二〇一三年は、日本でリンカーンに関する映画が相次いで公開された。スティーヴン・スピルバーグ監督『リンカーン』は、その代表例であろう。南北戦争の末期に、奴隷解放のための憲法修正をめぐって、ダニエル・デイ=ルイス演じるリンカーンが強い信念をもって、議会を相手に巧みな政治手腕を発揮する。アメリカ史上初の黒人大統領バラク・オバマは、その南北戦争勃発の一〇〇年後(一九六一年)に誕生している。党派こそ異なるが、スピルバーグの描くリンカーンはオバマへの応援歌であろう。
ところが、現実は厳しい。シリア問題の混乱に続いて、アメリカ政府機関の一部閉鎖とデフォルト危機で、オバマ大統領は内政でも苦境に陥った。「ティーパーティー」運動に依拠する共和党保守派が少数ながら党内の主導権を握り、「小さな政府」に固執してオバマケアに反対する様子は、ほとんどアナーキー(無政府状態)であった。
もしアメリカがデフォルトに陥れば、世界経済が大混乱をきたしたことは明らかである。しかも、この危機でオバマ大統領のアジア歴訪はキャンセルされ、シリア情勢で傷ついたアメリカの外交上の威信と同盟国の信頼を回復する絶好の機会を、みすみす逸することとなった。冷戦後のアメリカは「破綻国家」や「ならず者国家」への対応に追われてきたが、もう少しで、当のアメリカが「破綻国家」「ならず者国家」になるところだったのである。
同じ映画でも、この事態はローランド・エメリッヒ監督『ホワイトハウス・ダウン』(二〇一三年)に近い。この作品では、大胆な中東和平を模索する黒人大統領(ジェイミー・フォックス)がホワイトハウスを襲撃されるが、テロリストを陰で操っていたのは南部出身の保守派の下院議長であった。映画では、シークレットサービス勤務を希望する主人公(チャニング・テイタム)が、命がけの働きで大統領を救う。だが、現実の政治には奇跡のヒーローは登場しない。
今回の騒動で、共和党は大いに面目と世論の支持を失った。来年十一月の中間選挙では、共和党が敗れて、アメリカでも議会のねじれ現象が解消するかもしれない。しかし、たとえそうなっても、共和党内の保守派は一定の勢力を保つであろう。彼らはさらに頑なになるかもしれない。かつて「一つのアメリカ」を標榜したオバマだが、二期目にも引き続き議会との関係、内政に多くの時間と労力を消耗しよう。
時あたかも、トーマス・フォーリー氏が死去した。フォーリー氏は下院議長(民主党)として超党派政治を推進、のちには駐日大使として日米同盟関係の強化に貢献してきた人物である。フォーリー氏の体現してきた寛容や相互信頼の精神は、今日のアメリカの政治・外交では絶滅の危機に瀕している。
翻って、この事態は日本にとっても他山の石である。「一強多弱」となった政党政治で寛容の精神を発揮し、日米関係や近隣諸国との外交で相互信頼を蓄積することは、日本にとってもむずかしい課題である。私事にわたるが、筆者は一度だけフォーリー氏とワシントンで会食したことがある。日本国際交流センター(JCIE)理事長の山本正氏(故人)のご紹介による。山本氏は下田会議などの日米議員交流をはじめ、戦後一貫して国際交流に献身してきた。フォーリー氏や山本氏の世代が退場しつつある日米関係で、寛容や相互信頼の精神は一層希少で重要なものとなろう。
さて、その日米関係では、オバマ大統領がキャロライン・ケネディ女史を駐日大使に起用した。オバマはかつて「ブラック・ケネディ」を期待されたが、今や内憂外患で「ブラック・カーター」の観がある。そのジミー・カーターはかつて人権外交を高唱した。オバマのアメリカは、今のところシリア情勢を拱手傍観するしかない。しかし、黒人の大統領と女性の駐日大使という新たな組み合わせには、白人男性中心の保守的で内向きのアメリカ政治とは別の、人権への感性を増すアメリカ社会という側面がある。ところが、女性の社会進出では、各種の指標で日本は先進国の中で低い位置にある。日本の政治と社会は、人権や多様性の点で同盟国や友好国と普遍的な価値観を共有できようか。
寛容や相互信頼の精神、そして、人権や多様性への感性の陶冶と、日米両国ともに二〇一四年の政治外交上の課題は実に大きい。
(了)
〔『中央公論』2013年12月号より〕