「引きこもりの彼らもどぎつい災害を目の当たりにして、被災者を助けたりしているうち、いろいろ気づきがあったのでしょう。驚いたことに、今回の震災を機に精神疾患がピタッと止まったといって、喜んでいる親御さんもいました。話を聞いてあげて理解してあげるというケアをしていた人もいました。いままでまったく働かなかったような人が、震災から2日目、泳いで避難所に行き、トイレ掃除を必死になってやっているのです。何だか、感動しましたね」
阪神・淡路大震災の直後にも、ひきこもっていた青年たちが部屋から出てきて復興に力を貸したという話はしばしば耳にした。なぜ、こうした変化が起こるのか。『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)という著作もあるひきこもり経験者・上山和樹は、自宅で阪神・淡路大震災を経験している。彼はブログにその時の体験を記しているが、それによれば、震災でインフラが全部壊れた時に一種の解放感があったらしい。 「『1万円札があってもおにぎり一個買えない』のが、異様に自由だった。 《日常》が壊れて、死と隣り合わせだけど、自分を縛るものがない。息をするのに、『自分の肺で呼吸している』実感。規範に締め付けられた無感覚の呼吸ではない。▼『蛇口をひねっても水がでない』状況が、規範を無化した。何もないところに、他者といっしょに放り出されている。私は、当たり前のように『社会活動』した。▼『それ見ろ、ひきこもっていても、生死が懸かったら働けるんでしょ』と言われた。『兵糧攻めにも効果がある』という意味だろうが、『社会規範が温存されたまま自分だけ飢える』のと、『ライフライン=規範が破綻し、地域住民全体が飢える』のでは、状況がまったく違う。震災時に重要だったのは、『飢える』ことと同時に、『日常が壊れた』ことだった」(http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060117/p2)。
おそらく上山がここで記しているような解放感や高揚感は、いわゆる「災害ユートピア」を支える感情の一部であろう。しかし残念ながら、この種のユートピアが存続しうるのは、あくまでも非日常的な時間に限られる。阪神・淡路大震災時に活動を始めたひきこもりたちも、インフラが回復して日常が戻ってくると、その多くが再びひきこもり生活に戻ってしまったと聞いている。
これに関連して言えば、今回のボランティアで驚いたことの一つは、避難所でひきこもっている若者がいたことである。当然ながら避難所に個室はない。薄いダンボールの仕切りの中でひきこもっているのだ。もちろん通路から中は丸見えである。仕切り一つでひきこもりが可能であるという事実は、けっこう衝撃的だった。
この若者にしても、避難当初は他の人々に交じって活動に参加していたらしい。しかし、被災して四ヵ月も経ってしまうと、避難所にも「日常」が戻ってくる。次第に人と交わるのが億劫になり、知人と顔を合わせるのがわずらわしくなって、最終的には人目を避けてダンボールの中でゲームばかりしているという生活に戻ってしまう。
もっとも、こうした生活が成立してしまう背景には、両親が彼らの食事を始めとして、何不自由ないように面倒を見るという共依存的な関係がある。むしろ震災を機に、自分の身の回りのことは自分でさせるとか、買い出しや食事の当番を決めるなど、ひきこもれないような工夫は可能だったはずだ。しかし、まさに非常時であるがゆえに、なんとか日常を維持しようという「正常化バイアス」が作用してしまい、その結果ひきこもり状態を強化してしまうのかもしれない。
「日常」が戻った後で
その意味では、さらなる懸念は「今後」にある。
岩手県沿岸部では仮設住宅への入居が遅れていた大槌町でも、八月十一日には被災者の仮設入居が終了し、避難所は閉鎖された。知られるとおり大槌町は、津波で中心部がほぼ壊滅状態となった町である。このため仮設住宅は、海岸からかなり離れた山中に集中的に建てられている。入居は抽選で決まるため、コミュニティのつながりがばらばらになりやすいことはかねてから指摘されていた。しかも交通の便の悪い山中とあっては、孤立化がいっそう進むことも懸念される。
仮設住宅に移動することで、いっそう「ひきこもり」が進行するという懸念もある。加えて無視できないのがアルコールの問題だ。阪神・淡路大震災の時は、仮設住宅での孤独死が問題となったが、死者において四十〜六十代の男性が占める割合が多く、最も多い死因はアルコール性の肝疾患であったという(一九九七年四月二十六日付『神戸新聞』朝刊)。
被災のストレスで飲酒量が増加し、アルコール依存症になるケースが多いことは以前から指摘されているが、仮設住宅への入居によってこうした傾向に拍車がかかることが予想される。