失った希望はどうしたら取り戻せるのか−−
最悪ペースで増える自殺者を生み出す構造
いま日本では、年間三万人を超える人が自ら命を絶っています。この一〇年間で、三重県津市を上回る「人口」が、自殺によって消えました。特に今年は最悪のペースで、このままいくと三万五〇〇〇人近くに上るのではないかと心配されています。
一年に、一〇万人当たりで二五人近くが自殺する。こんな国は、先進国にはありません。いろいろ言われるアメリカだって、自殺率は日本の半分。イギリスは三分の一以下です。
日本の自殺者がこんなにも増えたのはいつのことか、ご存じでしょうか。一九九七年、北海道拓殖銀行の経営破綻や山一證券の自主廃業といった、バブル崩壊後の大不況を象徴する出来事が相次ぎました。翌九八年の企業決算期に当たる三月、自殺者は前の月に比べて一挙に一〇〇〇人近く増加し、その年、年間で三万人を突破しました。以後、現在に至るまでずっと高止まりしているのです。
こうした事実を見据えるならば、自殺を個人の資質に帰したり、形而上学的なテーマとして語ってすませたりするのでは、まったく不十分なことが明らかでしょう。自殺の大半は、社会的、現実的な問題に起因しているのです。
この一〇年で、日本社会に起こったことは何か。経済的には、市場原理主義的な「改革」の急激な進行でした。規制を取り払い、競争原理を大胆に導入したことで、一時、日本経済は「失われた一〇年」から脱却したかにも見えました。しかし、その裏には、多くの企業や個人が「負け組」のレッテルを貼られ、淘汰されていくという現実もまた、ありました。
競争をけしかける一方、真っ先に改革が必要だったはずの官僚制支配には、ほとんど手が着けられず、古く窮屈な社会構造は温存されました。
「マーケットに聞け」の本家本元であるアメリカでは、たしかに振り落とされる人間も数多くいますが、敗者復活も比較的容易です。私は、安倍晋三元首相とは基本的なところで意見が異なりますが、「再チャレンジが可能な社会にしなければならない」という考えには、全面的に賛成します。そんな世の中であれば、失敗したとしても、生きる意欲まで失うことはないでしょう。しかし、そうした面での改革は一向に進まず、日本では相変わらず、いったん滑り落ちたら、再び這い上がるのは極めて困難です。
硬直化した社会・経済体制はそのままに、競争だけが激化。まさに「官僚制支配×市場原理主義=最悪」という方程式が成り立っているのが、いまの日本です。自殺者が急増した根っこには、こうした構造的な要因があるのです。
だから、これは「人災」だと、私は思います。そのすべてが、構造改革の旗を振って、競争原理の導入を推し進めた竹中平蔵さんたちの責任だ、などと言うつもりはありません。ただ、少なくとも小泉改革時代、その成果が出始めたと言われた時期においても、自殺者数は異常な水準を保ったまま、減ることはありませんでした。
この事実をどう分析するのか、彼らの口から回答が語られたことはありません。おそらく、経済成長率は気にしても、実体経済と密接な関係を持っているはずの自殺については、あまりシリアスに捉えていないのでしょう。
(続きは本誌でお読みください。)
〔『中央公論』2009年10月号より〕