本年度は二〇二〇年一月から十二月までに発表された雑誌論文、著作を対象とし、厳正な審議の結果、『デジタル化する新興国』伊藤亜聖(中公新書)を受賞作と決定いたしました。
なお選考には、北岡伸一、猪木武徳、山内昌之、白石隆、吉川洋、老川祥一、松田陽三の各委員があたりました。
〔二〇二一年六月 中央公論新社〕
歴史ある読売・吉野作造賞の受賞は、私にとって身に余る光栄です。ご指導いただいた先生方、議論の相手となってくれた研究仲間、そして刊行にあたってご尽力いただいた出版社・編集部の皆様に改めて御礼を申し上げます。一層の研鑽を積まねばならないとの思いを新たにしています。
本書では二〇一〇年代に新興国・発展途上国に情報化の波が訪れたことに着目しました。モバイル・インターネットを筆頭とするデジタル技術の普及は、現地の社会課題を解決すると同時に、監視社会化といった深刻な問題をも引き起こしつつあります。この中で日本はいかなる立脚点を設定すべきか。本書では「共創パートナーとしての日本」という役割を提案しました。
着想はアジア、北米、欧州、そしてアフリカを歩く中で得られたものです。それは「先進国よりも新興国の方が、デジタル社会化は急速に進んでいるのではないか」という単純なものでした。調査執筆の過程で、「デジタル化がポジティブとネガティブの両面で新興国の潜在性を増幅させつつある」という仮説へと、半歩前進させながら、コロナ下の東京で脱稿しました。
直観はうだるような暑さの中国・深圳やインド・グルガオンといった「南」の路上で得られ、そして真冬のワシントンやベルリンといった「北」の会議室で確信へと変わっていきました。印象深かったのは、インド・グルガオンで、スマートフォンのタクシー配車アプリを使ったときのことです。土埃舞う未舗装の路地裏に、全地球測位システム(GPS)で位置情報が随時捕捉された、三輪バイクタクシーが到着し、電子決済で代金を支払いました。勿論、デジタルの恩恵を引き出すには一定のアナログな基礎が必要ですが、現地語と現地通貨を介さずに、移動手段の効率性と取引の透明性を高められたわけです。
本書では北東アジアに議論を限定させることなく、大胆に地域的な制約を取り払うことを目指しました。製造業の発展が東アジアに集中してきたのに対して、デジタル化の先進例は、アジア地域に限定されないからです。
中国経済の研究者である私が、守備範囲を超えてこのような本を書くに至ったのには理由があります。中国経済自身が二〇一〇年代にデジタル化を実現し、そしてその国境を大胆に越えて、世界経済へと溢れ出したことです。中国を研究するうえでも、アリババ集団やテンセントのような新興企業の役割を考えることが必要不可欠になりました。そして中国企業の対外投資を追いかけると、カザフスタン、ミャンマー、インド、スリランカ、そしてエチオピアといった国々に到達します。
ある意味で本書は私の「一帯一路」研究の副産物でもあります。中国が他の新興国に与える影響を検討しながらも、デジタル技術の普及が新興国全般に地殻変動を起こしていることに興奮を覚えたため、力を入れて本書を書きました。
こうした作業を実現するうえでは、多様な地域を研究する先輩方と、技術動向に詳しいエンジニアとの交流が不可欠でした。東南アジア研究者のチームに入れてもらい、またアフリカのベンチャー企業調査からもお声がけいただきました。エンジニアやスタートアップ業界の方々と現場を歩くことなくして、本書を書くことはできなかったでしょう。この意味で、本書は具現化されていない集合知を私なりに可視化したものでもあります。
未開の樹林をお手製のナタで切り開くようなとき、知的な喜びが得られるものです。無論、この作業は不毛なものとなり、学術的な立脚点を失ったものになりえます。筆者の知見の偏りゆえに、本書には中国バイアスも残っているはずです。本書の限界の一つでしょう。
それでも自信を持って言えることは、デジタル化と呼ばれる趨勢がグローバルに広がっていく中で、各地で「それぞれのデジタル化」が進みつつあることです。本書ではデジタル化がもたらす全体的で平均的な傾向を示すにとどまり、それぞれの地域に特徴的な変化を議論するには及びませんでした。今後の課題として、取り組んでいきたいと考えています。
本賞の前身の一つである吉野作造賞の受賞作に、『成長のアジア停滞のアジア』(渡辺利夫著、一九八五年刊)を見つけました。学生時代に文庫版を読み、アジアの多面性を教わった本でした。舞台は回り、アジアと新興国は成熟、革新、対立の場となりつつあります。新たな時代における日本の役割が問われなければなりません。
〔中央公論2021年7月号より〕
伊藤亜聖
デジタル技術の進化は、新興国・途上国の姿を劇的に変えつつある。中国、インド、東南アジアやアフリカ諸国は、今や最先端技術の「実験場」と化し、決済サービスやWeChatなどのスーパーアプリでは先進国を凌駕する。一方、雇用の悪化や、中国が輸出する監視システムによる国家の取り締まり強化など、負の側面も懸念される。技術が増幅する新興国の「可能性とリスク」は世界に何をもたらすか。日本がとるべき戦略とは。
1984年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程満期退学。博士(経済学)。2017年より現職。著書に『現代中国の産業集積』(大平正芳記念賞、清成忠男賞)など。