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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第2回

森功(ノンフィクション作家)

日本法律学校から日本大学へ

日大はそもそも法律専門学校だったため、今も法学部は特別な存在として扱われている。HPにはこうも書いている。

〈本学の目的・理念は、社会状況の変化に応じて、幾度かの改訂・制定が実施されましたが、本学の伝統・学風は、表現はかわりつつも、現在に脈々と受け継がれています〉

130年という長い歴史を誇る日大は、何度も大きな転機を迎えてきた。そこで圧倒的な存在感を残した伝説的なトップも数多くいる。言うまでもなく、一人は初代司法大臣だった学祖の山田顕義であろう。山田亡きあと、草創期の明治、大正時代には、もっぱら検事や司法官僚、司法制度に携わってきた貴族院議員たちが法律学校だった日大を支えた。

日大は大きく3つの時代に分かれ、大学のあり様が変化してきたといえる。明治維新以降の草創期に続く第二期が、第二次世界大戦の前後から高度経済成長期にかけ、マンモス私学に成長した時代である。そこからさらに、バブル経済期を経てトップに昇りつめた田中英壽理事長時代に突入する。評価の良し悪しはさておき、それぞれの時代には、特筆すべき大学トップがいた。

草創期の日大では、学祖の山田が急逝し、法律専門学校として廃校決議までおこなうなど存亡の危機もあった。それを救ったのが、松岡康毅だとされる。

山田の死後、ともに日本法律学校の創設にかかわった初代校長の金子堅太郎が退任し、代わって松岡が2代目の校長となる。もともと司法官僚だった松岡は、裁判所構成法の設置など日本の訴訟制度近代化に尽力し、大審院検事総長や農商務大臣を歴任した貴族員議員として知られた。その松岡は1893(明治26)年12月、日本法律学校を司法省の指定校にして危機を切り抜けた。司法省の指定学校となったことで、生徒たちには判事検事登用試験の受験資格が与えられ、日本の法曹界に人材を送り出す役割を担うようになる。

そうして1920(大正9)年、日本法律学校は晴れて日本大学へと昇格する。松岡はまず法文学部を置き、専門部として宗教科や社会科、美学科、高等師範部に国語漢文科を設置した。加えて高等工学校までつくり、東洋歯科医学専門学校を合併して専門部歯科とした。松岡は大学昇格後初の日大学長となり、さらに1922(大正11)年3月、総長に就任する。

このとき松岡に代わる新たな学長には、同じく大審院検事総長出身の平沼騏一郎が就いている。平沼は枢密院議長や首相を歴任し、日大は文字どおり戦時下における国策司法制度を担う学生ならびに法律家を養成する学府となる。一般に平沼は、太平洋戦争の勃発時、内務省や司法省、右翼勢力を背景にして東条英機内閣の打倒を目指したと評される。反面、終戦後に天皇が側近に語った記録『昭和天皇独白録』(文藝春秋)によれば、天皇から日米の和平と開戦の二股をかけていた人物として糾弾されたという。戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンにつながれたのは周知のとおりだ。

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