導を受けるようになった。現在私は、日本経済研究センターで研究顧問を務めているが、私が使っている部屋は、直前まで香西さんが使っていた部屋だ。
香西さんには『高度成長の時代』(日本評論社)という洛陽の紙価を高めた名著がある。この本は八一年に日経・経済図書文化賞を受けている。これは、香西さんがエコノミストとして併走し、観察してきた日本経済の同時代史である。香西さんを仰ぎ見ながら、私もいつかこんな同時代史を書いてみたいと夢見たものだ。
宮崎さんと香西さんは、私にとって永遠にたどり着けない遠い星のような存在だった。しかし、たどり着けないまでも、その星を仰ぎながら、日々変転する経済の流れを追い続けてきたことが、私を少しずつ前進させてくれていたようだ。今回、香西さんの『高度成長の時代』をお手本にした、私にとっての同時代史『平成の経済』を上梓し、それがかつて宮崎さんが受けたことのある読売・吉野作造賞を受けることになったわけだ。不思議な結びつきを感じる。
そして三人目として、父を挙げさせて欲しい。私が今回の受賞に至った一つの要因は、私の「書くことを全く厭わない」というか「書くことが好きだ」という資質にあるかもしれない。私は日本経済を観察しながら、多くの本を出し、評論、エッセイを執筆し続けてきた。その質はともかくとして、出した本の数という量では宮崎さんにも香西さんにも敗けていない。その蓄積が『平成の経済』を書く上での重要な土台となっている。私は書くことによって成長してきたようだ。書くためには情報をインプットする必要があるが、アウトプットがないと効率的なインプットはできない。また、書いてみて初めて「自分が何を分かっていないのか」が分かり、書いているうちに自分の考えが整理されてきた。
こうした私の資質は、父から受け継いだものではないかと私はかねてから考えてきた。父は大学の教科書を出版する小さな出版社を経営していたので、小さい時から私の周りには、父が赤を入れたゲラ刷りが散在していた。父は、勉強や読書も好きで、私の家には、百科事典や文学全集がドカンと揃っていた。私は、時代が許していれば、父は学者になったのではないかと考えたものだ。父も母も既にいないが、生きていたら、私本人よりも今回の受賞を喜んだはずだ。今回の受賞で、天国の父母に最高のプレゼントができた気がしてとても嬉しい。
多事多難だった平成の時代が終わった後も、今回のコロナショックのように、日本経済には誰もが予想しなかったような出来事が続いている。今回の受賞を励みとして、これからも力の及ぶ限り、変転極まりない日本経済と併走し続けていくつもりだ。
〔中央公論2020年7月号より〕
1947年埼玉県生まれ。東京大学経済学部卒業。同年経済企画庁入庁。経済研究所長、物価局長、調査局長、法政大学教授などを経て現職。『日本経済論講義』など著書多数。