2020年10月アーカイブ

たちどまることを余儀なくされて

 私は家にこもって漫画を描く仕事をする一方で、国内外のいろんなところをこれまで転々と訪れてきました。旅というインプットがあってこそ、漫画などでのアウトプットができていたので、一ヵ所にずっと止まっていると栄養失調の危機感を覚えてしまうのです。

 パンデミックで旅に出ることを封じられ、私はたちどまることを余儀なくされました。そんなふうに行き場をなくしたエネルギーをもて余しているのは、この状況下で私だけではないはずでしょう。

 では、そのエネルギーをどう生かせばいいか。

 私は外出自粛が始まってしばらく経ったあと、これはこれで普段考えたり実践できないことを経験するチャンスであるということに気がつきました。

なぜ私には"アウェイ感"が必要だったのか

 自分の知らない土地へ出向いたときに感じる"アウェイ"という感覚が、私の日常にとっては必要不可欠なものでした。

 自分と縁もゆかりもない土地へ赴けば、私はよそ者以外の何者でもなく、現地の人たちに「馴染む」しかないという状況になります。

 この、馴染むしかない状況と正面から向き合うことで、その地で体験することが自分の血肉になる実感もありますし、何より、地球から「一定の範囲に生息しているだけで、地球のすべてをわかったつもりになって、 自惚(うぬぼ)れるんじゃない」と挑発されているようなあの感覚は、地球と馴染める生物になりたいという潜在意識の願望から芽生えてくるものなのかもしれません。

 様々な土地に行き、自分の固定観念を脇に置いて、いろんな人の習慣や考え方を理解するよう心がける。

 それを試みているとき「ああ、自分はこの地球でもっと"広く"生きていけるかもしれない」と思えてくるのです。

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 そもそも、地球の表層に様々な敷居をつくって人類の生息地域を分類化し、メンタル面における民族という概念をつくり出したのは人間であって、地球の意図ではない。

 地球という惑星に生まれた生き物として、そんな人間社会の構造がもどかしくなることもあります。

 たとえば海外を旅しているときはいつも、自分自身という意識を払拭して行動したいと考えます。何者でもない、地球上を流動体のように彷徨(さまよ)っていろいろな地域の有り様を観察したい。

「ヤマザキさんって人間が本当に好きなんですね」と言われることがありますが、人間は好きだとか嫌いだとかという視点で接するものではないと思っています。

 種族としての人類を苦手だと思うことはあっても、特化して人間万歳、人間大好き、などと感じることはまったくありません。

 犬や猫がそれぞれのコミュニティに属するように、私も人類のコミュニティに属していることを自覚している。それだけです。私にとって人間は昆虫や植生や地質と同じ、地球の"有り様"なのです。

旅が地球の奥深さを見せてくれる

 ですが、カブトムシや猫とは同種族としての経験を共有することはできません。一方でコミュニケーションの取れる人類とは黙っていても集う機会が増えます。

 実際、友人たちと食事なんかしていると、しゃべることは大抵他愛もない、どうでもいいようなネタだったりしますが、それもまた私にとっては人間の心理を知るうえで興味深い。どんな些細なことも、考察をすると思いがけない発見があるからです。

 旅が面白いのは、多様な文化圏の、多様な習慣をもった人間と接していると、彼らの背景にある歴史や地域性を通じて、地球の奥深い側面がどんどん顕(あらわ)になっていくから。

 日本では「東大を卒業して一流企業に就職しました」と言えば自動的に付く箔も、たとえばニューギニア島の山奥の部族には何の意味もなしません。

 後天的に情報として身に付けたものに意識を囚われないようにするためにも、ものの見方を常にデフォルト状態に保つためにも、旅でその土地の人と関わることは、人類の性質を知るうえでとても大切なことなのです。

 旅という手段によって、人間として本来備えもっているはずの機能を鍛えたくなるこの気持ちは、私にとっての本能的な欲求と捉えています。

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 そして、人間という生き物には知性という要素が備わっています。ただ、この知性というものは扱いがなかなか難しく、多くの人は鍛えることを怠ってしまう。

 以前そんな話を友人としていたら「ということは、マリはこの世の人間はみなブッダになればいいと思ってるわけ?」と笑われたことがありますが、たしかに、もしみんながブッダ的悟りを得たら、人間社会は様々な欲求をめぐる争い事が少なくなり、自然環境の破壊も止まるかもしれません。

今は人間としての機能を鍛えるとき

 私はしかし、そういうことを言っているのではないのです。

 植物や昆虫やその他の動物が、生まれたときから備えている機能を100%駆使してこの地球で生きているのだとしたら、人類は果たしてどうなのか。

 知性は鍛えたからと言って100%という到達点があるものとも思えませんが、それにしてもあまりにもこの世には自らの思考力という機能を甘やかし、怠惰にし、そんな中途半端な状態でも、自負や虚栄で自分を固めて生きている人が多すぎるんじゃないかと多々思うのです。

 旅では、そういった人類の知性の多様さも知ることができる。宗教や、環境、そして教養が生み出す価値観も果てしなく多様であることを知り、安心することもできる。知性にもアウェイがあることを知って、地球の広さがわかる。

 それが私の旅でのメリットなのですが、自粛期間は旅の代わりに、今まで以上に本を読んだり映画を観たり、考え事をすることに時間を費やすことで、それなりの充足感を得られています。

 それに加えて、今の私のように家族や友人など他者と過ごす時間が少なくなれば、自分の考えを他者の言葉に置き換えたり、すり換えたりしてしまうことは減り、「自分の考えを自分の言葉で言語化する」という技がいつにも増して鍛えられていく。

 こんなことも、今みたいな状況でなければなかなかできないことだと思います。

「結婚を止めに来ました」

角幡服部さんの『サバイバル家族』は小雪さんとの馴れそめと、結婚から始まりますが、それにしてもよくこんなことやりましたね(笑)。小雪さんには婚約者が別にいたのに、服部さんは「結婚を止めに来ました」と割って入って婚約を白紙に戻させ、自分が結婚しちゃう。映画みたいな話だなと。それを書いちゃうことに驚きました。僕は自分の恥部を晒すほうだけど、この手の話は恥ずかしくて抵抗がある。

服部ちょっと恥ずかしいことは恥ずかしいけど、事実だからなあ。俺は出会ったときにピンと来た。でも小雪のほうはまったくそうじゃなくて、ホント大変だった。婚約破棄を直訴しに行ったのも、出会って五年後、紆余曲折の末だし......。しかも彼女の結婚がとりあえず無期延期になったからと言って、俺との結婚が決まったわけじゃない。ただ、状況は転がり始めているから、必ず俺のほうに転がって来るだろうと思っていたけど。そうじゃなきゃおかしいよね。無期延期になった時点で、心では「小雪と結婚だー」って叫んでた。

「俺は出会ったときにピンと来た」

角幡恥ずかしいから、普通は小説で書くんじゃないですか。

服部物書きたるもの、なんでもネタにして売らないと(笑)。角幡君も本誌連載をまとめた『そこにある山』で奥さんとの結婚の経緯についてたっぷり書いていたじゃん。角幡的な抽象的思考にすりかえて、「結婚とは事態である」とか、自らの意志ではままならない「中動態」だなんて......。哲学風味の分析こそ、本当かよ、って疑わしい。通常、恋愛とは熱病のようなもので、結婚なんか勢いだろ?

角幡妻からは「書いていることが事実と違う」って怒られましたよ。僕らの馴れそめは仲間内の飲み会で、最初のコンタクトは妻から僕へのメールなんです。その顚末を書いたのだけれど、妻からするとそれは違う。僕からの無言のメッセージを受信して自分は連絡したという理解なのかな。僕にもよくわからない。事実は書いた通りのはずだけれど、妻からすればそれが事の始まりなのだと。妻の怒りはそこにあるようです。

「妻の怒りはそこにあるようです」

服部あはははは。そこは嫁さんの希望通りにしておくのが、男の甲斐性ってもんだろ。じゃあ、結婚するのかしないのか、奥さんに「匕首(あいくち)を突きつけられ」たってところも怒られた?

角幡実際にそういう雰囲気だったから、それは大丈夫でした。どちらが最初にけしかけたかが重要みたいです。まあ、何が事実かは受け取り方によって変わりますね。

匕首(あいくち)を突きつけられた角幡さん

服部でも当時、彼女だった嫁さんと別れると決めたら涙が溢れてきて、やっぱ結婚することにしたって、どこかに書いていたよなあ。

角幡いや、それは書いてませんよ。

服部そうか、それは飲んだときに話していたことか。

ph1_04.jpg服部さんの発言の誤りを指摘する妻の小雪さん

角幡だから、そういうセンシティブなことは僕には書けない。子どもが二、三歳になるまで、うちはちょっと地獄のような感じもあったし。

服部ははは(笑)、いつも言ってたよね。うちは仲がいいから想像できなかった。でも子どもが生まれて関係性が変わったのだとしたら、やはり「子はかすがい」。

角幡愛情は感じますね。霊長類学者の山極壽一のゴリラの父親理論は知ってます? 父親って妻と子供から認められて成りたつ社会的擬制だそうですが、自分も家族から父と認められているという感覚はある。

服部家・角幡家の教育方針

――著書を読むと、服部さんの家庭は、クーラーの設置を拒んだり、子どもの教育方針を提示したりと、服部さんがリードしているように見えます。角幡さんの家庭は奥さんが主導権を握って引っ越ししたり家を買ったりしているようです。

服部子どもに強要したことは、挨拶をきちんとする、左右対称の姿勢で座るだけですね。あと次男の玄次郎は喘息だったのでスイミングに通わせた、そのくらいかな。アンチクーラー思想の詳細は『サバイバル家族』を読んでもらうとして、コロナによる給付金を使って今年からいよいよ我が家も空調が使えるようになってしまった。僕はクーラーのあるオフィス(『岳人』編集者としても勤める)で過ごすこともできるので、クーラーなしで最近の異常な暑さに耐えている小雪と玄次郎はいろいろ不満があったようです。自分の理想を家族に押し付けているのかもしれないけど、いやなものはいやだしなあ。

角幡僕は登山や冒険などの活動と、家庭での生活は分けて考えていて、やはり冒険が自分の本領なので、家庭のことは基本的に妻に委ねています。日常なんて退屈だという、ある種のニヒリズムが外へ向かう原動力になっていたので、三十代までは住居なんて完全に関心がなかった。でも、四十歳を過ぎて少し変わって、生活のほうに力を入れたいという気持ちが出てきた。妻とはそのうち山奥に土地を買って、二人で小屋でも建てるかなんて話をしている。釣りや猟の前線基地です。
 その点で服部さんが掲げる「サバイバル登山」というテーマは面白くて、猟をしたり釣りをしたり、自分の力で食糧を賄いながら登山を続ける。「自力の思想」がベースにあるから服部さんの登山は生活的だし、一方で日々の生活にもサバイバル要素が溶け込んでいる。今回の家族物の作品もそうですが、登山と生活の区別があまりないのが興味深い。

服部自分の行動原理を突き詰めて考えると芯のところには「モテたい」がある。少なくとも若い頃はモテたかった。それはおそらく、最高の伴侶を得て、孕ませ、子どもをもうけたいという動物的な繁殖欲求だよ。だから山登りを始めたきっかけも、根底にモテたいってのがあった。かっこよくなってモテたい。かっこよくあるためには本質的でなければならない。山登りの本質はというと、すべてを自力で行うことだなと思った。「これがいい」という直感力にはちょっと自信がある。たとえば嫁の選別とか。

角幡僕はもともと結婚の意思はなかったから、妻との関係のなかではじめて結婚を意識した。うちの奥さんは性格の強い人だから。今でこそほとんどしないけど、前は喧嘩ばかりでした。理由は言えないですが。

服部得意のハイデガーとかベルクソンを引いて説得すればいいじゃん。

角幡ハイデガーには仲直りの方法は書いてないですよ。
鎌倉に引っ越して付きあう友達も変わって、少し趣味が変わったのかな。最近は妻の趣向も僕に近づいてきて、田舎の小屋づくりに関心が出てきたのもそのせいかもしれない。子どもに体験させたいという思いもあるのでしょう。子どもへの教育という意味では、よく山や海に連れていくんですが、その根底に自分で行動の限界をもうけてもらいたくないという思いはあります。世間の目を気にして、あれはやらないほうがいい、みたいな自主規制する人にはなってほしくない。別に教育方針というほどのことはないけれど、他人に同調する人間にはなってほしくない、自分の頭で考えてほしいという思いはあります。

「芯のところには『モテたい』がある」

服部うちの次男は今ニートだけれど、自分の頭で考えた結果、ニートになることもありうるぞ。

角幡玄次郎君が高校を中退したくだりも書かれていましたね。でも、自分で考えて行動していて偉いと思いましたよ。何も考えず周りの動きに合わせて生きる多くの人よりも、ずっと自立している。

服部高校一年の終わりの文系・理系の選択時にそれまで溜まっていた学校教育への疑問が爆発したね。玄次郎は地頭がいいから、このまま大学に行って、サラリーマンになって、満員電車に揺られて生きる未来に完全に嫌気が差したらしい。
高校中退はいいんだけどね。俺も、自分を信じてやりたいようにやればいいと思って生きてきたから。でも、最近の玄次郎を見ていると、易きに流れてダラダラしているなあ。一応は何かを勉強しているらしいんだけど、独りでは、角幡君の著書のキーワードでもある「関係性」を築くことができないんじゃないかなあ。誰かと出会ったり、外部からの刺激を受けたりが少ない。自分の過去を振り返っても、大学生の頃は遊んでいただけだから、別に大学に行かなくてもいいとは思うのだけれど......。刺激を受けて成長するということ自体も疑えるしなあ。玄次郎の存在は教育って何だ、成長って何だって考えさせられる。

角幡うちの娘は小学一年生だから、そういう悩みにはまだ直面していない。でも、そういう日がくるかもしれませんね......。しかし、遺伝と教育の割合ってどのぐらいなんですかね。子どもを見ていると、素質のかなりの部分は遺伝で決まっているんじゃないかという気がする。努力する性格や、自分の頭で物事を考えるという部分も含めて。一方で、考え方とか言い種なんかは親の影響がかなりあるようにも思う。食卓でかわす夫婦の会話とか、何気ない日常から子どもが感じることって大きいんでしょうね。

「家庭の崩壊」をも覚悟して

――二人とも積極的に育児をしていますが、一方で活動のために家を長期間あけると、奥さんが育児を一人で担うことになります。それについて苦言を呈されませんか?

角幡最近は半年を北極で活動し、残りの半年は主に自宅で執筆仕事をしています。家にいれば子どもといる時間も当然長いので、風呂に入れたりご飯食べさせたり。それを特別に「育児」とは思わないですね。
一方で、子どもが生まれた当時の妻は大変だったのかな。二〇一五年にグリーンランドに行ったときは一年以上家をあけるつもりだった。まだ子どもが生まれて一年ちょっとで、旅立つときは「家庭が崩壊するかもしれない」と覚悟して出ました。実際、妻は大変だったらしく、現地から電話したら随分弱っていて、「唯介には新聞記者に戻ってほしい」「私は今の生活が全然楽しくない」とか言いはじめて、これはまずいと思いました。結局、滞在許可が延長できなかったこともあり帰国しましたが。僕の娘は一歳から三歳の間、めちゃくちゃかわいかったのだけれど、妻は当時まったくそう思えなかったらしく、娘の写真を今になって見返して「うちの子、こんなにかわいかったんだね」と言っている。かなり育児ストレスはあったようです。

服部家をあける期間は角幡君ほど長くないけれど、俺もちょうど長男が生まれた頃は積極的に山に出ていたときだったので、育児は妻に任せっきりだったな。一度山に出てしまえば連絡も取れないし、今になって妻に聞くとやっぱり大変だったみたい。第一子のときは精神的につらくて、第二子、第三子になると育児に慣れはするけれど、今度は物理的に大変。疲れ果てた小雪が突然泣き出したことが二、三度あったな。正直なところ、その大変さは言われるまでまったく認識していなかった。むしろ俺は、子どもが生まれたことで遺伝子を残すことができた安堵があって、これで思う存分危険な登山ができるぞくらいに思っていた。

角幡当時はお互い心に深手を負うような喧嘩をしていたけど、探検と育児にも原因があったのかもしれない。でも、ここ三年くらいはまったく喧嘩してないですね。

服部もうあきれ果てているのかもしれんぞ。(笑)

自力で生きてこそ得られる実感

角幡服部さんはすべてを自力で賄って登山していると、「なんでそんなにしんどい登山するの?」と問われませんか。僕はそういう問いを突きつけられることが時々あって、面倒くさいから適当にあしらうときもあるんだけど、今回の著作には僕なりの回答を少し書きました。
僕は、冒険を「社会や時代のシステムから外側に飛び出す行為」と定義して行動してきました。そしてその行為は、システム化され効率化された社会への批評行為でもあると考えてきた。一方、家族ができて社会との接点が増えたことで、効率化と合理化の風潮が最近ますます強まっていることも感じます。どうしてそんなに無自覚に社会の効率化を受け入れてしまうのか。それに苛立つことも多い。今回の服部さんの本には効率化への欲求も生き物の本能との指摘があって、なるほどと思いました。服部さんは「なんで?」という問いにどう応じていますか。

服部たまに質問されるね。そういうときは「効率的じゃないほうが面白いから」と答えているかな。社会が合理化し、効率を高めることで発展してきたことは理解するのだけれど、効率第一になってしまうと、人間として生きる意味は失われてしまう。効率を追求すれば、肉を食べるより流動食のほうが、さらには点滴で栄養を補ったほうが効率はいいとなってしまう。でもそうやって効率化して人間の活動を削いでいくと、最終的には死ぬことが最も効率がいいことになる。それでは意味がないから、どこかで効率化の妥協点を見いだし、立ち止まらなければならない。人工的な効率化は生きる面白さを削ぐ、自然環境で工夫して効率化するのは生きる面白さに直結する。俺は生きる本質を追究しているから「自力」こそが最も生として充実する、という答えになるのだと思う。

角幡現代社会は、機械化や分業が行き届いているから、自覚的に生きないと、かなり多くの部分で便利さに流されてしまう。僕だって日本での生活は、現代社会の効率を享受しているわけですが、効率化・合理化の思想に社会が無自覚に毒されていることに違和感を覚えます。

服部最近、ある廃村に古民家を買って、そこでかなり自給自足に近い生活を楽しんでいるんだけど、風呂を沸かすのも自分で薪をくべて焚かなければいけない。雨の日なんか、正直「めんどくせぇ」と思うけど、同時に「俺は今、生きることを面倒くさがったな」と笑っている。

角幡僕が毎年グリーンランドのシオラパルクに通うのも、結局はそのためです。機械などに頼らず、自力で北極の地を自分の家の庭のように歩けるようになりたい。土地のことを知り、アザラシを獲れるようになることで行動範囲が広がってゆく。自分の足で開拓して、その地平が広がっていくのは楽しいですね。

服部角幡君は、自分の体力と経験のバランスから集大成の活動ができる年齢を意識して、極夜行の冒険を実行したと書いていたけれど、あれを読んで俺は自分を省みた。月刊誌の編集者として会社勤めをしているのを言い訳に、いつか長期登山をしたいという思いを無意識に先送りしていたのかもしれない。

角幡服部さんは去年、北海道縦断の無銭旅行をしましたよね。あれは体力の衰えを実感して、結構な覚悟を持って行ったと書いていましたが。

服部そう、俺も人間としての下り坂を実感して、特に膝が痛くて大がかりな旅はこれが最後、引退試合のようなつもりで行った。出発から足をひきずって歩いていたのだけれど、二六日目に不思議と膝の痛みが取れていた。やっぱり人間は歩く生き物で、歩くこと自体に治癒力があるのかもしれない。北海道の無銭旅行は自分なりに感じることも多かった。サバイバルの技術や精神力については、長年培ってきたものがある意味では発揮された。体力もまだいけると感じたし。でもたとえ財布を持たなくても、北海道に「深い荒野性」はなかった。日本だし、何か問題が起きたら「助けて」と言えば何とかなると思えた。その点が北極の僻地性にはかなわない。

角幡納得のいく活動ができる日というのは来るんでしょうかね。

服部たぶん来ないな。でも、廃村の古民家にはすこし可能性を感じている。俺の北極はあそこにあるのかもしれない。

死ぬことへの恐怖

服部家の愛犬「ナツ」

角幡登山や冒険では死というものを前面に立てる。死の近くから帰還するのが究極の生となるわけですが、その究極の生と死との間には必ず距離があり、生きている限りはもっと行けたとの後悔が生じる。となると完全な納得は、死なない限りできないのではないかとも思うんです。

服部それは、まだ肉体的に若いから出てくる発想だな。まだ自分が身体的に人間の限界に近づける可能性があるからだよ。五十歳を過ぎて、自分の身体能力が人間の限界能力と乖離してくると、たとえ死んでも自分が納得する極限にチャレンジしたいという思いや発想が減っていく。いや、俺も若い頃は無様に生きるなら、死んだほうがマシだと思っていたけど。

角幡生きている以上、納得できないんだろうと思う一方で、去年、家で急に胃が痛くなったんですよ。痛みが引かなくて胃がんを疑った。そのときにせっかくだから意識的に死というものを見つめたんですが、子どもが僕のことを語り継いでくれたら受け入れられるんじゃないかとも思えて。

服部角幡君、それは君がおおよそすべてのノンフィクション賞を取って思い残すことがなくなったからだよ。

角幡いやいや(笑)。子どもができるということは、記憶として残ることなんじゃないか。誰かの中に記憶として残れば、死を受け入れることもできるんじゃないか。そう思ったんです。妻にその話をしたら、「あの子は一年もしたら忘れちゃう」って笑ってたけど。だから、「もし俺が死んだら、一日一回でいいから俺の話をしてくれ」と言いました。生者が死者にたいして唯一とりうる態度は語り継ぐことなんじゃないかと。

服部それは角幡君が大宅壮一賞を取ったからの境地だな(笑)。いや確かに、誰かに記憶されればそれは死ではない、という考え方は昔からあるね。

角幡この夏、服部さんが例の古民家で蜂に刺され、アナフィラキシーショックになって死を覚悟した、ということをあるエッセイに書いていましたよね。死ぬ瞬間を意識したときって、どうでした。

服部バチンって胸に焼き付けるような痛みがあって、多分スズメバチだろうけど、最初は股ぐらが無性にかゆくなって、そのうち血圧がサーって下がって世界が回りはじめた。で「やばいやばい」、あぁ俺死んじゃうのかなあと焦る一方で、血圧が下がって意識も低下していくから、切迫感はあまりない。特に恐怖を感じないんだよ。ただ、あー死ぬなーって。以前にも滑落して頭を打って、死を意識したことがあるけれど、そのときもプチンと意識が途切れている。死ぬのは意外と怖くないのではないか、と思っている。

角幡僕は三十歳のときに雪崩に遭って、雪洞で一〇分生き埋めになったことがあるんです。身動きが取れなくて、完全に死ぬのを待つ状態です。結局、一緒に行った仲間に助けてもらうんですけど、このときは「俺は何もやり遂げていない、無念だ」と思いました。でも、今同じ目に遭ったら、当時よりは受け入れられる気がする。それはある程度、自分のやりたいことをやったから。そして、家族ができた影響も大きいんじゃないかと最近は感じています。

服部今回の本にも書いていたけれど、それは自分自身を確立し、人生を自分の固有のものにしたこと。「角幡唯介」になったからでもあるのだろうね。

角幡それはあるかもしれません。

服部あとはさ、やっぱり角幡君が大佛次郎賞を取ったからだと思うよ。

角幡いやいやいや。(苦笑)

服部俺にも一個くらい回してくれよ。(笑)

無神経、でも、いい父ちゃん
服部小雪

服部小雪世の中には、家事や育児をしっかり分担している夫婦がいるという。すごいことだ。つくづく、うちはめちゃくちゃだったなあ、と思う。夫は外でやりたいことをやり放題、私は家にこもり、平和を保つためにひたすら耐えていた。子どもたちが自立する年頃になった今でも、そのことへの後悔を引きずっている。「繁殖は、人生の目的だ」などと言う夫の無神経さに、繁殖のその後が大切なのでは? と、心に黒いモヤモヤが湧き上がる。
今回の対談を聞いた後で、発見があった。冒険家は断固として温泉旅行には行かないが、自転車に乗って、子どもと小さな旅に出る。私は自分が勝手に描いた理想の家族像とのズレばかりにとらわれていたけれど、文祥も、角幡さんも、自分のやり方でせいいっぱい子どもを愛し、家族を大切にしてきたのだ。「父ちゃんは、父ちゃんだからいいんだよ」と、娘に言わせてしまう服部文祥は、くやしいけれど、いい父親なのかもしれない。

サバイバル家族

服部文祥 著

「俺は今後できるだけ庭でウンコする」サバイバル登山家の一家5人が、都会で原始生活!? ニート息子も女子高生も、狩る・飼う・捌く。小さな悩みも吹き飛ぶ愉快な日常エッセイ

聞き手:砂原庸介(神戸大学教授)

国との歴史的パートナーシップ関係

砂原》まず新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の拡大への対応を通じて、知事から見てとくに印象に残ったことは何でしょうか。

平井》国と地方のパートナーシップが変わり目にきたという気がします。今までは政府と地方の対話がいまひとつかみ合わない面もありました。しかし、コロナは国民の命と健康が危険にさらされ、さらに経済、社会にも大きなインパクトを与えました。そうした中で、西村康稔経済再生担当大臣や加藤勝信厚生労働大臣と頻繁にテレビ会議をし、地方側から結構厳しい提案をしました。その提案を政府も受けてくれたのです。

 例えば新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)を適用すべきではないかと大分申し上げました。特措法に基づき政府が対策本部を作れば、都道府県も対策本部を設置するしかけになっています。すると、知事に包括的な調整権限ができるわけです。ほかにも、医療物資の不足や、逼迫した病院への対応に関する要望を出し、取り入れられています。そういう意味で、歴史上かつてないくらい知事と国の議論がかみあってきたかなと感じています。

 全国知事会も歴史的エポックを迎えました。テレビ会議の利用が進み、多くの知事がコミットできる知事会に変わりました。緊急事態宣言で知事に権限が与えられ、政府も知事の意見に率直に耳を傾けるようにもなっています。我々知事が動ける土俵ができたということだと思います。

 今回生まれた国と地方の信頼関係に基づくパートナーシップを今後につないでいけば、日本の政治体制、国と地方の関係は、さらに実り多いものに変わるのではないでしょうか。

国の応答性は上がった

砂原》知事と国の議論がかみ合うようになった理由は、知事に対する国の応答性がこれまでより上がったということでしょうか。それとも、国から地方に対する指示などが的確になったために、両者がかみ合ってきたのでしょうか。

平井》国の応答性が上がった面が強いでしょうね。正直言って国は各省庁の集合体で、それぞれが地方の医療機関や感染症の実態をつぶさに把握しているわけではありません。権限が各省庁に分掌されているため、トータルで実効性のある措置を切り出しにくい面もあったでしょう。だから知事や都道府県から「これが必要だ」と明確に言ったことが響いたと思います。今までは予算要求から始まって、一年かけてようやく実現するというのが多かったですが。

砂原》非常に興味深いお話ですね。知事はかつて自治省に勤務されていました。そのときと比べて省庁の「縦割り」は変わったのでしょうか。

平井》結局、命や病院といった現実と向き合わなくてはいけません。省庁には制度や予算を一つ一つ丁寧にチェックする機能がある。一方、我々は結果が出てなんぼです。制度や予算がどうあれ、足りないものは足りない、これは必要だとズバリ言う。

 安倍首相が二月に一斉休校を要請したとき、正直、感染が広がっていないところまで必要があるのか疑問もありました。

 大号令がかかれば現場は動きますが、各方面で悲鳴が上がった。子供の居場所を作るために放課後児童クラブを設けないといけない。そこで、休校で空いた校舎を利用し、学校の先生も加わる方式を考えました。放課後児童クラブは、支援員が二人以上必要など細かい設置基準がありましたが、二〇二〇年度に緩和されると決まっていました。

 しかし、休校要請はまだ一九年度中だったので、国はあいかわらず基準の緩和を認めない。らちがあかないので、厚生労働省に規制緩和を訴えたんです。すると、加藤厚労大臣から直接電話がきて、こういう事情ですと説明すると「至急改めます」と。半信半疑でしたが、すぐに通知がきました。知り合いの厚労省幹部に聞くと、加藤大臣は私と電話をしたその場で「すぐにやれ」と指示したそうです。大臣が地方の声に耳を傾け、役所の事情より地方の実情を優先してくれたわけです。

科学的なアプローチを

砂原》今回の感染症対策では、専門家と政治との関係が注目されました。自治体単位で専門家を集めるのは簡単ではないと思いますが、鳥取県ではどう対応されたのでしょう。

平井》都道府県によって事情は異なりますね。鳥取県のような小さな自治体は、顔が見えるネットワークができているんです。医師会会長にしろ、大学病院の院長にしろ、感染症の大家にしろ、お互いに知り合いになっている。平井もそういうコミュニティの一人です。当初からこうした方々とコンタクトを取り、一月二十一日に第一回の連絡会議を開催しました。医師会に院内感染を防ぐ仕組みを考えましょうと提案したところ、医師会からはマスクなどが足りないと声が上がったため、県の備蓄から二二万個のマスクを配ったりもしました。こうしたことで信頼関係を作りながらお互いコミュニケーションを取ってきたのです。

 政府でも専門家会議の用い方は、従来の一般的な審議会とは違ったと思います。そこはある程度、評価できるところがあります。ただ、検証が必要なところもある。大都市もそうですが、専門家の意見やデータが出ていても、最後は政治的に「えいや」で決めているのではないでしょうか。休業要請などを大幅に解除する方向で準備をする。そういうさなかに感染者が増える。それでも解除する。最初から決めているのかもしれません。でも、これは政治的な意思決定であり、間違いとも言えない。重要なのは専門家とどういうキャッチボールをするかです。

 これまでの一連の流れを見ても、なぜ一斉休校から対策が始まったのか。本来ならその段階で専門家と一緒に効果的な政策が何かを練り上げていくべきだったのでは。三月二十日からの三連休は、感染拡大のターニングポイントだったと見られていますが、専門家の方々は大都市での急上昇を心配し、対策の必要性を訴えていました。ところがあの頃は、東京オリンピック延期判断など政治の事情が優先していたのではないかと。大阪と兵庫は両方で外出自粛するのが正解だったように思えますが、なぜか県境の往来だけが自粛になってしまった。専門家のデータと政治判断がうまく合致していたのか疑問が残ります。

 一つ一つの意思決定が当時の状況下で適切だったか否かを問題にしようとは思いません。ただ、今後については、やり方を考えなくてはいけない。例えば今回はロックダウン的手法が多用されました。鳥取県はちょっと頑固なくらい休業要請には慎重でした。やはり社会や経済に与える影響が大きいので、しっかり見極める必要があったのです。特措法の対策は新型インフルエンザ対策から派生したものです。インフルエンザは感染力が強いので、劇場やデパートなど、大規模な施設を閉鎖する必要がある。そのインフルエンザ用に特措法を作っているのです。

 ところが新型コロナ対策でもインフルエンザ対策と同じように、一律にこういう施設を休業要請や閉鎖の対象にしたため、補償、協力金の方向に話が転換してしまった。もっと科学的なアプローチをするべきでした。例えばクラスターが発生した施設に着目して、そうした施設に休業を要請し、補償措置を考える。これなら社会的コストも減り、実効的な対策になります。専門家の意見に基づいて限定的で効果的な対策を遂行していく。そのためには、専門家と政治の関係を作りかえていく必要があります。

メディア受けした施設閉鎖

砂原》専門家と言われる人が必ずしも一枚岩ではなくて、ネット上も含めるとものすごい量の知見があります。それをどう選び出すかは極めて難しい。東京と大阪がそうでしたが、それぞれ独自の専門家がいて、国の施策とは違った独自のモデル、東京アラートや大阪モデルを打ち出しました。大都市の首長が専門家とともに独自の政策を出そうとしたのが今回の特徴だったように思えます。同時に知事や市長を比較する動きもありました。

平井》私自身は、鳥取らしく目立たずに地味に(笑)、一歩一歩やっていけばいいという考えです。正直に言えば、感染症対策では絶対にパフォーマンスをしてはいけない。政治にもっていってはいけない。命、健康にかかわることであり、国家の基本にもかかわることだからです。素直に専門家の意見を聞き、必要と思うことに取り組んでいく。それぞれの首長はそれを模索したと思います。ただ、報道では、何か知事同士が敵対的に取り上げられるとか、首長の言葉が一面的にクローズアップされることはありましたが。

 経済、社会が疲弊する一因には、メディア受けが良い施設の閉鎖や、ロックダウン的な手法がほかに伝播していったことがあると思います。飲食店を全部閉めることを求めると、休業したところは協力金を求める。それで財政も疲弊してしまう。これが一つのモデルとして全国に伝播していった。これは政府も当初憂慮していたはずです。だから射程をどこまでとるか、西村大臣と東京都で議論になりました。日本だけでなく世界中が、とにかくゴーストタウンのようにするのが感染症対策だと思い込んでしまった面がある。

 感染症対策の基本から言えば、しっかりと初動から検査を徹底し、対象を限定する。そして患者を治すための医療体制を作っておく。予防措置を国民の皆さんに理解してもらい、協力してもらう。こうしたことを徹底することが王道で、実効性があると思います。次は、十九世紀型のロックダウンではなく、現代的な二十一世紀型のアプローチをすべきです。

基準はシンプルなほうがいい

砂原》鳥取独自の警報基準を策定されるそうですが、どのような考え方が基礎になっているのですか。

平井》先ほども言いましたが、パフォーマンス的に基準を作る気はありません。鳥取には大都市のようなイルミネーションもありませんから(笑)。地味に真面目にこつこつと取り組んでいます。そこで、県民の皆さんと共有できるシンプルでわかりやすい基準を作る必要があるかなと。今、全国で作られているのは、休業要請を解除する基準といった観点なんですね。本来の感染症対策は医療や保健所の体制整備です。そういう観点を大きく取り入れて、基準を作るべきだと考えました。

 鳥取県はそもそも過去に三人しかコロナの感染例がない。過敏と思われるかもしれませんが、感染者が一人出たら「注意報」を出す。外出するなということではなく、予防しましょうという呼びかけです。医療強化の準備をしましょう、急に仕事が増えるので保健所の応援を始めましょうと。そのエリアの中で対策を始めるスイッチにするということです。

 六人の感染者が出たら「警報」を出し、場合によってはクラスターが発生したお店に休業を要請するなど、限定的な行動制限をかけたりする。ただ、全県ではなくエリア限定で考える。

 ベッドの半分が埋まったり、人工呼吸器の半分を使ったりするような状態になると「特別警報」を出します。これは医療崩壊の防止が目的で、強い行動制限、外出自粛を求め、学校も全部休みにします。「注意報」「警報」「特別警報」というシンプルで、今までの災害でもおなじみの言葉を使いながら、協力を呼びかけてはどうかということです。

ベースは災害対応

砂原》感染症対策では保健所が重要になりますね。しかし、保健所は必ずしも都道府県がもっているわけではなく、保健所設置市と情報のやり取りをしなくてはいけない。情報の交換が難しかったことはありませんか。

平井》知事会から政府に対策本部の早期設置を求めたのは、知事のもとで保健所設置市を含めた総合調整ができるからです。情報を共有し、一枚岩で動けるようになる。鳥取県も保健所設置市である鳥取市と調査手法で違いが生じる可能性があったため、総合調整権を使って調査への協力を求めました。ただ鳥取の場合、普段から県と鳥取市は協力体制ができており、今回も一日三〇人ぐらい県から職員を送るなど、応援体制を取っている。協調のプラットフォームを維持しています。

 大規模な感染症は広域的な対策がどうしても必要です。人材の確保も市単独では難しい。ですから保健所設置市と都道府県の関係はこの機会に議論をする必要があります。六月四日の総括的な全国知事会議の際にも大都市圏の知事を中心に、保健所の情報が入らないとか、統一的な運用ができないという声が上がりました。今の法制に問題があるのではないかという指摘も出ており、今後の課題として政府に対応を求めていく方針です。

砂原》都道府県のほうにもマンパワーは必要になるはずですが、市町村への応援要員はどのように差配するのですか。

平井》ベースとなるのは災害対策です。鳥取県中部地震や西日本豪雨の経験もあり、災害対応で常に職員を出す準備をしていますから。今回は、感染者発生に合わせて、直ちに鳥取市の保健所に人員を送りました。災害応援の基本と非常に近いものがあるので、どこの自治体でも本当はやれるのではないでしょうか。

砂原》災害対応のフレームで感染症対応すべきという議論は、研究者からも出ています。今回のような感染症では、医療と災害のどちらの枠組みで対応すべきと考えますか。

平井》経済、社会へのインパクトを考えると、やはり災害対応を念頭に、そうした方面の各部局を束ねながら進めていかざるをえません。ただ、一番根本の命と健康を守る感染症との闘いは、科学的、医学的知見に基づいて進める必要があります。

 今後は、ウイルスの特性を理解して、それに応じた戦略を考えるべきでしょう。つまりコロナに感染しても八割の人は他の人にうつさない。上手にコントロールすれば、感染の連鎖は止まります。そういう特性があるわけですよね。感染が一挙に広がるクラスターを発生させないなど、ポイントをおさえて対策を練っていく必要がある。これは医療系、つまり従来の保健所のアプローチになります。

第二のパラダイムシフト

砂原》ポストコロナの時代、社会全体として考えたときにどういう課題が重要になると考えますか。

平井》今回のことで、日本人は改めて過密、集中の弊害に気づきました。また、大都市を中心にリモートワークも経験しました。そこから、別の働き方、別の社会システムに目が向き始めているのではないでしょうか。日本は、新次元の多極型、分散型の国土構想をもう一度考える時期に来ていると思います。これは多くの自治体が感じていることでしょう。地方創生が質的に変わり、その必要性がさらにクローズアップされつつある。

 実は今感じているのは、東日本大震災の直後と同じ感覚です。

 鳥取県はもともと、移住政策を進めても定年後の人たちばかりが来たら、かえって医療費や社会保障費の負担が増え、地元にとっていいことはないという考えでした。ところが、二〇〇七年に人口が六〇万人を割り込んだ「六〇万ショック」をきっかけに、県政を一八〇度転換して移住促進政策を始めたのです。正直その頃は移住は進みませんでした。一気に伸び始めたのは、東日本大震災の後です。子育て環境、健康、生きがいを求める人たちが、地方の魅力に気づき始めた。東日本大震災がもたらした転機でした。

 今回のコロナは、若い世代を中心に、一極集中を本気で考え直す転機になりうるのではないでしょうか。第二のパラダイムシフトが起こる可能性がある。そういう意味でハードを造って人を呼ぶのではなく、ポストコロナの時代にふさわしい、新しい働き方、職業、社会のあり方を提供していく必要があるでしょう。例えば完全な移住ではなく、休暇をかねてリモートワークをする「ワーケーション」。そういう概念がこれからクローズアップされてくる可能性はあります。

 昨年十月から十一月に「副業で鳥取に来ませんか」と一四社が求人を出したところ、一四〇〇人の応募があり驚きました。応募者の名簿を見ると皆さんが知っている大企業の方ばかり。大企業も自分のところで全部労働力を抱えるのではなく、副業という形で地方の企業に貢献しながら、いわば給料も割り勘にしていく人事方針があるのかもしれません。大都市側にもそういうニーズが出てきた。今までとはスタイルの違う移住政策がこれから出てくればと期待しています。

砂原》知事会では九月入学の話も出ていましたが。

平井》九月入学は大きな、骨太の議論をしていかなければいけません。世界の中で戦える人材を育成する中で、目をつぶってはいけない課題だと思います。知事会の中にもいろんな議論が混在しています。共通しているのは「議論は始めるべきだ」。そこまでです。九月入学という世界の潮流の中で、もう一度深く考えてもいい。我が国も明治の初め頃は、いろんな入学時期が併存していました。高等師範学校や小学校等が四月入学に改まり、それに合わせて帝国大学も四月にしたのが大正期。この時期は奇しくもスペイン風邪が流行した頃です。パンデミックを迎える中で、大きな社会システムを再考することは否定すべきではありません。

 

〔中央公論2020年8月号より〕

 このたびは読売・吉野作造賞という栄えある賞をいただくことになり、深く感謝いたします。選考にあたられた先生方、読売新聞社及び中央公論新社の皆様、受賞対象となった拙著を刊行していただいた新潮社の皆様、そして研究のなかでお世話になった多くの方々に心よりお礼申し上げます。

 私の専門分野は近現代日本経済思想史です。主に一九二〇年代から四〇年代の日本の経済学者や経済評論家の思想や活動を、社会的背景を踏まえて研究しています。そうした地味な分野を研究している私が今回、「日本はなぜ対米開戦したのか」という畑違いに見えるテーマに取り組んだ理由は少し説明が必要かと思います。

 拙著の副題にある「秋丸機関」は、正式名称を陸軍省戦争経済研究班、対外的名称を陸軍省主計課別班といい、日本陸軍が太平洋戦争開戦前に、有沢広巳や中山伊知郎ら、戦後に活躍する経済学者を集めて仮想敵国の米国や英国のほか、日本や同盟国のドイツなどの経済抗戦力を研究させた組織です。戦後の有沢の証言により、その研究報告は米国と日本との巨大な経済力の格差を示すものであり、対米開戦を決意していた陸軍にとっては不都合だったため、報告書はすべて焼却されてしまったと(特に日本の経済学界内で)言われてきました。しかし二〇〇八年に京都府立図書館や京都大学にて秋丸機関の刊行した資料を見つけ、経済学者と戦争との関係に興味を持った私は、二〇一〇年に刊行した『戦時下の経済学者』(中公叢書)で秋丸機関について取り上げました。

 その後も断続的に秋丸機関の資料が見つかり、さらに焼却されたはずの報告書もインターネット上のデータベースの検索で呆気なく見つかりました。報告書の内容は結局のところ「長期戦になればドイツも日本も勝ち目は薄いが、短期でドイツが勝利すれば日本も有利な対米講和ができるかもしれない」といったものでしたが、よく調べてみると同じ内容を秋丸機関参加者が一般の雑誌に堂々と書いていましたし、同様の分析も当時の新聞や雑誌で公表されていました。陸軍内のほかの研究でも同様の分析がされていました。秋丸機関の報告書の内容は当時の常識的なものだったわけです。

 そうなると、問題は「なぜ正確な情報が受け入れられなかったのか」ではなく、「正確な情報は多くの人が共有していたのに、なぜ対米開戦というハイリスクな選択が行われたのか」ということになります。秋丸機関について調べていたら、「日米開戦の謎」を解かなくてはならなくなったのです。思想史の研究者である私にとっては大変荷の重いことになりましたが、資料や報告書を見つけた以上、研究者としての責任を果たさなければならないと思い、専門外ながら軍事史の本を読み漁ったり、組織内や集団内での意思決定についての研究を紐解いたりすることになりました。

 結果として、拙著では行動経済学や社会心理学を使って「謎解き」を試みましたが、理論的な説明がこれで十分とは考えていません。しかし、刊行後に経済の実務家の方々から「正確な情報があってもハイリスクな選択をしてしまう現象は企業などでも多く見られ、大いに参考になる」という多くの好意的な評価をいただきました。歴史に学びつつ、現代においてより良い選択をしていくために必要なことは何かを、拙著を「たたき台」として読者や研究者の皆様に考えていただければ幸いです。

 一方で、拙著の対象は太平洋戦争開戦前のごく短い期間であり、「日本はなぜ戦争をすることになったのか」という、より根本的な問題を考えるためには、もっと時期を溯る必要があります。以前私がいただいた石橋湛山賞、そして今回いただいた読売・吉野作造賞は、それぞれ国際協調を重視した石橋湛山と吉野作造を記念するものですが、彼らの主張がなぜ実現しなかったのかを考えなければなりません。特に近年は米中貿易戦争や各国における「自国ファースト」の高まりなど、国際協調が破綻し世界が戦争へと向かっていった一九三〇年代を思わせるような現象が広がっています。現代的な問題を念頭に置きつつ、読売・吉野作造賞の重さに身を引き締め、日本史・経済学・思想史などの学際分野である自分の専門分野を掘り下げて研究していくことを通じて、新たな課題に取り組んでいきたいと考えています。

 

〔中央公論2019年7月号より〕

 読売・吉野作造賞という伝統の賞を頂くことになったことは、私にとっての生涯の名誉であり、関係者の皆様に深く感謝したい。これまでの受賞者の方々の赫々たる実績に及ぶべくもないが、これを励みとしてさらに精進していきたい。

 この機会に、私をこのような名誉ある場に導いてくれた三人の先達について述べさせて欲しい。一人目は宮崎勇さんだ。宮崎さんは経済企画庁の大先輩で、私が一九六九年に経済企画庁に入った時の最初の課長(内国調査課長)である。宮崎さんは官庁エコノミストとして大活躍していた。現役官僚時代の七五年に『人間の顔をした経済政策』(中公叢書)で吉野作造賞(読売・吉野作造賞の前身)を受けている。私は、官僚という立場を貫きながらも、対外的にも優れた業績を残しつつある大先輩を誇らしく仰ぎ見ていたものだ。私は、宮崎さんから「経済は、人間を幸せにするという最終目標のために存在するものだ」ということを学んだ。これは、その後私自身が経済を見る上でのコア哲学となっている。私は、何人かの仲間たちと、宮崎さんが亡くなる直前まで、宮崎さんを囲む会を続けてきた。続けてきたどころか、宮崎さんが亡くなった後は、「偲ぶ会」と名を変えて現在に至るまで続いている。いかに宮崎さんが多くの後輩に慕われていたかが分かるだろう。

 二人目は香西泰さんだ。香西さんは、私が役所に入って二年目に課長補佐として私の直接の上司となった。香西さんは、役人世界で誰もがその実力を認める存在となっており、対外的にも幅広く活躍していた。私は当初、悲しくなるほど厳しく鍛えられたものだ。その後、香西さんが日本経済研究センターの理事長だった時に、主任研究員として私を招いてくれるなど、親しく指導を受けるようになった。現在私は、日本経済研究センターで研究顧問を務めているが、私が使っている部屋は、直前まで香西さんが使っていた部屋だ。

 香西さんには『高度成長の時代』(日本評論社)という洛陽の紙価を高めた名著がある。この本は八一年に日経・経済図書文化賞を受けている。これは、香西さんがエコノミストとして併走し、観察してきた日本経済の同時代史である。香西さんを仰ぎ見ながら、私もいつかこんな同時代史を書いてみたいと夢見たものだ。

 宮崎さんと香西さんは、私にとって永遠にたどり着けない遠い星のような存在だった。しかし、たどり着けないまでも、その星を仰ぎながら、日々変転する経済の流れを追い続けてきたことが、私を少しずつ前進させてくれていたようだ。今回、香西さんの『高度成長の時代』をお手本にした、私にとっての同時代史『平成の経済』を上梓し、それがかつて宮崎さんが受けたことのある読売・吉野作造賞を受けることになったわけだ。不思議な結びつきを感じる。

 そして三人目として、父を挙げさせて欲しい。私が今回の受賞に至った一つの要因は、私の「書くことを全く厭わない」というか「書くことが好きだ」という資質にあるかもしれない。私は日本経済を観察しながら、多くの本を出し、評論、エッセイを執筆し続けてきた。その質はともかくとして、出した本の数という量では宮崎さんにも香西さんにも敗けていない。その蓄積が『平成の経済』を書く上での重要な土台となっている。私は書くことによって成長してきたようだ。書くためには情報をインプットする必要があるが、アウトプットがないと効率的なインプットはできない。また、書いてみて初めて「自分が何を分かっていないのか」が分かり、書いているうちに自分の考えが整理されてきた。

 こうした私の資質は、父から受け継いだものではないかと私はかねてから考えてきた。父は大学の教科書を出版する小さな出版社を経営していたので、小さい時から私の周りには、父が赤を入れたゲラ刷りが散在していた。父は、勉強や読書も好きで、私の家には、百科事典や文学全集がドカンと揃っていた。私は、時代が許していれば、父は学者になったのではないかと考えたものだ。父も母も既にいないが、生きていたら、私本人よりも今回の受賞を喜んだはずだ。今回の受賞で、天国の父母に最高のプレゼントができた気がしてとても嬉しい。

 多事多難だった平成の時代が終わった後も、今回のコロナショックのように、日本経済には誰もが予想しなかったような出来事が続いている。今回の受賞を励みとして、これからも力の及ぶ限り、変転極まりない日本経済と併走し続けていくつもりだ。

 

〔中央公論2020年7月号より〕

─小説のモチーフに将棋を選ばれたきっかけは何でしょうか。

 執筆のご依頼を頂いた時に、私の好きな映画『麻雀放浪記』と、小説『砂の器』を掛け合わせたような、重厚な人間ドラマを書きたいとお話ししました。それに加えて、厳しいプロの世界を描きたい思いもあったのですが、麻雀はかつてほど家庭に浸透しておらず、楽しむ人が限られています。その点、将棋は大人も子供も馴染みがあってプロの世界の注目度も高い。私自身は将棋の駒の動かし方くらいしか知らないのですが、亡くなった父が将棋好きで、よく指していた姿にも後押しされました。大崎善生さんの『聖の青春』にも影響を受けました。この本で、プロ棋士になるのがいかに大変かを知り、そのような世界でプロ棋士がせめぎ合っている姿を書いてみたかったんです。

─物語の筋書きに高度な棋譜を織り込む苦労はありましたか。

 苦労だらけでした。色々な将棋の本を読んで、紙で作った駒と盤で棋譜や戦術を再現しながら書きましたね。それをプロ棋士で監修の飯島栄治先生に読んで頂き、細かく指導してもらいました。ただ、将棋を知らない読者もいます。そこで、それがどういう場面なのか、指し手が追い込まれているのか、勝つ寸前で何を考えているのかなど、将棋に命を懸ける棋士の息づかいがわかるような書き方に心を砕きました。

─本作の緻密な筋書きは、どのように構想されたのですか。

『盤上の向日葵』に限らず、他の作品も大筋やゴールは最初に決めますが、ゴールに至る筋書きは、執筆中に変わることがあります。意識するのは、いかに読者に次のページをめくらせるか、です。『盤上』を連載した「読売プレミアム」(当時)は比較的一話一話が短かったので、少ない文字数の中で読者の興味をいかに引いて次のシーンに持ち越すかを考えて書きましたね。

─主要登場人物の桂介やはとても魅力的なキャラクターです。モデルとされた人物はいますか。

 東明は実在した小池重明という真剣師を参考にしました。かなり破天荒で波瀾の人生を送られた人ですが、将棋を指したらすごいというギャップに惹かれました。東明も、人として破綻した、どこか欠けている人間ですが、将棋を指したら誰も敵わないものすごい強さを持っています。そこがいかにも人間臭くて魅力を感じます。

─ゴルフを始められたと聞きました。どのようにオンとオフを切り替えていらっしゃるのでしょうか。

 作家デビューからの一〇年間、私はオンオフをうまく切り替えられませんでした。五十歳手前で体調を崩し、執筆のペースが落ちると、「これはいけない」と思い、ゴルフを始めたのですが大正解でした。仕事に集中するためにゴルフをしようとか、逆にゴルフを楽しむために仕事を頑張ろうとか、いい意味でモチベーションを保つことができ始めたと思っています。私にとって執筆には猫も必要不可欠で、煮詰まった時にその温もりに触れると、張り詰めた気持ちが緩んで、とても力になっています。

─『盤上の向日葵』は柚月さんのデビュー一〇年目の作品でした。「次の一〇年」をどのようにお考えですか。

 デビュー当時のひとつの目標は、とにかく最初の三年は生き残りたい、というものでした。それが五年を超え、一〇年をクリアし、今は「次の一〇年を生き残る」ということを目標にしています。生き残るために必要なのは、読者がいてくれること、作品を書かせてもらえることです。一作ずつ丁寧に書いて、読者に「柚月裕子の本が出たんだ、読みたいな」と思ってもらえる作家であればうれしいですね。「作家に引退はない。書かなくなったら、書く場所がなくなったら消えるだけだ」。これは、とある先輩作家の言葉ですが、本当にそうだなと感じます。私は消えたくない、一日でも長く作家であり続けたいと思っています。それがデビューしてからずっと変わらない望みです。

 

〔中央公論2020年11月号より〕

評者:近藤雄生(ライター)

 近年、日本での基礎研究の衰退を懸念する声がよく聞かれる。研究に割り振られる予算の総額は大きく変わってはいないものの、国立大学において各研究者の研究の基盤となるべき一般運営費交付金が年々減り、競争的資金が増えていることがその象徴である。つまり、短期間で結果が出てわかりやすい形で「役に立つ」研究にばかり資金が流れやすい構造になっているのだ。

 そのような傾向は、必ずしも日本だけではなく、アメリカでも同様であり、さらには二十世紀前半もそうであったことが本書には書かれているが、そうした中、おそらく世界で唯一、「役に立たない知識」を探究することを標榜し、一切成果を要求せず、ただやりたい研究だけに没頭できる環境を提供する研究所がアメリカ・ニュージャージー州にある。それが、世界に名を轟かすプリンストン高等研究所である。

 本書は、この研究所の設立に尽力し、初代所長となったエイブラハム・フレクスナーが八〇年以上前に書いたエッセイと、それを補足するように書かれた現所長ロベルト・ダイクラーフによるエッセイとで構成される。

 フレクスナーのエッセイのタイトルが、そのまま本書のタイトル(英題)になっているのだが、その言葉通り彼は、本書の中で、研究は、ただ好奇心のみを出発点として行われなければならず、「有用性」という概念を徹底的に排除するべきだという信念を情熱的に語っている。彼は言う。ガリレオもニュートンも、ただ好奇心のみを原動力とした。マクスウェルもファラデーも、自分の研究が社会に役立つかどうかなどは一切気にしなかった。そしてそうした、「有益さ」を超越した知的探求こそが、結果として世界の仕組みを明らかにし、世の中を変えていったのだ、と。

 彼の揺るがない信念は、アインシュタイン、ボーア、湯川秀樹、フォン・ノイマンなど、世界的な科学者や数学者をこの研究所へと引き寄せた。そしてプリンストン高等研究所は、研究所として他に例を見ない形で人類的貢献を果たしていくことになったのである。

 またフレクスナーはこうも言う。結果的に大きな成果をあげられるから自由に研究するのが重要なのではない。精神と知性の自由のもとで行われた研究活動は、音楽や芸術と同様に、人間の魂を解放し満足をもたらすという点だけで、十分に正当化されるべきなのだと。彼の、自由に研究することそのものへの徹底的な敬意とそれに基づく行動は、現代の状況と重ね合わせると心を打つほどである。

 さらに彼は、研究が悪用された場合に関しても科学者に責任はないと書くが、その点については、現所長のダイクラーフが、核兵器が生まれた経緯を知る現代の立場から、自らのエッセイの中で慎重に異を唱える。

 そのように、時代とともに変えるべきところは変えながらも、科学や研究に対する姿勢の根幹は一切ぶれないところが、この研究所が唯一無二の存在であり続ける所以なのだろう。

 ちなみに、最近読んだ『量子革命』(新潮文庫)は、高等研究所に縁の深いアインシュタインとボーアという二人の天才の、量子力学をめぐる歴史的な論争を緻密かつ人間味豊富に描いていて面白かったが、読むと、その中で研究所が果たした役割も見えてくる。本書と併せてお勧めしたい。

 

〔中央公論2020年11月号より〕


◆エイブラハム・フレクスナー
一八六六~一九五九。プリンストン高等研究所初代所長。

◆ロベルト・ダイクラーフ
一九六〇年生まれ。プリンストン高等研究所現所長。

評者:かとうちあき(『野宿野郎』編集長)

 いきなりですが、勃起薬・バイアグラのブームを覚えていますか。  バイアグラは一九九八年にアメリカで発売。すぐ世界中でブームとなり、日本では翌年、医療用医薬品として異例の速さで承認されました。

 一方、同じ年に医療用医薬品となった低用量ピルは承認まで数十年という歳月がかかっており、現状をみても薬局での緊急避妊薬の販売は進まないわ、中絶でいまだに法が廃れていないわ、諸外国に比べて女性の性や生殖に関わる政策はのろのろ。も~、なんなんだ! 決定権のある場に男性しかいないの、やばい!

 なーんて、バイアグラって名前を思い出すと、わたしはぷんすかしてしまうのでした。......ふう。

 そんなわたしが今回絶賛ご紹介させていただきたいのが、『ヒヤマケンタロウの妊娠』です。妊娠・出産をテーマにした、ほれぼれと知的でフラットな筆致のマンガで、描かれているのは、男性も妊娠するようになってから一〇年経った世界。とすると妊娠・出産にまつわる問題もだいぶ改善されていそうなものですが、ここで絶妙なのが、この世界で男性の自然妊娠率は女性の一〇分の一だということ。そのためほとんどの男性にとって妊娠はまだ他人事で、少数である「妊夫」への偏見がむしろ強い社会なのでした。

 思いがけず妊娠して動揺するケンタロウも、職場で差別的な言葉を浴びせられたり、電車で学生に笑われたり。

 そんな中なにくそと出産を決めると、ケンタロウは会社や社会に居場所をつくろうと「ウムメンカフェ」を企画するなど、妊娠に対して偏見を持ち知らないことだらけだった周りや自分自身を、少しずつ変えてゆきます。

 男性の妊娠を通してこのマンガで可視化されているのは、おそらく女性が妊娠・出産を通して、日々体験している日本の現状でもあって......。

 ケンタロウの奮闘や成長のストーリーに惹きこまれて読みすすめると、このまま一人で生きていくんだろうな~なんて思っているわたしのような妊娠・出産に縁遠い人間でも、妊婦さんをとりまく現状への理解が深まっていくという、すごいマンガなのでした。

 ってことは、妊娠・出産に関わったことのある方たちが読むと、共感の嵐なんじゃないか。

 このマンガ、二〇一三年発刊で紙のコミックは入手が難しい状況ですが、時代が追いついてきたのでしょうか。電子書籍で読み継がれ、WEBで話題に。現在は月刊誌『BE・LOVE』(講談社)で、ケンタロウの出産から三年後を描いた『ヒヤマケンタロウの妊娠 育児編』が連載中です。

 坂井恵理さんのほかのマンガには、保育園を軸に、子育てに取り組むいろいろな人たちの物語が、オムニバス形式で紡がれる『ひだまり保育園 おとな組』(双葉社、全三巻)もあります。こちらも面白く、子育ての経験がない人間にはやっぱり現状の学びにもなるぞ。読んでいると、登場人物たちの奮闘を応援したくなりますし、男女や子のありなしに関係なく、出産・育児がしやすい社会のほうが誰にとっても生きやすそうだよなあ、なんて、しみじみ思わされる次第です。

 面白くって、共感はもちろん、体験できないことを知ることができたり、思いを馳せられたり。マンガってすごいなあ。

 RPGの世界でワンオペ育児と仕事の両立の「無理ゲー」さが描かれる、かねもと『伝説のお母さん』(KADOKAWA)もとても面白いマンガです。かつて魔王を倒して世界を救った伝説の魔法使いが、復活した魔王を討伐するために魔法使い(=仕事)復帰をするものの、待機児童が多すぎて子どもを保育所に預けられないわ、夫が戦力外だわ、魔界の方が子育て支援の政策が充実しており、仲間の勇者は寝返っちゃうわ。このままじゃ世界、滅ぼされちゃうよ! って、お母さんを熱烈応援したくなること必至なのでした。

 それからそれから。って、まだご紹介したいマンガは数あれど、紙幅が足りない~。

 冒頭のバイアグラへのルサンチマンに字数を使い過ぎたような気がして小さくなりつつ......。とりあえず政治家はみんな、これらのマンガを必読書にしてほしいです!(ぷんすか)。

 わたしの回はこれでおわりです。これまでありがとうございました。

 

〔中央公論2020年11月号より〕

※本稿は、石丸謙二郎『山へようこそ -山小屋に爪楊枝はない』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

実は山登り歴50年です

 今まであえて公言していなかったが、山登りは50年近く楽しんできた。

 僕が本格登山を始めたころは、ひとりで行く「単独行スタイル」がほとんど。男女のカップルとか仲間で2、3人なんてほとんど見かけなかった。僕の場合も、初めは単独。修行僧のように黙々と登っていた。

 大学3年生になったとき、芝居をやるために大学をやめた。山歩きも、やめた。山歩きは楽しすぎる。芝居ひと筋の気持ちでいかないと役者になれない。中途半端な考えではなにも手に入れられないと思ったからだ。だから所属していた劇団では、僕が山登りをしていたことを誰ひとり知らない。

 40歳になってやっと、役者としてスタート地点立てた。そのころから山登りを再開し、今度は単独ではなく、仲間と歩くようになった。

 NHKのプロデューサーから、新しく始めるラジオ番組のパーソナリティをやらないかと声をかけてもらい、土曜朝の『石丸謙二郎の山カフェ』の放送が始まったのが2018年4月。翌19年、谷川岳のロッククライミングで鍛えたわけでもない「山が好きなごく普通のおじさん」の僕が、「山の日アンバサダー」にも選ばれた。アンバサダーとは大使の意味。「山へ行ってみたいけど、どうしようかなぁ」とためらっている人の重い腰を押して、山へ誘うのが役目だと思っている。

山の道具とおカネ

 まずは石丸流の山の歩き方についてお話ししましょう。
 山歩きの楽しみ方は、「何歳から始めるか」によって違ってくるのではないでしょうか。たとえば40代後半からの方なら、おカネにも時間にもゆとりができてくる。だから山歩きにおカネと時間をかけられる。そういう方には、「道具に頼りなさい、道具におカネをかけなさい」とアドバイスをする。どんなスポーツでも、道具におカネをかけると上達が早くなるし、ラクにできるようになる。

 山の道具の場合、おカネをかけることによってなにが変わるのかというと、まず、背負う持ち物を軽くできる。若いころは余裕がないので装備類にあまりおカネをかけられない。重たい装備でも気にせず、体力にまかせてどんどん登っていた。それができたからよかったのだが......。中高年になるとやはり体力の衰えは隠せない。ありがたいことに、最近は驚くほどに軽量化が図られたリュックサックがあるし、コッヘル(登山用鍋)でも極端に軽く、湯がすぐに沸く高機能なものもある。雨具も充実している。高価といっても、目の玉が飛び出すほどでないのが、山のいいところだ。

 もうひとつ別の考え方がある。若い人や、50歳を越えて「遅ればせながら、ちょっと山歩きをしてみたい」という人にお勧めなのは、「とりあえずは、いま持っているのを使って始めてみる」ことだ。普通の日帰りハイキングくらいなら、靴底にデコボコがあるスニーカーやトレッキングシューズで十分。足首まで覆うハイカットの登山靴でなくても、捻挫をしないように気をつけて歩くことから始めるのも良し。高尾山登山に、サンダル、ハイヒールはどうかと思うが、本格的な登山靴は必要ないだろう。慣れないうちに重たい靴を履いていると、かえって疲れてしまう。

着古したシャツでも十分!

 道具類は、山歩きに慣れ始めてから、たとえば2ステップくらいで買い替えるのがいい。2、3年で買い替えるのか、10年もつのを買うのか、どの山域でどういう山歩きを目指すのか。いくつかのパターンを考えてみる。ならば、次は登山用品店へ下調べをしに行こう。店員さんがいろいろ説明してくれる。もし登山に詳しい人がそばにいるなら、その人に同行してもらうのもひとつの方法だ。下調べが終わったら、いざ、山へ。まわりの人がどんな靴を履いているか、なにを着ているか、どんなものを持っているか、いろいろとまわりの登山者たちの道具やスタイルを見ることも勉強になる。

 山でまわりの登山者を見ていると、中・上級者向けの用具を初心者が揃えている例をまれに見る。「いろいろな用具や服装をきちんと揃えないと、山へ行ってはいけないんじゃないか」。この考えはよくわかる。しかし、初心者は初心者用でいい。ステップアップしていく楽しみは、初心者の特権だ。ゴルフなら、古く錆びたアイアンを持っているとちょっと恥ずかしいかな。だけど山はそうじゃない。古い道具でも恥ずかしくない。

素材の進歩は著しい

 山では、夏でも長袖シャツを着て長ズボンを穿く。半ズボンならその下に山用のタイツを履く。山道にはクマザサが多い。これで足を切ると痛くて風呂に入れなくなる。長袖を着るのは、木の枝や虫対策、転んだときのケガ予防など、いろいろな効果がある。ただしジーンズは避けること。ジーンズは雨に濡れると重くなって乾かないし、雪がつくと凍りついてゴワゴワに固まるからだ。(実は、僕の実体験です)

 木綿のシャツは温かいが、汗が乾きにくくて重いので登山には不向き。登山用の吸汗速乾性のモノを使おう。素材の進歩は著しい。少々濡れると逆に発熱して温かくなるモノまである。大事なのは「暑い」「寒い」をガマンしないこと。立ち止まり、脱いだり着たりを繰り返して調整する。汗で濡れたシャツが体を冷やすとカゼをひくことになるからだ。忘れがちだが、靴下も大事。むかしは木綿の靴下しかなかったから、靴の中で汗をかいて濡れてしまう。これが靴ずれの大きな原因になった。いまは新しい素材のものがいろいろある。僕は化繊の靴下だ。薄手の上に厚手の温かい靴下を重ねて履いている。

三つ峠山荘より富士.JPG

三ッ峠山(山梨県)の山小屋から望む富士山(公式ブログより。撮影/石丸謙二郎)

山小屋に泊まってみよう

 もう一歩上の登山を楽しみたくなったら、山小屋に泊まってみよう。さて、ここで必要な心構えがある。
「すみませ~ん、爪楊枝ありますかあ?」。山小屋の食事のあとに、声をかける登山客がいる。実は、「山小屋に、爪楊枝はない」。なぜないのだろう? ここで初めて気づく。爪楊枝とはぜいたく品なのだ。食事や寝床など最低限のものを提供してくれるのが山小屋。「個人的に必要なものは各自持ってきてほしい」というのが基本的な考え方。
「爪楊枝は、必需品ではない!」

 山小屋で「爪楊枝をください」なんていうと、すぐに山小屋初心者だとバレてしまう。山小屋は、旅館やホテルとはまったく違う。ないない尽くしだ。(思いつくままに並べてみよう)

・ゴミ箱がない。ゴミは持ち帰る。
・浴衣などない。寝間着の工夫が必要。ハンガーはないと思ったほうがいい。
・歯ブラシもタオルもない。持って行く。
・スリッパはあったりなかったり。ないほうが多い。
・サンダルはちょっと戸外に出るときのために用意してあるところが多い。(現在は感染症対策として持参しよう)
・部屋にコンセントがない。スマホ用の充電器やデジタルカメラの予備電池を必ず持参する。充電スペースのある山小屋も一部あるが、制限がある。
・レンタル物はほとんどない。貸し傘はない。たまにヘルメットを貸すところはある。
・原則として風呂もない。あっても石鹸は使えない。

 なにしろ山の中なのだから、日ごろの生活との違いを楽しもう。

ちょっとした心遣い

 気をつけたいのが、コンビニやスーパーにあるレジ袋。これがなかなかのくせ者だ。以前は、リュックサックの中身を小分けするのに使う人が多かった。このレジ袋を触ったときの音が、かなりうるさくて耳障り。夜遅くや早立ちの早朝にシャカシャカやられたらたまらない。山と溪谷社の萩原浩司さんが「シャカシャカ」の音量を測ったところ、なんと77~78デシベル。これは電車が通るガード下にいるときの音量だとか。そこで萩原さんが騒音対策に考えたのが、ナイロン製の小袋やスタッフバッグなどと呼ばれる巾着袋を使うこと。

 山小屋では小銭も千円札も数が限られている。お釣りがなくなる心配をさせないよう工夫したい。あらかじめ料金をビニールの小袋に入れて持って行くなど、ちょっとした心遣いが喜ばれる。

 僕はいつも五百円玉を2個持っている。ビールや小物を買うときのためだ。缶ビールは350ミリリットル1本で500円が相場。高い? そうは思わない。町の居酒屋で飲む料金とさほど変わらないし、缶ビールはいまだにボッカ(人が荷物を担いで山小屋に運び上げること)に頼っているところが多いからだ。

 トイレも忘れてはいけない。山小屋のトイレは宿泊者以外は有料で、1回100円が多く、百円玉を専用の箱に入れる方式だから、山小屋泊まりに百円玉は必需品。

 おカネといえば賽銭箱に入れる小銭も必要だ。登山口などには山を祀った神社が多い。登山の安全を祈って、お賽銭をあげて拝む。そのときのためにも僕は小銭を何枚か持っていく。持ち合わせがなかったときにお願い事をしていると、何か睨まれているような気がして、首が縮こまる。

これからの山登り

 新たな世界規模の感染症という試練が襲い、山へのアプローチが大きく変わった。2020年というこのときを、おそらく生涯忘れないだろう。そもそも今回の感染症に関しては、山登りほど良きものはないだろうと考えている。人に接するのも少なく、密にもなりにくい。その上で、健康的な運動ができるとあれば、むしろ山登りは奨励されてしかるべきモノだと思える。ただし、ケガなどでレスキューされることを考えれば、それなりの覚悟をしなければならないだろう。特に山小屋での過ごし方もガラリと変わり始めている。

 これからの山登りがどうなっていくのか。それぞれ個人が考え、行動しなければならないのか? それとも、国もしくは、山の活動団体が、指針を促すのか? 柔軟な考え方をする登山者に任せてしまうという方法もあるが、四角四面のやり方では、うまく続かないかもしれない。いずれにしても、僕は山に登りたい。

「なぜ山に登るのですか?」山登りをする人にかけられる言葉。その質問にはこう答えたい。「それが日本にあるからです」
 日本の山という、海外から見ればうらやましい限りの四季に彩られた峰々のつらなり。高山の花や鳥たち、飛びかう蝶の群れ、どうどうとしぶきをあげる滝。沢の流れの清らかさ。息をのむ程に眩しく輝く紅葉。そして毎日のように新雪が降り積もる、ジャパウと呼ばれる雪山。日本の山という宝物を、ひとつひとつ数えるように登る。ひとつの山の頂から、さらに遠くのもうひとつの山を見つける、その喜び。

 さあ、山にでかけてみませんか。アナタが歩こうとしている山道は、長い間多くの山好きビトが、汗を流し続けた喜びの道なのです。その道を、是非繋いでもらいたい。一歩一歩。山はいつでもどこでも、一歩一歩。

※石丸謙二郎 公式ホームページ公式ブログ

※本稿は、立花隆『新装版 思考の技術――エコロジー的発想のすすめ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

似たもの同士は手ごわいライバル

「ガウゼの仮説」と呼ばれている法則がある。ロシアの生物学者G・ガウゼが、同じ培養液中で二種のゾウリムシを繁殖させようとしたところ、どうしても成功しなかった。必ず一種類は絶滅し、一種類だけが残るのである。このことから、属を同じくするか、属はちがっても生態的地位の似かよった二種類の生物は同時に同じ場所には住めないという仮説をガウゼは立てたのである。その後の研究によって、この仮説が必ずしも成りたたない場合があることが知られている。

 しかし、少なくとも生物間では近縁の種の間ほど激しい競争が展開されるというのは事実である。考えてみれば、これは当然といえる。競争が成立するのは、競争者の間に同じ土俵が存在する場合に限られる。生物の場合でいえば、食物と住み場所が抵触しなければ、別に競争しなくてもよいわけである。

 動物たちの間には、複雑な食物連鎖の網の目があって、無用な競争はうまく回避されている。なかで人間だけは、やたらにいろんな食物に手を出すので、さまざまの動物と競争になる。そして、もともとその食物を食していた動物をすべて、害虫、害獣扱いするのだから、動物たちにしてみれば、迷惑な話といえよう。

 人間をのぞけば、動物たちはそれぞれ特有の食物を食べ、かつ移動の自由を持っているから、競争をあまりしないで共存することができる。ところが植物となると話は別である。移動の自由を持たない。そしてどの植物も地中から養分を吸いあげ、太陽光線を受けて同化作用を営もうとする。そこで、植物界では最もきびしい競争が展開されていく。植物の中には、競争に勝つために、ある種の有害物質を出して、他の植物の成長を阻害するものもあるという。

競争がいやなら、植物型から動物型サラリーマンに変われ

 このあたり、人間社会での競争現象にもかなり似たところがある話である。勝つために自分が強くなる以外に、相手の足を引っぱるという手もあるわけである。企業内でのサラリーマン社会における競争は、基本的に、同じ場所で同じ養分を奪い合う植物的な競争である。

 転職の時代が口にされてはいるが、まだまだ日本の社会では労働市場の流動性に乏しい。移動ができないうえに、企業内の日の当たる場所は有限ときているから、その競争は陰湿かつ苛烈なものになる。さまざまの手を用いて、競争に勝てなければ、植物社会での低木層や下生え植物のような地位に甘んじて一生を終えなければならない。

 そんな競争がいやなら、植物型サラリーマンから、動物型サラリーマンに変わることである。転職によって移動し、住み場所を変えるのが一つの方法。もう一つは、他の人が食べない食物を狙うことによって競争を回避する方法。つまり、スペシャリストが少ない分野でのスペシャリストになる方法である。

過密社会では障害がふえる

 動物集団には、生存に最も適した密度があって、個体数がそれ以上になるのも、それ以下になるのもよくない。とりわけ、過密と過疎は致命的である。過密がいけないのは、第一に食物不足に陥るからである。

 過密の害はそれだけではない。カキを養殖するときは、カキの幼生をバラバラに離しておく。自然のままの状態にしておくと、同じ場所に無数にくっつき、ごく一部のものだけが正常に成育し、残りは混み合った場所に体を合わせて細長い体形になったりして生き残ろうと努めるが、結局は個体数過剰のために死んでしまうのである。過密都会の子供たちが俗に青びょうたんと呼ばれるような情けない肉体しか持てないのと似た現象である。

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 過密状態は個体間のストレスを増加させる。その結果、さまざまの障害が起こる。アメリカのフィラデルフィアの動物園では、ある動物を繁殖させてやろうと計画し、どんどんふやしていったところ、それにつれて動物の心臓病が倍増してしまったという。ストレスの結果として、ある動物は生殖能力を減退させ、ある動物は成長速度が遅れる。また、いままでとも食いをしたことがなかった動物が、密度がある程度以上に高くなるととも食いをはじめるという現象もしばしば観察されている。ときには集団発狂でもしたかのごとく、水に飛び込んだりして集団自殺をとげる動物もいる。 

少なすぎても生きられない

 一方、過疎状態もよくない。社会生活を営んでいる動物は、遺伝情報だけでは、生存に必要な知識を十分に得ることができない。サルを一匹だけ隔離して育ててやる。その後で、サルの集団の中に入れてやっても、このサルだけは、正常に性行為を営むことができない。あるいは、野山の植物の中から、食べられるものを選ぶといったこともできなくなってしまうのである。

 高等動物ほど、遺伝情報より社会情報が重要な意味を持ってくる。人間が社会情報から全く隔絶された状態で育てられたらどうなるかについては、二、三の狼少年の実例の報告があるが、いずれもついに人間らしい人間に戻ることはできなかった。

 カモシカは一五匹以上いると、オオカミなどに襲われたときに、一団となって攻撃から身を守ろうとし、被害を最小限に食いとめることができる。ところが一二、三匹以下だと、襲われたときにバラバラになって逃げだし、結局、片端からオオカミの餌食となってしまう。

 また、チャドクガの幼虫は、ひと塊になってチャやツバキの葉を食べていく。ところが、これを二、三匹ずつ離して葉の上にはなしてやっても、葉をうまく食いちぎれなくて、飢え死にしてしまう。

集団を作ることで得られる利益

 動物が集団を作ることによって得られる利益はいろいろある。共同で食物を求める、敵から身を守るといったことのほかに、思いがけない相利作用がいろいろあるのである。

 たとえば、水銀コロイド溶液の中に金魚を入れて、何分で死ぬかをはかってみる。金魚を一〇匹入れたのと、一匹入れたのとでは、他の条件を同じにしておいても驚くほどちがう。一〇匹のほうは平均五〇七分、一匹のほうはわずかに一八二分なのである。これは金魚の体表から出る分泌粘液が毒物を吸着するためで、一〇匹入れたほうは、そのおかげで毒性がかなり緩和されるのである。

 ミツバチは多数のハチがいっせいに羽を動かして蜜房の換気をする。扁虫類は、太陽の紫外線から身を守るために、固まって一匹あたりの体表面積を小さくする。動物の学習速度も、集団をなしているときのほうが速いことが知られている。人間でも家庭教師より、学校のほうが学習効果があがるのである。

 植物の種子をまくのでも、野菜の種子は巣まきといって五、六粒ずつまとめてまかれる。一粒ずつばらすより、そのほうが成育がよいからである。 

引っ越しのチエ

 動物は適正密度を保つために、さまざまの手段を講じている。過密になったときに、集団自殺やとも食いをしたり、成長速度、生殖能力を遅らせるというのもその一つの手段だが、手っとり早いのは、引っ越しである。

 京都大学教授森下正明氏(当時)は、いくつかの池がならんでいる場所での、ヒメアメンボウの繁殖を観察した。ヒメアメンボウは、まず最も生活条件のよい池の、最も生活条件のよい場所に住みつく。そこが一杯になってくると、もう少し条件の悪い場所に住むものが出てくる。それもある密度を越えると、別のより条件の悪い池へ移っていく。

 森下氏は、またアリジゴクでこんな実験もしている。アリジゴクは一般に細かい砂地を好む。そこで、半分は細かい砂、半分は粗い砂を入れた箱を用意して、そこにアリジゴクを放ってやる。はじめの数匹は例外なしに細砂区にいって住みつく。ところが、細砂区の住民数がある程度以上にふえると、こんどは粗砂区に住むようになる。

 大都市周辺の人家の混み具合いと比べてみると面白い。他の条件がどんなによくても、過密状態であることは、住み場所としての価値を減ずるのである。

ナウシカのマスク、コロナのマスク

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マスクのある光景

 コロナ禍のなかで、『風の谷のナウシカ』のアニメ版/マンガ版を読みなおす動きが起こっているらしい。わたし自身は、とりわけマンガ版『風の谷のナウシカ』に沈潜しながら、ようやく『ナウシカ考』(岩波書店、二〇一九年十一月)を上梓してホッとしていたこともあり、ほとんどコロナ禍と繋げてみようという気にはならなかった。あまりに細部にこだわってきたがゆえに、差異ばかりが眼につくのかもしれない。とはいえ、東日本大震災のあと、フラッシュバックのように、くりかえしマンガ版『風の谷のナウシカ』のいくつかの場面を想起したのとは、対照的であったかと思う。

 マスクとはなにか、という問いからはじめる。腐海のほとりに暮らす人々には、マスクが欠かせない。腐海の瘴気の毒性からすれば、なんとも粗末にすぎる簡易マスクではあるが、とにかく瘴気が近づけばだれもがあわててマスクを着ける。腐海のなかでマスクをはずすことは、ただちに死をもたらすはずだ。そのマスク姿が『風の谷のナウシカ』のそこかしこに転がっている。コロナの時代との共振と異和に眼を凝らさねばならない。

 半年が過ぎても、マスク姿にはなかなか馴れない。緊急事態が声高に叫ばれていたころ、仕方のない用事があって街に出ると、さすがに人通りはすくない。例外なしにマスクを着けた人たちがまるで宇宙遊泳でもしているように、それでいて、たがいに忌み物のようにあらわに距離を取りながらすれ違ってゆく。ウイルスに侵されているのは、こちらなのか、あちらなのか。その探り合いでもしているかのようだ。マスクをせずに歩いているだけで、あるいは、喉がむず痒くてから咳をしただけで、まわりの空気は一変する。それがこわい。

 ひと月ほど前のことだが、こんな異様な、しかし、じつは平凡なものでしかない光景に遭遇した。天井から吊り下げられたビニールシートの向こう側には、二五人ほどの受講者が少しずつ距離を保ちながら坐っていた。それぞれに色もかたちも微妙に異なったマスクで顏を覆っている。むろん、表情などはほとんど読み取れない。分厚いビニールシートなので、なおさら不鮮明な像しか結ばない。わたしはひとり、こちら側にいて、透明なプラスチックのシールドで顔の下半分を覆って、喋っている。講師なのである。人が、世界が、遠く隔てられて感じられたなどといえば、笑われるだろうか。

ナウシカのマスク、コロナのマスク

 これはたぶん、マンガ版『風の谷のナウシカ』のマスクのある情景とは、似ているようで似ていない。五分で肺が腐ってしまう死の森、腐海のなかにいて、あんな簡易マスクで身を守れるはずがない、という批判があったらしい。マンガ版ではやがて、人間の身体そのものが汚染に耐えられるように改造されていたのだ、と思いがけぬ方位に転がってゆき、物語としての圧倒的な深度とふくらみを獲得していった。それでも、腐海のほとりに暮らす人々は、瘴気にからだを侵され、ついには石化して死んでゆく運命にある。生まれてきた子どもたちが、無事に大人になる確率はきわめて低い。

 腐海のムシゴヤシなどの植物が飛ばす胞子、その菌糸が発芽すれば、あたりは吐きだされた瘴気によって汚染されてゆく。風の谷の城の地下ラボでは、ナウシカは腐海遊びをつうじて採集した胞子を育てている。きれいな地下水と空気のなかでは、猛毒のヒソクサスギだって花をつけ、瘴気を出すことはない。汚れているのは土のほうだ。マンガ版『風の谷のナウシカ』の第一巻、その前半であきらかにされている腐海をめぐる謎の一端である。つまり、瘴気は腐海の植物に由来する、人間にとっては害なす汚染物質なのである。簡易マスクは緊急避難のために装着するものであり、腐海のなかで暮らすためのマスクではない。

 爆発事故を起こした原発が撒き散らす放射性物質は、眼には見えず、色もかたちも臭いもない。爆発事故のすぐあとに、水溜まりがピンクや紫に染まっていたと聞いたことがあるが、真偽のほどはさだかではない。ムシゴヤシが飛ばしている午後の白い胞子は、まるで粉雪か泡雪のようにひっそりと降り積もる。それはとりあえず、眼に見える物質(モノ)であり、見えない放射線や放射性物質とはまるで性質を異にしている。

 ところで、新型コロナウイルスは見えるのか、と問いかけてみる。このウイルスの電子顕微鏡による写真であれば、くりかえし眺めたことがある。真っ赤な太陽のコロナのような画像だ。コロナウイルスという名づけの由来もまた、それなりに納得はできる。しかし、画像的には見慣れたものであっても、わたしはそれをほんとうに見たのかと考えると、たちまち心もとない気分になる。あきらかなのは、このウイルスはヒトの五感レヴェルでは、色やかたちや臭いがない、つまりその存在を確認することができないということだ。コロナ禍が強いるマスクは、ウイルスが自分の身体に侵入してくるのを防御すると同時に、みずからが知らずに抱えこんでいるかもしれぬウイルスを他者に転移・拡散させないために装着する。それにたいして、ナウシカの世界では、簡易マスクはあくまで瘴気から自分の身を守るために装着するものであった。マスクの意味合いは大きく異なっている。

 マスクのある光景をいくつか拾ってみた。こうして細部にこだわるほどに、コロナ禍の世界とナウシカ的世界とは、似て非なるものだと感じずにはいられない。いったい、コロナからナウシカへとたどる道筋は存在するのか。

 

〔『中央公論』2020年11月号より抜粋〕

 九月十二日、大坂なおみ選手が、全米オープンテニス女子シングルスで、二度目の優勝を果たした。大坂選手がグランドスラム・タイトルを獲得したのは、今回で三度目だ。

 決勝戦の相手は、元世界ランキング一位のビクトリア・アザレンカ選手。大坂選手は前半全く調子が出ず、第一セットを落としたが、後半見事に挽回し、逆転勝ちした。決勝戦で第一セットを落としたにもかかわらず優勝した女性選手は二六年ぶりで、それも話題になった。

 翌十三日の『ニューヨーク・タイムズ』は、大きな写真を掲載し、二面にわたって彼女を称えた。記事の題は、「コートの中でも外でも活躍した大坂なおみが全米オープンに優勝」。政治家、スポーツ選手を含め日本人の顔がここまで大きく同紙に掲載されたことは記憶にない。

 米国での報道の圧倒的多数は、彼女の「コートの外」での発言や行動を、試合の結果と同等に称えていた。スポーツ専門チャンネル「ESPN」は「優勝トロフィーを手に入れるより遥かに大きなこと」と報じ、全米オープン自身も、公式サイトに「アスリートとして、そしてアクティビストとして、大坂なおみはチャンピオンである」というヘッドラインを載せている。

 スポーツ界、そして社会における大坂選手の影響力、また、人々が彼女を見る目が大きく変わった。今、彼女は、「能力の高い選手」から、「尊敬されるアスリート」になったと言えるのではないだろうか。

アスリートである前に、一人の黒人女性として

 周知の通り、いま全米で黒人差別に対する抗議運動、「Black Lives Matter」(BLM)が巻き起こっている。この運動は、二〇一二年に当時十七歳のトレイボン・マーティン氏が殺害されたことをきっかけに一三年から始まり、今日に至っている。そして、今回のBLMの発端となった五月末のジョージ・フロイド氏殺害事件後、大坂選手は抗議活動に参加すべく現地・ミネソタに飛び、SNS等でも人種差別に反対する意見を積極的に発信してきた。

 七月には『エスクァイア』誌に「ジョージ・フロイド事件の数日後に、大坂なおみがミネアポリスでデモに参加した理由」と付された文章が掲載された。彼女は、バイレイシャル(両親の人種が異なること)として育った経験、パンデミックによって「自分の人生に本当に重要なことは何か?」と改めて考える機会ができたこと、「私たちは、(BLMについて)当事者として考えるべき」と述べている。そして、「人種差別主義者ではない」ことだけでは不十分で、一人一人が「人種差別反対主義者」でなければならない、つまりどんな人種差別に対しても反対し、積極的に声を上げなくてはいけないと記している。

 八月二十六日、大坂選手は自身のツイッターにこう投稿した。

「私はアスリートである前に、黒人女性です。そして、一人の黒人女性として、私は、私のテニスを観てもらうことよりも、今すぐに関心を向けるべき、はるかに重要な問題があると感じています」

「テニスは、白人が多数を占めるスポーツです。そこにおいて、私が議論のきっかけを作ることができたなら、それは正しい方向への一歩と言えるでしょう」

「黒人がいつまでも警察の手によって虐殺され続けるのを見るのは、正直言って、もううんざりです」

 事実上、全米オープンの前哨戦であるウエスタン・アンド・サザン・オープン準決勝戦の欠場の意思表明だった。これは、八月二十三日にウィスコンシン州でジェイコブ・ブレーク氏が背後から七回にわたり撃たれたことを受けての抗議行動だった。日本の報道では「棄権」と訳されることが多かったが、英語メディアでは、「ボイコット(boycott)」と表現され、「棄権(withdrawal)」とはニュアンスが異なる。

 同時期、米プロ・バスケットボール(NBA)、大リーグ(MLB)などでも、ボイコットが広がっていった。全米テニス協会(USTA)は、大坂選手のボイコット宣言後、二十七日に予定されていた男女すべての試合の順延を決定。そして「テニス界は結束して、人種差別や社会的不公正と対峙する」と、黒人差別への抗議の意思を示した。これをうけ、女子テニス協会などが大坂選手に対して再び出場するように要請し、大坂選手もボイコットを撤回した。

 グランドスラムでは、その行動規範規則により、選手が試合において社会的メッセージのある着衣を身に着けることをこれまで許していなかった。しかし、今回の全米オープンでは初めてそれが許可された。USTAは、「人種間の平等を推進することに取り組んでいます。(中略)今の時代、選手たちが自身の信条をコート上でも表現できる機会を与えられるべきだと考えました」としている。

 そして大坂選手は、試合ごとに、近年殺害された七人の黒人犠牲者の名前を記した七種類のマスクを着けて登場。優勝後のインタビューでは、レポーターの「七枚のマスクを通じてどんなメッセージを伝えたかったのですか?」との問いに、「あなた自身は、どんなメッセージを受けとりましたか?」と逆質問し、それがまた話題になった。

 

〔『中央公論』2020年11月号より一部抜粋〕

なぜトランプ支持率は下がらない?
─党派化する選挙

 米国大統領選に向けた攻防が佳境に入った。新型コロナ感染症拡大阻止の失敗、長引く経済不況。ドナルド・トランプ再選には黄信号が灯っていると言われてきた。しかし、民主党・共和党全国大会が終了し、九月に入った今、全国の世論調査の支持率で常に一〇ポイント以上のリードを保ってきた民主党のジョー・バイデン候補と、共和党のトランプの差は七ポイント程度となり、勝敗の鍵を握る激戦州だとさらに差が詰まっている。

 トランプの追い上げが、その経済政策や感染症対策における実績への信任から生じているものとは考えにくい。例えばこの数ヵ月間、トランプは効果的な感染症対策を犠牲にしてまで、選挙にむけた支持者へのアピールを優先させてきた。感染防止のためのマスク着用に関しては、「個人の自由への政府介入」と反発する保守的な支持層に配慮し、重要性を軽視する発言を繰り返した。

 八月には、新型コロナウイルス対策顧問にスコット・アトラス医師を登用した。彼は保守系TV番組FOXニュースに出演し、新型コロナについて「メディアは騒ぎ過ぎだ」と批判してきた人物で、集団免疫の提唱者でもある。集団免疫は、若者や健康な人に自由に活動させ、経済活動の規制による経済の落ち込みを抑えながら、免疫を持つ人を増やすことを狙うものだが、成立までに多数の犠牲者を出す恐れがあるとして専門家から懸念の声があがっている方法だ。アトラス医師の登用には、経済再開を急ぎ、てっとり早くそれを裏付ける「科学的根拠」を取りつけようとするトランプの思惑が見え隠れする。

 二〇二〇年九月の時点で、米国は、新型コロナの感染者数・死者数ともに世界最大の被害を出しており、四~六月期の実質成長率も戦後最大のマイナス三二・九%に沈む。こうした数値を考えると、現職大統領トランプへの支持率は高過ぎるようにも思える。強固なトランプ支持者の存在をどう理解すべきか。

 昨今、政治学者たちは投票がますます「党派」に左右される現状を指摘している。かつては、大統領選の行方を左右する要因の中でも、投開票日までの経済情勢こそが有権者の選択に大きく影響するとされてきた。しかし昨今の政治学は、このテーゼに疑問を投げかける。共和・民主両党のイデオロギー的な分断が進んだ結果、有権者は経済情勢などあらゆる事象を党派のレンズを通じて理解するようになり、その支持は、経済情勢や大統領のパフォーマンスに影響されなくなっているというのだ。

 確かにコロナ禍のあおりを受けた経済不況下でも、トランプの支持率は共和党員では高いままだった。ピュー・リサーチ・センターが七月末~八月に行った世論調査によると、トランプのコロナ対応を、民主党支持者の六%しか評価しなかったのに対し、共和党支持者は七三%が評価していた。そもそも六割以上の共和党支持者が、米国で感染者数が増えているのは、検査数が増加しているからにすぎないと考えており、民主党支持者に比べてはるかに感染状況を楽観視している。これらの数字は、大統領のコロナ対策への評価や、さらにはコロナ危機の深刻さをどう考えるかも、支持政党によってまったく異なってくることを表している。

 バイデン陣営は、トランプのコロナ対策のアンチテーゼたることを意識して、科学に基づくコロナ対策を掲げており、多くの科学者もその姿勢への賛同を表明している。しかし、科学が党派を打ち破れるとは限らない。有権者が、党派のレンズ越しに現大統領の業績を判断する以上は、今後さらにコロナの感染が拡大し、経済が低迷したとしても、有権者がその原因を非科学的なトランプのコロナ対策に求めるとは限らず、その分トランプの再選が危うくなるとは一概にいえない。

 

〔『中央公論』2020年11月号より一部抜粋〕

【受賞作】
日本蒙昧前史  
磯﨑憲一郎(文藝春秋)

〔正賞 〕 賞状
〔副賞〕百万円、ミキモトオリジナルジュエリー

[選考委員]
池澤夏樹/川上弘美/桐野夏生/筒井康隆/堀江敏幸


※選評は『中央公論』11月号に掲載されています。


[受賞エッセイ・文学的近況]
『日本蒙昧前史』の時代の子供

 一ヵ月ほど前のことだが、私の所属する大学の研究会で、私は生まれてから小学校卒業までを千葉県の我孫子市で過ごした、という話をした、するとその話に、哲学者の國分功一郎さんが異常に強い反応を示した、國分さんは我孫子の隣の、市の出身だった、職場の同僚となって二年以上が経つというのに、私たちは互いにそのことを知らずにいた。

 昭和の四十年代から五十年代の前半にかけて、それは『日本蒙昧前史』の舞台となった時代ともほぼ重なるのだが、私たちは常磐線沿線の新興住宅街で育った。当時の我孫子や柏は、都心の企業で働くサラリーマンが住宅金融公庫でローンを組んで、家族で暮らすための一戸建てを買える場所として選択されるような、そんな街だった、私の父親は地元の工作機械メーカーに勤めていたが、小学校の同じクラスには東京の新聞社や官庁、保険会社の社員の子供も何人かいた。強引に宅地開発が推し進められても、誰も文句をいえない時代だった、田畑が潰され沼地が埋め立てられると、一瞬だけ、子供の遊び場としては理想的な、広々とした更地が出現するのだが、ほどなくそこには表札なしには区別するのが難しい、青い瓦屋根に白いモルタル塗りの壁の、似通った外観の建売住宅が並んでしまうのだ。

 とはいっても周囲にはまだまだ、放課後の小学生たちを退屈させないだけの自然が残っていた、私の家の北側にも、さすがに熊までは棲んでいないだろうが、鹿やイノシシにならばばったり遭遇してもおかしくはない、奥深い森が広がっていた、夏ともなればクヌギの樹液に群がるカブトムシとクワガタを、素手で容易に捕らえることができた、友達と連れ立って、自転車を駆って訪れた貯水池では、釣り糸の先に駄菓子の酢イカを括って垂らした途端、何尾もの真っ赤なザリガニが喰らい付いてきたものだった。戦前の子供ともさして変わらぬ、虫採りや釣りのような遊びに興じていたかと思うと、日が暮れて家に帰るやいなやカラーテレビの正面に陣取って、「ウルトラセブン」や「仮面ライダー」に見入っていた、かつて島田雅彦さんが『忘れられた帝国』で描いたのよりも数年遅れではあるが、私たちもまた、田舎と都会の境界を越えて自由に往き来する子供、「郊外」の住人に他ならなかった、何しろ一駅電車に乗りさえすれば、そこにはわざわざ銀座や上野にまで足を延ばさずとも欲しい物は何でも揃っている、城の天守閣めいて大仰なデパートが聳え立っていたのだ。

「典型的な郊外、都心のベッドタウンであった柏という街の象徴が、柏そごうでした」國分さんはそんな風に表現した、柏そごうは昭和四十八年十月に柏駅東口に開業した、それまで柏を訪れた者が改札口を出て目にするのは、小売店と飲食店と民家が中途半端な隙間を空けながら建ち並ぶ、乱暴に「殺風景」という一言で片付けても許されるであろう関東の田舎町のそれだった、そこに突如として、地上十四階、地下一階、隣接するテナント店舗棟まで併せた総売り場面積は四万平方メートルという巨大百貨店が現れた、純白の壁面には半円形の意匠を凝らした窓が並び、その真ん中を貫いて二列の、側面をガラスで覆った展望エレベーターが設置されていた、しかもそのエレベーターの行き着く最上階には、当時の地元の人々からするとほとんど信じ難いことだったのだが、円盤型の回転展望レストランまであったのだ! フランス料理の前菜からデザートまでが振る舞われるちょうど一時間で、レストランは三百六十度を一周した、食事客は天気さえ良ければ東に筑波山を、西には遠く富士山までをも見渡すことができた。

 週末ともなれば、柏市内のみならず近隣の街に住む家族が挙ってそごうへと向かい、散財を繰り返した。雪の散らつく朝、柏駅舎とデパートの二階入口を直接結ぶ、日本初のペデストリアンデッキを、私たち家族も歩いていた、開店翌年の二月か、三月の初めだったと思う、とつぜん八歳の私は両親と妹を置き去りにして、全力で走り始めた、それは買い物への高揚感だったのか? それとも巨大な建造物に立ち向かっていくような気持ちだったのか? 唸り声さえ上げていたかもしれない、駆け足が最高速度に達したところで、視界が薄灰色に染まり、宙に浮かぶ二、三の雪片が見えた、ズック靴を滑らせた私の身体は仰向けに反転し、そのまま後頭部から落ちて、タイル張りのデッキに思い切り叩き付けられた、家族だけではなく近くを歩いていた通行人も心配して、寝そべったままの私の周りに駆け寄ってきた、医務室のような場所に連れて行かれたような気もするが、記憶が定かではないのは、軽い脳震盪ぐらいは起こしていたからなのかもしれない。

 子供にそんな事故があったというのに、けっきょくその日も夕方まで、私たち家族は柏そごうに留まった、吹き抜けの二階の手摺りから半身を乗り出して見下ろすと、赤い絨毯の敷かれた特設ステージ上に現れたのは、金色に輝くジャケットを羽織った、坂本九だった、いや、金色は単に照明が反射してそう見えただけなのかもしれないが、もちろん本物の坂本九だ、「上を向いて歩こう」の大ヒットからは既に十年以上が経過していたが、私たち子供にとっては毎夕NHKで放送されていた人形劇「新八犬伝」のナレーションの、あの坂本九だった。それにしてもこんな身近な距離で、肉眼で芸能人を見ているという現実は、子供心にもどうにも違和感があった、その違和感の内のどこまでが『日本蒙昧前史』で大阪万博を訪れた少年が感じた、あの「嘘臭さ」と共通しているのかは分からない、しかしこうして文章を書いている間にもありありと蘇ってくるのは、隣街同士でありながら、柏は我孫子とは明らかに違っていた、風景も、住んでいる人々も、どこか豊かで穏やかで、洗練されているように見えた、考えてみればおかしな話ではあるのだが、地理的には東京都内であり都心にも近い亀有や北千住よりも、柏の方がよほど「東京」を感じさせた、その違いに反抗心めいたものを覚えていながら、それでも消費の欲望によって否応無く引き寄せられてしまうという、我孫子市民が抱えていた矛盾した感情なのだ。

 二〇〇〇年代に入りつくばエクスプレスが開通すると、繁栄の中心は柏市の北部へと移った、柏そごうも九〇年代の頭をピークに売り上げが減少し始め、二〇一六年九月末で、四十三年間続いた営業を終了した。柏そごうの閉店は、不可解とも思えるほど多くの新聞やテレビのニュースで取り上げられた、最終日には、恐らく私と同世代であろう人々が何百人も店舗の前に集まって名残を惜しんでいる様子が映し出されたが、彼らが浸っている郷愁は、何かが決定的にり替えられてしまった結果のような気もした、柏そごうの閉店に「百貨店型ビジネスの限界」「郊外文化の終焉」を見る、という声も聞かれたが、そうした輪郭の明快な、誰しもに納得感を与える解説からは抜け落ちるもの、時代性の括りから零れ出す個々の人生の時間をこそ、小説という表現が、徹底して具体性を積み上げることによって受け止めなければならないと、私は最近、改めて感じている。

 

〔『中央公論』2020年11月号より〕

 

国策との関わり

 私と国策との関わりは、さかのぼれば、阪神・淡路大震災の国の対応にもの申したのがきっかけです。震災は天災ですが、京浜・中京・阪神工業地帯(太平洋ベルト)の国土づくりは国策でした。神戸への人口集中は国策の帰結ですから、神戸の被害が大きくなったのは人災です。

 禍を福に転じるため、神戸市と兵庫県の人口比一対四が首都圏と日本全国の人口比であることに照らし、神戸への一極集中を是正し、兵庫県の内陸部を活性化するために、県庁を内陸(たとえば丹波篠山市)に移すことで、均衡ある国土づくりの地域モデルとすべきである、と主張しました。その論文が国土計画のドンの故・下河辺淳氏の目に留まり、国土審議会への参画を求められました(拙稿「富国有徳の日本─六甲の裏山に森の町を」『論座』二号、一九九五年五月。『富国有徳論』中公文庫、二〇〇〇年所収「提言2」に再録)。

 私の国土論は、国会等移転審議会の報告を尊重し、首都機能移転の筆頭候補地・那須野が原(栃木県)に首都を移し、あわせて、①景観、②人口、③経済力の三基準によって、森の洲(北海道・東北)、野の洲(関東)、山の洲(中部)、海の洲(西日本)、島の洲(沖縄)の五地域に分けよというものです(拙稿「東京時代と決別する─四つの地域と沖縄に分国する」、『「美の文明」をつくる』ちくま新書、二〇〇二年所収)。東京集中の是正と国土の分散化の主張です。

 橋本内閣のときに国土審議会に招かれて以来、二〇年余り委員を務めました。戦後五度目の「21世紀の国土のグランドデザイン」策定に参画して「日本ガーデン・アイランズ」構想を提唱し、リニアが開く「スーパー・メガ・リージョン(京浜・中京・阪神の七〇〇〇万人巨大都市圏)」構想をうたう「国土形成計画」の策定にも加わりました。

JR東海との関わり

 JR東海との付き合いは一九九六年頃からです。同社広報誌『ウェッジ』主宰の研究会「地球学フォーラム」副座長を二〇年余りも務めました。ウェッジからは単著『文化力』(二〇〇六年)、編著書『日本の中の地球史』(二〇一九年)を出版しています。JR東海名誉会長の葛西敬之氏とは第一次安倍内閣の教育再生会議のメンバー同士として親交を深めました。JR東海とは、幹部諸氏を含め、良好な信頼関係がありました。

 リニア実験線に試乗したのもJR東海の厚意です。中国の朱鎔基首相(当時)が来日して「リニアの中国移転を要請する」との情報があり、リニアの技術者から「これまでの苦心は日本のためだから、中国の要請を拒むように小渕首相に伝えてほしい」と懇請されました。私は小渕首相の「21世紀日本の構想」懇談会の分科会「美しい国土と安全な社会」の座長であった関係で内閣の一員にその旨を伝えました。結局、首脳会議でリニアの話は出なかったということで胸をなでおろした経験もあります。超電導磁石で空中浮揚するリニアを「空飛ぶ新幹線」と呼んで、宣伝したのも私です。

転機

 二〇〇九年夏に静岡県知事に就任し、その一年半後の二〇一一年春にリニアのルートが発表されました。南アルプスの静岡県内をリニアが通ると知ったのは知事になってからです。それまでのルート案に静岡県は入っていません。寝耳に水でした。

 静岡県には六つの新幹線駅(熱海・三島・新富士・静岡・掛川・浜松)がありますが、「のぞみ」は停車しません。リニアがサービスを開始すれば、「のぞみ」の機能はリニアに移るので、「ひかり」と「こだま」の本数が増えます。それは静岡県には有利です。すぐにそう判断して協力を決意しました。

 ルートが決まったのは二〇一一年の春、その直後の五月連休に、まだ雪の残る南アルプスに入り、標高二〇〇〇メートルの地点から南アルプス・トンネル・ルートを確認しました。ルート発表後に南アルプスの現場に入ったのは関係者の中で私が一番乗りだったと思います。南アルプス・トンネルの土かぶり(地表からトンネルまでの深さ)は一四〇〇メートルに達する所もあります。

 膨大な掘削土が出ますから、同年の秋、再び山小屋の閉じる前に山に入り、トンネルから出る残土の置き場を調査してまわり、候補地を関係者に伝えたほどです。このときまでは、知事としても私個人としても、リニアの大推進論者でした。

 一方、その前後から、関係資料を子細に読み、地元の意見を聴き、環境影響評価(アセスメント)の知事意見をまとめる過程で初めて「これは住民の命に関わる!」と、骨身にしみて"命の水"を強く認識しました。以来、"命の水"の確保を軸に「流域県民・南アルプス」を守ることに専心しています。

"命の水"と流域県民

 大井川の源流は南アルプスの間ノ岳です。「越すに越されぬ大井川」は昔の話です。大井川と地下水は静岡県の人口の六分の一以上が全面的に依存する"命の水"です。

 第一に、大井川は水不足が常態化しています。たとえば二〇一八年十二月から一九年五月にかけての大井川の節水要請は一四七日に及びました。

 第二に、流域一〇市町の六二万人が利用しています。

 第三に、大井川で灌漑されている農地一万二〇〇〇ヘクタールのうち七四五〇ヘクタールは一九九九~二〇一七年の足掛け二〇年間に約六〇〇億円をかけて農林水産省が灌漑しました。これも国策です。

 第四に、日本有数の牧之原台地の茶畑、世界的銘酒「磯自慢」などの酒造業、サッポロビールの工場のほか製紙、発電など、地下水を利用する事業所は四三〇、事業用の井戸の数は一〇〇〇本余りあり、大井川と南アルプスからの地下水・伏流水に全面依存しています。

 第五に、一九八〇年代後半には大井川上中流域の川根三町(旧本川根町、旧中川根町、旧川根町)の住民が「水返せ運動」を起こしました。流域県民の血のにじむ努力で流量の少なくなった大井川の水利用が成り立っています。

 トンネルを掘れば必ず水が出ます。約一〇〇年前、東海道線の丹那トンネルの掘削で箱根芦ノ湖の三倍分の水が失われ、水ワサビと水田の丹那盆地は干上がりました。その悲劇は静岡県民の記憶に刻まれています。一旦、失われた水は二度と返ってきません。

南アルプス(赤石山脈)

 静岡県の水源・南アルプスは三〇〇〇メートル級の急峻な峰々に囲まれた山岳環境であり、人里から遠く離れ、手つかずの自然環境が残り、氷河期由来の希少生物が生息しています。多種多様な動植物の"命の水"は南アルプスが涵養しています。

 第一に、現在の南アルプスは、多様な生態系が評価され、二〇一四年六月に日本政府により「ユネスコエコパーク」の登録にこぎつけました。これも国策です。

 第二に、今や南アルプスは「人類の共有財産」です。その保全は国際公約です。

 第三に、南アルプスの地質構造は、東西両側に断層帯─西に中央構造線、東に糸魚川─静岡構造線─があり、フィリピン海プレートの沈み込みで「曲がり隆起」し、年間四ミリメートルの隆起を続けています。たとえば、土木工学の浅岡顕氏(名古屋大学名誉教授)は「赤石山脈の四万十帯は西南日本外帯のなかでは最も激しい変形を受けたものである。繰り返すが、山体は、だから一枚岩などとは程遠い、極度にばらばらの混在岩(メランジェ)からなり、それらが超高圧の山体内地下水に支えられて存在している。(中略)赤石山脈の隆起は、(中略)最近100年間において主稜線周辺で4㎜/yと世界的に最速レベルを示しており、(中略)強い地殻変動の場にある」(「GEOASIA Bulletin No.14」二〇二〇年)と警告を発しています。

 第四に、地表部では大規模崩壊の発生個所が数多く、たとえば大井川の林道(JR東海のトンネル工事の作業道全長二七キロメートル)沿いの赤崩では崩壊地が年々拡大し、作業道の入口の畑薙ダム湖を埋め尽くす勢いです。

 南アルプスは、リニア・ルートの他の地域とは明確に異なる、特殊な自然環境です。

有識者会議をめぐって

 南アルプスの特殊性への考慮が致命的なまでに不足したまま、JR東海は、環境影響評価準備書で、トンネル掘削で大井川の流量は「毎秒二トン減少する」と予測しました。流域県民は激しく反発し、"命の水"を守るために立ち上がりました。

 二〇一四年春に知事意見としてトンネル湧水の全量を大井川に戻すように記しました。JR東海が「トンネル湧水の全量を戻す」と表明したのは二〇一八年十月です。返答まで四年半が空費されました。遅延の責任はひとえにJR東海にあります。

 環境影響評価手続きの中で、JR東海の理解を得て、「静岡県中央新幹線環境保全連絡会議」を設置しました。科学的に議論するため、会議の中に専門家による「地質構造・水資源」と「生物多様性」の二つの専門部会を設けました。専門部会は「全面公開」(希少動植物の生息地が明らかになる場合を除く)で、南アルプスと大井川の特殊性を踏まえた科学的根拠に基づく対話をJR東海と続けています。

 専門部会では、リスク管理や"命の水"に対する流域県民の思いに対し、JR東海は認識不足を露呈し、かつデータを出し渋りました。たとえば「涵養された地下水が大量に存在している可能性があり、高圧大量湧水の発生が懸念される」と記されたJR東海の「非公表資料」の存在が分かったのはつい最近(二〇二〇年九月)です。

 専門部会の検討項目が四七点に絞られたとき、国土交通省が調整役を申し出ました。県は国交省と五項目について合意をしました。(一)会議の全面公開、(二)四七項目すべての議論、(三)国交省のJR東海への指導、(四)委員の中立公正、(五)座長の中立性です。  ところが国交省鉄道局は奇怪な行動に出ました。

 第一に、鉄道局は当初の有識者候補にJR東海の利害関係者を入れました。驚きとともに合意(四)(五)に違反すると猛反発を招き、最終的にその方ははずれました。

 第二に、本年四月の第一回「リニア中央新幹線静岡工区有識者会議」から五回の会議が開催(二〇二〇年九月時点)されましたが、再び驚かされたのは合意(一)の「全面公開」の約束が反故にされ続けていることです。

 第三に、第四回会議で、座長が会議の終盤でいきなり「方向性」を口にし、「下流部の地下水への影響は軽微」という「全員一致の判断」を下しました。ところが、全員一致でないことが後に分かり、しかもJR東海の提出資料に「トンネル周辺の尾根部では、局所的に地下水位が最大三〇〇メートル以上の低下があり」と生態系への悪影響が記されていること──環境影響評価手続きの中で議論されなかった内容であり、また「ユネスコエコパーク申請地の資質を損なうことがないよう」という環境大臣意見に悖ること──に、座長は触れませんでした。

 第四に、第五回会議で、会議終了後に書面で出された座長コメントに、会議中に議論されなかったことが記述され、かつ議論の中身が網羅されていないことも判明しました。

 こうして、鉄道局による有識者会議の運営には、厳しい不信感が生まれています。リニア・ルート上の東京・神奈川・山梨・長野・岐阜・愛知・三重・奈良・大阪の関係者も有識者会議に関心をもっています。会議の中身は、彼らにも(国策ならば国民だれにでも)分かるように、約束通り、全面公開するべきです。

 有識者会議が議論する四七項目は、流量、水質、残土置き場、生態系への影響などの分野です。これら四七項目は県の専門部会が提示したものなので、有識者会議での検討結果は、専門部会に持ち帰り、専門部会で「全面公開」のもとに地元住民・利水者に再確認し、流域県民の理解を得るという段取りになります。  最終的には流域県民の理解です。環境大臣意見として「本事業は関係する地方公共団体及び住民の理解なしに実施することは不可能」(二〇一四年六月)、国交大臣意見として「本事業を円滑に実施するためには、地元の理解と協力を得ることが不可欠」(二〇一四年七月)と明記されているからです。

コロナとリニア

 危機管理は最優先されなければなりません。防衛・防災は国防の二本柱ですが、国民を疫病から守る「防疫」も加えた「防衛・防災・防疫」がこれからの国防の三本柱です。

 新型コロナウイルスの感染者数は東京が全体のほぼ三分の一です。首都圏・中京圏・京阪神圏の三大都市圏で、全体の四分の三を占めています。つまり大都市は感染圏です。これはリニア再考をせまる新しい現実です。

 第一に、京浜・中京・阪神の巨大都市圏がリニアで直結すれば、それは「感染ベルト」に変じ、「スーパー・メガ・リージョン」は「スーパー感染リージョン」に帰結する危険性があります。

 都会に「帰去来!(帰りなん、いざ田園〔ふるさと〕へ!)」の動きがあります。ICT技術を活用すれば地方でも仕事ができます。「帰去来!」の潮流は日本を一極集中型国土から分散型国土へと変える動きです。

 第二に、リニアは莫大な電力を消費します。リニアは原発を前提にしています。しかし東日本大震災で東京電力は賠償問題で揺れ、関西電力は不祥事でもめ、中部電力は浜岡原発の使用済み核燃料の処理の見通しが立たないので、原発は動かせません。他の電力源として、大型水力発電はダムの堆砂問題が深刻で、これ以上の建設は無理です。火力発電はCO2排出を助長します。残る再生可能エネルギーではリニアは稼働できません。

 第三に、超電導コイルに必要な希少金属(ニオブ、チタン、タンタル、ジルコニウム等)は世界中で取り合いになっています。

 第四に、危機管理ができていません。「南アルプス・トンネル」のJR東海の計画避難路は直線三キロメートルを登り、出口は南アルプスの山中です。季節によっては死を覚悟しなければなりません。

 第五に、リニアプロジェクトの審議会が最終答申の前に行ったパブリック・コメントでは七三%がリニア計画に否定的でした。審議会がゴーサインを出したのは正当でしたか。

 コロナ禍の新たな現実の中、リニア計画の見直しも視野にいれ、現行工事の中間評価を行うことは菅新内閣の責務と言わねばなりません。

リニアの部分開業も選択肢だ

 全国新幹線鉄道整備法(全幹法)に「国土交通大臣は、営業主体又は建設主体から整備計画の変更の申出があった場合において、その申出が適当と認めるときは、当該整備計画を変更するための手続をとるものとする」と記されており、現行のリニア計画は変更可能です。

 九州新幹線が鹿児島中央─新八代(熊本県)間を先行開業した例もあり、大阪─名古屋間の開通を先行したければ、関係者の決断次第です。部分開業についても同様です。

 東京─名古屋間のリニア運賃、東京─大阪間のリニア運賃は、電力消費量だけから推しても、きわめて高額になる見込みです。部分開業であれば、その分、安くなります。

 名古屋からは、中津川駅(岐阜県)までが重要です。中津川はリニアの車両基地(予定)であり、また首都機能の第二移転候補地(東濃)に近く、たとえば立法・行政・司法のうち最高裁判所を移すのは、三権分立の観点からは合理的です。前掲「山の洲」の「洲都」にもなりえます。交通アクセスとして飛行場が必要ですが、中津川の北には松本空港があります。そこまでリニアを延伸すれば空港と連結できます。日本には新幹線と空港とを連結させている所はどこにもありません。松本空港はリニアと連結できる唯一の候補地です。

 東京からは、甲府駅までが重要です(ただし、東京─甲府間の部分開業にはJR東日本の協力が不可欠です)。二〇一四年、甲府盆地は豪雪で三日三晩「陸の孤島」になり、死者も出ました。リニアは地下を走るので地上の豪雪に左右されません。有事の際に、甲府盆地への救援も、そこからの脱出も可能です。

 平時には首都圏の「ビルの森」からリニアに乗車すれば、アッという間に甲府駅で、地上は富士山・南アルプス・八ヶ岳・奥秩父連峰に囲まれ、サクランボ・桃・ブドウなど果物の王国の「桃源郷」です。甲府からは富士山と南アルプスの間を流れる富士川沿いのJR身延線「世界で最も遅い特急」で終着駅・静岡へ。そこで新幹線に乗り換えて首都圏に戻れば、「富士山周遊・鉄道旅!」です。

 高額を免れないリニア運賃も「富士山周遊パック」の旅行商品の一部に組み込めば、割安感が出ます。リニアの技術は営業しながら磨かないと停滞します。これまでの技術者の苦労を考え、できることから始めてはどうか、と思います。

環境保全とリニア活用の両立を

 ユネスコのエコパーク認定で人類の宝となった「南アルプス」を守るのか、世界最速の「リニア」をとるのか。静岡県は「ものづくり県」であり、日本の技術の可能性への期待も大きく、賛成・反対の二者択一ではなく、南アルプスの保全とリニアの活用を両立させるための国民の英知に期待しています。

 二十一世紀は地球環境の時代です。リニア・トンネル工事は南アルプスの自然を破壊します。ユネスコとの国際公約である南アルプスの保全を優先すべきです。南アルプスをこよなく愛し、青年時代に登攀もされた今上天皇が、

「岩かげにしたたり落つる山の水  大河となりて 野を流れゆく」

と詠まれ、また最近著に「水はこの世の生き物が生きていくために欠かすことのできないものです。(中略)和歌や随筆などの文学作品にも、水や災害などに対する『人々の思い』が込められている」と記されていることも想起すべきでしょう(徳仁親王『水運史から世界の水へ』NHK出版、二〇一九年)。

 最後に一言。"命の水"を戻すことができないのであれば、リニア・ルートのうち南アルプス・トンネル・ルートは潔くあきらめるべきです。具体的には、国の有識者会議と県の専門部会で、南アルプス・大井川・地域住民の抱えている「命の水の問題」が科学的・技術的に解決できないことが判明すれば──その可能性は高いと言わねばなりません──、迂回ルートへの変更なり部分開業なりを考えるのは「国策」をあずかる関係者の責務でしょう。

 

〔『中央公論』2020年11月号より〕

外交の安倍から内政の菅政権へ

─米中が対立する環境下で、菅政権はどのような外交を展開していくべきでしょうか。

森本》日中は安全保障について様々な問題を抱えていますが、それ以外の経済や投資は順調で、日中の経済関係は互いになくてはならないものになりました。その意味で中国は、安倍政権を評価しています。
 また、米中両国と上手につきあいながら、欧州やアセアンの国々とも良い関係を維持した安倍前総理の外交上のリーダーとしての評価は、国際社会では定着していると思います。
 菅総理は安倍政権の政策を踏襲すると言っていますが、多くの国は安倍前総理と同じ外交的役割を果たせるはずがないと思いつつ、いままでのような役割を果たせる日本であってほしいという気持ちがあると思います。これは、日本にとって、非常に大きな課題になります。

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三浦》安倍前総理は、戦後レジームからの脱却を唱えました。敗戦国として背負った歴史問題を乗り越え、国内における歴史認識の分断というくびきから日本を解放し、普通の国にするという試みは、ある程度達成されたと思います。
 安倍前総理の能力については、ものごとのアブストラクト(概要)を把握する力が秀でていたと思います。安全保障や経済問題についての細部は専門家にゆだねるにしても、骨格を把握する能力が秀でていることによって、リーダーとしてどの方向へ何を強調して言えばいいのかがわかっていたのだと思います。
 菅総理は具体的な政策重視の方です。したがって、外交においても理念よりもプロジェクトを重視し、利害に基づき国益のためになることを実践する、という感覚の方だと思います。日本の複雑性、多元性を体現するには向いていますが、首脳の交渉力、リーダーシップとして、筋を通さなければいけないところをどうするのか、全体をうまくまとめられるかどうかは、まだわかりません。

森本》三浦さんが仰ったように、安倍前総理は抜きん出た外交感覚を持っていただけでなく、実務的な能力が非常に高いことで日本の国益に貢献したと感じます。
 一方、菅総理の際立った特徴は、日本の官僚制度を知り尽くしていること、それから日本が直面しており、すぐに対処すべき問題が何であり、どこを押さえればどうなるのかを十分に知っておられるところにあると思います。
 ただ、外交や安全保障についての経験や実績は未知数です。中国、アセアン諸国、欧州のリーダーともほとんど深い人脈はないと思います。米国もこれまでのような円熟した日米関係を継続できるかどうか不安感を持っているので、明確な理念を示して、この不安感を早く払拭してほしいと思います。

日本の安全保障を根源から問う

─安倍前総理は退任直前に「敵基地攻撃能力」の保有の検討を促す談話を発表しましたが、この件も含めて菅政権は、安全保障戦略に対してどのように取り組むべきでしょうか。

森本》日米の安全保障、防衛関係には課題が山積みです。第一に日米のホスト・ネーション・サポート(在日米軍駐留経費負担)の特別協定を年末までに合意して、令和三年度の予算に計上する必要がある。日本は従来の枠組みを変える考えはありませんが、米国は大変重視しており、熾烈な交渉になると思います。
 第二に、次期戦闘機(F‐2後継機)の構想設計。日本が主導して行う開発計画のどの分野をどの程度米・英に協力させるのかによって、新しい戦闘機開発のリスクとコストをどうやって減らすかを、年内に議論しなければなりません。
 第三は、国家安全保障戦略の見直し。これは来春までかかると思いますが、ミサイル抑止について我が国が打撃力を持つと日米の役割、任務の分担をどうするかを米国と協議しなければなりません。
 また、イージス・アショアの関連では代替手段を決めて、防衛大綱や中期防衛力整備計画の見直しも検討する必要があります。さらに、米国の次の政権とどのような同盟関係を維持していくかを考えなければなりません。
 さらに、対中戦略上重要なことは、日米韓の緊密な連携を維持しつつ、アセアンと協調を図って日本の安定や将来の繁栄を維持していくこと。また、豪州やインドと作り上げてきた緊密な関係を増進することです。
 何をすることが日本にとって真に国益なのかを考えて、こちらから打ち出していく。その発想をもって、多くのアジアの国々に対応していく努力が、日米同盟とともに重要だと思います。

三浦》日本は、資金力でも先端技術でも中国に後れを取って久しい。ですから、ソフト面で入っていくことが大事だと思います。かつてのODAのように、東南アジアの途上国を援助しながら日本の大企業の利益を確保するといった発想では、中国の浸透力に敵うわけがない。東南アジア諸国は中国による投資を受け入れつつも、中国一辺倒になることは望んでいません。ですから、日本はソフト・パワーやユニークな技術を持ち込むべきです。日本が投資するプロジェクトに「持続性」という概念を埋め込むことで、東南アジアの社会構造を変える手助けもできます。それこそ、日本が得意とするところだと思います。同時に、防衛力のような日本のハードなパワーも見直さなければなりません。

森本》安全保障の本質を考えると、これからの日本にとって一番重要なことは、同盟関係の中で手段を考えるのではなく、日本がもっと主体的に自らの安全保障を考えることです。いままでのように米国の足らない部分を日本が補うのではなく、日本の足りない部分を米国に補わせる。日本が主体の安全保障体制を作り直していかなければいけません。
 米国との協力は重要ですが、日本が主体的に対中戦略を作っていくことができないと、日本の安全が維持できない時期にさしかかっているのではないかと思います。

三浦》日本にそれができるのかはなはだ不安ですね。河野太郎前防衛大臣が破棄したイージス・アショアの問題でも、国民的議論はありませんでした。国民は当初、北朝鮮からミサイルが飛んでくる不安もあって「防衛型兵器であればよい」と消極的に支持を与えていたのでしょう。
 しかし、何が合理的であるかを軸に設計しなければ、貴重な税金を無駄にすることになりかねない。他方で、敵基地攻撃能力については理念重視の議論が先行し、具体的に自衛隊に何が可能なのかという議論は表ではなかなか聞かれません。
 中国は、私たちにとって欠くことのできない貿易相手国です。しかし、同時に軍事的な脅威でもある。これから十年掛けて防衛型兵器の解釈について議論を進めるというような悠長な話ではありません。森本先生が仰るように、そもそもの姿勢を転換しなければならない。根源的に変えるのであれば、憲法も見直すべきだと思いますが、菅政権で憲法改正が重視されることはないでしょうね。

森本》日本の防衛というのは、実は国内政治問題です。イージス・アショアだけでなく、佐賀のオスプレイも沖縄の埋め立ても多くが国内問題です。国内をきちんとマネージメントできずに、防衛のあり方を考えるわけにはいかない。内政がマネージメントできなければ、防衛はできません。一方で国民の側も、イージス・アショアのブースターの落下場所という問題だけでミサイル防衛を論じるのではなく、安全保障のあり方全体を真剣に直視すべきです。

構成:戸矢晃一

 

〔『中央公論』2020年11月号より後半部分を抜粋〕

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