現場での戦術改良を主導した乃木
乃木が愚将とされる最大の理由は、同一の戦法を繰り返し損害を重ねた、という点にある。だが、この批判は誤りで、乃木は攻撃が失敗するたびに、敗北の経験から教訓を導き出し、戦術改良を実施し続けたことが明らかとなっている。
明治37年8月末、強襲法(砲兵の猛烈な砲撃により敵堡塁(ほうるい)・砲台を破壊制圧した後に、歩兵が突撃する攻撃方法)をとった第1回総攻撃は、戦死傷者1万5860人(死傷率約31%)の損害を出して失敗した。失敗の原因は、地図の不備、新式重砲が少なかったこと、砲弾不足など複数あるが、最大の要因は開戦前の陸軍が要塞攻略の方法を深く研究していなかったことにあった。そのため、第1回総攻撃の失敗後、乃木は手探りの状態で要塞攻略のための戦術改良・開発を主導した。
具体的には、第三軍参謀井上幾太郎に対して第1回総攻撃の戦訓を活用して突撃教令(攻撃マニュアル)を起草するよう命令。井上は総攻撃失敗の最大原因について、歩兵と砲兵が永久堡塁に対する突撃の要領を十分に会得していないことにあると分析し、突撃直前の火力発揚、歩・砲・工兵の密接な協同、築城を重視した突撃教令を完成させた。また、第三軍指揮下の攻城工兵廠が、正攻法(塹壕を掘って敵堡塁に接近し、砲撃と工兵の爆破後に突撃する攻撃方法)実施のために、手榴弾、木製迫撃砲などの新兵器を考案するや、乃木はそれらを採用している。
また乃木は、10月末に第2回総攻撃が失敗した際、原因が外岸穹窖(きゅうこう)(機関銃などが配置された地下室)と外壕の存在にあると気づくや、外岸穹窖を爆破・占領すると共に、外壕通過設備の完成に努めた。さらに、旅順攻略の確信を持って開始した11月の第3回総攻撃で東北正面への突撃が失敗すると、その原因となった胸墻(きゅうしょう)(敵弾を防いだり味方の射撃を便利にしたりするための盛り土)の破壊に全力を尽くしている。
戦争では開戦前に予期していなかった新たな事象が出現して、指揮官を悩ませるため、戦場の新しい現実に対して柔軟かつ巧妙に対処できるか否かが、指揮官の能力を測る試金石となる。後の第一次世界大戦では、多くの軍人が戦場の新しい現実に柔軟に対処できず、多大な死傷者を出して作戦に失敗するケースが多かったが、乃木は、損害を出しつつも戦訓に学び、戦場の新しい現実に柔軟かつ巧妙に対処することに成功し旅順要塞を陥落させたのだ。戦場の新しい現実に対応し作戦を成功に導いた乃木の柔軟な対応力・思考力は高く評価されて然るべきであろう。
(『中央公論』6月号では、この後も乃木の統率力や、二〇三高地陥落に関し児玉源太郎の果たした役割、児玉の評価をめぐる現在の論点などについて詳しく論じている。)
宮城県生まれ。國學院大學大学院法学研究科博士課程後期単位取得退学。専門は日本近代軍事史・軍人研究。著書に『新史料による日露戦争陸戦史』『児玉源太郎』『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』、編書に『日露戦争第三軍関係史料集』など。