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ナウシカのマスク、コロナのマスク

赤坂憲雄(学習院大学教授)

マスクのある光景

 コロナ禍のなかで、『風の谷のナウシカ』のアニメ版/マンガ版を読みなおす動きが起こっているらしい。わたし自身は、とりわけマンガ版『風の谷のナウシカ』に沈潜しながら、ようやく『ナウシカ考』(岩波書店、二〇一九年十一月)を上梓してホッとしていたこともあり、ほとんどコロナ禍と繋げてみようという気にはならなかった。あまりに細部にこだわってきたがゆえに、差異ばかりが眼につくのかもしれない。とはいえ、東日本大震災のあと、フラッシュバックのように、くりかえしマンガ版『風の谷のナウシカ』のいくつかの場面を想起したのとは、対照的であったかと思う。

 マスクとはなにか、という問いからはじめる。腐海のほとりに暮らす人々には、マスクが欠かせない。腐海の瘴気の毒性からすれば、なんとも粗末にすぎる簡易マスクではあるが、とにかく瘴気が近づけばだれもがあわててマスクを着ける。腐海のなかでマスクをはずすことは、ただちに死をもたらすはずだ。そのマスク姿が『風の谷のナウシカ』のそこかしこに転がっている。コロナの時代との共振と異和に眼を凝らさねばならない。

 半年が過ぎても、マスク姿にはなかなか馴れない。緊急事態が声高に叫ばれていたころ、仕方のない用事があって街に出ると、さすがに人通りはすくない。例外なしにマスクを着けた人たちがまるで宇宙遊泳でもしているように、それでいて、たがいに忌み物のようにあらわに距離を取りながらすれ違ってゆく。ウイルスに侵されているのは、こちらなのか、あちらなのか。その探り合いでもしているかのようだ。マスクをせずに歩いているだけで、あるいは、喉がむず痒くてから咳をしただけで、まわりの空気は一変する。それがこわい。

 ひと月ほど前のことだが、こんな異様な、しかし、じつは平凡なものでしかない光景に遭遇した。天井から吊り下げられたビニールシートの向こう側には、二五人ほどの受講者が少しずつ距離を保ちながら坐っていた。それぞれに色もかたちも微妙に異なったマスクで顏を覆っている。むろん、表情などはほとんど読み取れない。分厚いビニールシートなので、なおさら不鮮明な像しか結ばない。わたしはひとり、こちら側にいて、透明なプラスチックのシールドで顔の下半分を覆って、喋っている。講師なのである。人が、世界が、遠く隔てられて感じられたなどといえば、笑われるだろうか。

ナウシカのマスク、コロナのマスク

 これはたぶん、マンガ版『風の谷のナウシカ』のマスクのある情景とは、似ているようで似ていない。五分で肺が腐ってしまう死の森、腐海のなかにいて、あんな簡易マスクで身を守れるはずがない、という批判があったらしい。マンガ版ではやがて、人間の身体そのものが汚染に耐えられるように改造されていたのだ、と思いがけぬ方位に転がってゆき、物語としての圧倒的な深度とふくらみを獲得していった。それでも、腐海のほとりに暮らす人々は、瘴気にからだを侵され、ついには石化して死んでゆく運命にある。生まれてきた子どもたちが、無事に大人になる確率はきわめて低い。

 腐海のムシゴヤシなどの植物が飛ばす胞子、その菌糸が発芽すれば、あたりは吐きだされた瘴気によって汚染されてゆく。風の谷の城の地下ラボでは、ナウシカは腐海遊びをつうじて採集した胞子を育てている。きれいな地下水と空気のなかでは、猛毒のヒソクサスギだって花をつけ、瘴気を出すことはない。汚れているのは土のほうだ。マンガ版『風の谷のナウシカ』の第一巻、その前半であきらかにされている腐海をめぐる謎の一端である。つまり、瘴気は腐海の植物に由来する、人間にとっては害なす汚染物質なのである。簡易マスクは緊急避難のために装着するものであり、腐海のなかで暮らすためのマスクではない。

 爆発事故を起こした原発が撒き散らす放射性物質は、眼には見えず、色もかたちも臭いもない。爆発事故のすぐあとに、水溜まりがピンクや紫に染まっていたと聞いたことがあるが、真偽のほどはさだかではない。ムシゴヤシが飛ばしている午後の白い胞子は、まるで粉雪か泡雪のようにひっそりと降り積もる。それはとりあえず、眼に見える物質(モノ)であり、見えない放射線や放射性物質とはまるで性質を異にしている。

 ところで、新型コロナウイルスは見えるのか、と問いかけてみる。このウイルスの電子顕微鏡による写真であれば、くりかえし眺めたことがある。真っ赤な太陽のコロナのような画像だ。コロナウイルスという名づけの由来もまた、それなりに納得はできる。しかし、画像的には見慣れたものであっても、わたしはそれをほんとうに見たのかと考えると、たちまち心もとない気分になる。あきらかなのは、このウイルスはヒトの五感レヴェルでは、色やかたちや臭いがない、つまりその存在を確認することができないということだ。コロナ禍が強いるマスクは、ウイルスが自分の身体に侵入してくるのを防御すると同時に、みずからが知らずに抱えこんでいるかもしれぬウイルスを他者に転移・拡散させないために装着する。それにたいして、ナウシカの世界では、簡易マスクはあくまで瘴気から自分の身を守るために装着するものであった。マスクの意味合いは大きく異なっている。

 マスクのある光景をいくつか拾ってみた。こうして細部にこだわるほどに、コロナ禍の世界とナウシカ的世界とは、似て非なるものだと感じずにはいられない。いったい、コロナからナウシカへとたどる道筋は存在するのか。

 

〔『中央公論』2020年11月号より抜粋〕

赤坂憲雄(学習院大学教授)
〔あかさかのりお〕
1953年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。専門は民俗学・日本文化論。2007年『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞。その他『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』『東西/南北考』『武蔵野をよむ』『性食考』など著書多数。『民俗知は可能か』が刊行予定。
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