「地方自治は民主主義の学校である」とは、イギリスの政治家ジェームズ・ブライスの言葉である。明治時代を思わせるような官僚出身知事の主流化、そのアンチテーゼとしてのタレント知事や市長の台頭を見れば、現代日本の地方政治が、民主主義の学校として十全に教育機能を果たしているとは、にわかに首肯しかねる。むしろ、タレント知事や市長による無責任な発言が、近隣諸国との関係を悪化させ、日本の国際的イメージを傷つけているとすれば、地方での過度な官僚依存政治の徒花が、国際政治にまで負の連動を示していることになる。
とはいえ、地方政治が国政の前哨戦であることは相違ない。とりわけ、首都の東京都議選ともなれば、そうである。去る六月二十三日の都議選で、自由民主党は候補者全員を当選させ、第一党に復帰した。公明党と共産党も勝利を飾ったが、民主党は第一党から第四党に後退し、前都知事を共同代表の一人に戴く日本維新の会もまったく振るわなかった。おそらく、七月二十一日の参議院議員選挙でも、自民党が圧勝すると予想されている。慢心こそが敵と、自民党の石破茂幹事長が、全国の候補者に檄を飛ばすのも無理からぬことである。
たとえ大勝が予想されるにしても、自民党が世襲政治家やタレントを大量に候補に並べるなら、長期政権を支える政治の質の向上にはつながるまい。もちろん、これは野党にも該当する。また、参議院改革の必要性を謳い、参議院が衆議院のカーボン・コピーであってはならないと説きながら、衆議院選での落選組を参議院に擁立するのでは、これもいささか無節操であろう。
さらに、その参議院選挙後に日本の政治は正念場を迎えよう。「勝者」自民党にとって、難題は山積である。減速気味のアベノミクスは実効性のある成長戦略を描けるか。その成長戦略にとって不可欠な構造改革は、安倍首相の提唱する「美しい日本」と抵触しないか。消費税を一〇%にまで引き上げて、プライマリー・バランスの改善に資することができるか。安倍首相は八月に靖国神社に参拝するか。参議院選挙での勝利後も、安倍カラーを適度に調整して、なおかつ保守層の不満をかわせるのか。拉致問題の「進展」をナショナリズムの緩和に適用できるか。さらに、選挙制度の抜本的見直しなしに、憲法九十六条の改正に進めるか。もちろん、民主党や維新などの野党にとっては、存亡の危機と言ってもさしつかえあるまい。
過去六年にわたって、日本政治を不安定にしてきた最大の構造的要因は、「ねじれ国会」である。この「ねじれ国会」はほどなく解消しよう。にもかかわらず、参議院選挙後の日本政治が安定しないとすれば、それはなぜか?
もとより、この問いには様々な答えが可能であろう。
例えば、グローバル化の進展が、経済をはじめ様々な政策領域で、政府のガバナンスを蝕んでいることは、先進国に共通の問題である。また、世襲政治家やタレント政治家、官僚出身知事に顕著なように、モノカルチャー的な政治的人材育成の限界も明らかであろう。
さらに、政治的座標軸が不明確になり、その結果として、アンチテーゼの政治が強まった。先述のように、タレント知事や市長の台頭は、官僚依存体質の地方政治へのアンチテーゼである。また、二〇〇九年の「歴史的」政権交代は自民党政治への、そして、二〇一二年の自民党の復活は民主党政治へのアンチテーゼであった。
批判・否定されるべき対象は明らかだが、それへの有効なオルターナティブは提示されていない。改憲に対する護憲、安保・自衛隊に対する非武装中立といった古い外交・安全保障上の枠組みでは、今の政治状況を包摂できない。にもかかわらず、経済・社会政策で、それに代わる枠組みや座標軸がいまだに示されていないのである。
大阪維新の会は、中央集権に対する地方分権というオルターナティブを提示するかに見えた。だが、国政進出を急ぐあまり、日本維新の会に拡大し、本来のオルターナティブを深めることができなかった(そもそも、明治維新は中央集権のドラマである)。
都議選の低い投票率に照らせば、ここでも実は勝者はいない。「ねじれ国会」を政治的混乱の口実にできなくなった時こそ、勝者の真価が問われることになろう。
(了)
〔『中央公論』2013年8月号より〕