去る十一月、イタリアで二人のスーパー・マリオが誕生した。むろん、ゲームのキャラクターの話ではない。一人はヨーロッパ中央銀行(ECB)の新しい総裁、マリオ・ドラギ氏、もう一人はベルルスコーニ首相の後を襲った新首相のマリオ・モンティ氏である。しかし、この二人のスーパー・マリオを以てしても、イタリア建て直しは容易ではない。
マリオ・ドラギECB総裁は、当初の一部の憶測にも拘らず、ドイツ流の反インフレを基軸にした金融政策に忠実であることが分かってきた。イタリアにとってみれば、ECBによる大規模な国債購入政策への転換が喉から手が出るほど欲しいところであるが、それをいわば峻拒された形になっている。
他方、新首相のマリオ・モンティ氏に率いられた新内閣は、彼自身をはじめ国会議員を一人も含まず、「テクノクラート内閣」と呼ばれている。何故、こうした「奇妙な」形を採らざるを得なかったのか。
確かに、ベルルスコーニ氏は様々なスキャンダルを抱えていた。しかし、統制の難しいイタリア議会で与党勢力を何とかまとめ上げる腕力を持っていたのも事実である。つまり問題の根源は、現議会の内部を取りまとめる有力者がどこにもおらず、さりとて解散・総選挙を実施することさえできないことなのである。解散と言った瞬間にイタリア国債が大暴落しかねないからである。
議院内閣制の下で、議会・政党に全く根を張っていない専門家の集団が、政治を実際に動かすことができるのか。ベルルスコーニ氏は言う。「我々はいつでもプラグを抜くことができる」。確かに、彼らが支持を撤回すれば、モンティ内閣は一瞬で崩壊する。しかし、その瞬間、イタリア経済全体も破滅するかもしれない。
こうした言わば民主主義の非常事態は、多かれ少なかれヨーロッパを覆い尽くすまでになっている。パパンドレウ内閣が退陣に追い込まれ、イタリアと同様なテクノクラート内閣で局面の打開を図っているギリシャだけのことではない。各国が、マーケットという得体の知れないものに追い詰められ、国民の反発を買いながらも、緊縮政策の強行を強いられているのである。
周知のように今次の危機は、それぞれの国の国債の償還にかかわるソブリン・リスクの問題であると同時に、ユーロという通貨圏全体の問題である。グローバル化した市場のスピードと、二七ヵ国にまたがる政治、民主的プロセスの鈍重さとのギャップが露わになった。多国間の複雑な交渉に加え、各国内部での議会承認や、場合によっては国民投票による批准手続きが求められるからである。
EUでは、従来から「民主主義の赤字」が指摘されてきた。ブリュッセルに置かれたEU本部とEU官僚への非難である。各国の政府と議会はそこから出される「指令」に従うことを余儀なくされ、まして一般市民の声は遠ざけられる一方となってきた、というわけである。しかし今回の事態はさらに深刻だ。国民投票や選挙は「危なくてできない」ものと見なされるまでになってしまった。
十二月九日、事態の悪化を食い止めるため、危機発生以来数度目のEU首脳会議が開かれた。そして、我々から見れば実に大胆な決定がなされた。ユーロ圏諸国の信用不安を根本から解決するため、各国の財政規律を格段に強めるルール改正を行うとともに、EUの枠組みの下で強制力を持った介入の仕組みを導入したのである。つまり、国家主権の重要な部分をEUという超国家機関に明け渡すという合意である。
EU二七ヵ国のうちイギリスを除く二六ヵ国が合意し、イギリスが袂を分かったことも大きな決定であった。イギリスの国益を断固守り、あえて孤立化の道を選んだキャメロン首相が、緊張のあまり(?)ズボンのポケットに手を突っ込んだまま会議に向かう姿は実に印象的であった。
我々は、今、いわば人類の英知を結集したはずの壮大な構築物が、その崩壊の危機に瀕するのを目撃している。その最終的な帰趨は定かではない。しかしその成り行きは、わが国にも重大な影響を及ぼす。他方、わが国自身の状況も深刻である。債務の比率はギリシャよりも高く、政治的な意思決定能力にも大きな疑問がある。
民主政治の原理と制度は、生き延びることができるのだろうか。それとも、二十一世紀に適応した新しいガバナンスの原理が生まれるのだろうか。深刻な危機は、深い大きなうねりを生むのかもしれない。
(了)
〔『中央公論』2012年1月号より〕