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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第3回

森功(ノンフィクション作家)

 10年でおよそ10倍の収入増

日大は戦前の旧制大学時代から高等文官試験合格者を数多く輩出し、法学部を中心とした総合大学の基盤を築いた。附属の中学や高校、専門学校などをいくつも設立していたが、戦中から終戦にかけ規模を小さくした。

そこで古田は会頭になる前から戦中に縮小を余儀なくされた日大の各学部を復活させる。それだけでなく、新たな学部を新設し、各学部の再編に乗り出した。

たとえば52年には、農学部に東京獣医畜産大学を吸収して農獣医学部と改め、逆に57年に経済学部商業学科から商学部を分離した。わけても古田は理工学部系の拡充に力を注いだ。戦中、福島県に疎開していた専門部工科を工学部に格上げし、東京・駿河台にあった従来の工学部に物理学科を加えて理工学部と改組し、工学部の工業経営学科を母体にして生産工学部とした。新設学科としてはこのほか、法学部に経営法学科・管理行政学科、経済学部に産業経営学科、芸術学部に放送学科といったところが古田時代に加わっている。会頭に就任した58年から63年までの5ヵ年計画を立て、大学の拡大に邁進していった。

そのうえで古田は各学部が独自に学校運営できるよう独立採算制を導入し、さらに学部の下に附属学校を持つことを認める。たとえば文学部と旧高等師範部を合併させて文理学部とし、その傘下に設置した日本大学世田谷(現・日本大学櫻丘)高校などがわかりやすい例といえる。また会頭になる前から施設の拡大を図り、1952年に日本相撲協会から両国国技館を買って日大講堂に改装する。会頭就任後の59年には、その日大講堂で「日大創立70周年記念式典」を開催。昭和天皇、香淳皇后の両陛下をはじめ、首相の岸信介や閣僚を招待し、古田の権勢を内外に見せつけた。

これらは戦後の45年から48年までに生まれた団塊の世代、第一次ベビーブームによる大学生人口の増加を見越した経営戦略とされた。実際、日大は57年に32億円しかなかった大学の収入が68年に300億円に達した。およそ10年で10倍の収入増という計算になり、古田の名声はますます高まった。

ちなみに先に触れた近畿大学は、終戦後の新学制の下、49(昭和24)年に日大の専門学校と43(昭和18)年に設立された大阪理工科大学が合併して誕生した。世耕弘一を大学の創設者としているが、もとをたどれば日大が大阪に設置した専門学校が母体といえる。

初代総長・理事長である世耕は和歌山県の寒村に生まれ、新宮市内の材木商に務めたあと上京して日大に入る。そこから朝日新聞の記者を経て、32(昭和7)年に衆院議員に初当選した。そして終戦後に新たな大学制度がスタートすると、日大との縁で専門学校と大阪理工科大学を合併させ、近畿大学を創設するのである。近大では、弘一の引退後、長男である正隆が2代目総長となってさらに衆院議員に転身、三男の弘昭が3代目総長となる。現自民党参議院幹事長の世耕弘成は弘昭の息子であり、4代目理事長と参議院議員という二足の草鞋を履いている。世耕一族は政治一家であり、近畿大学経営一族だ。

およそ120万の卒業生を輩出してきた日大に対し、近大も57万の卒業生を誇る。西日本一のマンモス大学である近大の源流は日大である。

そこまで日大を大きくした立役者が古田にほかならない。66年に秋田県から上京して法学部に入学し、大学卒業後に商学部教授になった根田正樹がこう述懐する。

「私は大学に入学するにあたって保証人が2人必要でした。秋田出身で東京には誰も知り合いがいませんでしたから、私の親が隣人に相談して古田先生に相談してみたらどうか、と先生に連絡したんです。すると、古田先生は『うちは寮をやっているからここに住めばいいよ。俺が保証人のハンコ押してやるよ』という話になって、飯田橋に近い東五軒町にあった先生の自宅兼寮にずっと住まわせてもらいました。地方出身の学生にとってはありがたかった。たしか3食付きで、ひと月の寮費が6000円だったと思います」

もともと古田は東五軒町にあった自宅を男子学生だけに提供していたが、それを5階建てのビルに建て替えたという。古田家は矢来町の小さな家に居を移し、古田はその5階建ての1階を女学生向けの宿舎とし、2階から5階までを男子の学生寮とした。急速に増えた日大生のために自らの私財を提供したようだ。

「古田重二良先生は良くも悪くもいろんな意味で教育に人生を尽くされた方だと思います。あれだけ日大を大きくした功労者には違いありませんが、私腹を肥やしたわけではなく神楽坂のご自宅も質素でした」

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