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習近平の力量不足がもたらす新たな権力闘争

矢板明夫(産経新聞中国総局(北京)特派員)

 習氏は演説のなかに、毛沢東の言葉を多く引用し、「労働者階級」「群衆路線」など毛沢東時代の死語を次々と復活させた。現在、全国で展開している「反腐敗」「反浪費」のキャンペーンの中味は、毛沢東が建国直後に実施した「三反運動」とほとんど同じだったと多くの共産党筋が指摘している。

 それだけではない。少数民族を弾圧し、言論統制を強化するなど、共産党一党独裁体制の強化を図る左派的政治手法も毛沢東のそれと酷似している。習氏の一連の動きは「時計の針を逆に戻している」として、温家宝前首相や、汪洋副首相ら党内の改革派が反発し、政権中央では、保守派と改革派の路線闘争に発展しつつある。

 興味深いことに、習近平氏の父親である習仲勲元副首相は、中国の改革開放に大きく貢献した改革派で、毛沢東が主導した文化大革命中に激しい迫害を受けた人物である。習氏はなぜ父親の政治スタンスと一線を画し、その"敵"である毛沢東の継承者になろうとしているのか。背景には毛沢東の威信を借りて、自らの支持基盤である軍と保守派を固め、政権の求心力を高めようとする狙いがあると指摘される。

 中国共産党の系譜で第五代指導者に数えられる習近平氏は、これまでの歴代指導者の中で、最も求心力が弱いといわれている。初代の毛沢東と二代目のトウ小平は、いずれも共産革命を成功させた軍人で、絶対的なカリスマ性があった。三代目の江沢民と四代目の胡錦濤は、中国を改革開放に導いたトウ小平の直接指名をうけたため、権力の正統性があり、党内には彼らの地位に挑戦する強力なライバルはいなかった。

 トウ小平亡き後、中国には後継指名できるほどの力を持つ政治家がいなくなったため、二〇〇七年夏の北戴河会議で、習近平氏が江沢民元国家主席に担ぎ出された形でダークホースのように現れ、最高指導者の候補となった。この人事に同意した胡錦濤派にも大きな借りを作った。各派閥が習氏の人事に同意したのは、元副首相を父に持つ共産党幹部子弟の血統と、敵を作らない温厚な性格、加えて、党長老など先輩を大事にする点が評価されたと指摘する共産党幹部もいる。

 ところで、習氏は、李克強氏ら党内のライバルと比べて、いくつかの大きなコンプレックスがあるといわれている。まずは十五歳から二十二歳まで農村部に下放され、その間、ほとんど勉強できなかった点。二十二歳のときに特別推薦で名門、清華大学に入学したが、失脚した父親に同情する党幹部の配慮によるものといわれた。「文化大革命中に入学した大学生には学力がない」というのが現在の中国で常識になっているため、同世代の政治家はほとんどその後、受験を経て大学に入り直しているが、習氏はそれをしていない。

 もう一つのコンプレックスは、二五年間も地方指導者を務めたが、これといった実績を上げられなかったことだ。省長などを務め一七年間を過ごした福建省は、同じ経済特区を持つ広東省に経済発展で大きく水をあけられた。しかし、習氏が福建省を離れると、同省の経済は飛躍的な成長を見せた。その後、赴任した浙江省と上海市でも業績と呼べるものは残していない。行く先々で、大きな汚職事件も発生している。習氏の上司を務めたことがある老幹部は「能力はあまり高くない」との評価を下している。

 また、習氏の知人によれば、習氏は若い頃から「習仲勲の息子」と紹介されることを最も嫌がっていた。父親が引退した一九九〇年代以降、地方指導者としてそれなりの地位を得たが、今度は国民的歌手と再婚したため、どこに行っても「彭麗媛の旦那」と呼ばれるようになった。習氏の知人の一人は「習氏は五十歳になるまで誰かの付属物として生きてきた。自分を取り戻したのは国家副主席になってからだ」と指摘する。しかし、習氏がポスト胡錦濤に選ばれたのは、江沢民元国家主席ら長老や各派閥にとって都合がよかっただけ。自分を取り戻したわけではない。

 習氏はいま、一九七〇年代半ばまで中国国内で絶対的なカリスマだった毛沢東を真似することで、自らの存在感を示そうとしている。同時に保守派と軍の支持を固める目的もある。また、妻の彭麗媛氏は軍所属の人気歌手にして現役少将であること、そして軍内に太子党仲間が大勢いることで、軍から見れば身内のような存在であることは、江、胡の両指導者やライバルらにない強みといえる。

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