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建築と都市と土木の「和解」を目指して 内藤廣【著者に聞く】

内藤廣
建築の難問/内藤廣(みすず書房)

――本書では問答集の体裁をとって建築の話が展開します。「和解」という言葉を重視されていますね。

 1950年生まれの僕は、この国が戦争から復興していく時期、中学生の時の64年オリンピック、経済成長、バブル、その後の低成長を経験しています。日本が育って老いに至るプロセスを実感として身体の中に持っている世代。それからすると、今の世の中は何でこんな風になってしまったんだろうという気持ちが結構あるんですよね。つまり、どんどん資本主義化し、アメリカ化し、グローバル化し、それから情報化し、という中で、色んなものが細切れになっていく様を体感している。

 建築も諸々の契約行為に細分化されて全体がどんどん見えにくくなっています。それを和解という言葉で解決する道筋はないかと考えました。作る人や設計する人、頼んだ人にも喜びがあって、できあがると皆で喜び合えるのが本来のあり方だと思うんです。

――建築作品の一つに高知市の牧野富太郎記念館があります。

 牧野富太郎のことはそんなに知らなかったんですが、知れば知るほど、天才だと思えてきました。明治以降の偉人で5本の指に入るぐらいの人です。自然、植物に対してものすごい愛情を抱いている、それが尋常ではないんです。それを建築で、牧野さんの精神に適うものにしなきゃと思いました。

 記念館を建設した当時の知事は橋本大二郎さんです。設計を担当することになって、最初は高知県庁の知事室でお目にかかりました。だけど、役人が後ろにずらっと並んでいてね、それで「知事、うちの事務所に来ますか」と言ったら、1週間後にお付きなしで一人で来られたんです。「内藤さん、今の建築の問題は何ですか」とか聞かれて、それに答えるとメモを取っていました。今でも忘れられないのが、橋本さんが帰り際に言ったことです。個人名を出して、この記念館には3人の学芸員がいるけど、皆牧野富太郎に生涯を捧げて研究している。彼らが満足のいくような建物を作ってくださいと言って、帰られたんです。僕はそれはすごいことだと思う。県庁は巨大なピラミッドの組織ですが、そのトップの人が末端の学芸員たちの個人名を挙げて、なおかつ、その人たちが納得いくようにと言うわけです。

――これまでに携わった作品中、一番印象深いものは何ですか。

 三重県の鳥羽市にある海の博物館という建物です。漁民の暮らしがコンセプトで、漁労用具を集めている。当時は私立でお金がなくてね(2017年に鳥羽市に移管)。けれども、収蔵物だけは日本一。当時、6800点の重要有形文化財を抱えていたんです。文化庁の記録を見ると、2番目が2000点ぐらいだった。なぜ私立かというと、館長の父が伊勢志摩地方の漁民の神様と呼ばれていた人で、衆議院議員も務めたんだけど、亡くなる時に私財を投じて財団を作ったんです。でもお金はともかく最小限。時期が悪くて、バブルが始まる頃の85年に取り掛かりました。東京で建築家が集まると、俺は坪単価200万円でやっているとか、300万円の建物だとか言う時代に、海の博物館はだいたい坪50万円くらいです。僕はそこで建築プロセスの細分化、あるいはそれらをどうつなぐかとか、全体のコスト構成など色々勉強しました。今に至る原点のような建物です。

――今後の方針を教えてください。

 建築は地球環境や世界と無縁でないことをよく考えます。僕らは建物を作る中で、エネルギーを使い、自然を壊しているわけですね。この本では建築や都市、土木といった人々の和解を中心に語ったつもりだけど、本当は人間社会と自然をどう和解させるかという大テーマもあるわけです。素晴らしい建築物ができたとしても、それが世界全体の環境を成立させているものに反するものだったら、何となく気持ちがすっきりしないところがあります。自然と和解していて、なおかつ、その場所を訪れると自分は生きていてもいいんだな、と感じられるような建築ができたらいいなと思っています。

 
(『中央公論』2021年10月号より)

中央公論 2021年10月号
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内藤廣
〔ないとうひろし〕
1950年神奈川県生まれ。建築家。東京大学名誉教授。81年、内藤廣建築設計事務所設立。建築作品に島根県芸術文化センター、高田松原津波復興祈念公園国営追悼・祈念施設(芸術選奨文部科学大臣賞)、東京メトロ銀座線渋谷駅など。『素形の建築』『構造デザイン講義』『内藤廣と若者たち』『内藤廣の頭と手』『空間のちから』など著書多数。
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