※本稿は、立花隆『新装版 思考の技術――エコロジー的発想のすすめ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
似たもの同士は手ごわいライバル
「ガウゼの仮説」と呼ばれている法則がある。ロシアの生物学者G・ガウゼが、同じ培養液中で二種のゾウリムシを繁殖させようとしたところ、どうしても成功しなかった。必ず一種類は絶滅し、一種類だけが残るのである。このことから、属を同じくするか、属はちがっても生態的地位の似かよった二種類の生物は同時に同じ場所には住めないという仮説をガウゼは立てたのである。その後の研究によって、この仮説が必ずしも成りたたない場合があることが知られている。
しかし、少なくとも生物間では近縁の種の間ほど激しい競争が展開されるというのは事実である。考えてみれば、これは当然といえる。競争が成立するのは、競争者の間に同じ土俵が存在する場合に限られる。生物の場合でいえば、食物と住み場所が抵触しなければ、別に競争しなくてもよいわけである。
動物たちの間には、複雑な食物連鎖の網の目があって、無用な競争はうまく回避されている。なかで人間だけは、やたらにいろんな食物に手を出すので、さまざまの動物と競争になる。そして、もともとその食物を食していた動物をすべて、害虫、害獣扱いするのだから、動物たちにしてみれば、迷惑な話といえよう。
人間をのぞけば、動物たちはそれぞれ特有の食物を食べ、かつ移動の自由を持っているから、競争をあまりしないで共存することができる。ところが植物となると話は別である。移動の自由を持たない。そしてどの植物も地中から養分を吸いあげ、太陽光線を受けて同化作用を営もうとする。そこで、植物界では最もきびしい競争が展開されていく。植物の中には、競争に勝つために、ある種の有害物質を出して、他の植物の成長を阻害するものもあるという。
競争がいやなら、植物型から動物型サラリーマンに変われ
このあたり、人間社会での競争現象にもかなり似たところがある話である。勝つために自分が強くなる以外に、相手の足を引っぱるという手もあるわけである。企業内でのサラリーマン社会における競争は、基本的に、同じ場所で同じ養分を奪い合う植物的な競争である。
転職の時代が口にされてはいるが、まだまだ日本の社会では労働市場の流動性に乏しい。移動ができないうえに、企業内の日の当たる場所は有限ときているから、その競争は陰湿かつ苛烈なものになる。さまざまの手を用いて、競争に勝てなければ、植物社会での低木層や下生え植物のような地位に甘んじて一生を終えなければならない。
そんな競争がいやなら、植物型サラリーマンから、動物型サラリーマンに変わることである。転職によって移動し、住み場所を変えるのが一つの方法。もう一つは、他の人が食べない食物を狙うことによって競争を回避する方法。つまり、スペシャリストが少ない分野でのスペシャリストになる方法である。
過密社会では障害がふえる
動物集団には、生存に最も適した密度があって、個体数がそれ以上になるのも、それ以下になるのもよくない。とりわけ、過密と過疎は致命的である。過密がいけないのは、第一に食物不足に陥るからである。
過密の害はそれだけではない。カキを養殖するときは、カキの幼生をバラバラに離しておく。自然のままの状態にしておくと、同じ場所に無数にくっつき、ごく一部のものだけが正常に成育し、残りは混み合った場所に体を合わせて細長い体形になったりして生き残ろうと努めるが、結局は個体数過剰のために死んでしまうのである。過密都会の子供たちが俗に青びょうたんと呼ばれるような情けない肉体しか持てないのと似た現象である。
過密状態は個体間のストレスを増加させる。その結果、さまざまの障害が起こる。アメリカのフィラデルフィアの動物園では、ある動物を繁殖させてやろうと計画し、どんどんふやしていったところ、それにつれて動物の心臓病が倍増してしまったという。ストレスの結果として、ある動物は生殖能力を減退させ、ある動物は成長速度が遅れる。また、いままでとも食いをしたことがなかった動物が、密度がある程度以上に高くなるととも食いをはじめるという現象もしばしば観察されている。ときには集団発狂でもしたかのごとく、水に飛び込んだりして集団自殺をとげる動物もいる。
少なすぎても生きられない
一方、過疎状態もよくない。社会生活を営んでいる動物は、遺伝情報だけでは、生存に必要な知識を十分に得ることができない。サルを一匹だけ隔離して育ててやる。その後で、サルの集団の中に入れてやっても、このサルだけは、正常に性行為を営むことができない。あるいは、野山の植物の中から、食べられるものを選ぶといったこともできなくなってしまうのである。
高等動物ほど、遺伝情報より社会情報が重要な意味を持ってくる。人間が社会情報から全く隔絶された状態で育てられたらどうなるかについては、二、三の狼少年の実例の報告があるが、いずれもついに人間らしい人間に戻ることはできなかった。
カモシカは一五匹以上いると、オオカミなどに襲われたときに、一団となって攻撃から身を守ろうとし、被害を最小限に食いとめることができる。ところが一二、三匹以下だと、襲われたときにバラバラになって逃げだし、結局、片端からオオカミの餌食となってしまう。
また、チャドクガの幼虫は、ひと塊になってチャやツバキの葉を食べていく。ところが、これを二、三匹ずつ離して葉の上にはなしてやっても、葉をうまく食いちぎれなくて、飢え死にしてしまう。
集団を作ることで得られる利益
動物が集団を作ることによって得られる利益はいろいろある。共同で食物を求める、敵から身を守るといったことのほかに、思いがけない相利作用がいろいろあるのである。
たとえば、水銀コロイド溶液の中に金魚を入れて、何分で死ぬかをはかってみる。金魚を一〇匹入れたのと、一匹入れたのとでは、他の条件を同じにしておいても驚くほどちがう。一〇匹のほうは平均五〇七分、一匹のほうはわずかに一八二分なのである。これは金魚の体表から出る分泌粘液が毒物を吸着するためで、一〇匹入れたほうは、そのおかげで毒性がかなり緩和されるのである。
ミツバチは多数のハチがいっせいに羽を動かして蜜房の換気をする。扁虫類は、太陽の紫外線から身を守るために、固まって一匹あたりの体表面積を小さくする。動物の学習速度も、集団をなしているときのほうが速いことが知られている。人間でも家庭教師より、学校のほうが学習効果があがるのである。
植物の種子をまくのでも、野菜の種子は巣まきといって五、六粒ずつまとめてまかれる。一粒ずつばらすより、そのほうが成育がよいからである。
引っ越しのチエ
動物は適正密度を保つために、さまざまの手段を講じている。過密になったときに、集団自殺やとも食いをしたり、成長速度、生殖能力を遅らせるというのもその一つの手段だが、手っとり早いのは、引っ越しである。
京都大学教授森下正明氏(当時)は、いくつかの池がならんでいる場所での、ヒメアメンボウの繁殖を観察した。ヒメアメンボウは、まず最も生活条件のよい池の、最も生活条件のよい場所に住みつく。そこが一杯になってくると、もう少し条件の悪い場所に住むものが出てくる。それもある密度を越えると、別のより条件の悪い池へ移っていく。
森下氏は、またアリジゴクでこんな実験もしている。アリジゴクは一般に細かい砂地を好む。そこで、半分は細かい砂、半分は粗い砂を入れた箱を用意して、そこにアリジゴクを放ってやる。はじめの数匹は例外なしに細砂区にいって住みつく。ところが、細砂区の住民数がある程度以上にふえると、こんどは粗砂区に住むようになる。
大都市周辺の人家の混み具合いと比べてみると面白い。他の条件がどんなによくても、過密状態であることは、住み場所としての価値を減ずるのである。
立花隆
新興感染症の流行と相次ぐ異常気象。生態系への介入が引き起こす「自然の逆襲」が加速化している。自然と折り合いをつけるために我々が学ぶべきものは、生態学(エコロジー)の思考技術だ。自然の「知」は仕事上の武器にもなる。「知の巨人」立花隆の思考法の根幹をなすデビュー作を緊急復刊! 「知の怪物」佐藤優氏による解説を収録。