加藤 戦争の終わらせ方という点では、昭和天皇は、さすがに甘いことは考えていないですね。内大臣の木戸幸一の書いた日記に、一九四一年十月十三日のこととして出てきます。対英米戦を決意する場合には、ドイツが単独講和を行って戦線から離脱することがないように注意しなければならない、と。もう一点は、いざという時のためにローマ法皇庁に斡旋を頼めるよう、関係をつけておけと、こう言っています。陸軍などの言う「イギリスを敗北させて、戦争終結に導く」といった構想に比べて、リアルな終末構想だと思います。
半藤 昭和天皇というのは、内政外交を統括する「天皇陛下」であると同時に、軍事すべてを統帥する「大元帥陛下」でもあるんですね。今のお話は、昭和天皇が「天皇陛下」として考えたことと思います。ドイツについては条約・同盟問題、バチカンについては開戦・講和問題と考えれば、ともに憲法に基づく「天皇陛下」の仕事ですね。
昭和天皇自身もこの二つの人格というか役割を使い分けていましたが、軍人もはっきり使い分けていたようです。これは終戦段階のことになりますが、大井篤という海軍大佐が、八月十五日の玉音放送が終わった後すぐに、「一切の抵抗すべからず、すべて武器を放棄すべし」と配下の全艦艇に命令を出したんです。でもその後、海軍省の前で、海軍強硬派の柴勝男大佐に会ったら、「貴様、なぜあんな馬鹿な命令を出したんだ。弱虫の天皇陛下は降服したが、われわれ軍人が頭領と仰ぐ大元帥陛下は降服していない! まだ戦うんだ!」と怒鳴りつけてきた。それで大喧嘩になったという話が残っています。そして二日遅れの八月十七日に軍人用に「大元帥陛下」の命令が下されます。
結局、昭和天皇も、「天皇陛下」としては様々なことを考えていたと思いますが、「大元帥陛下」としては、開戦直前の四一年十月末時点ではもう戦争に対してしっかりやる気になっていた。少なくとも「やむをえない」と思っていたと、私は判断しますね。
加藤 四一年九月の段階で、おそらく近衛文麿首相と相談の上で「秩父宮と会ってお話しされては」と勧める高松宮に対し、会見を断っていますから、私もその点は同感です。
半藤 そして終戦の時の昭和天皇は、「天皇陛下」よりも、「大元帥陛下」よりもさらに上を行く、「大天皇陛下」として、講和の大権を行使するわけです。まああくまで私の仮説ですが。
加藤 面白い見方だと思います。実は昭和天皇は一九四一年十月頃、国民の気持ちと自らの気持ちとの齟齬について語っています。これも木戸日記にありますが、国際連盟からの脱退にしても、日独伊三国軍事同盟の締結にしても、その時に発した詔書には、「平和のため」という言葉を入れてあるのに、国民はそうした側面に目を向けない、国民は、もっぱら英米に対抗するためだと考えている、と。こうした天皇の発言からは、天皇の深い疎外感が感じ取れます。また、それより前の三九年一月には、陸軍に対する批判として「満洲・朝鮮をもともとにしてしまわれるまでは」目が覚めないのではないか、との言葉もあります。日清・日露両戦争の果実をゼロにしてしまうまで目が覚めまいとの諦念ですね。
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〔『中央公論』2010年9月号より〕