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学問にランク付けなどできない

「国際化」と論文量産によって失われる大学の理念
猪木武徳(青山学院大学特任教授)

数値化の益と害

昨今「○○ランキング」や「××番付」があらゆる分野に浸透している。数値化された指標で順位付けを行なうランキングは、ひとの好奇心を刺戟し、競争心を煽る何かがある。オリンピックでの金・銀・銅メダルの獲得数国別ランキングのように、国際的な序列や位階を示されると、「客観的に」何かの力が測定されたと思い、愛国心のようなものが頭をもたげる。順位付けは不動の判断基準を与え、それが政策立案の根拠とされ、政治が動くこともある。しかしこのランキング・フィーバーは集団心理による過激な競争を招き、物事の本来の目的を見失わせやすい。筆者にとって身近な教育・研究に関する例を二つだけ挙げておこう。

 経済協力開発機構(OECD)が三年ごとに施行している国際学習到達度調査(PISA)の二〇一二年の結果が昨年末に公表された。今回の調査結果では、「読解力」「科学的応用力」「数学的応用力」の全分野で日本は上位にランクインしているだけでなく、前回を上回る成績の向上を見たと報道された。文部科学省は、「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へと舵を切り替えた結果だとコメントしている。文科省がいかなる反省に立って方針転換に至ったのか、「脱ゆとり教育」が今回の結果にどう影響したのかについて掘り下げた分析は特にない。

 この調査で上位にランクインした国や地域の国民が、それ以外の国の人たちより優れた理科的能力を持ち、読解力においても群を抜いたとはどういう意味なのか。「平均」でということと、特異な才能を発揮する若者がどれほどいるのかという「分布」の問題とは別次元の話であろう。サンプルの対象となった地域や学校の特性によって点数は変動し、出題問題で結果は大きく変わりうる。したがって順位の多少の変動に一喜一憂すべきではなかろう。 

 にもかかわらず、数値や順位は独り歩きをする。そして数値化は「客観的なデータ」に基づくとされて、現実には極めて政治性の高い道具と化す。

〔『中央公論』20142月号より〕

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