公共の現在
スティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラット(ともにハーバード大学政治学教授)は、ベストセラーとなった共著『民主主義の死に方』において、民主主義を支える「柔らかいガードレール」の必要について語っている。それによると、民主主義がうまく機能するためには、「憲法や法律には書かれていないもの、つまり広く認知・尊重される非公式のルールに支えられている(1)」ことが重要になる。これはたとえば、政治的な意見の違う相手を敵ではないと認めることであるとか(「相互的寛容」)、法律の文言には違反しないものの、明らかにその精神に反する行為を避けること(組織的自制心)などを指す。具体的には、2024年7月の東京都知事選で見られたような、選挙ポスターに候補者と無関係な内容のポスターを貼らない、営業目的の宣伝行為をしない、などが思い浮かぶ。
このような明文化されていないルールの遵守を私たちに命じるのは、公共(心)と呼ばれるもの、あるいはそれが可能にする共通感覚(常識)である。「さすがにそれはまずいでしょ」という良識が、土壇場のところで民主主義の没落を防いでいる。
だが、この公共が、目下のところ危機にある、そうでなくても一箇の転換点を迎えている(公共性や公共空間などを包み込む問題領域を、本稿ではひとまず「公共」と呼ぶことにしたい)。公共については、政治思想の分野でもかねてハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスの思想が広く読まれるなどし、そのあるべき姿についてさまざまに問われてきたところである。そこでは概して、公共とは、市民が開かれた場に自由に集い、対話し、公論を形成する、そのような政治的な空間と捉えられてきた。
しかし、よく指摘されているように、オールドメディアの凋落とソーシャルメディアの台頭により、人びとのあいだに公的な関心(共通の関心)が醸成されにくくなっている。AIの進化もめざましい。私事だが、先日も、YouTubeで「90年代、心を揺さぶるメロディー集」という意識低めのBGMをかけつつ作業していたところ、それがAIによるそれっぽい創作であるのに気づいたのは、30分ほどが経過したあとだった。
それはさておき、よく知られているように、ソーシャルメディアのアルゴリズムは、個々人の履歴や属性にもとづいて広告や宣伝を最適化する。ユーザーが受け取るメッセージが個別化されたことで犠牲になったのは、私たちの公共の条件の一つ「共通性」である。ジェイミー・バートレット(イギリスのジャーナリスト)が言うように、「個別化されたメッセージしか受け取れなければ、公開討論が共有できなくなってしまい、何百万という烏合の衆にすぎなくなる(2)」。したがって、私たちは同じ社会にいながらにして、すでに別々の現実を生きている、というのは言い過ぎではない。私たちの公共をどうするかという問いは、現代社会にとって喫緊の問題であるように思える。
(『中央公論』7月号では、この後も、ピケティ、サンデル、ハーバーマス、オードリー・タンらの議論を参照しながら、公共(性)再生の可能性を論じている。)
[注]
(1) スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方─二極化する政治が招く独裁への道』(濱野大道訳)新潮社、2018年、131頁。
(2) ジェイミー・バートレット『操られる民主主義』(秋山勝訳)草思社、2018年、94
頁。
1981年京都府生まれ。名古屋大学大学院国際言語文化研究科単位取得退学。博士(学術)。岡山大学専任講師などを経て現職。専門は現代政治理論、民主主義論。著書に『不審者のデモクラシー』『現代民主主義』『嫉妬論』などがある。