男装ではなかった「トムボーイ」
紅吉は晩年、1961(昭和36)年のインタビューで「(引用者注:当時は)男装でいらっしゃいまして?」と聞かれると「とんでもない!」と答えている。
「久留米絣の着物を着て、セルの袴をはいていたので、目立ったのです。平塚さんも、ほかにも袴をはいていた人がいたのですが、とりわけ背丈が大きいわたしは目についたというのでしょうね」(「富本一枝先生をおたずねして」)という。
なぜ紅吉だけが「男装」とされたのか考えてみると、男着物に男帯、男の履き物をはいていること、ペンネームが男名前であること(由来は紅色が好きだから)、そして大柄であったこと、天衣無縫な振る舞いが当時の女性の枠から外れていたこと、と複数の条件が重なったためではないだろうか。また「同性の恋」の場合、どちらかが男役と考えてしまうステレオタイプもありそうだ。
紅吉が男装をしていた理由を渡邊澄子は「紅吉流美的感覚からのダンディズム」(『青鞜の女・尾竹紅吉伝』)とする。つまりファッションとして着ていたのであり、さらにいうなら男性の社会的自由に仮託する意味合いもあったように思う。
大声で笑ったり歌ったりし、情熱に任せて走り回り、らいてうに憧れて臆面もなく原稿で賛美する。思わずらいてうも巻き込まれてしまうほどの磁力を持った紅吉は、いわゆる「トムボーイ」(お転婆でボーイッシュな女子)としての男装だったと思われ、ジェンダーアイデンティティとは関係がなさそうだ。