ここで、19世紀半ばの英国の反穀物法闘争を例にとって、自由貿易主義と重商主義との衝突と、その結果起こった政治と社会の変化をみよう。
英国では19世紀に入るとマンチェスターの綿工業を中心として、産業ブルジョアジーが大きな力を蓄えた。こうした産業ブルジョアジーにとって目の上のこぶであったのが、1815年に制定された穀物法であった。これは貴族層に代表される大規模地主の利益を保護するため輸入穀物に高関税を掛けるものであった。このことは穀物高価格の原因となった。もし、障壁のない自由な貿易が行われるならば、英国内の穀物価格は劇的に下がり、労働者の実質賃金は改善し、産業ブルジョアジーにとっては資本の収益率の改善につながる。これを別な面からみると、地主が供給制限を通じて得た「地代(rent)」を奪うことを意味していた。
そして、リチャード・コブデンとジョン・ブライトというイデオローグの下、マンチェスターを中心としたブルジョアジーは、反穀物法同盟を結成し、結果として地主勢力の打破につながるキャンペーンを大々的に繰り広げ、一八四六年、穀物法の撤廃に成功したのである。
この成功は、単に経済上の規制の撤廃を意味するだけではなかった。英国政治の主流は、大航海時代以来のヨーロッパの主要政策であった重商主義の支持層から自由経済の支持層に取って代わったのである。このことは、重商主義の帰結としての植民地獲得競争と対外武力侵略という大英国主義が、コストに合わないと退けられたことを意味する開放経済の市場を広げることにより、自由な経済システムの中でイギリスのブルジョアジーの利益が伸展する仕組みを志向すべく、外交政策の転換にまで直結したのである。
それでは明治維新以降、先進国へのキャッチアップに邁進していた日本の近代化の過程において、同じ現象は起きたのだろうか。コブデンやブライトに相当するイデオローグは登場したのか。また日本の政治において、「マンチェスター」は成立したか。結論をいうと、英国において起きた、反穀物法闘争に代表される産業ブルジョアジーによる奪権過程は、日本では観察されなかったのである。
明治維新は、天皇制の下において欽定憲法をつくり議会開設にまで進んだものの、維新の政治勢力が主導する藩閥政治は持続した。その後、藩閥の色彩はしだいに消えたものの、天皇制を支える官僚主義が議会の諸勢力から距離を置き、独自に政権運営を行うという超然主義を成立させる。その際のキャビネットメーカーは明治の元勲たちであった。
大正期に入り原敬の立憲政友会による政党内閣が初めて実現する。だが原敬の政治目標は、超然主義を掲げたキャビネットメーカーとの妥協を通じて、何とか日本に政党政治の形態を定着させることであった。これを形式化した図式で説明すれば、超然主義の元老、官僚勢力に対抗するのに、地主層と経済界の利益とを束ねつつ、この時期から社会的に影響力を持ち始めた無産者階級に対しては保守の立場を維持する、というものである。立憲政友会はその後、第二次世界大戦後の自由民主党の系譜につながる存在となる。
ここで明らかなのは、「地代」を消滅させるかたちの産業ブルジョアジーによる奪権は実現せず、資本蓄積を通じて世界に伍してキャッチアップの最終形態を完成させる路線は、日本では、ついに成立しなかったことである。
もちろん、1920年代末から世界恐慌に巻き込まれ、ブロック経済化が到来するという不運があったことは間違いないが、日本の選択肢をもう少し広げるべき20年代においても、反穀物法同盟に相当する、「ブルジョアジー革命」の種は日本において播かれなかった。さらにいえば、その後も現在に至るまで観察できなかった。
日本経済を歪める「地代」
日本では、第二次世界大戦の敗戦後、農地改革が行われ、民主化が大きく進展したというのが戦後史の通常の解釈である。しかし、実際には農地改革とは、小規模地主の群生であった。彼らがその後、新たな、しかも巨大な政治勢力を構成し、英国の穀物法時代と同じ意味での「地代」の維持運動を一貫して行ってきたことに着目すべきだ。
第二次世界大戦後は、戦前戦中に持ち得なかった開かれた世界市場の中で、日本の産業発展はテンポを上げた。しかし農業分野の市場開放の機縁は遠のく。しかも、後には農地所有そのものの特権化にさえ進んだ。
農協は、政治的圧力団体として高米価の維持に注力するが、ある時期からは、農地の固定資産税の減免に政治要求をすり替えていく。つまり農地の保有コストを限りなくゼロに近づけた。都市圏でも柿や栗の木が植わっていれば農地と認定される。
経済成長とともに、一般論として地価は上昇するが、この値上がり分を地主に帰属させるか否かは政治選択の問題である。ディベロッパーによる開発行為が伴わないにもかかわらず、保有しているだけで価値が上昇した分については、売却時にその大半についての課税も可能である。固定資産税と土地譲渡益課税との組み合わせは、有効な土地利用に直結したはずである。
もちろん、農村地域の農地が高値で売却される可能性は少なかった。しかし実際には、経済発展とともに、道路、鉄道、工業団地、公共施設などの公共用地として農地の収用が進んだ。戦後生まれた小規模地主が保有している農地が、あるとき何かをきっかけにして高く取引されるという事例が日本列島全域で次々と起きた。
官民にかかわらず開発行為は、経済活動の機会創出を通じて価値創造に寄与する。しかし土地売買そのものからは付加価値は生まれない。開発行為と単なる土地保有の税制上の区分が出来ず、日本において農業革新は決定的に阻害された。
残念ながら、戦後日本において付加価値創造のメカニズムを極める仕組みはつくり上げられなかった。農業保護の壁を崩すことが出来ず、「地代」保護の政治が続いた。ここで「地代」の意味をさらに広げて考える必要がある。財政支出や規制に政治的な意味づけを行う経済体制では、広範に「地代」が発生する。必然的に「地代漁り(レントシーキング)」を目的とする政治勢力さえ形成される。
自民党政治には、「五族共和」の名が冠せられた。農水族、道路族、郵政族、文教族、厚生族の五族である。時としてボス連が重なることもあり、五族は共存した。たとえば、郵便貯金の限度額引き上げを通じて、その運用を担う財投機関に回す資金を潤沢にし、この財投機関が、高速道路の建設に資金を投じる。そして、道路の用地取得の多くが農地であるという道路建設の仕組みに見られるように、「五族共和」の有機的な連携さえあった。
注目すべきは、このレントシーキングの一連の仕組みの中に、価値創造に相当するものがないことだ。戦後、日本のGDPは順調に拡大したため、一体どのようにすれば価値創造が可能か、に対する正面からの議論は成立しなかった。われわれは、バブル崩壊の後、喪失の20年に直面する。価値創造に貢献しない経済活動、すなわちレントシーキングの蔓延に、十分な制御装置を持ち得ていなかったことに対して、まず反省がなされるべきである。