『「歴史の終わり」の後で』フランシス・フクヤマ著、マチルデ・ファスティング編、山田文訳 評者:河野有理【新刊この一冊】
評者:河野有理
「歴史の終わりの終わり」。ロシアのウクライナ侵略を受けてこのような感慨を覚えた向きも多いのではないか。かくいう評者もその一人である。たとえば、冷戦以降の「民主化」の象徴ともいうべきマクドナルドのロシア撤退。それは冷戦終了時には確かに世界中で共有されていたはずの「ハッピーエンド」感が最終的に消失したことを、何よりも雄弁に物語っているように思われる。
こうした感慨が全くの間違いということはないであろう。だが、その際、「歴史の終わり」という言葉を使うのは少し慎重になる必要がある。フランシス・フクヤマのロングインタビューで構成される『「歴史の終わり」の後で』を読むとそのことに気づく。そう、「歴史の終わり」とはフランシス・フクヤマが1989年にほぼ同名の論文を発表して以来広く人口にしたフレーズである。だが、「歴史の終わり」とは、当時も今も広く誤解されているように、単に自由民主主義の政治体制が共産主義に勝利したことのレトリカルな表現などではない。それは理想の政治体制をめぐるものなのだ。共産主義が崩壊した以上、人類が目指すべき理想としては「自由民主主義」以外のものはもはや残されていない。それこそフクヤマが「歴史の終わり」で表現したかったことなのだ。
したがって、原著は事件勃発前に刊行されているのだが、ロシアの侵略が「歴史の終わりの終わり」を意味するのかと聞かれた際のフクヤマの答えは明らかだ。「そうではない」。なぜなら、この事件を受けて自由民主主義体制の威信が世界的に動揺したようには見えないからだ。むしろ今回動揺したのは、ロシアが体現する権威主義の威信の方であろう。今回もまた「歴史の終わり」は終わっていないのである。
だが、そのことはフクヤマの思考がこの30年間変化しなかったことを意味しない。第一に、共産主義に代わる自由民主主義のライバルとしての権威主義の脅威にフクヤマは敏感であった。ただし、その際の脅威は中国であって、ロシアではない。自由民主主義に代わる「理想」の座を権威主義が占めることがもしあるとすれば、それを可能にするのは中国による「スマートな権威主義」以外にはない。
第二に、フクヤマの関心は自由民主主義の理想そのものというより、それを実現する前提条件の探求へと向かった。その解答は強力な法の支配に基づく近代的な国民国家の必要性であった(本書ではウクライナが「国民国家」として自立する可能性にも触れられており、それもまことに興味深い)。
本書の読みどころの一つは彼の自伝的語りだ。比較文学・古典専攻から社会科学へと「転向」した経緯もさることながら、日本の読者にとってとりわけ興味深いのは彼のルーツにかかわる部分だろう。彼の両親はともに日本人だ。だがそこで、日本に対する思い入れのたぐいを期待するなら当てが外れることになる。日本人コミュニティにおける教育をほとんど受けなかったという彼にとって、エスニックなルーツはほとんど意味を持たない。むしろ社会学者だった父に由来する西洋的教養の影が濃い。
冷戦後叫ばれた国民国家の相対化の潮流のなかで、時に反時代的にも聞こえる「国民国家」を擁護するその姿勢と、彼のこうした生い立ちとはおそらく無縁でないのだろう。
(『中央公論』2022年8月号より)
◆フランシス・フクヤマ〔Francis Fukuyama〕
1952年アメリカ生まれ。政治学者。『歴史の終わり』『「大崩壊」の時代』『アメリカの終わり』など著書多数。
◆マチルデ・ファスティング〔Mathilde Fasting〕
ノルウェーのエコノミスト。シンクタンクマネージャー兼フェロー。
【評者】
◆河野有理〔こうのゆうり〕
1979年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本政治思想史。著書に『明六雑誌の政治思想』『偽史の政治学』などがある。