テクノロジーがもたらした変化
山極僕はGPSや携帯電話がない時代から調査をしてきたので、いまだにそれら電子機器使いませんが、角幡さんもそうした道具を使わずに冒険に出るそうですね。
角幡今の冒険や登山の現場では、テクノロジーとの付き合い方が難しくなっています。この間も衛星電話を持たずに白夜の極北に行ったら、帰りにドイツ人の旅行者と会って、「衛星電話を持たなかったのか。大切な家族がいるのに、父親としての責任を放棄しているのではないか」と言われてしまいました。
僕の感覚としては、テクノロジーを使うと自分の身体の一部をテクノロジーに委託して何かを知覚するようになる。それでは身体性がなくなってしまいます。身体と対象との間にテクノロジーという余計な層が一枚増えるので、対象と直接関わることができなくなり正確な理解も困難になる。例えば、GPSを使うと、極夜にいてもピンポイントでどこにいるかがわかります。移動にたいして不安はなくなりますが、闇の中、自分がどこにいるかわからないという極夜の本質がぼやけてしまう。空間的な位置はわかるが、極夜とは何なのかはわからなくなるわけです。
山極テクノロジーを使うと、脱システム化ができなくなるのでしょうね。私もかつては、妻と子供を日本に置いてアフリカに行きましたが、当時は一切連絡のしようがありませんでした。しかし、最近は学生の安全のために衛星電話の携帯が義務付けられるようになってきました。
もっと重要なのは、GPSやデータロガーを使用した研究のほうが科学的である、という話になってきていることです。GPSを体に付けた調査者がゴリラを追っていくと、調査者が歩いたルートからゴリラの移動ルートが辿れるようになる。それを地図上に落としたほうが人間の目測より正確だし科学的だというわけです。何より、調査者がゴリラの群れに入り、ゴリラに影響を与えることはいかがなものか、という批判もあるのです。そうなると機械に記録させ、後からその記録をもとにして類推することのほうが科学的に信頼できる調査になる。
すると、観察者が安全な場所に留まり、自分の身体も行動もかかわらない状況でゴリラの世界を眺めることになります。でも、それでは動物園で檻の外からゴリラを眺めているのと変わりはない。私は、やはりゴリラの群れの中に入って、ゴリラと触れ合わないと本当のことはわからないし、重大なことは発見できないと思うのです。
角幡山極さんという固有の人間がゴリラと接して、その時に起きる化学反応のようなものが大切で、山極さんの中から湧き上がってくるゴリラ認識みたいなものの中にゴリラの本質が現れるというわけですね。
山極そうです。自分が体験したことを元にしてデータを作っていく。もっと正確に言えば、自分の感性を磨いて、自分の目で見た現象をそのまま記述する、ナラティブ(物語)のデータこそが私のデータです。