なお選考には、猪木武徳、山内昌之、北岡伸一、白石隆、吉川洋、老川祥一、松田陽三の各委員があたりました。
〔二〇一九年六月 中央公論新社〕
このたびは読売・吉野作造賞という栄えある賞をいただくことになり、深く感謝いたします。選考にあたられた先生方、読売新聞社及び中央公論新社の皆様、受賞対象となった拙著を刊行していただいた新潮社の皆様、そして研究のなかでお世話になった多くの方々に心よりお礼申し上げます。
私の専門分野は近現代日本経済思想史です。主に一九二〇年代から四〇年代の日本の経済学者や経済評論家の思想や活動を、社会的背景を踏まえて研究しています。そうした地味な分野を研究している私が今回、「日本はなぜ対米開戦したのか」という畑違いに見えるテーマに取り組んだ理由は少し説明が必要かと思います。
拙著の副題にある「秋丸機関」は、正式名称を陸軍省戦争経済研究班、対外的名称を陸軍省主計課別班といい、日本陸軍が太平洋戦争開戦前に、有沢広巳や中山伊知郎ら、戦後に活躍する経済学者を集めて仮想敵国の米国や英国のほか、日本や同盟国のドイツなどの経済抗戦力を研究させた組織です。戦後の有沢の証言により、その研究報告は米国と日本との巨大な経済力の格差を示すものであり、対米開戦を決意していた陸軍にとっては不都合だったため、報告書はすべて焼却されてしまったと(特に日本の経済学界内で)言われてきました。しかし二〇〇八年に京都府立図書館や京都大学にて秋丸機関の刊行した資料を見つけ、経済学者と戦争との関係に興味を持った私は、二〇一〇年に刊行した『戦時下の経済学者』(中公叢書)で秋丸機関について取り上げました。
その後も断続的に秋丸機関の資料が見つかり、さらに焼却されたはずの報告書もインターネット上のデータベースの検索で呆気なく見つかりました。報告書の内容は結局のところ「長期戦になればドイツも日本も勝ち目は薄いが、短期でドイツが勝利すれば日本も有利な対米講和ができるかもしれない」といったものでしたが、よく調べてみると同じ内容を秋丸機関参加者が一般の雑誌に堂々と書いていましたし、同様の分析も当時の新聞や雑誌で公表されていました。陸軍内のほかの研究でも同様の分析がされていました。秋丸機関の報告書の内容は当時の常識的なものだったわけです。
そうなると、問題は「なぜ正確な情報が受け入れられなかったのか」ではなく、「正確な情報は多くの人が共有していたのに、なぜ対米開戦というハイリスクな選択が行われたのか」ということになります。秋丸機関について調べていたら、「日米開戦の謎」を解かなくてはならなくなったのです。思想史の研究者である私にとっては大変荷の重いことになりましたが、資料や報告書を見つけた以上、研究者としての責任を果たさなければならないと思い、専門外ながら軍事史の本を読み漁ったり、組織内や集団内での意思決定についての研究を紐解いたりすることになりました。
結果として、拙著では行動経済学や社会心理学を使って「謎解き」を試みましたが、理論的な説明がこれで十分とは考えていません。しかし、刊行後に経済の実務家の方々から「正確な情報があってもハイリスクな選択をしてしまう現象は企業などでも多く見られ、大いに参考になる」という多くの好意的な評価をいただきました。歴史に学びつつ、現代においてより良い選択をしていくために必要なことは何かを、拙著を「たたき台」として読者や研究者の皆様に考えていただければ幸いです。
一方で、拙著の対象は太平洋戦争開戦前のごく短い期間であり、「日本はなぜ戦争をすることになったのか」という、より根本的な問題を考えるためには、もっと時期を溯る必要があります。以前私がいただいた石橋湛山賞、そして今回いただいた読売・吉野作造賞は、それぞれ国際協調を重視した石橋湛山と吉野作造を記念するものですが、彼らの主張がなぜ実現しなかったのかを考えなければなりません。特に近年は米中貿易戦争や各国における「自国ファースト」の高まりなど、国際協調が破綻し世界が戦争へと向かっていった一九三〇年代を思わせるような現象が広がっています。現代的な問題を念頭に置きつつ、読売・吉野作造賞の重さに身を引き締め、日本史・経済学・思想史などの学際分野である自分の専門分野を掘り下げて研究していくことを通じて、新たな課題に取り組んでいきたいと考えています。
〔中央公論2019年7月号より〕
1977年生まれ。東京大学経済学部卒業。京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。著書に『戦時下の経済学者』(石橋湛山賞)など。