明治政府は"全員野球"だった
本村 明治維新の頃といえば、ヨーロッパではドイツにビスマルクが登場した時代と重なります。プロイセン国王だったヴィルヘルム一世によって首相に任命されましたが、それまで政治家として大した実績があったわけではありません。ただ、「何かとんでもないことをやってくれるかもしれない」という期待だけで抜擢されたそうです。
その期待に応えるように、ビスマルクは議会を無視して軍備増強を進め、長年の敵国だったフランスとの戦争に勝ち、ドイツ帝国を築くことになります。しかし戦争はそこまで。「鉄血宰相」のイメージが強いですが、ロシアやイギリスといった周辺国とは話し合い重視の外交を展開します。その手腕は相当なものだと思います。
ところが、ヴィルヘルム一世の孫のヴィルヘルム二世とはソリが合わなかった。内政の充実を図ろうとしたビスマルクに対し、ヴィルヘルム二世は膨張路線を志向したからです。結局ビスマルクは罷免され、その後のドイツは第一次世界大戦を引き起こして惨敗し、莫大な賠償金を背負わされることになるわけです。
ヴィルヘルム二世はビスマルクと対照的に、国家の状況をまるで読めなかった。なぜ戦争に負けたのかさえ、わかっていなかったかもしれません。リーダーとしては不適格でしょう。
御厨 幸いにして、明治政府にヴィルヘルム二世はいなかった。むしろ複数のリーダーが相互に補完し合う〝全員野球〟だったのです。だから大久保が暗殺された後も、伊藤博文や山県有朋などが問題なく後を継いで近代化を進めました。これも明治政府の大きな特徴です。
象徴的なのが、薩長出身ではなく紀州藩士だった陸奥宗光。外務大臣として「陸奥外交」と呼ばれるほど外交交渉に能力を発揮して、条約を締結、改正させたり、日清戦争を主導したりするわけです。
陸奥には面白いエピソードがあります。ヨーロッパへ留学した際、かの国々では議会制を定着させるまでに二〇〇年を要したという話を聞くのです。他の留学仲間が腰を抜かす中、彼は「ならば我が国は二〇年でやり遂げよう」と言い放ったらしい。気概がよくわかりますよね。
だから彼は日清戦争の主導という大役を担う一方で、自ら政党を立ち上げようとした。政党がないと議会政治はうまくいかないとわかっていたからです。こういう視野の広い人物が政府にいたからこそ、日本は建国の危機の時代を乗り越えられた。見方を変えれば、陸奥のような異色の人物を登用した伊藤博文にも先見の明があったということです。
それから明治天皇の存在も大きかった。総理大臣は交代していきますが、天皇は明治の政治を一貫して見続ける立場ですからね。その蓄積があるので、憲法が公布されて議会政治が始まった頃は、大臣を相手に具体的な指示を出していたそうです。
しかし明治憲法上、天皇は政治に口出ししないことになっていました。そこで宮中の側近たちが諌めたところ、天皇は「この憲法を停止させないために指導しているんだ」と怒ったらしい。見事な志ですよね。
本村 明治維新といえば、日本史の専門家の中には最後の将軍、徳川慶喜のことを悪く言う方、あるいは嫌いな方が少なくありませんね。でもフランス史に詳しい研究者などは、慶喜が早々に恭順、謹慎したから日本は内乱にならなかったんじゃないかと言う人も多い。
フランス革命では、国王ルイ十六世が処刑されました。大局を見ようとせず、自分や家族の保身のために国外逃亡を企てた結果です。しかし、曲がりなりにも国王なので、処刑には反対する勢力が多数ありました。また革命軍の中にも、一挙に共和制や民主制に移行するのではなく、立憲君主制をうまく利用して新体制を固めるという考え方があったそうです。その対立が、革命後の内乱を生みました。その観点からすると、自ら身を引いた慶喜の選択は正しかったのではないかと見るわけです。
御厨 たしかに、明治維新がフランス革命のような血で血を洗う内乱にならなかったのは、やはり慶喜が徹底抗戦しなかったからでしょう。もし彰義隊の戦いに参加したり、榎本武揚と一緒に箱館まで行っていたりしたら、けっこう面倒くさいことになったかもしれません。しかし慶喜は大局観を持って先を読んだ。おかげで、明治維新は非常にコストパフォーマンスよく達成できました。
明治政府も、慶喜をはじめ幕府方の人材を必要以上には排斥しなかった。これも〝全員野球〟の一環で、むしろ勝海舟にしろ榎本武揚にしろ、積極的に政府内に取り込んでいますよね。人材が圧倒的に足りなかったためでもありますが、優秀なら出身に関わりなく登用したわけです。
それから典型的なのは、憲法の公布とともに発足した衆議院です。本来なら過半数の議席獲得を目指すはずですが、第一回の選挙で政府は政党を立てなかった。そのために反藩閥政治を掲げる民党が圧勝します。これは明治政府の意思表示でしょう。これからは暴力ではなく、幅広く言論を戦わせて政治を動かそうということですね。
だから日本は、揺らぐことなく近代化の道を邁進できた。もし薩長の藩閥に固執していたら、おそらく明治政府は維持できなかったでしょう。
本村 ヨーロッパにもそういう例がないわけではありません。約二〇〇〇年前の共和政ローマの末期に登場したユリウス・カエサルです。彼は、優秀な人材なら敵味方の関係なく登用した。だから最終的に終身独裁官として君臨できたのです。
しかし、共和政には五〇〇年の歴史があります。それを急進的に帝政に移行しようとするカエサルは、反感も買いました。だから、もともと敵ながら登用したブルータスとその仲間によって暗殺されたわけです。
結局ヨーロッパは、カエサルの手法を継承できなかったということでしょう。フランス革命にしても、敵と味方をはっきり区別して、敵は登用どころか徹底的に断罪した。その伝統が、近代以降のヨーロッパでは強く受け継がれた気がします。
〔『中央公論』2021年4月号より抜粋〕
1951年東京都生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学先端科学技術研究センター教授などを歴任。専門は政治史、オーラルヒストリー、公共政策。「東日本大震災復興構想会議」議長代理などを務める。『政策の総合と権力』(サントリー学芸賞)、『馬場恒吾の面目』(吉野作造賞)など著書多数。
◆本村凌二〔もとむらりょうじ〕
1947年熊本県生まれ。一橋大学社会学部卒業。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。東京大学教授、早稲田大学特任教授などを歴任。専門は古代ローマ史、西洋史。2008年地中海学会賞を受賞。著書に『薄闇のローマ世界』(サントリー学芸賞)、『馬の世界史』(JRA賞馬事文化賞)、『古代ポンペイの日常生活』など著書多数。