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阿部公彦×楠木 建「事務を知れば、世界の神経構造が分かる」

阿部公彦(東京大学教授)×楠木 建(一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授)

「分業」が目的を見失わせる

阿部 私が興味を持ったのは、事務作業そのものというより、事務周辺に漂う文化や人間関係など。そこを少し掘り下げてみたいなと思ったのが、本を書いた大きな動機です。

 ポイントは大きく三つ。一つ目は「注意力」の問題です。もう10年ほど前に「凝視」をテーマに『文学を〈凝視する〉』という本を書きました。人はなぜ対象をじっと見ようとするのか、しかも見すぎるとかえって何かが見えなくなるのではないか。そんな問題意識でした。事務作業では特に注意力が必要となり、ときには凝視を促す側面もあると思います。

「凝視」と対になる言葉が「注意散漫」です。近年、世の中で過剰なほどに発達障害など注意力にかかわる個人の傾向が話題にのぼります。理由はいろいろあるでしょうが、一つには注意の向け方に関して、社会が規範を押しつけるようになった結果かなと解釈しています。注意至上主義的な社会の中で、我々は生きづらさを感じながら、もうそこに依存せざるを得なくなっているのではないか、という問題意識を持っています。

 そこから派生したのが二つ目のポイントで、注意の失敗や事務処理の失敗が人間のドラマを引き起こしてきたのではないか、ということです。実際に見直してみると、古今東西の小説はこういうテーマを頻繁に扱っているんですね。

 そして三つ目は、ちょっと毛色が違うのですが、文学作品にいろいろなモードの文章があるように、事務には事務文書というモードがあるということ。特に規約の文書とか、最近よく見るもので言えば訴えや要望、公的な批判の文章などには、独特のスタンスがあるように感じています。このスタンスによって権威が発生したり、冷たさや硬さが表現されたりする。事務文書と言えば基本的に情緒と無縁とされがちですが、むしろそこには感情が含まれていて、それが社会に少なからぬ影響を与えているのではないか。以上の三点が『事務に踊る人々』の土台です。


楠木 「おわりに」で、「事務を基点にすると、(略)この世界の神経構造のようなものが明らかになる」と書いておられましたね。僭越ながら非常に秀逸な着眼点だなと思いました。事務というレンズを使えば、単に人間社会の表面ではなく、その神経まで見えてくるのではないかなと。

 事務には情緒がなくて非人間的で、アドリブ的な動きとは対極なイメージがあります。でも考えてみれば、私たちの仕事の大半は外形的には事務作業かもしれません。そこには多様なドラマが詰まっているわけです。

 例えば今、トレーニングジムで有名なライザップが「チョコザップ」という新事業を展開しています。簡易型のジムで、国内にはすでに1500店舗もあるそうですが、まだまだ拡大する方針とのこと。ただ、従来にないタイプのサービスなので、一方で模索も続けています。どういう立地がいいのか、限られたスペースにどういうフィットネスマシンを置けばいいのか、料金体系をどうするか等々、営業しながらテストを繰り返しているわけです。

 そこでは、膨大な事務処理が行われているはずです。ただ、新しいサービスカテゴリーを作るという目標に向けた作業なので、あまり事務的な感じがしない。ミスをなくすためとか、マイナスをゼロにするためではなく、ゼロからプラスを生み出すための作業となると、「事務」という語感はしっくりこない。

 人々が事務を事務として受け止める大きな理由の一つは、「分業」だと思うんですね。新たな事業の開発という最終的な目的があったとしても、その手段が分業によって切り離されると、目的を見失います。「あなたはいつまでにこの作業を」と指示されるだけで、それがどう役立つのか分からなければ、いかにも事務という感じになりますよね。

 分業は近代社会の大きな特徴の一つです。言い換えるなら、その社会の一員である以上、私たちが仕事に事務的なものを感じるのは必然です。これも、先生のご著書で気づかされたことです。


阿部 丁寧にお読みくださりありがとうございます。たしかに誘惑的だったり、ワクワクしたりする仕事というのは、事務とは対照的なものと見られる傾向があります。「やり甲斐のある仕事は事務とはかけ離れたもの」との思い込みがありそうです。実際には事務作業の中にワクワクを見出すこともありますが、事務の密かな魅惑は市民権を得ていませんね。

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