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平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 IS(インターセックス)と思われるお秀、おふじの場合

第三回 IS(インターセックス)と思われるお秀、おふじの場合
平山亜佐子

「娘が男に変性し、女房を連れて帰郷す」


 半陰陽とは男性と女性両方の肉体的特徴を持って、あるいはどちらかに分化しないままに生まれてきた人を指し、「間性」、「第三の性」などのほか医学用語である性未分化症、性分化疾患(Difference of Sex Development:DSD)、インターセックス(以下、IS)という表現もあり、どのような用語を当てるか意見の分かれるところではあるが、本稿ではISで統一する。
 ISはあくまで身体的な状態を指し、性自認に対する違和(トランスジェンダー)、性的指向(同性愛、両性愛、無性愛など)、異性装者(クロスドレッサー)などを含意しない。
 ISが判明する時期は出生時、第二次性徴期、成人後の不妊治療時など人によってさまざまである。現代では法律上、社会的性の決定の必要から0歳の時点で手術が行われたり、思春期に見つかった場合は本人と相談しながらホルモン治療などを行うこともある。それでも後に性別違和が生じたり、新たな疾患に見舞われることもあって慎重に対処すべき事案である。
 ただ、1881(明治14)年にそのようなケアは存在しない。例えば出生時にわかった場合、奇形児と見なして死産として扱うか、そのまま成長する(障害者として自宅軟〈または監〉禁することもあっただろう)など対策らしいものはほとんどなかった。

 お秀の場合は幸い死産にされることもなく、女性として育てられたらしいが性自認は男性かもしれず、男性として男性の格好をし、男性として女性を愛している可能性がある。そのようなジェンダー観の前に服装だけを取り締まる違式詿違条例62条のなんと無力であることか。いや、見方を変えるとむしろ内面に分け入ってアイデンティティやジェンダー観を切り分けようとする現代に対し、あくまで外見のみを問題にする明治時代は意図せずして鷹揚といえるかもしれない。

 同じようなケースとして、少し時代は下るが宮武外骨の雑誌『スコブル』創刊号に「娘が男に変性し、女房を連れて帰郷す」(1916(大正5)年10月21日付『大阪毎日新聞』)とする記事が引用されている(伏字は引用元ママ)。
 
〇滋賀県東浅井群**村大字**農**紋彌の長女ふじ(二十四)は、七、八年前京都鐘淵紡績会社分工場工女に雇われ、其後一回も帰村せざりしに、四、五日前の午後六時半頃、頭を散髪にして身には洋服を着込み、夏帽子を面深〈まぶか〉に冠〈かぶ〉りて男子となり済まし、二十四、五歳の女を伴いて帰郷せるにぞ、両親の驚き一方ならず、早くも此事〈このこと〉村内の評判となり、おふじが男子に変生し女房を連れて戻ったとて、村内の人々は紋彌方の表に群集して、ワイワイ騒ぎ立つるより、おふじ等は隠居家の二階に閉籠りて外出せず、三日目の夕まぐれ密〈そっ〉と立ち出で暗〈やみ〉に紛れて京都へ引返せしが、同伴せし女は同工場の模範工女にて、おふじとは寄宿舎にて仲睦まじく暮らし居りしものなりという。

 このおふじも、ISであるとは記事を引用した宮武外骨の雑誌『スコブル』の弁。親も驚いているようなので、紡績工場に勤めるようになってから男装を始めたのだろうか。「女房」をわざわざ帰省時に連れて帰ったところをみると、彼女を両親に紹介して自らの事情をも説明しようとしたようにも見受けられる。物見高い近隣住人に囲まれ、追われるように職場に戻ったとは不憫だが、寄宿舎では仲睦まじく暮らしているそうで、ひとまず安心である。
 紡績工場の工員は圧倒的に女性が多く寝起きも苦楽もともにするためシスターフッドの芽生えやすい職場だが、このふたりが女工たちのなかでどれほど珍しいケースなのか気になるところである。

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