見えない野田の人脈
新聞の政治面の片隅に必ず掲載される記事がある。「首相動静」だ。前日に首相が会った人物が分刻みで網羅される。中には意図的に首相サイドが隠すことはあっても、それはほんの例外に過ぎない。この首相の面会録を見ていれば自ずと首相及び政権の性格、方向性が浮かび上がる。二〇〇九年の政権交代直後に当時の首相鳩山由紀夫が最初に会った民間人は連合会長の高木剛だった。一方、二〇一一年九月に民主党政権三人目の首相となった野田佳彦は、現連合会長の古賀伸明とともに日本経団連会長米倉弘昌ら経済界首脳とも面会している。自ら「保守政治家」を任じる野田政治を象徴する動きであった。
だが、野田の就任以来早くも三ヵ月が経過したが、その後は野田らしさが見えてこない。依然として「安全運転」に終始し、トップギアに入る気配さえない。「野田は本当に大化けするのか」。そんな見方も広がる。なぜ野田に求心力が出ず、政権が浮揚しないのか。それを読み解くヒントが首相動静にある。
政治は相反する様々な利害を調整しながら一歩一歩前に進めるものだ。トップの決断だけでは政治目標の実現は不可能と言っていい。リーダーの決断を後押し、補強する有形無形のパワーの存在が不可欠の要素なのである。その有形無形のパワーを生み出す源泉がリーダーを取り巻くマンパワーであり、その集合体である「人脈・ネットワーク」ではないか。政治家の人脈づくりは異業種交流会の名刺交換ではない。国家を運営するためのシステムづくりといっていい。その強弱は国益にも直結する。
鳩山、菅と二代続いた民主党政権の首相動静から浮かび上がるのは、「人脈」が決定的に欠如しているということだ。三人目の野田の動静欄からも「人脈」と呼べる野田を頂点にした人間関係は一向にみえてこない。野田が「財務省政権」と揶揄されるのも野田の背後に財務省以外の人脈がみえてこないからに他ならない。野田は一二年の九月に予定される民主党代表選での無投票再選を目指し、その後の衆院解散、総選挙を目論む。さらに、その先の長期政権を視野に入れる。野田周辺は既に再選戦略に着手したようだが、その道のりは遠く険しい。
かつて民主党代表だった小沢一郎が、「民主党には政権担当能力がない」として、首相福田康夫との大連立を企図したことがあったが、その背景には民主党議員の経験不足に加え、政権運営を円滑に進めるための「人脈」が欠如していたことを小沢自身が知悉していたからにほかならない。
「臨調方式」を確立し竹下を取り込んだ中曽根
手元に一九八四年の取材手帳がある。時代は首相中曽根康弘が就任して三年目。政治記者としては自民党最大派閥だった田中派(木曜クラブ)を担当していたころに当たる。その手帳に多くの取材のための資料が無造作に貼り付けてある。
ページをめくると中曽根に関わるペーパーが目に入った。表題に「内友会メンバー」とある。「内友」の「内」は旧内務省。つまり旧内務省出身の国会議員でつくるOB会名簿だった。内務省は一八七三年、大久保利通が太政官の下に設置、戦前は「官庁中の官庁」と呼ばれ、国家そのもののような存在で多くの人材が全国から参集した。その中に中曽根康弘がいた。
内友会名簿によると、中曽根は一九四一年の前期入省組。同期に元田中派事務総長小沢辰男がいたが、注目は二期先輩に後藤田正晴の名前があることだ。ちなみに名簿の筆頭には宏池会(現古賀派)会長代行を務めた斎藤邦吉が記されているほか、先輩官僚では秦野章ら錚々たる顔ぶれが目に留まる。内務省は一九四七年にGHQによって解体されるが、その系譜に連なる建設、自治、労働、厚生など各省と警察庁出身の国会議員も内務省メンバーとされ、名簿の末席には亀井静香が登場する。
中曽根は八二年の自民党総裁選を勝ち抜いて第七十一代の内閣総理大臣に就任した。その総裁選は田中角栄が率いる田中軍団がフル回転した。中曽根は最初の組閣で官房長官に田中の懐刀と言われた後藤田正晴を起用した。このため「田中曽根内閣」「直角内閣」と揶揄されたのは周知の通りだ。
たしかに後藤田の起用だけを取り上げればそうかもしれないが、他の閣僚に目をやると全く異なる印象が浮かぶ。法相秦野章、自治相山本幸雄、行政管理庁長官斎藤邦吉。後藤田を加えると、実に四人もの内友会メンバーを閣僚に登用した「内務省内閣」でもあった。その後も五年にわたる長期政権の間一貫して起用した後藤田のほか五人の内務省OBを使った。逆に中曽根は大蔵省出身者に対しては冷ややかだった。内務官僚として大蔵省への対抗心があったのか、重要閣僚として起用した大蔵省OBは政権末期の蔵相宮沢喜一だけである。
中曽根は旧東京帝大法学部を卒業後、内務省を経て海軍に籍を置いた。旧制静岡高校のOBでつくる「仰秀会」、海軍経理学校同期生による「土曜会」。さらに次女が嫁いだ鹿島建設から広がる閨閥も中曽根を支える。こうした学歴、経歴に血縁などが中曽根人脈の縦軸となり、政治家になって肉付けされた人間関係が横軸となって中曽根政治を推進する人脈を形成したのである。
中でも中曽根に決定的な影響を及ぼしたのが、現職首相だった大平正芳急死後の鈴木善幸内閣で行政管理庁長官に就任したことだろう。鈴木は最優先課題に行財政改革を掲げ、審議、推進機関として「第二次臨時行政調査会」(臨調)を発足させる。担当閣僚の中曽根がこの臨調会長に迎えたのが元経団連会長土光敏夫だった。「メザシの土光」と呼ばれた清貧、質実剛健な人柄と「増税なき財政再建」のスローガンにより、行革は国民運動となり、中曽根の表現を借りれば「行革グライダー」は見事に風をとらえて政権を手繰り寄せた。臨調には土光のほか、元陸軍参謀の瀬島龍三、牛尾治朗、加藤寛らを招いた。中でも瀬島は首相就任直後の電撃訪韓のお膳立てのため密使として韓国を訪れるなど、政権を支え続けた。
中曽根は内友会に代表される従来の人脈に加え、臨調にヒントを得た「臨調方式」と呼ばれた人材結集方法によってブレーン集団を形成し、それをフル稼働させた。「ブレーン政治」という言葉を定着させたのも中曽根だった。
だが、それだけで中曽根が権力の頂点に立つことはできなかったに違いない。自民党内の権力基盤の弱い党内第四派閥の定位置では首相の座はあまりに遠かった。それ故、「風見鶏」と揶揄され続け、最後は刑事被告人の立場にあった田中角栄と結ばざるを得なかったのである。このため中曽根は田中との関係に細心の注意を払う。後藤田を起用しつつその一方で田中が最も警戒していた竹下登を蔵相として重用した。中曽根は、竹下が田中派内でも田中に比肩する人脈と集金力を有していることを知っていた。中曽根は竹下を取り込むことで田中派が築き上げた「総合病院」も手中に収める。そして何よりも田中を強く牽制することができた。