リアリズムの時代
突拍子もなく聞こえるかもしれませんが、現在のこうした社会全体の趨勢は、わたしに1世紀ちかく前の文学の世界を連想させます。
1920年代後半から30年代前半にかけて、日本の文壇ではプロレタリア文学が全盛をほこっていました。労働者や弱者の窮状を描く小説ですね。そのベースには科学主義的な、もっというと公式主義的なマルクス主義がどんとひかえている。革命へのロマンをべつにするなら、これもリアリズム。
けれど、33年に思想弾圧のギアが数段あがったことによって一気に霧散、それと入れかわるように、30年代中盤には随筆やルポや実話ものが流行します。
たとえば、32年8月、プロレタリア文学が失墜しようというまさにその前夜、哲学者の三木清は論説「自照の文学」のなかで(『詩と詩論』の後継誌『文学』の第15号)、随筆が何度目かのブームになりつつある状況をこう分析しました。
一般的に思われているのとはちがって、随筆の書き手たちは「美的な、詩的な、もしくは感動的な対象」や、「想像的なもの、空想的なこと」をじつはあまり取りあげない。そうではなく、「現実の事実」や「平凡な、日常茶飯の事、いわばそれ自身散文的な事」をあつかう。「詩的精神」より「散文的精神」、つまりリアリズムの精神がそこにあると三木はいいたいのでしょう。「科学的精神」といいかえてもいる。ルポだとか、一般読者の体験談の投稿(SNS!)を中心とした実話ものだとかが、リアリズムなのはいうまでもありません。
プロ文から随筆やルポ、実話へ。この流れはリアリズムの系譜において一貫している。こうした歴史の話はあとでもどってくることにして、本題に入りましょう。