新年度を迎えても、日本外交をとりまく状況は厳しい。とりわけ日中関係は、靖国参拝問題のみならず、尖閣諸島をとりまく事態が依然予断を許さない。
二〇一二年九月十一日、尖閣諸島の三島(魚釣島、北小島、南小島)を政府が購入し、私有地が国有地となった。この「所有権の変更」が、国際的に大きな反響を引き起こしたことは周知の通りである。中国側は、この所有権の変更を、従来日中間にあった尖閣をめぐる「棚上げ」合意を破る、まさに現状変更の行為として位置づける。
中国国内では、そもそもお互い「棚上げ」によって日中双方ともに触れようとしなかった島々を、突然日本が強引に「領土化」した、と受け止められている。私有地がない中国では「国有化」がそのように受け止められることもありえようが、日本側の数十年に亘る実効支配の実績が完全に消し去られているところが重要である。
また、なぜ日本政府が尖閣諸島の一部の島嶼を購入しようとしたのかと言えば、石原慎太郎元東京都知事らによる購入計画があり、それによって尖閣諸島をめぐる現状に大きな変更が加えられる可能性があると考えられたからであろう。中国では、野田佳彦元総理と石原元都知事の間に「密約」があり、一連の経緯も茶番劇であったのではないか、という見方があるが、正確ではなかろう。
では、なぜ「尖閣諸島を購入して防衛しなければならない」という機運が日本側に高まったのだろうか。二〇一〇年九月七日の中国漁船衝突事件は確かに契機であったが、これが決定的というわけではない。重視すべきは二〇〇八年十二月八日の、海監四六号、海監五一号の魚釣島、久場島の領海内への約九時間に亘る侵入行為である。二〇〇八年には台湾の聯合号事件等が発生し、確かに尖閣諸島周辺は騒がしかったが、年末の中国によるこの突発的な行動は日本側を驚かせた。なぜなら、日中双方は同年六月には「日中間の東シナ海における共同開発についての了解」などによって東シナ海のガス田の共同開発に向かうなど、東シナ海(の中部以北)では「和平と協力」に向けてのステップが始まっていたからである。実際、同年末以降には、共同開発をするなら尖閣諸島周辺海域を含めなければいけないので、六月の合意は意味がないということを、中国の学者も言い出すようになっていた。それまでクレームをつけるだけだった中国が、尖閣への実効支配を目指す行動を取り出したのは、二〇〇八年からなのである。
この中国側による「現状変更」が、その後の尖閣諸島をめぐるさまざまな動きの序曲であった。中国側はそのことよりも、日本の「国有化」が現状変更の象徴だと言うが、それに対して二〇〇八年十二月八日の公船侵入は内外メディアでも注目されていない。
二〇〇八年の中国の政策転換は、日中関係に大きな爪痕を残すことになった。中国では、二〇〇六年あたりから、それまで経済発展、国際協調重視であった対外政策に調整が加えられ始め、次第に主権や安全保障を強調する向きが強まっていた。その後、政権内部でさまざまな駆け引きがあったことが予想される。経済発展重視を唱える温家宝らは、保守的な動向に一定程度抵抗したのであろう。だが、二〇〇八年半ば、あるいは後半には主権や安全保障が重視される傾向が決定的になったように思われる。一般には二〇〇九年から中国外交は強硬になった、と言われるが、この二〇〇八年十二月末の変化はそのさきがけであったのだろう。
この中国の対外政策の転換の時期は、日本では自民党の麻生太郎政権から民主党の鳩山由紀夫政権への移行期であった。このことがどのような意味を持ったのか、さらなる検証が必要である。
(了)
〔『中央公論』2014年4月号より〕