受賞の知らせを受けて以降、「青天の霹靂」「呆然として」といった言葉が、関係者にメールを送る際の枕詞になっている。思わぬ受賞に歓喜したが、本年に拙著が選出される光栄に浴したのは、戦後80年、昭和100年の時代の追い風を受けたと考えるべきだろう。
この節目に、大日本帝国の、そして現在のところ日本国にとっても最後の戦争である日ソ戦争を知りたい、という読者の声が受賞を後押しして下さったことは間違いない。さらに、そうした時代の空気を汲み取り、拙著を選出して下さった選考委員の皆様に心より御礼を申し上げる。また、貴重な資料の閲覧を許可してくださった各機関や先生方のご尽力、先達の優れた研究なしには本書は執筆できなかった。改めて感謝申し上げる。
本書がテーマとする日ソ戦争とは、1945年8月8日のソ連政府による宣戦布告に始まり、同年9月まで繰り広げられた一連の戦闘を指す。戦場は満洲(中国東北部)、朝鮮北部、南樺太(サハリン島南部)、千島列島までの広範囲に及ぶ。
開戦から80年を経た今日もなお、日ソ戦争には未解明な部分が残る。ソ連軍の侵攻によって命を落とした日本人の総数はその最たる例だが、当時の国際法でも違法とされた民間人への攻撃や捕虜の強制労働の動機など、特にソ連側については不明な部分が多い。
こうした「空白」に光を当てるのは、後進の歴史家に課された責務であろう。地道な研究の積み重ねこそが、多くの国民と領土を犠牲にしたこの戦争から、有益な教訓を引き出すための礎になるであろうゆえ。
なお、日ソ両国が戦争状態の終結を宣言して、国交を回復したのは1956年のことだ。米英をはじめとする、各連合国との戦争状態を終結させたサンフランシスコ平和条約の締結から5年が過ぎていた。日本側がポツダム宣言の受諾を表明していながら、戦争へとなだれこんだ開戦経緯も異質だが、講和の遅れだけとってみても、この戦争が米英との戦争とは「別枠」だったことが分かる。
講和後も、この戦争中にソ連軍によって占領された北方領土の問題は未解決で、戦没者の遺骨も多くは戻らぬままだ。だが、同じく1945年に戦場となった硫黄島・沖縄・広島・長崎と比べ、一般の認知度は低いと言わざるを得ない。
忘れられがちなのは、二つの「神話」の影響が大きいだろう。アメリカの核攻撃こそが日米双方の犠牲者を最小限に抑えて終戦に導いたという「原爆神話」と、「玉音放送」で戦争は終わったとする「8月15日の神話」である。南樺太や千島列島が「日本国内」であった記憶が年々薄れていることも、日本のマスメディアで扱いが軽い理由かもしれない。
思うに、戦争は残酷だ。それは、多くの生を不条理に断ち切るからだけではない。死者たちが生前に抱いていた思いや、残された者たちが戦後に抱えた思いを率直に語るのが困難だからである。あらゆる戦争の記憶は、語られた瞬間から現在の政治に接続されてしまう宿命を背負わされている。歴史を政治的に利用しようとする動きが国内外で広がり、それがSNSで増幅される現代では、戦争を語る困難がさらに増しているように思われる。
だが、希望もある。時間の経過は戦争の記憶を風化させる一方で、学問としての冷静な分析を可能にする逆説も孕むからだ。一例をあげると、昭和天皇の研究が急速に進んでいるのも、新資料の開示もさることながら、昭和天皇が歴史上の人物になりつつある証左だろう。
ただし、「語れること」と「語られるべきこと」とは同義ではない。むしろ、歴史の語りは、常に語られざるものを意識し、その周縁に光を当てる努力が必要なのではないか。なぜなら、語られざるものの中にこそ、現代にも通じる暴力の構造や沈黙の連鎖が潜んでいるからだ。拙著も、語られなかった歴史に耳を傾けようとした一つの試みである。参戦した双方の国々の戦死傷者、凄惨なソ連軍の占領下で生死を分けた人々、ソ連領やモンゴルなどでの強制労働で命を落とし、帰国できても差別にさらされた抑留者たち。彼らの声なき声に、どれだけ応えることができたのか、自問する日々が続いている。
最後になったが、読売・吉野作造賞の末席に拙著が連なることは、身に余る光栄であると同時に、大きな責任も伴う。受賞の喜びをかみしめつつ、これまで受賞された諸先生方の足跡に恥じぬよう、今後も誠心誠意、研究に邁進してゆきたい。
(『中央公論』2025年7月号より)
1980年東京都生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。専門は近現代日中露関係史。著書に『中東鉄道経営史』(樫山純三賞)など。『日ソ戦争』で司馬遼太郎賞。