鳶職風の男装で啖呵を切る芸者
とまれ、「生れ持〈もっ〉ての男気」があるというのもおかしいが、正義感の強い頼られる存在なのだろう。そんな勝次が数え18歳の若き芸者、錦絲の困りごとに一肌脱いだのが今回の記事である。
その困りごととは、元大坂町(現中央区日本橋人形町一丁目辺)の木綿屋の息子がさまざまなところで錦絲を恋人のように吹聴していること。現代でも、お客さんの一人として接しているのに交際していると勘違いしてしまう男性の話を聞いたことがあるのではないだろうか。かといってお客さんではあるのであまり無下にもできない。そんなジレンマを解消すべく、勝次は鳶職風のファッションに手拭いを肩にかけて「俺は錦絲の夫だが二人が訳ありならはっきり言ってもらおう」と怒鳴り込んだ。木綿屋の息子は震えあがって「決してそうではありません。詳しくは錦絲に聞いてください」と矢面に立とうともしない卑怯な態度。「関係ないならいいが、今後も気を付けてもらおう」と勝次は釘を刺すことも忘れず、それ以降木綿屋の息子は来なくなったが、まさか女だとは思うまいて、というスカッとする結末である。
元来、芸者は男装に馴染んでいる。古くは室町時代から若衆(武士の男色相手をつとめる少年)を真似て遊郭から男装の芸者が登場しており、江戸時代にも男装、男名の芸者がいた。1642(寛永19)年に花街について書かれた『あづま物語』には「万作、松右衛門、長吉、左源太、金作、虎之助、熊之助、などという男名あまたあり、これはもともと歌舞伎をまねて太夫と云いしころより」という記述があると「藝者談義あれこれ」にある。つまり、吉原の遊女にも男名がいたらしい。また、『色道大鏡』(1627(寛永9)年)には千之助という遊女が月代を剃り、若衆姿をして評判だったとのこと。男装や女装は倒錯的でセクシュアルなイメージがある。若衆も薄化粧をしていたというが、遊女がさらに若衆姿をするという転倒には笑ってしまう。