政治・経済
国際
社会
科学
歴史
文化
ライフ
連載
中公新書
新書ラクレ
新書大賞

コロナ後の「希望の図式」 岡田暁生【小林秀雄賞受賞 記念寄稿】

岡田暁生(京都大学教授)

漆黒の闇にさした光

 昨秋「アートの島」として有名な瀬戸内の直島へ初めて行った。ここでは家プロジェクトという「点在していた空き家などを改修し、人が住んでいた頃の時間と記憶を織り込みながら、空間そのものをアーティストが作品化」する(「ベネッセアートサイト直島」ホームページより)計画がすすめられている。その一つ、安藤忠雄が建物を設計(この建物は新築)、そして内装をジェームズ・タレルというアーティストがデザインした「南寺」という建物がある。その内部はまったく光のない闇である。入口から懐中電灯を持ったガイドの方に手を引かれるようにして中へ連れていかれる。しばらく歩かされた後、「ここで10分か15分ほど待っていてください」と言われて、椅子に座らされる。なんのことかわからない......。ところが次第に眼が慣れてくると、漆黒の闇と思えたところにうっすらと光がさしているのが見えてくる。この光のデザインが本当に美しい。

 直島へは「Go Toトラベル」を利用して行ったのだが、先が見えそうで見えない状況の中、私はこのデザインに心底感動した。「感動」という言葉をよもやこういうものについて口にすることがあるなど、コロナ以前なら考えられなかったと思う。なんだかんだいって私も「盛り上がる音楽」が大好き、つまり「希望=盛り上がる感動」の図式が叩き込まれているのだ。しかるにこの直島体験は、本当の希望とは弱々しい光のようなものであり、にぎにぎしい強光があるとあっという間に消されてしまい、しかしそれは確かに存在していて、ただし、それを見るためには闇を直視し、闇に眼が慣れる必要があるのだということを、私は教えられた。

 今なにより私たちに要請されているのは「希望の図式」の組み換えである。それはつまり「2020年以前の希望の図式」を振り切ることである。安直なV字回復を神頼みしない。闇の向こうの弱々しい光が見えてくるまで眼を見開いて闇を見続ける。密集して騒いで盛り上がるだけが希望ではないと思い切る。

 このところイタリア語の「meno male」(メノ・マーレ)という慣用句についてよく考える。英語に直訳すれば「less bad」、つまり「そう悪くなかった」となる。しかし実際の意味はまったく違う。meno maleとは(例えば無事戻ってきた友人に向かって)「ああ、本当によかった!!」の意で使われるのである。「そう悪くなかった」イコール「ものすごくよかった」という意味のこの反転に、私はとても魅了される。古代ローマ以来の歴史の激流を何千年にわたって経験してきたイタリア人ならではの、極めて現実的で、しかし楽天的たるを失わない処世観の極意を見る思いがする。

 「希望の図式」の組み換えに際して音楽の役割は重大だ。なにせ感動のハッピーエンドへ向けた右肩上がりの時間図式をさんざん人々の思考回路に刷り込んで、それ以外の希望のありようが考えられないくらいにさせた張本人は、スポーツと音楽かもしれないのだから。夜明けの静けさの中、うっすらと見え始める一筋の陽光のイメージを芸術で表現することは、十分にできるはずだ。しかし希望が安直な安酒にならないためにこそ、光一つないと見える闇を黒々と表現することもまた、芸術の重要な使命の一つである。

中公新書『音楽の危機  《第九》が歌えなくなった日』

岡田暁生

二〇二〇年、世界的なコロナ禍でライブやコンサートが次々と中止になり、「音楽が消える」事態に陥った。集うことすらできない――。交響曲からオペラ、ジャズ、ロックに至るまで、近代市民社会と共に発展してきた文化がかつてない窮地を迎えている。一方で、利便性を極めたストリーミングや録音メディアが「音楽の不在」を覆い隠し、私たちの危機感は麻痺している。文化の終焉か、それとも変化の契機か。音楽のゆくえを探る。

岡田暁生(京都大学教授)
〔おかだあけお〕
1960年京都市生まれ。大阪大学大学院博士課程単位取得退学。 博士(文学)。大阪大学文学部助手、 神戸大学発達科学部助教授を経て、 現在、京都大学人文科学研究所教授。『オペラの運命』(中公新書, サントリー学芸賞), 『西洋音楽史』(中公新書), 『ピアニストになりたい!』(春秋社, 芸術選奨文部科学大臣新人賞), 『音楽の聴き方』(中公新書, 吉田秀和賞), 『オペラの終焉』(ちくま学芸文庫), 『リヒャルト・シュトラウス』(音楽之友社)など著書多数。
1  2  3  4