流行に敏感な茶屋の娘たちの男装
1868年10月23日、元号が明治に改まり「ご一新」となった。
もちろん庶民の生活がその日を境に突然変わるわけではない。
とはいえ、西欧諸国に伍するためにはまず洋服の普及が急務だと考えた政府は、早くも明治元年には服制に関する意見を募っている。
そして1870(明治3)年から翌年にかけて、公務員、軍人、駅員などの制服に洋服を採用、全国民に向けては散髪脱刀令も発令した。
これはあくまで散髪や廃刀を許すという法令だったが、各地方官に圧力をかけたため強制する地域もあった。
このような過激な変化は混乱を招く。
性別への言及がなかったために(つまり女性をものの数に入れていなかったために)散切り頭とよばれる七分刈りやおかっぱ風にする女性たちが現れた。
お上の命令だと思ったのか、開化熱に浮かされたのか、これを機に面倒くさい長髪をやめようと思ったのか、男装のつもりだったのかはそれぞれだろうが、全国各地で誕生したのだから面白い。
例えば神田の町名主である斉藤月岑が庶民の生活を記録をした『武江年表』の明治4年11月の条には、上野山内清水堂茶店(現上野恩賜公園内の清水観音堂付近の茶店)の給仕の女性や、新内節浄瑠璃語りの女性(遊郭などで三味線片手に語りものを歌う芸人)が散切り頭でトンビ(男性用和装コート)を着ていると出ている。どうも茶店の女性が男装する例は散見されたようで、その理由を『武江年表』では「啻〈ただ〉に奇を好むのみならず、書生兵員の寵恋を計るか、或は自負の強き不従教輩〈おてんば〉の所為」としている。つまり彼女たちの男装の理由は、ただ奇抜な格好をしたいだけではなく、学生や軍人などの客ウケを狙おうとしているか、または性格的に勝ち気でおてんばなのだろうというわけだ。
茶屋の娘といえば江戸の昔からブロマイド(錦絵)になったりグッズ(手拭いや人形)が出たりするアイドルとほぼ同義の職業、流行に敏感で新規なファッションに積極的な人たちなのである。
また、女性問題評論家の山川菊栄の母は1872(明治5)年に「唐人まげに仙台平の男袴という当年の女学生姿」で上田女学校に通ったという。その前年、1871(明治4)年11月に開校した「名古屋女学校」でも袴を着用させたと『服装の歴史 2』にはある(但し学制前で正しい意味での女学校であったかは不明)。いわゆる女学生の代名詞となったスカートのような海老茶袴はまだ登場しておらず、この時点ではズボンのように股の割れた縦縞の書生袴を履いていた。実はこれ、外国人教師たちの発案で、着流しの着物では椅子に座ると足元がはだけてしまって見苦しいというのがその理由だった。なお、村上信彦は『服装の歴史 1』のなかで「明治初年の女が男袴をはいたのは、形の上で男と対等になろうとする衝動だったから、男装と呼んでさしつかえない」と記している。