文・大木 毅
一年間に刊行されたすべての新書から、その年「最高の一冊」を選ぶ「新書大賞」(『中央公論』三月号掲載、https://www.chuko.co.jp/special/shinsho_award/)。「新書大賞2020」では『独ソ戦』(岩波新書)が大賞に輝きました。著者の大木毅さんに『独ソ戦』執筆の動機について、戦史・軍事史研究に対する問題意識について寄稿していただきました。
このたび、拙著『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)で、二〇二〇年の新書大賞を受けることになりました。聞くところによれば、選考委員諸氏より過分の評価をいただいて決定されたとの由、なんとも光栄で、また面映ゆい気分です。とはいえ、拙著が評価されていることについて、少なからぬ数の読書人が戸惑いを覚えているように見受けられます。
なぜ、独ソ戦などという凄惨な戦争の歴史を描いた本が多くの読者を獲得したのか、それははたして一般に常識として踏まえておかねばならぬような知識の提供を目的とする新書のかたちで出版されるべきものだったのか?
こうした問いかけにお答えすることは、もとより拙著執筆の動機を説明することになりましょうし、ひいては、現代日本の戦争や軍事に対する視座の問題点を指摘することにもなるかと思います。
旧軍における学問的アプローチの欠如
迂遠なようではありますが、まずは、近代以降の日本において、戦史や軍事史がいかに扱われてきたかという点から、論を起こしましょう。旧陸海軍に関する史資料を収蔵する文書館、たとえば、防衛省防衛研究所史料閲覧室や靖國神社偕行文庫などで、「戦史」というワード検索をかけてみると、膨大な量の文献がヒットするはずです。そのリストを見れば、さすがに軍事のプロフェッショナルである帝国軍人は、戦争について深く研究してきたのだと思いたくなる。しかしながら、それは錯覚にすぎません。多くの例外があることを承知の上で、鋭利な鑿で丹念に削り出すのではなく、鉈を振るうようにして断定するならば、旧陸海軍のアプローチのほとんどは「教訓戦史」の域に留まっていたといえます。
どういうことか。欧米の軍隊において、十九世紀にはじまった近代的な戦史・軍事史研究は、従軍者の論功行賞の前提とする、あるいは、社会に対して軍の存在意義をアピールするといった性格を残しつつも、将来に資することを目的として、戦闘、作戦、戦争を分析するようになっていきます。両世界大戦で列強が採用した用兵思想は、おおむね、そうした過去の研究から着想されたものであったといっても過言ではないでしょう。また、そのような営為をより有効にするために、公刊戦史の執筆者として、軍隊経験を持つ民間の歴史学者や政治学者を起用するといったことも一般に行われはじめました。事実を再構成し、その意味を解釈するには、軍人のみならず、人文・社会科学の視座が必要であることが経験的にあきらかになったからです。こうして、「古い軍事史」、オーソドックスな戦史の方法論は、第二次世界大戦を経て、長足の進歩をとげました。これについては、後段で述べます。
もちろん、旧陸海軍の戦史・軍事史研究も、こうした流れをみておりました。にもかかわらず、右のごときアプローチが取られることはでした。戦史・軍事史から、日本軍がこう戦うと定めた方針、いわゆるドクトリンに都合のいい例を抜き出し、おのれの正当性を確認することに終始したのです。
具体的な例として、「シュリーフェン計画」の評価について述べましょう。第一次世界大戦前に、ドイツ陸軍参謀総長のシュリーフェンは、つぎの戦争ではロシアとフランスという二大強国を同時に相手にすることを余儀なくされると判断し、極端な戦略を立てました。ロシアの領土が広大であるため、動員に時間がかかることに注目し、主力を西部戦線に集中、まず短期決戦でフランスを降したのち、返す刀で東部戦線に兵力を移し、戦争を継続するとしたのです。さらに、西部戦線での作戦も、右翼に兵力を集中、長駆進撃して、フランス軍を包囲殲滅するというものでありました。主力の進路も、パリの西側を通過するように策定されています。東側、つまりドイツ寄りのそれではありません。どれほどの機動を予定していたか、おわかりになると思います。
今日では、この構想は、外交や経済の要素を度外視した無謀な計画であったとして批判されております。作戦的にも、シュリーフェンが求めたような長距離の進撃は、当時の軍隊の能力や補給の実情からして不可能であったというのが、おおかたの評価であると思います。
ところが、多くの日本陸軍将校は、現実には後任参謀総長の小モルトケが改悪してしまったために蹉跌したものの、原案通りに実行していれば、ドイツは第一次世界大戦に勝利したとする言説─これも、現代では、シュリーフェンに近かったドイツ軍人が敗戦後に流した主張であったと判明しています─を肯定しました。そして、シュリーフェン流の気宇壮大な機動・包囲戦こそ、日本陸軍が採るべき作戦の模範ともてはやしたのです。たとえ、当時入手し得た史資料だけでは、「シュリーフェン計画」必勝論が神話にすぎないことを見抜けなかったとしても、歩兵の行軍速度や兵站の推進能力など、日本陸軍がすでに有していたはずの経験知をものさしとして当てはめれば、かかる構想は机上の空論であると結論づけられたはずなのですが。
一事が万事であります。日本陸海軍は、将来の戦争に備え、真の見通しを得るために、過去と真剣に向き合うのではなく、おのが既定方針を補強する戦例を探し、そこから一面的な教訓を引き出して、自らを肯定するアプローチ、「教訓戦史」に頼ったまま、あの戦争に突入したのです。旧陸海軍は何故に、かような視野狭窄におちいったのか。第一次世界大戦で明示されたようなかたちの総力戦は、日本の貧弱な国力では遂行できない。そうした、語られざる共通認識が自己欺瞞としての「教訓戦史」につながったのではないかと、わたくしは考えておりますが、それはまだ漠然たる仮説でしかないことをお断りしておきます。
咀嚼されていない「古い軍事史」の方法論
戦後の自衛隊が行ってきた戦史・軍事史研究も旧軍の轍を踏んではいないだろうか。公開された自衛隊の研究成果、あるいは折に触れて洩れ聞く挿話から、そうした危惧を抱かずにはいられません。あの戦争の公刊戦史である全一〇二巻の戦史叢書をはじめとする、自衛隊による戦史・軍事史研究は、事実の再構成においては、偉大なる成果を挙げました。しかし、これからあり得る有事に備え、現在まさに有益な戦訓を過去から汲み取るという点ではどうでしょう。
すでに述べたように、欧米における戦史・軍事史研究(本稿でのちに触れる「新しい軍事史」、すなわち、日常史・社会史的アプローチを主とするものとは異なる、「古い軍事史」ということです)は、世界大戦を経て、学問的かつ「」な水準へと脱皮しました。ここでいう「批判的(クリティッシュ)」とは、あら探しをし、何かケチをつけてやろうとするようなトゲトゲしい精神を指しているわけではありません。教条主義的に、あらかじめ定められた「正答」に向かって対象に当たるのではなく、懐疑と批判精神を以てテーマに取り組み、より貫徹力の大きな解釈を得ようとする姿勢のことです。
そうした方法論の進歩によって、今日では「古い軍事史」研究にあっても、時系列に沿って事実を並べるがごとき叙述はすたれております。たとえば、ある戦闘を研究・分析するに際しても、「戦争の諸階層(levels of war)」、つまり、戦争目的を定め、そのために戦力化された国家のリソースを配分する「戦略」、戦略の要求に従い、各方面で軍事行動を実施する「作戦」、作戦実行に際して生起する個々の戦闘に勝つための方策である「戦術」の三つの次元を枠組みとして、批判的に考察することが当たり前になっているのです。さらには、組織文化・制度論の面から軍隊の強弱を分析する「軍隊有効性(military effectiveness)」論、また作戦史と政治外交史の結節をはかる研究なども進められております。やや逆説的なもの言いになりますが、「古い軍事史」研究は、その枠内で革新を行ってきたのでありました。
しかしながら、洩れ聞くかぎり、自衛隊の戦史・軍事史研究は(防衛省戦史研究センターや、防衛大学校の総合安全保障研究科のごとき例外はありますが)、こうした流れを咀嚼せず、戦史叢書等を文字通り「教科書」とするものになっているようです。たとえば、硫黄島における栗林忠道中将についても、その「指揮」を批判的に検討し、通時的・共時的な意義を探るのではなく、もっぱら彼の「統帥」─将兵を立派に戦わしめた武人であるとの顕彰に留まっている研究・教育が少なくないかと思われます。
これは、あらたな「教訓戦史」ではないでしょうか。このような戦史・軍事史の研究から、はたして、将来あり得る紛争に応用可能な知を引き出すことができるのだろうか。
懸念を抱くのは、わたくしだけではありますまい。
「新しい軍事史」は古くなっていないか
旧軍・自衛隊の戦史・軍事史研究に至らぬ点があるとすれば、ひるがえってアカデミズムのそれはどうか。こちらもまた、とても豊穣な地平が開けているとはいえません。そもそも戦前から、軍事や戦争などアカデミズムが扱うものにあらずという風潮があったことはよく知られています。そうした傾向は、辛酸を舐めた国民の経験から反戦・反軍感情が強まったことと相俟って、戦後いっそう顕著になりました。このような背景から、若干の例外はあるにしても、アカデミズムにおいて軍事史プロパーの研究はなされず、また、欧米の成果が学術論文や研究書を通して紹介されることもなきに等しいという状態が続いてきたのです。
けれども、二十一世紀に入ったころから、注目すべき変化がみられるようになりました。日本でも、日常史・社会史の関心から、軍事という未開拓の分野に踏み入ってくる研究者が現れたのです。これらの人々は「新しい軍事史」、あるいは「広義の軍事史」研究を唱え、多数の興味深い成果を挙げております。しかしながら、わたくしのみるところ、日本の「新しい軍事史」研究者は、ここまで述べてきたような特殊事情によるハンデを負っていたように思われます。
いうまでもなく、欧米の「新しい軍事史」研究者は、「古い軍事史」の土台に乗って、新しい分析や議論を展開することが可能でした。ところが、日本の研究者には、あいにく、そのような踏み台はなかったものですから、結果として軍事の常識を踏まえずに、軍事史の議論を展開するという極端な例すらみられるようになりました。
さらに、もう一つ、日本の「新しい軍事史」研究に共通する奇妙な特徴は、戦闘、もしくは戦場の忌避であります。軍隊は戦闘に従事し、それに勝つことを目的とする組織であることはいうまでもありません。にもかかわらず、戦後ながらく続いてきた戦争・軍隊嫌悪、あるいは「古い軍事史」の成果を無視したいという感情からくるものなのか、日本の「新しい軍事史」研究において、戦闘や戦場が対象とされることは、ほとんどないのであります。
実は、こうした事態に対する反省は、「新しい軍事史」の研究者にも存在します。たとえば、ロシア史を専攻する田中良英教授(宮城教育大学)は、「......日本の近世軍事史研究をリードする阪口修平らが、しばしば『広義の軍事史』の意義を主張する際に、いわゆる『狭義の軍事史』研究との差別化を強調している一方で、軍隊の実態を正確に理解するためには、戦術や装備など、むしろ『狭義の軍事史』研究で扱われていた、戦場での具体的活動に関わる内容との接合がやはり必要だ」と指摘されています(「一八世紀前半ロシア陸軍の特質─北方戦争期を中心に」『ロシア史研究』第九二巻、二〇一三年、三頁)。昨年の新書大賞を受賞された吉田裕名誉教授(一橋大学)が、日本の軍事史研究で手つかずのままに残されている分野は戦史であるという意味のことをインタビューでおっしゃっていますが、これも同様の現状認識を示しているのではないでしょうか。
事実、欧米の「新しい軍事史」研究は、とうの昔に戦場や戦闘というテーマに踏み入っています。近世フランス軍事史の専門家であるジョン・A・リン名誉教授(イリノイ大学)が二〇〇三年に上梓した『会戦』より引用しましょう。
「文化というテーマを追求するにあたっても、この『会戦』〔という書物〕は、軍事史における本源的なファクトとは、戦闘、そのすべての危険や大量の犠牲といったことを含む実際の交戦であることを忘れはしないだろう。われわれは、直接戦闘を扱ってはいない研究からも、多くのことを学んではいる。しかしながら、戦争の歴史を、軍事制度の社会史や他の流血とは縁のない研究だけに転じることはできないのである」(John A. Lynn, Battle:A History of Combat and Culture. From Ancient Greece to Modern America, Boulder et al. 2003, p. XV)。
このような問題意識に接するとき、わたくしは、日本の「新しい軍事史」研究は古くなっていないかとの危惧を覚えるのであります。
戦史・軍事史の空白を埋める
かくのごとく、日本の戦史・軍事史研究には、アプローチの新旧を問わず、方法論上の著しい遅れ、あるいは空白がみられます。そうであれば、わたくしが戦史・軍事史の論述に取り組む理由について、贅言を弄するまでもないでしょう。空白を埋める。その単純素朴な目標をめざして、文筆活動を続けています。拙著『独ソ戦』もその一環なのです。
けれども、読者のなかには疑問を持つ方も当然おられることでしょう。戦史・軍事史研究が等閑視されるのは、それが日本社会にとって不要なもの(防衛の任に当たる自衛隊は措くとしても)だからではないのか。戦争などという忌まわしいものは、研究する価値などないのではないか、と。
より直截的には、もはや戦争が、どこか遠い国のできごとではなくなったという状況のもと、戦争を知ることが必要になったとお答えすることができるかと思います。かつての冷戦時代においては、日本はアメリカとの同盟に頼り、西側チームの一員として、ごく限られた正面の守備に当たっていればよかった。また、憲法第九条の存在が、政治の手段としての戦争への誘惑を断つ歯止めとなっていたことも否定しません。そうした状況にあっては、当然、戦争の蓋然性は低くなりますから、それを無視し、知らなくてもよいとする空気が圧倒的であったのも無理からぬことでしょう。
しかしながら、冷戦終結後、そうした歴史的にみても稀である、幸福な政治環境はなくなりました。戦後、日本人が、さまざまな努力を払って振り切ってきた戦争に追いつかれようとしている。わたくしのみならず、少なからぬ国民が、さような実感を抱いているのが現状でありましょう。「諸君は、戦争には関心がないというかもしれない。だが、戦争のほうは諸君に関心を持っている」というトロツキーの不気味な言葉が想起される事態であります。
そのとき、戦争を拒否、もしくは回避するためには、戦争がいかなる変化をとげ、現在どのような性格を帯びているかを知る必要がありましょう。仮に反戦運動を展開するにしても、新しい時代には新しい戦争への理解、とりわけ、いかなる歴史的経緯をたどって、それが成立したのかを踏まえていなければ、説得力を持たせることは難しいはずです。実際、拙著のみならず、少なからぬ数の軍事書が読まれだしているのは、かくのごとき問題意識が国民のあいだに生起していることの反映ではないかと思われます。
つぎに、大きな射程からみれば、人間とは、また、人間の集団とは何かを探究することを目標とする人文・社会科学にとって、戦争は、避けて通れない研究対象であることが指摘できましょう。むろん、人間がいかに効率的に人間を打ち倒すかを追求する戦争は、憂鬱なる研究分野であります。しかしながら、ignore (無視する)ignorance(無知)に至るという警句の通り、日本で戦史・軍事史が検討されてこなかったがゆえの空白は、人間の営為の探究に際して、もはや看過できない欠落であろうと考えます。
もし、拙著『独ソ戦』が広範な読者を獲得できたとするなら、それは、この空白を衝いたことが幸いにも、すでに述べたような需要に合致し、さらには、あるテーマに対して必要な知識をコンパクトなかたちで提供するという新書の性格に沿っていたからではないでしょうか。おそらくは今後も、そうした読者の要求は続くものと推測され、わたくしも、戦史・軍事史に関する空白を埋めるべく、いっそう努力していきたいと思っているしだいです。
(『中央公論』2020年5月号より)
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。専門はドイツ現代史、国際政治史。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在、著述業。著書に『ドイツ軍事史』『「砂漠の狐」ロンメル』、監訳書に『第三帝国の歴史』、訳書に『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』『「電撃戦」という幻』など。「赤城毅」名での小説作品も多数。