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「言論の自由」、その痛みと覚悟

時評2015
宇野重規(政治学者)

言論の自由とは何か。風刺を含め、およそ批判や批評の意味は何か。二〇一五年が始まって早々に、私たちに突きつけられた問いである。

 一月七日、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』本社を武装テロリストたちが襲い、編集長や画家を始め多数の関係者が犠牲になった。かねてイスラム教の預言者ムハンマドを題材とする風刺画を掲載してきた同誌へのテロ行為に対し、言論の自由を訴え、犠牲者を追悼する動きが各地で起こり、一月十一日のパリの大行進には一六〇万人もの人々が参加した。

 言論の自由は民主的社会の根本原理である。政治権力に対する批判はもちろん、宗教権威に対する批判も制限されてはならない。十八世紀の哲学者ヴォルテールは、自身がはげしいカトリック教会批判で一度は国外生活を余儀なくされた人物であるが、「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を残している。寛容と言論の自由のために戦い続けた一生であった。

 ポイントは、自分にとって不快な意見であっても、あるいは自分にとって不快な意見こそ、それを主張する権利を認めなければならないということである。その言説が守るに値するから擁護するというのではない。それなら、気に食わない言説は抑圧してもかまわないことになる。「お前の言説は私の気分を害するものだからけしからん」という不寛容とは対極にあるのが、ヴォルテールの立場であった。

 しかしながら、「とはいえ、あまりに下品だったり、信者を愚弄したりするような風刺にも問題がある」という意見が少なくないのも事実だ。政治権力を批判するならともかく、現実に差別を受けている少数者の信仰まで風刺する必要があるのか。そのように考えるならば、言論の自由にも制限があってしかるべきということになる。

 これに対し、宗教戦争の過去をもつ欧州においては、多数派の宗教も少数派の宗教も等しく批判の対象となる。例外的に批判を免れるものをつくりだせば、やがてそれが暴走する可能性を否定できない。自らが信じるもの、権威とするものを批判されれば誰でも腹が立つが、それを認めてこそ自由で民主的な社会は保持される。このような信念に支えられた欧州の「言論の自由」とは、血塗られた過去の経験に基づく原則であって、単なる理想論ではない。

 はたして、日本社会はこの原則を受け止められるのか。奇しくも年末のテレビ番組では、人気歌手のふるまいが議論を呼んだ。実際に彼にどれだけの政治的意図があったのかわからない。とはいえ、権威をからかい、権力を揶揄するかに思える行動をすべて批判している限り、社会の寛容度は間違いなく低下する。彼が謝罪に追い込まれたのをみて、あらためて日本社会における批評の自由を考えざるをえなかった。「空気を読む」を当然とする国において、言論の自由を守ることは実に難しい。

 ちなみに、パリの襲撃事件後に出た『シャルリー・エブド』の表紙には、ムハンマドを思わせる人物が泣きながら「私はシャルリー」という標語を掲げている姿が描かれている。そこに添えられているのは、「すべては赦される」という言葉である。仲間を殺されたシャルリーの側も、批判されたイスラムの側も、相互に痛みを覚えつつ、それでも憎悪の連鎖を防がねばならないという決意を訴えかけたものであろう。

 言論の自由とは何か、それはどれだけの代償と痛みを伴って守られるべきものなのか。世界においてテロが横行する時代だからこそ、あらためて考えねばならない。どのような選択をするにせよ、覚悟が必要なのは言うまでもない。
(了)

〔『中央公論』2015年3月号より〕

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