拘束の真相
─政府軍が拘束してきたわけですね。
常岡 いえ、結局、僕を捕まえたのはヒズビ・イスラミの中のクンドゥズ州にだけ特化した勢力でした。ヒズビ・イスラミ自体はアフガン全土にわた
る、タリバンに次ぐ第二の武装勢力です。
─拘束中、ツイッターに名前を書かれた「ラティーフ」は、その勢力のボスということですか。
常岡 そうです。ラティーフは元々ムジャヒディン(「イスラム聖戦士」と呼ばれ、ソ連侵攻に抵抗した集団)の一派ヒズビ・イスラミの党首だったヘクマティヤルの片腕です。その後、「ソ連侵攻を退けた後腐敗したムジャヒディンを一掃して、本当のイスラム社会を作る」とタリバンが出てきたときに、ヘクマティヤルは戦わずにイランに亡命するという選択をした。一方のラティーフは、ムジャヒディンの英雄マスードと協力してタリバンと戦う選択をした。そこで完全に路線が分かれたんです。
結局、ヒズビ・イスラミには、「自称ムジャヒディン」と、「政府側として働いている連中」の二種類がいます。そしてラティーフはどうもカルザイ政権の一部とつながりがある。というのも、僕が拘束されていたときに、カルザイ本人がクンドゥズにやってきて、住民集会を開き、「これからタリバンの力を削ぐ作戦をやる。住民のみなさんの協力を仰ぎたい」と話したらしいんですね。そしてその集会に僕を拘束していた兵士たちが、見張り一人を残して全員出席しているんです。つまり僕を誘拐した犯人たちとカルザイは直接会っているんですよ。
─常岡さんを拘束した連中が反タリバン勢力だとすると、常岡さんと一緒にいたタリバンの青年はどうなったんですか。
常岡 僕が外国人であることはすぐにバレましたが、「おまえがタリバンじゃないと言えば、この男は自由になる」と言われたので、「彼はタリバンじゃない。銃を持ってなかった」と言いました。そうしたら解放されました。捕まって約三〇分後だったと思います。
─タリバンに興味がなかったとすると、彼らは常岡さんが外国人だから捕まえたという可能性もあるわけですね。
常岡 そうですね。
─身代金目的だったのでしょうか。
常岡 少なくとも最初は金目的ではなかったと思います。後から兵士たちに聞いた話では、ハムザーという司令官が空爆で殺された事件があって、若い兵士たちが復讐を叫んでいた。そこへトップのラティーフが、「外国人の異教徒を捕まえた」と言ってきたので、「そいつをよこせ、血祭りにあげてやる」というムードになった。けれども連れてきてみたら「あれ、イスラム教徒じゃないか」(常岡氏はイスラム教徒)ということで、もてあました結果、身代金を取ろうという話になったと。
でも、つじつまが合わない。後で日本大使館に聞いたところ、ハムザーが殺されたのは、四月二十四日。四月一日に捕まって、彼らが日本大使館への脅迫を始めたのが、四月十八日頃ですから、時系列的におかしい。だからこの話は違うような気もします。真相は分かりません。
─結局、身代金は払ったのですか。
常岡 日本大使館は、ヒズビ・イスラミに身代金を払っていません。最後通告は六月十四日に行われました。三ヵ月間、寝るときも食事するときもずっと付きっきりだったマンスールという男が日本大使館だという番号に電話をかけました。「七二時間以内に身代金を払わねば殺す」と最後通告をしたんですが、彼は電話番号を間違っていたんです。つながったのは日本大使館ではなく、毎日新聞で、電話に出たのは特派員に付いて仕事をしている現地スタッフでした。電話を替わるように言われたので、「もしもし」と出ると、毎日の栗田記者が出たんです。(常岡氏の「身代金を払わないように」というコメントが紹介された記事はそのようにして取材がなされた)」。最後通告の後の七二時間は、本当に殺されるかと思いました。
それで彼らは次に大統領府と交渉をしました。大統領府が払ったかどうかは知りません。ただ五ヵ月以上毎日顔を突き合わせていた彼らが儲かったという様子はなかったですね。最後のほうは、がっかりして諦めたように見えました。